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【シンガポール国立大学留学①】  ー内省編ー


2022年の1月よりシンガポール国立大学(NUS)に派遣交換留学に来ている鈴木梨里(りり)です!
1月から 5月までの派遣交換留学生活を、1ヶ月に一回の頻度でnoteに書き記していこうという試みをしております。
1ヶ月分の日々を1つの記事にぎゅっと詰め込むととても長くなってしまいそうなので、異国の地で何をみて何を経験したかを綴る「出来事」パートと、その日々の中で自分自身が思考したことを書き連ねる「内省」パートの2つに分けて書いています。今回は待ちに待った(自分が)「内省」編です。


何者でもなくなった


留学に来て変わったこと。

生活、言語、授業、文化...挙げたらきりがありませんが、一番は「何者でもなくなった。」この一言に尽きます。

日本にいるときは、自分の過去の経歴を語れば、自分がどんな人間であるのかを理解してもらえました。そして理解してもらえる以上に、過去の経歴は自分の価値を証明することに大いに役立っていたと感じます。チアダンサー、miusigの創設者、Adeccoのインターン生。どんな時も自分を表現するフレーズが常に存在していましたし、これらのフレーズやエピソードを「面白い」「興味深い」「すごい」と捉えて下さる人がたくさんいました。miusigを例にとれば、私を知ってくれた人は「学生団体を創設した鈴木梨里」として接してくれ、その事実を語ったことで生まれる、相手からの自分への承認をはっきりと感じられます。過去は自分を「立派に」見せてくれていたのです。

しかし異国の地において、私の過去を知る人は誰もいません。シンガポールでの私はといえば、自分の専門としている学問分野を深く語れず(法学部で何を勉強しているのと聞かれ何度答えに窮したことか)、コーディングはできず(NUSではコンピューターサイエンス学部が非常に人気です)、スポーツで寮のリーグ戦に貢献できるわけでもない。物珍しい趣味を持っていたり、5ヶ国語が話せるわけでもない。過去を語ったとしても学生団体の概念がないので「founded a student groupってことは起業したわけじゃないんだよね?」といまいち理解を得られず、チアダンスの文化は存在せず、インスタの投稿のCEO for One Monthって何?Looks cute!!!(1ヶ月しゃちょーってかわいいプログラムだね)と。

何も持ってないじゃん!!!

住み慣れた環境、文化や価値観を共有する人たちから離れた私は、自分を格好良く語る術を完全に失ったのです。

このような現状に直面してまず思ったことは、自分は何者でもないのだということ。
わかってはいるつもりでしたが、こうして事実として突きつけられると心がヒリヒリして、自惚れるなよ?という声が頭の中から聞こえてきます。
次に思ったことは、自分を表現したい、自己を表現する手段を持ちたい、ということです。

過去に寄りかかることなく、経歴や事実でモノを語るのではなく、自分で自分を表現してみたい

(書いていて、なんだかマズローの五段階の欲求を、社会的欲求の第3階層くらいからもう一度登り直そうとしているなと感じました。今まで満たされていた社会的欲求や承認欲求が環境を変えたことで満たされなくなり、これまでとは別の方法でそこを満たそうとしている、そんな感じ。)


いかに自分で自分を表現するか


どうしたら自分で自己表現できるか。この問いを持って日々過ごし、これまでで気づいた自分を表現する方法を2つシェアさせてください。

① 自分の血肉となっている経験をシェアする

「2020年12月に慶應義塾大学生6人とともにコーチング学生団体を創設して、コーチングを提供したり教えたりしてる。」と伝えた時と、「リーダーシップとか組織論に興味もっていて、それは一昨年複数の学生と一緒に新しい団体を作ったときにどんなチームを作るかによって人が発揮する力ってこんなにも違うのかって気づいたからなんだよね。」と語った時の周りの反応の違いは鮮やかでした。どんなに綺麗で立派な額縁を見せられるよりも、その中の絵を見て背景を知って理解する方がずっと面白い。当たり前のことですが、こんな経験をしたという事実そのものが大事なのではなく、その事実をその当時の自分はどう捉え、今はどのように消化しているのかという部分に価値があるのだと改めて痛感させられました。


② 教養を身につける

改めて、定義が曖昧になりがちな言葉の一つである「教養」の意味を確認すると

教養(きょうよう)とは、個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問芸術、および精神修養などの教育文化的諸活動を含める場合もある。

Wikipedia

とのことですが、私は「知識」と「教養」を分けるものは、上記の中の個人の人格や学習に結びついているかどうかという部分だと思います。何かの知識を知っていてそれを情報としてシュアしてもそれは「私は物を知っている」ということしか表現しませんが、その知識が自分の人格や学習に結びついている教養であれば、自分自身の興味や関心とリンクさせながら一つの体系化された学びとして物事を語れるようになるからです。

ゲームでも麻雀でも映画でもスポーツでも、まずは好きで情熱を持てるものと出会うこと。そしてその好きなものと自分が持っているもの(自分自身の性格、授業で習った知識、過去の経験など)と結びつけてみること。この繰り返しにより、人間は教養を深めていくのではないでしょうか。

(ディズニーが大好きな言語学を専攻している留学生の友人と「インサイド・ヘッド」を見ていた際、見るのが2回目であった彼女が映画から読み取れる幼児とお年寄りへのコミュニケーションの取り方の違いに関する自身の考えをシェアした時には脱帽しました。)


新しい環境に飛び込むということ

住み慣れた環境、文化や価値観を共有する人たち、そのままの自分を認めてくれていた環境から離れると、否が応でも自分は何者で、どんな存在であるのかを考えさせられます。

立派な経歴を語るだけで理解されてしまう人生はあまりにつまらない。だからこそ自分で自分を表現する術を身につけた「何者か」として生涯を送りたい。そう強く感じました。

マズローの欲求五段階説のどの段階に自分がいるかは環境に大きく依存したものであり、ピラミッド上の序列は一方通行では決してない。何度も何度も階層を行き来しながら、より幅の広い経験と意思を手にして、自己実現に向かってゆっくり、味わいながら進んでいきたいなと、そんなふうに思った2月のはじめでした。


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