見出し画像

ブルーローズの花言葉 第四章



黄金期の始まり

青いバラ四十四本目 マックスの話 一

 ガークが慌てて俺のところにやってきて、
「マックス、大変だよ、イワンが来てる! 僕たちやられちゃうよ!!」
 と叫ぶから、なんだろうと思った。俺とイワンはスクーターボーイズによるアパート襲撃以来、過去を綺麗さっぱり水に流せて仲良しだったからね。俺は読んでたガイドブックから目を離して考えた。殴られる理由なんか、あいつの家でパーティーした時に、酔った勢いで俺のベースで壁に穴を開けたくらいしか思いつかなかった。
「今すぐ逃げよう!! 窓から飛び降りようよ!! まだ間に合う!!」
 なんて血相を変えて喚き散らすガークをなんとか落ち着かせると、俺は玄関のドアを開けた。イワンと、彼の隣に背の高い男が立っていた。あいつが招待してくれたライブでギターを弾いてる男だとすぐに気がついた。
 それが、俺がブルーローゼズのベーシストになる最初の日だったのだ。自分でも不思議なんだけど、俺はきっとこのバンドでいつかプレイすることになるだろうと、なんとなく思ってたよ。ギャハハハ。

 俺がどうしてこんなにエキセントリックな行動ばかりしてたのか、簡単に生い立ちを交えて話そうか。もう他の連中の話で足りてるかもしれないけどな。念のためってことさ。ギャハハハハ。

「トリックスター」
「ブルーローゼズで最もパーティー好きな男」
 いつしか俺はこう呼ばれていたね。当たらずともトウガラシ、いや、遠からずって感じだな。俺の本質は、いつも別のところにあるからね。俺はいつでも、人生を前向きに楽しんでいるんだ。それにパーティー好きな男はマンチェスターに腐る程いるさ。分かりやすい例で言えば、あのアンハッピー・サンデーズの連中とかな。特にベズはイカしてるよ。本当に彼らのことは大好きさ。
 ああそうだ、ベズの話じゃなくて俺の生い立ちだ。俺とガークはマンチェスター郊外で暮らす、ごく普通の労働者階級の家庭で生まれ育ったんだよ。親父はフットボールウェアを作る工場で働いてたし、母親は臨時雇いの数学教師だったのさ。え? 意外だって? まぁよく言われるよ。割と堅実な家庭で育ったのに、どうしてこんなにぶっ飛んだキャラなんだろうなって、たまに自分でも考えるんだ。ギャハハ。まぁ、俺は生まれた時から根が明るかったし、仮に問題が起こったとしても特に悩まずにきたんだ。心の声に従って、運命に身を任せていれば、自ずと道は開けるものさ。
 二つ下の弟のガークは気弱な性格の子供で、よく学校でもいじめられていた。そんな彼をいじめっ子から助けるうちに、だんだん行動がエスカレートしていったんだな。ちなみにトマトをぶつけるアイディアはこの頃からあって、今じゃ伝統芸能の域に達するんじゃないかってくらいに極めた、数多い俺の得意技の一つさ。おっと、勘違いするなよ、トマトは俺の一番の好物さ。それを大量にお見舞いするってことは、アイラブユーって意味なんだ。お前らは愛を知らないから、人をいじめたりなんてくだらないことをするんだ。全然イケてないよな。だから平気で誰かをいじめたりするようなダサいヤツらに俺の愛するトマトを力いっぱいぶつけることで、愛を教えてやるんだ。これが本当のラブシャワーってヤツさ。ギャハハ。
 俺は基本的に根にもたない性格なんだ。子供の頃はそりゃあ確かに少年らしく、俺もいつか大人になったらフットボールチームに入って、マンチェスター・ユナイテッドFCのユニフォームを身につけて、広いフィールドを駆け巡りたいと思ったよ。だけど、あの、交通事故が多いことで有名な交差点で……横断歩道を渡るおばあさんを車から助けようとして……飛び出そうとしたけど、おばあさんはそのまま渡り切ったよ。全く、何にも問題なかった。
 
 ギャハハハハハハハハハ!! なぁ、驚いた?? 
 俺が車に轢かれたとでも思っただろ??
 この通り、ピンピンしているさ!!

 これだからイタズラはやめられないんだ。君の驚いた顔、とってもキュートだったぜ。ギャハハハ。ま、そんな調子で愉快に過ごしてたんだ。
 多くの少年と同じように、フットボールの他には誰かとバンドを組んで、ベースを弾くのが俺の夢だった。なぜベースかって? 見た目がカッコいいだろ? ギャハハ。とにかく俺はハマりにハマって、中学に上がる頃にはもう有名どころの曲は空で弾けるくらいのベースプレイヤーになっていたよ。
 ハイスクールに通う頃には俺たちの両親が離婚してて、財産分与のために持ち家も売却するっていうんで、それをきっかけに俺とガークは新興の集合住宅に移り住んだ。そうだよ、イワンも別棟に住んでた、あそこさ。ガークはショックを受けていたみたいだけど、俺はいつも通り、彼らがこれからは別の人生を生きる選択をしたことに対して、特にこれと言った感想を持たなかった。突き放すわけではなくて、自由にすれば良いと思ってたよ。まぁ、彼らは数年後にまたよりを戻してたけどな。俺たちの知らないうちに、元のさやに収まっていた二人が昔の家を買い戻して一緒に住んでたのには、さすがの俺も少しばかり驚いたけどね。今じゃ気のいいジジイとババアになってて、孫のおもちゃを買いにハロッズやハムリーズに行くのを趣味にしているよ。何があってもけろっとしてるところは、さすが俺の親って感じだよな。ギャハハハ。
 俺は多くのキッズと同じように、スクーターに乗っていろんなところへ出掛けたんだ。実はこっそり鉄道にも無賃乗車して、スクーターではいけないところまで行ったさ。どこかは秘密だけどな。ギャハハハ。ちなみに、ピンク頭のイワンがフランスでゲイの男に追いかけられていた頃、実は俺もパリにいたんだ。あ、ゲイの男は俺じゃないよ。俺はノンケだよ。まぁ、イワンは確かに追いかけたくなるほどいい男だけどな。俺が女だったら夢中になってただろうな。ギャハハハ。これ、あいつには言わないでくれよ。え? もう言っちゃったの? 勘弁してよぉ〜。まぁ、いいか。紛れもない本心だからな。

 イワンとジョシュが訪ねてきた日も、前日までスクーターでイタリア一周旅行をしてたばかりで、ようやく家に帰ってきたところだったんだ。しかも俺は次の日にはもうスペインに行こうとしてた。つまり、冒頭で俺が読んでいたガイドブックはスペインのものだったのだ。俺はサクラダ・ファミリアでも完成させに行くかとバルセロナについて研究していたんだ。ギャハハハ。
 ガーク曰く、イワンとジョシュは俺がイタリアを旅してていない間、毎日訪ねてきてくれたようなんだ。その心意気に感動した俺は、彼らを俺の部屋に招き入れ、三人でカーペットの上にあぐらをかいて座った。話を聞けば、なんでも、彼らのバンドのベーシスト、ピーターが栄転をきっかけにバンドを辞めたというんだ。
「よかったじゃないか」
 俺は膝を打ちながらギャハハと笑った。
「よくないよ、いや、マックスの言う通り、ピーターにとっては良いことだけど、でも、俺たちはとっても困ってるんだ」
 なんだか話の的を得ない。
「要はつまり、言いたいことはこういうことさ。俺たちのブルーローゼズに入ってくれないか?」
「お笑い担当か? それとも、トマトを客にぶつける係?」
 俺はわざと二人をからかってやったのさ。ギャハハハハハ。

