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午後の子泣き爺

その日はベーグルを2個買った。
駅から職場に向かう道中にあるパン屋さん。そこで昼食用のパンを買うのがすっかり日課になっている。
朝に目にするパンはどれもこれもおいしそうだけど、中でもとりわけ私の目を引くのはベーグルだ。

はち切れんばかりに膨らんだ生地が小さく輪っかを作っている。その姿はまるで丸まった仔猫のよう。その店のベーグルにはプレーン味と黒糖味とがあるが、さしずめ白猫と黒猫の赤ちゃんか。ふっくらとやや膨らみすぎたベーグルはいっそう猫の寝姿に似ている。
そしてそのベーグルは口に含むと、噛みしめると、ほんのり甘い味がする。赤ちゃんにはかくあってほしいと思うような、素朴でやさしい味だ。柔らかく弾力のある生地が歯にこしょばゆい。

普段であればひとつだけ選び、そのひとつをひと口ずつ大事に食べるのだけど、その日は暴力的にお腹が空いていた。たまには贅沢したって良かろうということで、プレーンと黒糖をひとつずつ買った。
さぞ幸せな昼時になるだろうと、そう思われたのだが。


夢のベーグル2個食いを果たし、至福の午後を過ごすかと思いきや、私の顔は青ざめていく一方であった。

腹が、重い。

胃の中でぐんぐんベーグルが膨れていっているのがわかる。お茶、ベーグルと一緒に飲んだ味噌汁、そして胃液とかそういう水っ気のあるすべてをベーグルが吸っている。吸ってどんどん成長している。
吐き気でも便意でもない、純然たる行きすぎた満腹が私を襲う。
ちくしょう、どうしてこんなことに。ただお腹いっぱい食べたかっただけなのに。たかがパン2個なのに。ああ、神様仏様……。

漬物石のように重くなりゆく腹に恐れおののきながら、私は次第にある妖怪のイメージに取りつかれるようになった。

怪奇・子泣き爺。
愛らしい乳飲み子の姿で人前に現れ、ホギャアと泣いて同情を誘い、騙された人間が背負ってあやすと途端に重くなり、その者を押し潰してしまうという怪異。しかもその正体は赤子でもなんでもなく、醜い老人だという。

水木しげるの描く妖怪の中では、コミカルな部類に思われた。「重くなる赤ちゃん(じいさん)だなんて。ぜんぜん怖くないじゃん」。幼い頃の私は鼻で笑ったものだったけれど、今や私の命運は成長期の仔猫2匹に握られている。いや、水木しげるにならうのであれば、私の腹にいるのは猫の子ですらないのかもしれない。

ますます大きく重く膨らむベーグルが、私の腰を椅子に押さえつける。
その成長はとどまるところを知らない。



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