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文系の科学

「科学」という言葉は便利だ。大気も科学、物も科学、人間も科学。Dr.Stoneで「この世の全ては科学だ」と読んだとき、文系の私は歯噛みをした。「科学」という言葉は一般的に理系の表現だ。科学する、と動詞にするとその汎用性は空間の点から宇宙までを主語にする。

科学(英: science)とは、一定の目的・方法の下でさまざまな事象を研究する認識活動、およびそこからの体系的知識。一般に、哲学・宗教・芸術などとは区別される。現在、狭義または一般の「科学」は、自然科学を指す。広義の「科学」は、全学術(またはそこから哲学を除いたもの)を指すこともある。

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しかし、文系の芯は哲学を始めとした個人的な心象表現にある。これらが科学と区別されうるのは、結果に方程式のような再現性がないからだ。最近は文系でも誰でも産める個人の意見は軽視され、統計に基づいた実践的理論が重んじられている。社会科学、人文科学、と名前を語るものまである。確かにこれらの理論付けの試みは大事だが、文系でそれをやるとほぼ問題が起こる。


心理に基づく統計というのは、勿論正確性を高めるために広く抽出されるが、それでも関連する出来事の前後で同じ条件で結果が大きく変わり得る。これは、科学にあるまじき再現性のゆらぎである。

また、こういった統計で〇〇の傾向があると結論づけたとして、それ以外の結果が確かにあるのに全く無視されることがある。もし測定結果に著しい偏りがあったとして、期待しない出力部分を切り捨てれば真理に近づけるのが理系分野だ。しかし文系の「科学」でそれをすると、少数派が消えて真理から遠のくことになる。では無視しないように努めると、「人それぞれだ」となって、学問でなくなる。


勿論だが政策においては多数派が優先であり、今年はこういった傾向があるから来年はこうしようといった努力があるからこそ、我々の住み良い社会が作られている。私はこれらの学問をむしろ肯定するが、それが完全な「科学」ではないことは以上より明らかだ。

では、文系における本物の科学とは何か。私はそのきっかけが「詩作」にあると思う。

例えば、ある山の情景を人に伝えるとする。その斜面を急峻だったり、なだらかだったりと角度を表すことばを用いて人に伝えるのは詩作ではなく、表象の域だ。三角錐をそう伝えるのと同じである。これが詩作だと、「ノコギリのような」「ぺったりとした」「すべるような」とおよそ一般的でない表現になる。

ここで言う方程式は「急峻・なだらか」だ。これだけ見ればなるほど斜面の角度を表していて、それも机上ではなく地形の急さについての表現だ、あらかた山か丘の話だろうと見当がつく。一端の言葉だけでここまで多数に伝わるのだから、再現性もある。重箱の隅を突けば、「そう思わない」人、つまり社会科学の統計における少数派は存在しない。なぜなら「そう思わない」と「学習が未熟で知らない」は別物であり、この表現が伝わらない人は後者、方程式をつくる要素がまだ揃っていないだけだからだ。これは非日本語話者や赤子にもいえる。

では、その方程式はどのように作られるのか。先ほどの一般的でない表現が元となる。我々が心から発した「伝わるか伝わらないか分からないが、自分にはしっくりくる表現」がどれだけの他人に許容されるか。それがまだ無い表現で、受け取り手の腹に落ちたら、それは社会的に良い表現として評価される。そうやって文系のテリトリーは開いてきたのだ。これは人類全体の発展でもある。

ここまでで、文系の本物の科学が分かるだろうと思う。それは方程式の発見=絶対的な共通概念の捜索だ。数学者には問題を発見する者とそれを証明する者がいる。数学を同じ言語とするならば、既存の言葉の体得が学習、問題の発見が詩作、証明するのは受け取り手の感性である。

私は詩作が好きである。掘り込めた雪道の側面を削ってあたらしく道幅を広げるイメージをもっている。そうやって着々とこの世に問題を落としていくことが、何より独立した文系の科学の試みである。

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