青いバラ四十五本目 イワンの話 十五

「神の手を持つ男」
「ブルーローゼズの金看板」の、アレン。

「トリックスター」
「ブルーローゼズで最もパーティー好きな男」の、マックス。

 アレンがアダムの代わりに、マックスがピーターの代わりにドラムスとベースのリズム隊として入ってくれた。俺たちのバンド「ブルーローゼズ」は、程なくしてついに黄金期を迎えることになるんだ。ちなみにジョシュと俺の異名は、ジョシュは「音色の魔法使い」「マンチェスターいちのギタリスト」、俺は「マンチェスターのボスザル」「天使の顔したキングモンキー」ってとこかな。どうしても俺はサルって呼ばれがちなんだ。俺がステージ上をハンドマイク片手にめいいっぱいうろつくパフォーマンスが、サルに似てるって話なんだよ。よっぽどのインパクトがあるんだな。あははは
 アダムの言う通り、俺は本当の意味で、ポップミュージックの道でメシを食っていく覚悟がないままブルーローゼズを始めた。結成当初の俺たちは、まだ「交流の場所」くらいの感覚だったんだ。もちろん、ジョシュがギターで作ってきた曲はどれも大好きだったし、スタジオでのリハーサルやライブでみんなが演奏して、歌う時間は大のお気に入りだった。
 いつまで経っても「学校帰りの部活動」感覚でいた俺の目を、頭から冷水をぶっかけるほどの勢いで覚ましてくれたのがアダムとピーター、それぞれの決断だった。彼らはたくさんの時間を悩んで、苦しんで、自分たちの進むべき道に足を踏み入れた。呑気な俺は、彼らの成長と覚悟にようやく気付かされたんだ。

 俺はブルーローゼズを世界一のロックバンドにするべく、行動を開始した。

 世界一のバンドになるためには、まずは地元マンチェスターで一番にならないといけない。俺は「バッド・ドリーム」に駆け込んで電話帳を買うと、パラパラとめくって音楽雑誌社の連絡先を突き止め、ありったけのデモテープを送りつけることにした。それまでにもあの「NME」にちょこっとライブレポートが載ったことはあったけど、楽曲を掘り下げたレビューはなかった。例え大きなインタビュー記事は望めなくても、「いま最も注目のバンド」みたいな若手のギターポップバンドを紹介するコーナーで定期的に取り上げられたら御の字だと思ったんだ。次にいくつかのレコード会社をピックアップして、手書きで丁寧にしたためたレターとともにデモテープを彼らへ郵送した。当時の俺たちはまだインディーズで活動するバンドで、一部の音楽ファンの間ではそこそこに浸透していたが、特定のレコード会社と契約しているわけではなかった。音源はアダムのスタジオにある機材で録ったデモテープのみだったし、それを配る相手も相変わらず俺らの友達や親族の身内がメインだった。今みたいに、一瞬にして世界中に公開できるインターネットの動画配信サイトもないからな。送ったデモテープへの返事はほとんどなく、なしのつぶてだったけど、地道に活動して存在を知ってもらう他に方法がなかったんだ。
 俺はついにブルーローゼズの正式なレコードを出そうと躍起になっていたわけよ。
 勤めていた失業保険を取り扱う会社も、思い切って辞めた。金を給付する立場だったのに、今度は俺自身がそれをもらう立場になった。わずかな失業給付金と、なけなしの貯金を頼りに、しゃかりきになってバンドの告知、広報活動にのめり込んでいったんだ。カラーリング代も捻出できないから、髪の毛も元の髪色である茶色に戻したんだよ。ルックスも大事だけど、ちょっと気をつければ簡単に変えられることがそんなに重要か? とは思うね。
 ちなみに、他のメンバーが一方で何をしていたかというと、ジョシュはまだアニメーターの仕事を続けていた。俺はアニメーターについてはよく分からないけど。彼が所属する制作会社は主にテレビ用の短編アニメーションを手掛けていたんだけど、長編アニメーションの仕事が一本でも入ると徹夜で作業をすることもあったんだ。納期に間に合わせてナンボの職業だから、そりゃあもう、直前期は真っ青でゾンビみたいな顔をしてたよ。一睡もしないままリハーサルに来たこともあるくらいだ。今思うと、よくブルーローゼズの活動と両立できてたよなぁ。おまけに曲も作るし、手遊びのつもりで作った竿と玉のモニュメントも、なんていうかすごいクオリティーだったし。ジョシュのバイタリティーには敵わねぇなって、三日に一度くらい思う時もあるよ。はははは。
 アレンはうちに入る前からいくつかのバンドを掛け持ちしたり、自分とこのパブの手伝いをしたりしていた。ピンチヒッターとして俺たちの知り合いのバンドでドラムスを叩くこともあったな。みんな、アレンのテクニックを目の当たりにすると、腰を抜かすくらいびっくりするんだ。もちろん、上手過ぎて、な。彼はその時点でプロ並みの腕前だったんだ。
 マックスはというと、特に固定の仕事はしてなかったみたいだ。あいつは単発のアルバイトで金を貯めてはスクーターにまたがって、イタリアやドイツなどの周辺国を時間をかけて旅することに夢中だった。俺とは近所だから、様子を見に家にいくと弟のガークを残していつも不在だった。弟のガークは実は大人しいヤツで、兄貴とは大違いの性格をしてるんだと初めて知ったよ。玄関に立ってる俺の姿を見るや否や、
「マックスはいないよ!!」
 と耳をつんざくほどの大声で叫びながらドアを閉めるんだ。別に誰も彼を獲って食ったりしないのにな。ははは。
 俺たちのバンドは、最高だと思ってた。「俺たちの実力ならもっと注目されて当然だ。宣伝が足りないな」と本気で考えていた。だから、有名になるために、いろいろ思いつく限りのことは全部やったさ。それでも、期待するよりも知名度はなかなか急上昇するということはなかったね。やるせない気持ちのまま、俺はスクーターでマンチェスター郊外までぶっ飛ばして、憂さ晴らしをする日々だった。
 目についた白い壁に青いスプレーで「ブルーローゼズは最高のバンドだ!!」みたいなことを描き殴ったりもした。ヘッタクソなバラのイラストも添えてな。

