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【雑記】人が亡くなると

昨年の秋ごろに祖父が亡くなった。
しばらく調子が悪いと入院して、病院から退院出来ずに亡くなった。最期まで自宅に戻りたがったらしい。

私も調子が悪く休んでいる矢先にそんな話がでてきて、爺さんの見舞いに行ったりした。
別れ際でも爺さんは私の心配をしてくれて思わず涙ぐんでしまった。

入院して2週間ほどで祖父はポロッと死んだ。
死因は血液内の、忘れてしまったが何か成分が足りなくて免疫が落ちてたことらしい。ざっくり言えば老衰みたいなものだろう。しかし医者としては死亡診断書を書かねばならないので病名がついた。

葬式の日が決まって2日前に実家に戻ると、婆さんと叔母、父、母が忙しなく葬儀屋と相談や説明を受けたり、亡くなった爺さんに会いに来訪してくれる人の相手をしていた。
叔母の娘、従姉妹たちも駆けつけて私たちは買い出しや手伝いを積極的にやった。

昔は遺体が怖くて仕方なかった。急に起き出すのではないかとビビっていた。
しかし今回は怖くなかった。ただの物体に思えた。
生きている時の爺さんと接している時とは感じ方が違うのだ。
そこに爺さんはいるけど、遺体はただの物であると。

着慣れない喪服を着て葬式に出る。
葬儀が始まるまでにしんみりした曲が会場内に流れ「私が死んだら好きなアーティストを流してほしいなぁ」と思っていた。
しんみりはあんまり好きでは無い。

私は今回の葬儀でできるだけ泣かないように心がけていた。
亡くなったことはどうにも出来ないから泣くよりも節度を持って前向きにいこうと、爺さんは寿命で死んだようなものなんだから悲しむ必要はないと思った。
私は普段涙もろいのだが、この時はあまり泣かななかった。
そのため従姉妹や姉が泣いてるのに私だけ涙を流していなかったので薄情なやつみたいに思われたかもしれない。

お焼香で「焼香荒らし」という漫画を思い出したり、お経を聞いてこんな内容なんだと葬儀中でも退屈しなかった。爺さんの戒名も覚えた。

次の日、爺さんは燃やされた。新しい火葬場で肉も残らず立派な骨になった。
歯は全部自前で、立派な大腿骨が残り親戚の医者が解説してくれた。
最後は骨壷にぎゅむぎゅむに詰められた。

ようやく終わったーーー。
家に戻って、緊張が解けて腹が減ったので豪華な弁当を早々に食べたのだが、予想以上に疲れてた(なぜ)らしく咀嚼して飲み込むのが苦痛だった。

骨になった爺さんはしばらく家にいて、山の中の墓に移るのだ。


最後に葬式に出たのは10年ほど前で、母方の祖母だった。私が高校生の時だ。
あの頃感じなかったものを大人になると感じたものがたくさん会った。

そんな中で私は、人が死ぬとこんなにも人が動くのだと改めて実感した。
家族親族はもちろん、爺さんの友人や葬儀屋や遺体の処置をしてくれる人が来訪する。
いつも会わない人間がやってきて、人の死を悼む。
久々に会った親族の近況を聞いたり、元気な姿を見られるのはこうした集まりがないとなかなか機会がない。特に従姉妹たちが元気そうにしていてよかった。

金も動いたと感じた。
私は参列しただけの人間だが、葬式の費用は決して安く無いし挨拶しに来てくれる人の交通費、配ったお弁当、葬儀に送ってくれた花、忙しい私たちが食べる毎日のお弁当、そして何よりお香典。
私には関係無いが相続だってある。
お金が大きく動いて、経済を循環させている一端だろう。
人の死、つまり葬儀というのはイベントなのだと。

もちろん皆がこういった葬儀をするわけでも無いだろうし、爺さんの葬式は現代の中でもお金のかかった葬儀だと思う。見送ってくれる人たちだって爺さんのこれまでの人望なのだ。

最後に爺さんに触った時に父が泣きそうになっているのが意外だった。
実父だがあまり爺さんに会いたがらなかった父が、意外にも爺さんのことを思っていたのだと。
反対に母は爺さんについて思い入れが全く無いようでさっぱりしていた。(嫁入りだから)
私は爺さんと仲良しで可愛がってもらい、有難いことに色々金を出してもらっていたのだが一緒に住んでいたわけでも無いので、私の生活に大きく影響がないためにさっぱりしているように思う。


残された婆さんのことを皆が気に置いている。
死んだ人は勝手に極楽に行くしかないが、現世にいる婆さんはまだ人生がある。
しっかりしている婆さんだが、爺さんとずっと共にいたので精神的なストレスは計り知れないとだろう。

従姉妹の長女がまだ幼い息子を連れてきた。
お迎えされた人もいればこれからの未来がある命があって、なんとも人の生を感じた。


葬式からの帰りに香典を持った父は「焼肉に行くか!」と言った。
冗談だとわかっていたけど焼肉食べたかった。

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