 バンドのリハーサルと広報活動、壁にグラフィティーを描き殴るかたわら、俺はバッド・ドリームで買った音楽雑誌に「イベント参加バンド募集」の告知を見つけると、積極的にブルーローゼズとしてエントリーしていた。その中に、ドラッグ撲滅キャンペーンの一環として開催するロンドンの音楽イベントがあったんだ。主催者はあのジャムのギタリストのポール・ウェラーで、俺は一目散に彼宛の手紙を書いたよ。大ファンだからね。内容は詳しく言えないけど、主な主旨として、〈親愛なるポールへ。俺はあなたの趣旨に賛同します。俺が住む集合住宅は夜な夜なパーティー騒ぎで眠れないし、友達が働いてる本屋に行けば、片手に変なフラスコみたいな形のビンを、もう片方の手に竿と玉でできた妙ちくりんなモニュメントを持った男が追いかけてくるんだ。こういうわけで、俺はドラッグの類は嫌いだ〉みたいなことを書いたね。あ、ほとんど言っちまったな。わははは。そんな熱いメッセージがポールの胸を打ったのか、ブルーローゼズは無事にエントリーを決めることができたんだ。
 当日の音楽イベントは滞りなく終わった。ポールも俺たちの曲を褒めてくれたよ。「歌はちょっとアレだけど、良かった」ってさ。なんてな。冗談だよ。「とにかく曲がいい」って太鼓判をくれたんだ。感動したよ。中古のバンを飛ばして、みんなでマンチェスターを離れてはるばるロンドンにやって来た甲斐があった、バンドやってて良かったって思った。
 しかも、打ち上げのパーティーで、なんと、あのポール・ウェラーのギターに合わせて、うちのアレンがドラムを叩いたんだ! 興奮したし最高に盛り上がったね。全然、アレンのプレイは見劣りしなかったよ。本当に、あいつはキース・ムーンと並び称される稀代のドラマーになれると思ったよ。今だってそうさ。当の本人は最後の一曲を叩き終えるまで、超絶技巧でギターをプレイする男がポール・ウェラー本人だと気がついてなかったみたいだけどね。あははは。

「サリー」の誕生

青いバラ四十六本目 サリーの話 四

 ブルーローゼズが活動を再開したことは、もちろん知ってた。カレッジの中庭で、ジョシュと私はよくお互いの講義がない時にベンチに腰掛けて、その話を聞いていたわ。私たちのお喋り仲間にはピーターも加わった。彼は本当に物腰の柔らかい人で、特に女の子に対しては優しかった。どこに出しても恥ずかしくない英国紳士って感じだった。アダムと、彼に似てない妹のエヴァも交えて、食事に行ったこともあったわね。楽しかったわ。
 私たちが息抜きとしてどこかへ出かける時、ジョシュがイワンにも必ず声をかけたけど、彼はほとんど来なかった。私は、中学の頃が嘘みたいに、イワンとはほとんど会わなくなっていた。彼はその頃、スクーターボーイズと遠出することに夢中で、一方、私は私でカメラとテクニカル・ライターのレクチャーにのめり込んでいた。ピーターが働くちょっと変わった本屋の「バッド・ドリーム」にも、もちろんよく行ってた。私たちはすれ違うことが多くて、
「さっきまでイワンが来てたよ」
 と、品出し中のピーターに教えてもらうことがお約束みたいになってた。
 会えずじまいの私たちを構うことなく、日めくりカレンダーは慌ただしくいくつもの日付を破り捨てていった。

 カレッジを卒業後、私はいくつかの出版社の編集部に写真を持ち込むフリーの契約カメラマンになっていた。ライターとしては、まだまだ駆け出し中だった。私は恋人のマシューと一緒に暮らすためにアパートを借りた。マシューはカレッジ時代の一学年先輩で、彼もカメラを専攻してたの。私の写真を気に入ってくれていて、お互いをモデルに撮り合ったり、現像した写真の感想を言い合ったりしてた。先に卒業した彼は、苦戦していた就職活動の末に、フォトギャラリーの専属カメラマンの座をようやく勝ち取った。お金は無かったけど、陶器製のブタさんの貯金箱に貯めたお金で、月に一度、フレンチレストランでディナーを食べにいくのが楽しみだった。
 締め切り前は目が回るほど忙しかったけど、私は充実した日々を送っていた。心からとても満たされていたの。

 久しぶりにジョシュから電話がかかってきた。「今度、ハシエンダでブルーローゼズのライブをするから、写真を撮ってくれないか」という用件だった。私は喜んで親友の頼みに応じることにした。日時は来週の金曜日、十九時スタートだった。久しぶりのライブに胸をときめかせながら、その日が来るのを待ったわ。私はとっておきのニコン製の一眼レフを棚から取り出すと、クロスでレンズを念入りに磨いた。
 ライブ当日、ステージ上でパフォーマンスをする彼らの姿を、ひたすら一眼レフで追いかけた。まぁ……確かに言われてみれば、彼らのファッションはなんというか、すごく独特だったわね。
 ハンドマイク片手にうろつくイワンとレンズ越しに目があった。「憧れられたい」の間奏中、歌うのをやめた彼はハンドマイクを下げると、久しぶりに出会った女友達の顔を、穴が開くほど見ていた。私も、すっかり大人の男性に変貌を遂げた彼に見つめられて、気が付けばゆっくりとカメラを顔から離していた。イワンと私を残して、時間が止まったかのように感じたわ。

 ブルーローゼズのライブから数日が経った。
 私は職場へと出勤するマシューを部屋から送り出した。その日はちょうどフレンチレストランでのディナーを食べる約束をしていた。今日が締め切りの写真を収めたカメラをバッグに入れて、戸締りを済ませて私も家を出ようとしたら、ダイニングテーブルの上にマシューが忘れていった茶封筒があるのに気が付いた。あの頃は携帯電話で忘れ物の存在を知らせることもできなかったから、私はそれをひったくると慌てて彼を追いかけたわ。
 マシューはまだアパートの近くにいた。
「マシュー」
 彼を呼び止めようとした声が、出なかった。マシューの隣に、私が全然知らない胸の大きな女の人がいて、二人は手を繋いで歩いていたから。とっさにアパートの陰に隠れてしまった。すごく驚いて、心臓がバクバク鳴った。嘘でしょ、どういうことなの? 私の頭は状況が全く飲み込めなかった。思っても見なかった事態に混乱した私は、編集部の締め切りが迫っているにもかかわらず、彼らの跡をつけることにした。私がスパイダー・グウェンであれば良かったのに。彼女ならすぐに手首からクモの糸を出して、彼らをぐるぐる巻きにして動かなくして、とっちめてやるのにと悔しがったわ。でも私にはクモの特殊能力なんて持ち合わせていないから、こっそりと足音を立てずに尾行するのが限界だった。
 彼らはマシューの勤めているはずのフォトギャラリーを素通りして、カフェの中へと消えた。私は仕事用とは別に使っていた小型のカメラをバッグから取り出すと、無我夢中でシャッターをいくつも切ったわ。
「あのやろう……」
 と地を這うほどに低い声で唸りながらね。もしかしたら無意識のうちに「ぶっ飛ばしてやる」とか「モノをちょんぎってやる」とか、誰かが聞いたら顔をしかめるほど、ここでは言えないような物騒なワードも口走ってたかもしれないわね。好都合なことに、マシューと見るからにボインの彼女は店内から出てくると通りに面したテラス席に座ってくれたから、撮りやすいことこの上なかった。まさか、自分の恋人の浮気現場の証拠を押さえるなんて、カメラをこんな使い方をするとは思わなかったわ。でも本当に習ってて良かったわ、だって、これでもかってくらい上手く撮れてたんだもの。何も知らないフリをして、今夜のディナーでデザートを食べ終わった頃に突きつけてやろうと思ったの。マシューがなんて言い訳するか、楽しみだった。ああ、思い出しても腹が立つ。本当に許せなかった。完全に頭に血が上ってた。だから、すぐそばまでひったくりの強盗がバイクに乗ってやって来ていることに気がつかなかった。そいつは私が肩から担いでるバッグを無理やり奪い取ると、一目散に猛スピードで走り去ろうとした。
「ちょっと! 待って!! それには大事な写真が! 私のバッグ返して!! 誰か! おまわりさーん!!」
 走って追いかけたけど途中で履いていたヒールが折れて、派手にすっ転んでしまった。運悪く雨が降ったばかりで、泥まみれな水溜りに私は頭からダイブした。彼とのディナーのために奮発したローラ・アシュレイのボタニカルワンピースもこれでダメになった。全身を駆け巡る痛さと、今まで感じたこともない惨めな気持ちが襲ってきたわ。

青いバラ四十七本目 サリーの話 五

 ひったくりに大事な仕事用のカメラが入ったバッグを奪われた私は、ほうほうの体で編集部に現れた。編集長をはじめ、その場にいたメンバー全員がボロボロの私を見て驚いた。でも、今日が締め切りの雑誌に載せる写真が手元にないと知ると、それとこれとは別といった態度で、彼らは口々に罵詈雑言を私に浴びせた。本当に、〈もしかして私は人でも殺したかしら?〉と思うくらいの勢いで、彼らは怒りと憎しみの言葉をこれでもかって程ぶつけてきたわ。まぁ悪いのは私だから、それらの言葉の投擲を甘んじて受け入れたけど……。
 急場しのぎとして、もしもの時のために編集部がストックしておいた穴埋めの写真を使うことになった。待ちくたびれて今にもキレる寸前だった印刷所の担当者のところへ、私はヒールの取れた靴で走って渡しにいった。とっぷりと日が暮れた頃にようやく校了を乗り切ると、編集長は私を個室に呼び出して
「残念だけど、あなたはクビよ。お疲れ様」
 と契約の終了を知らせた。

 この世の終わりみたいな気持ちのまま会社を出た。はっとして腕時計を見ると、約束していたマシューとのフレンチディナーの時間はとっくに過ぎていた。予約したレストランにはすでに彼の姿はなく、私はとぼとぼと帰路についた。
 泥んこを盛大に被ってお釈迦になったローラ・アシュレイのボタニカルワンピースが、夜風に当たって私の身体にぴったりと張り付いた。道ゆく人たちが怪訝そうな表情でこっちを振り向いていたけど、私は自分が幽霊になった気分でいた。むしろ今すぐそうなりたかった。
 私という人間は、見えてるけど、まるでこの世に存在していない。誰も気にも留めない。いてもいなくても、どうでもいい。まるで値打ちのない存在に思えた。今までもこれからも、誰からも必要とされない人生が待ってる気がした。不覚にも、涙が頬を伝って流れた。一度流れたら、堰を切った川みたいに止めどなく溢れた。今日一日、押し込めていた感情がポツポツと湧き上がった。
 世界中の人が集まる交差点を、たった一人ぼっちで反対側から渡っているような気持ちになった。歩いているうちに足元から崩れ落ちて、そのまままっすぐ地球を突き抜けて裏側まで落っこちるんじゃないかと錯覚した。今日は間違いなく人生で最悪の日になると思った。本当はそうじゃないんだけど、若かったから、分からなかったのよ。

 アパートへ戻ったら想像を絶する修羅場が巻き起こり、どん底の私をさらに突き落とした。
 怒りと悔しさが爆発した私は、今朝方に撮ったばかりの写真の束を床にバンっと叩きつけてマシューを罵った。マシューはマシューで、約束の時間にレストランに現れなかった私を責めに責めた。私の顔は涙でぐっしゃぐしゃだった。
 マシューは、本当は勤めていたフォトギャラリーの仕事もとっくに解雇されていたこと。一緒に歩いていた女の人はフォトギャラリーに出入りする常連客で、マシューが勤めていたわずかな期間で急速に仲良くなったこと。今日は出勤するフリをして彼女とデートをしていたこと。デートにかかるお金は彼女が全部出していたこと。実はこれまでもいくらか貢いでもらっていたこと。カフェの後、二人は通い慣れたホテルで過ごして、彼女、マリリンとか言ったかしら? そのマリリンのヌード写真を撮影して楽しんでいたこと。ちなみに彼がダイニングテーブルに忘れていった茶封筒には、マリリンのヌード写真が大量に入ってたわ。しょっちゅう会ってたのね。えげつないポーズのオンパレードに〈こんなの撮るんだ……〉ってドン引きした。
 彼は、聞きたくないことまで全部、洗いざらいを、泣きじゃくって床に崩れ落ちてる私にぶちまけた。これだけのことをやっておきながら、特に悪びれる様子もないのが、いっそう腹立たしかった。言葉は悪いかもしれないけど、本当に〈クソ野郎〉とおなかの底から思ったわ。
「君はいつも、俺を見下してる気がしてたんだ。後から世の中に出てきたくせに、俺よりも良い仕事に就けて、さぞかし良い気になってたんだろ」
 違う、違う。私はそんなこと、思ってない。だけど嗚咽になって言葉にならない。たとえ言葉になったとしても、きっともうマシューには届かない。彼はずっと前から、違う道へ進んでしまったんだ。間抜けな私がすれ違っていく彼に気が付けなかっただけなんだ。きっとこれは、幸せを当たり前と思って、ふんぞり返ってあぐらをかいていた私に対する罰なんだ。
「もうやめて。もう分かった。出てって。戻ってこないで。今すぐ消えて、もう現れないで。顔も見たくない」
 ようやく私は声を絞り出した。マシューは長ったらしくため息をした後、
「終わりだな。俺たち」
 と捨て台詞を投げつけ、アパートを出て行った。
 私はひとしきり泣いた後、顔を洗いに洗面所へ行った。リビングに戻ると、来月のフレンチレストランでのディナー代を貯めるために買っておいた、陶器でできたブタさんの貯金箱を頭の上まで振り上げると思いっ切り床に叩きつけて割った。そのままアパートを飛び出し、夜の街へと駆け出していった。

青いバラ四十八本目 イワンの話 十六

 サリーとはハシエンダのライブで久々に会ったんだ。
 驚いたよ。すっかり美人になってた。俺は仕事柄、ライブ会場にどんなに可愛い女の子がいても、思わず見惚れるなんてことはなかったんだ。プロだからな。だけどサリーは違った。「憧れられたい」の間奏明けの歌詞が吹っ飛びそうになるくらい、自分に一眼レフを向けてくる彼女のことを目で追いかけるのに夢中になってしまったんだ。サリーは、俺が不覚にもライブの真っ最中に恋に落ちてしまった、最初の女性さ。照れるぜ、おい。ははは。
 カメラマンの仕事に取り組む彼女の表情は、いつだって凛々しくて、俺には輝いて見えるんだよ。

 ハシエンダのライブ以来、俺は彼女のことが忘れられないでいた。
 次はいつ会えるんだろうと思った。俺たちがステージに立てば、また写真を撮りに来てくれるだろうか。恋人はいるのだろうか。働いてるところは? 住んでるところは? 好きな色は、なんだっけ? 気になることがいっぱいあった。サリーについて考える時間がどんどん増えていった。メシを食っていても、風呂に入っていても、気晴らしにクラブへ行っても、スクーターに乗ってみても、人気のないところで久しぶりにグラフィティーをやってみても、俺の頭の中は、いつだってサリーでいっぱいだった。
 こうしてみると、俺はサリーについてほとんど、いや、全く知らないんだということに気がついた。あんなに一緒にいたのに、まるで出会ったばかりの、知らない国からやってきた女の子みたいだなと、笑った。
 俺は、サリーがどんな風にして暮らしていたのかを想像した。彼女と自分とが会っていなかった時間の長さに想いを馳せた。可能であれば、彼女の口から俺の知らないサリーのストーリーを聞きたいと思った。俺も彼女の知らない俺自身のストーリーを聞いて欲しかった。俺はいつかサリーに会ったら聞いてみたいことを思いつくまま便せんにしたためた。その手紙は、どこかで彼女とばったり出会ったときに渡せるよう、ジャケットのポケットにいれたままにしておいたんだ。
 サリーのことをいつも分かっていたかったし、俺のことも分かっていて欲しかったんだ。まるで答え合わせをするみたいに、あるいは、かけたパズルのピースを丁寧に集めてはめ込んでいくみたいに、ゆっくりと。

 その日も俺たちはブルーローゼズのリハーサルに明け暮れていた。深夜になってスタジオを出て、それぞれ帰路についたんだ。方向が同じなはずのマックスは先に帰ったよ。明日からまたスクーターで今度はルクセンブルクとバルト三国を何日もかけて旅するっていうんだ。
「これから現地でするイタズラを考えなきゃな。ギャハハハ」
 挨拶もそこそこにいつものギャハハ笑いを残してマックスは足早に立ち去った。あいつも本当に好きだよなぁ。
 俺はふらっと立ち寄った深夜営業のスーパーマーケットでチェリーエイドとシナモンフレーバーのバブルガムを買って、近くのアパートの階段に腰掛けて一息ついてたんだ。俺は今日のリハーサルについて、ひとしきり思い出した。いつもの癖で、反省点をもろもろ考えていた。アレンがここで焦らずにじっくりとタメを作ったのが良かった、マックスのあそこの速弾きは特にイカしてた、ジョシュは今日も青白い顔をしてギターのエフェクターをいじっていた。彼らの姿が俺の心の中に次々と去来した。
 気がつくと一眼レフで撮影するサリーのことも心に浮かんできた。すると頭の中で聞いたこともない音楽が鳴った。俺はおもむろにジーンズのポケットからペン付きのメモ帳を取り出して、生まれたばかりのフレーズが消えないうちにそれに書きつけた。俺の手から紡ぎ出されたそれは、あっという間に一つの詩の姿として生まれ変わった。俺にはそれがとても、光り輝いていて眩しく見えたんだ。〈これはすごいぞ〉と一人で唸った。きっと良い曲になる予感がした。そんな感じで夢中になって、ペンを握りしめながらメモ帳と睨めっこをしていた。
 さっきまで星が見えていた空はいつの間にか曇っていて、まさに〈ひと雨来そうだな〉と思っていた矢先に、ポツポツと水滴が俺の頬に当たった。
 俺は作業をひとまず中断させて、折りたたんでいた傘をさそうとして顔を上げた。すると、向かいの街灯に灯されて、女の子が立ってるのがぼんやり見えたんだ。彼女は後ろを向いていて、黒い髪と花柄のワンピースは泥んこまみれで、痩せた身体は心細げだった。不思議と、サリーだと分かったんだよ。
 俺は立ち上がると彼女に近づいて、後ろからそっと傘をさした。
「……誰?」
 消え入りそうな声でサリーが訊いた。
「俺だよ、イワン……どうしたの?」
 サリーはしばらく無言のままだった。
「イワン……」
 ようやく口を開くと、サリーは小さな肩を震わせて、泣き出した。
「私……何もかも、もう、嫌になっちゃった……」
 俺は思わずさしていた傘を道端に捨てて、泣きじゃくる彼女を振り向かせると、両手で彼女の頬に触れて、キスをしたんだ。チェリーエイドの、甘酸っぱい味がした。
「大丈夫だよ」
 俺はサリーを抱きしめながら、耳元でそっと、いつかの言葉を囁いた。
「大丈夫だよ。君には俺がついてるから。そう言っただろ?」
 だんだんと強まる雨が、抱き合う俺たちを包んでいった。俺の胸で泣きじゃくるサリーの頭を優しく撫でた。このまま、今日一日で彼女に降りかかった悲しみ全部を、雨が洗い流してくれたら良いのにと俺は思ったんだ。

青いバラ四十九本目 ジョシュの話 十四

 机の上で、俺は一心不乱に絵筆で猫のキャラクターに色を載せていたんだ。久しぶりに舞い込んできた長編アニメーションの納期直前だった。迫りくる締め切り時間に、きりきりとした緊張感が漂っていた。
「ジョシュ。作業に夢中になるのは良いけど、そんなに猫背でやってると高い鼻の先がくっついちゃいそうよ」
 俺の頭上からくすくすと笑い声が聞こえてきた。顔を上げると、同僚のローズが缶コーヒーを持ってパーテーションの上から覗き込んでいた。俺は彼女から缶コーヒーを受け取ると、休憩と称して一緒に制作会社のベランダへタバコを吸いに行った。
「こないだのライブ、良かったわよ。ピーターのベースもシンプルで私は好きだったけど、あのマックスって人の方がもっとぶっ飛んでてファンキーね。ブルーローゼズの新しい曲に合ってる」
 ローズは笑って、ミニスカートから覗く網タイツの長い脚を組ませると、ゆっくりとタバコをくゆらせた。ウェーブのかかった赤い髪が揺れる。
 彼女は初期ブルーローゼズを知る貴重なファンだった。「自分と同じバラの名前のバンドがライブをやる」と聞き、奇妙な本屋で知られた「バッド・ドリーム」の裏手のアトリエスペースへやってきた。そう、アダムとピーターがまだプレイしていた頃のライブを見ていたんだ。彼女曰く「その時はパンク色が強すぎて、いまいちハマらなかった」そうだ。
「ギターはイケてると思ったけどね」
 彼女は打ち上げの席で俺にウインクした。
 後日、出社した俺とローズがエントランスでバッティングし、同じ制作会社で働いていた事実を知ることになるんだ。まぁ、彼女は作画担当のセクションで、腕利きのアニメーターとしてバリバリ仕事をこなしていたから、彩色担当の俺とはフロアが違ってて気がつかなかったんだよね。
「これでバンドに必要なピースは全部揃ったわね」
 ローズはそう言うと、組んでいた脚をそのままに向き直り、俺にキスをした。彼女が吸ってる銘柄、ブラックデビルのローズ・メンソールの香りが鼻をかすめた。

 ローズがブルーローゼズを好きになったきっかけは、友達から「これサイコーよ」と薦められたメジャーデビュー曲「サリー」のシングルだった。そうなんだ、イワンの広報活動が実を結んだのか、あるレコード会社の社長兼マネージャーに見初められて、俺たちはついに正式なレコードを出せたんだ。ライターでもあるサリーが掛け合ってくれたこともあって、ある音楽雑誌はレビュー欄で俺たちのデビュー曲を好意的に扱ってくれた。
 ローズと同じ、バラの名前のバンドが放ったメジャーデビュー曲は、主人公の恋人を思う歌詞が涙を誘うポップソングだった。ローズは戸惑いつつも、「サリー」とブルーローゼズのことを一気に好きになった。彼女はバンドのこれまでとは違った路線変更を歓迎した。俺たちの楽曲、例えば「ソー・ヤング」「教えてくれ」などが持っていた攻撃性の高すぎるサウンドは影を潜め、代わりにアシッドロックの影響が見て取れる曲調へと変化した。当時のマンチェスターのクラブシーンは、アシッドロックやアシッドジャズとの親和性が高かったんだ。俺たちはクラブで踊るような、新しいものが大好きでヒップな連中に合わせて作風を変えたんだ。意外と器用だろ? サイケデリックなギターの音色とファンキーなベースライン、自由自在にしなりを効かせたドラムス、それらを従えて囁かれる天使の歌声に、一瞬にして心を掴まれた、とローズは俺に感想を聞かせてくれた。

 「サリー」の歌詞を最初にイワンが俺に持ってきた時、これはサリーのことを書いたんだなと、すぐに分かった。「タイトルがすでに『サリー』だからでしょ?」と、これを読んでる人たちは思われるかもしれないけど、その時の仮タイトルは「ロシアン・サンボ・ハバネロ」だったんだ。長ぇなおい、と思ったし、意味もわかんなかったからすぐにボツにして書き直させたよ。そしたら観念したように、イワンは鉛筆でその長ったらしい仮タイトルに二重線を引き、メモの空いてるスペースに「サリー」と書き殴ったんだ。
「まぁ、そういうことなんだ……お前には、先に知らせておくよ」
 ポリポリと人差し指で右の頬を掻きながら、イワンはたちまち赤くなっていた。俺は、大事な親友二人が特別な関係になってくれて、素直に嬉しかった。
「良かったな。おめでとう」
 俺はイワンに祝福の言葉をかけた。イワンは「へへへ」と人差し指で鼻の下を擦った。

 いつの間に誰もいなくなったフロアに一人残った俺は、ポケットにしまっておいた「サリー」の歌詞が書かれたメモを取り出し、それを眺めた。徹夜とタバコのヤニでクラクラする頭の中は、残されたわずかな力で古い記憶をたぐり寄せる。中学の廊下で、カレッジの中庭にあるベンチで、「バッド・ドリーム」のアメリカンコミックが並ぶ棚の前で、彼女と向かい合っていろんな話をした日々が懐かしく蘇る。
 家に帰って、母親が作ってくれたビーフシチューと豆の煮込みをかき込んで、エレキギターを弾いて、ステレオでレコードをまわして、風呂に入って、ベッドに潜り込んで眠りに落ちる前に、今日のサリーが笑ってる顔を思い浮かべるんだ。すると、穏やかな気持ちが胸いっぱいに広がる。
 瞳を閉じれば、映画のワンシーンみたいに鮮明に浮かんでくる。
「ジョシュ、あなたって本当に良い人ね。あなたと親友になった人たちはきっと幸せよ」
 あの時、黒くて長いワンレングスの髪の毛を片方に流したサリーは、確かに微笑みながら俺にそう言ったんだ。
 そうさ、俺は彼女の言う通り、良い人なんだ。本当に、間抜けなくらいに。そう自分に言い聞かせた。

 俺は初恋の人への密かな想いを封じ込んだ。かすかではあるが、胸の奥がギュッと苦しくなった。その様子を、机の上に横たわる塗りかけられた猫のキャラクターだけが見ていた。

世界的ロックスター、「ブルーローゼズ」を語る

青いバラ五十本目 元ローディー、トーマスの話 四

 ハイ、俺だよ。トーマスだ。
 インタビュアーの君、それとこれを読んでくれている読者のみんな、また俺に会えて嬉しいだろ? ああ、もちろん俺も嬉しいさ。ハグしようか。よしよし。とりあえずコーヒーでも淹れてくれよ、もちろん、俺のはブラックだ。OK。
 記念すべき「青いバラ五十本目」の回で、クラウドバーストの偉大なるシンガーソングライターであり、元ローディーでもある俺、トーマスがここで再び登場するわけだ。まさかまさかのサプライズだぜ。じゃあ始めようか。

 メジャーデビュー曲の「サリー」をリリース後、ブルーローゼズの知名度と評判はぐんぐんとウナギのぼりで上がっていった。この俺や、クラウドバーストの悪名高いフロントマンであり、俺に言わせれば愚かな弟のウィリアムがブルーローゼズの存在を知ったのも、ちょうど「サリー」のリリース前後の時期だったんだ。俺がローディーの仕事を終えて公営アパートに帰ってきたら久しぶりにウィリアムが家にいて、ヤツがステレオの前で茫然としていたんだよな。普段なら俺の姿を見るなり「ファック」の一つでも吐き捨てやがるのに、妙に大人しいんだ。だから何だろうと不思議に思って様子を見てると、同じ「サリー」のシングルが三枚も床に転がってたんだ。驚いたよ。上の兄貴も含めて全員がこぞりこぞって買ってたんだから、つくづく血は争えないって思ったよ。
 まぁ、「サリー」は名曲だもんなぁ。たとえ何枚持っていても損はしないと思うぜ。俺ならこうする。普段聞く用として一枚、俺の珠玉のコレクションを集めた秘密の部屋にそっといれるための永久保存版として一枚、まだ聞いたことがなくて人生の半分くらい損している可哀そうな人に布教するために一枚、だな。
 俺が思うに、彼らの人気の秘訣はたくさんあるけど、強いて一つだけいうならイワンのフロントマンとしての功績が大きいんだ。彼のアティチュードはロックスターの伝統をガラッと変えたんだ。それまでのロックバンドのフロントマンといえば、ヘアスタイルと衣装をバッチリと決め込んで、ステージの中央からほとんど動かずにスカしたまま歌うのが定番のスタイルだったんだ。こういった風潮のなか、イワンはあえて「近所のちょっとカッコいいお兄ちゃん」を絵に描いたような、シンプルなTシャツにジーンズという普段の格好で登場するようになった。ある日から着飾らなくなったんだ。ほどよく力を抜いたありのままの姿が、かえってオーディエンスの目に斬新に映ったんだよな。そして、ハンドマイクを片手に縦横無尽にステージ上をうろつくんだ。時にはマイクのシールド部分を掴んでビュンビュン振り回したりしてな。見栄えは良いけど、あれをやられると断線しやすくなるから、地味にPAとローディー泣かせのワザではあるんだけどな。それはさておき、まるでサルが胸を拳で叩いて威嚇するかのような振る舞いは、とにかく異彩を放っていたよ。だから彼には「マンチェスターのボスザル」って異名がついたんだ。
 イワンのこの歌唱スタイルは実はかなりエポックメイキングな出来事で、その後に到来する「ブリットポップ・ムーブメント」と呼ばれる時期に活躍したミュージシャンに、計り知れないほどの影響を与えたんだ。そう、何を隠そう、うちのウィリアムも彼の動きをそっくり真似しているんだ。まぁ、見る人が見れば分かるよな。
 巷じゃよく、「イワンは最初ベースだったけど、あまりにも目立ちすぎたためフロントマンに引っ張り出された」みたいな噂がまことしやかに語られているけど、それはちょっと違うな。ここまで読んできた君たち賢明な読者ならもうよく知ってると思うんだけど、彼がフロントマンになるまでにはもっといろんなドラマがあったのさ。まぁ、そんな伝説めいた噂が生まれるくらい、イワンのパフォーマンスはインパクトが強かったってことだな。
 あ、ちなみに俺が前回で散々ネタにしたモリッシーとドラキュラ伯爵のコラボレーションみたいなファッションは、不評だと知って、すぐさま止めたんだと。イワンのペイズリー柄のシャツと黒いマントにステッキは帰り際にゴミ箱にぶち込んできたらしい。ジョシュも如何ともしがたい柄の帽子とサスペンダーを、ライブ会場すぐそばを流れるドブ川に半ギレで叩き捨ててきたんだってさ。もう二度と浮かび上がってこないように、ご丁寧に重石までつけてな。一体、どこで買ったんだろうな。あの時はどうかしてたって言ってた。まぁ、彼らはありのままでイケてるから、俺はそれで正解だと思うよ。ハロウィンの日だけマントとサスペンダーを復刻してみたら面白いとも思うけどな。
 
 歴史的名盤のファーストアルバム「ブルーローゼズ」をリリースする日は、すぐそこまでやって来ていた。

青いバラ五十一本目 元ローディー、トーマスの話 五

 レコーディング期間に一年以上をかけて制作された、待望のブルーローゼズのファーストアルバムは、インディー出身のギターバンドとしては異例ともいっていいほどの売り上げを記録した。チャートの成績も、知名度のあまりない新人のせいか、リリース当初こそパッとしなかったけど、口コミでだんだんと良さが広まって半年後にはランキングトップテン以内に食い込んだ。そのままトップテン以内を上がったり下がったりしながら、一年近く居座り続けるほどの健闘を見せたよ。
 アルバムに散りばめられた青いバラとレモンが印象的なアートワークは、ジョシュが手掛けてるんだ。ちょっとアメリカのポップアートを意識してるんだよ。彼は「サリー」の頃からずっと自分のバンドのレコードジャケットをデザインしてきた。彼らは自分たちのサウンドを「六十年代のサイケデリックロックをダンサブルにリメイクした」と自称音楽ジャーナリストどもに評されると、不愉快で夜も眠れないと悩んでいた。自分たちは誰かの物真似じゃなくて、唯一無二のバンドだという自負があったんだ。まぁ、あいつらは好き勝手なことを雑誌に書き散らして金をもらってる、バンドにたかるハイエナみたいな連中だからな。俺もレビュー読んでて「分かってないな、こいつ」って心底うんざりする時あるよ。
 このアルバム一枚で、ブルーローゼズは時代の寵児に躍り出たんだ。ファーストアルバムでの成功を皮切りに、それを引っさげてホワイトプール・ボールルームやアレクサンドラパレスで、伝説として語り継がれるベストギグを決行した。ヨーロッパツアーもやった。パリに行ってもバルセロナに行ってもマンチェスターからの追っかけがいたな。さらには一か八かの大博打で敢行したという、スパイク・アイルランドでの超巨大単独野外フェスティバルで五万人を動員し、バンドの人気はピークを迎えるんだ。彼らのファッションは瞬く間に若者のトレンドになった。ついでにBBCの音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」への出演も果たす。一躍、人気者への仲間入りだ。全く、飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことだ。誰もがブルーローゼズのことを新たにイギリスを代表するバンドだと信じて疑わなかったし、当然ながらアメリカ進出も既定路線として考えているんだろうと思ったよ。ちなみにすでに遠く離れた島国の日本でも、彼らの人気に火がついてたよ。
 そうそう、「トップ・オブ・ザ・ポップス」でイワンが見せた、おったまげなパフォーマンスもお茶の間を盛大にざわつかせたよ。俺もテレビで見てたけど、マジかよって思ったよ。まるで「Today」でのジョニー・ロットンだな。おいおい、ファンだけでなく一般視聴者の度肝まで抜かすなよな。
 驚くべきことに、俺が今、早口で捲し立てたこれらの活動は全て、ファーストアルバムが世に放たれてから一年の間くらいに起こったことなんだ。目まぐるしすぎて、こちとら彼らの活動に食らいついていくのだけで精いっぱいだよ。黄金期のブルーローゼズはアクティブ過ぎて、ファンはまるで安全装置を失ったまま猛スピードで暴走するジェットコースターにしがみついてるみたいだったな。少しでも気を抜いたら振り落とされるんじゃないかと心配になるくらい、彼らはしゃかりきになって稼働していたよ。何をそんなに生き急いでいたんだろうな。まぁ、本来ならもっと早く世に出ていてもおかしくはないレベルのバンドだったんだけどな。彼らがブレイクしたのは、実は二十代も後半になってからなんだ。割とみんな童顔だから分かりにくいけど、意外と遅咲きなんだよ。どういうわけか、下積みが長かった。だから、その反動でしゃにむに頑張ってたんだろうな。
 
 一方、俺たちクラウドバーストもこの頃にはすでに結成してて、ブルーローゼズの人気に追いつけ、追い越せといった心意気で地道にコツコツ活動してたんだ。ウィリアムが、俺がしこたま書き溜めていた素晴らしい名曲の数々に感動して、三顧の礼で俺をソングライターとして自分のバンドに入るよう懇願してきたからな。俺の実力を考えたら当然だよな。
 俺もブルーローゼズのファーストアルバムは大好きで、繰り返し聞いたよ。今でもひとたびレコードに針を落としたら、いつまでも聞いていられるよ。全く、飽きのこない名盤だ。まさにイギリスが誇るロックンロール・アルバムの金字塔だよ。
 俺は、ここまで聞く人間を幸福な気持ちにさせるアルバムを他に知らない。誰に聞かせても
「おい、こんなクソみたいな音楽をただちに消せよ、さもないとお前を消す!!」
 みたいな物騒なことを俺の顔に人差し指を突きつけながら叫んで、ハンマーでアルバムごとステレオをぶっ壊そうとしたり、アメリカ製のショットガンで俺を撃とうとするヤツなんて一人もいない。
 リアルタイムでブルーローゼズを知らなかった若い連中に聞かせても、たちまちにして感動の嵐さ。「全米が泣いた」ってヤツさ。全員漏れなく
「何なの! この神みたいなアルバム!!」
「良すぎる!!」
「こんなの初めて!!」
 と、大粒の涙を流して喜ぶぜ。テレビの通販番組よろしく「お客様からの喜びの声が続々と届いております」って感じだな。
 もし、俺がたった二枚しかアルバムを作れなくて、その一つがブルーローゼズのファーストアルバムみたいなものだったら、それだけでもう大喜びさ。ソングライターとしてやり切ったって大満足するだろうし、もう引退しても良いって大袈裟じゃなく思っちまう。ああ、明日の朝起きて、あんなアルバムがさくっと作れたらいいのにな。

マンチェスターの喧騒

青いバラ五十二本目 ジョシュの話 十五

 俺たちを含めたマンチェスター発のポップミュージックが、いつしかイギリス全土を席巻していた。移り気なメディアは、その現象を「マンチェスター」と「マッド」をかけて「マッドチェスター・ムーブメント」という奇妙な造語で呼んでいたんだ。
 「マッドチェスター・ムーブメント」が起こるほんの少し前、イワンがブルーローゼズのデモテープを、あちこちのレコード会社にひたすら送りつけていた頃に話を戻そう。

 俺たちはレコードデビューを果たすために、とにかく目立つことをした。奇策と言われようと、話題になればチャンスの方からやってくると思ったんだ。いろんな人たちが言うようなライブでの「奇抜なファッション」もその一環だった。まぁ、自分でもちょっとやり過ぎた、とは思ったけどね。オーディエンスにいまいちウケてないと分かって、ライブが終わったら速攻でドブ川に捨ててきたよ。俺たちは金もなかったし、いっそのこと開き直って普段着でやることにしたんだ。ああ、ギターをプレイしながらくるっとターンするのもやめたよ。あれは新しくてイケてると思ってたんだけどね……。ははは。
 イワンもその頃にはピンクだった髪の毛も戻していた。ピンクも悪くはないけど、俺は茶色い髪のイワンの方がずっと好きだったけどね。
 俺らの街にも、保守的な考えの持ち主は少なくなかった。ある時のライブで、いわゆるレイシストに近い思想の女の子がオーディエンスにいたんだ。彼女はブルーローゼズのメンバーやスタッフに、なんていうか、自分が快く思っていないタイプの人間がいることを知ると、アレンやサリーのことを指差して友達数人とクスクスと笑った。当然のようにイワンが怒って、ライブを中断してステージから客席に降りていって彼女たちのグループに向かっていくと、口論を始めてしまったんだ。逆上した彼女は持っていた水をイワンの顔に目掛けて思いっきりかけてしまった。これで名実ともに彼は「水も滴るいい男」になったわけだけど、軽はずみで冗談も言えないくらいの緊迫した空気が場を支配したんだ。
 すると彼は濡れたままバックステージに引っ込んで、戻ってきたかと思うと、餌を詰め込んだリスみたいに口いっぱい水を含んで、ブー! っと勢いよく女の子にそれを吹きかけたんだ。イワンのその姿はやばかったよ、いつかテレビで見たシンガポールのマーライオンにびっくりするくらい似てて。いや、水を吹きかける勢いと芸術性の高さだけに関して言えば、マーライオンを上回るかもな。ははは。
 当然、一触即発のムードさ。でも、あれにはちょっと胸がスカッとしたな。俺もレイシストは好きじゃないからね。俺とアレンは密かにほくそ笑むのを隠すのに必死だったよ。
「差別主義者はもう二度と来るな!!」
 イワンは床に投げ捨てていたハンドマイクを手に取ると、そう叫んだ。アンプがキーンとハウリングするくらいの大声だった。良いのか悪いのか、その日の彼のボーカルは絶好調だった。しばらく「ブルーローゼズは血気盛んなバンドだ」と噂が立った。イワンは曲がったことが許せない性格だし、「こんなの、間違ってる」と彼が思えばたとえ相手が女性であっても、男性であっても、平等に抗議するヤツなんだ。
 それだけに終わらずに、マックスが御家芸のトマト投げで彼女たちを撃退していた。
「帰りな! ギャハハハハハ!!」
 矢継ぎ早にトマトをバズーカに詰め込むマックスに、俺の腹筋はついに崩壊したよ。ものすごく手慣れた手つきでこう、シュシュシュシュ! と高速で補充するんだ。イワンから彼の、武勇伝ともいえるイタズラの数々を聞いてはいたけど、俺は実演を初めて見たんだ。しかも、自分たちのライブでな。どういうわけか俺のツボに入っちゃったんだ。めちゃくちゃ笑って、もうピンクのストラトキャスターも放り投げちゃって、演奏どころじゃなかった。どこからこんなに大量のトマトを調達したのか、もはや感心したよ。マックスはプラスチックのバズーカをいつも持ち歩いていて、ヨーロッパツアーにも携帯してたね。五十人くらいしかいないオーディエンスは演出の一つとポジティブに解釈してくれたのか、誰も警察に通報しなかった。ラッキーだったんだけど、あの日はお祭りみたいにてんやわんやの大騒ぎになったんだ。

 イワンの広報活動と、そんな騒ぎを聞きつけたせいなのかは分からないが、アレックスと名乗る奇妙な男が俺たちの目の前に現れた。後に俺たちが所属し、デビューシングル「サリー」をリリースするレコード会社の社長だった。彼は俺たちのマネージメントを自ら申し出ると、自分が持つツテを使って、あの手この手でブルーローゼズを売り出した。とにかく金の大好きな男で、「売れているものこそが最良のポップミュージックだ」という俗っぽい信条を公言して憚らなかった。俺たちはその考えには根っこの部分では反発したけど、アレックスは音楽業界ではやり手で有名だとアダムが手紙で教えてくれた。「遠慮しなくていいよ」と彼は笑ってくれるけど、いつまでもアダムの家のスタジオを我が物顔で使うわけにもいかない。俺たちはついに意を決してアレックスの用意した契約書にサインした。しつこいくらい通い詰められて口説き落とされたって感じさ。ブルーローゼズに対して、彼なりの熱意を見せてくれたと思ったからね。

 そして、俺たちはアレックスが連れてきた名伯楽で知られるプロデューサーのレッキーと共に、ついに自分たちのバンド名を冠したファーストアルバムのレコーディングに乗り出すんだ。

青いバラ五十三本目 ジョシュの話 十六

 レコード会社との契約を機に、しばらくして俺は働いていたアニメーション制作会社を退職した。「サリー」までは何とかやれたが、これ以上の仕事とバンド活動の両立は不可能だったし、アレックスにもそろそろ本腰を入れろと釘を刺されていた。ここまで来たならポップミュージックに自分の可能性を賭けてみようと思ったんだ。
 出勤の最終日、ローズはわざわざ俺のいる彩色担当のフロアに挨拶しに来てくれた。豪華な赤いバラの花束をくれた。
「寂しいけど、これからも必ずライブにいくからね。応援してる」
 ローズはハグすると、俺にキスしてくれた。目が潤んでいた。俺は仕事の合間に彼女とする一服の時間がなくなるのが、少し悲しかった。

 レッキーとのレコーディング作業は刺激的で、毎日、学ぶことがたくさんあった。彼がそのキャリアをスタートさせたのは、まだ十九の頃からだった。もちろん、多くの人と同じように雑用係からだったけど、ビートルズやローリング・ストーンズ、キンクス、ザ・フーの「四天王」と一緒に仕事をしたくらいの伝説のプロデューサーだった。俺たちも有名すぎる彼の名前は知ってた。そんな人と作るアルバムは、どんなマジックが見られるんだろうと他人事みたいにワクワクした。
 最も古くて十年くらい前から存在するものを含めて、俺たちにはライブの定番曲の他に、ストックが二十曲を超えていた。特に「憧れられたい」はライブのオープニングを飾る曲として何度もやったから、だいぶ練り上げられてはいたんだ。レッキーのレコーディング・マジックによって、それらの楽曲がどんどんと洗練されていくのを目の当たりにした。貴重な経験だったね。彼はその他にも、俺たちが言語化できないようなアイデアも、豊かな感受性ですくい取って形にしてくれた。全く、脱帽したよ。
「ちくしょう、俺もブルーローゼズに残ってれば良かった」
 アダムにレッキーとの仕事がどんなに素晴らしいものかを教えると、とても悔しがってたよ。ははは。
 レッキーとの初ミーティングは、レコード会社が入るビルの一階のレストランでやった。そこで「誰のどんなアルバムが好きか」と聞かれた。就職試験の面接みたいだなって思った。
「ジャクソン・ポロックの『ナンバーファイブ』」
 俺はついジョークをボソッと呟いてしまった。聞こえない程度のボリュームのつもりだったけど、店内が静かで予想外に響き渡ってしまった。もちろん、そんなアルバムはこの世に存在しない。ジャクソン・ポロックは抽象表現主義のアメリカ人画家だし、「ナンバーファイブ」は彼がアクション・ペインティングと呼ばれる、でっかいキャンバスにインクを垂らす技法で創作した絵画の名前さ。でも、もしレッキーが「ああ、良いよな。俺も好きさ」なんて知ったかぶりをしてテキトーに相槌を打ったら、俺は即座に席を立ってアレックスのいる社長室に駆け込み、契約書を破り捨てようと思ってたんだ。だけど、俺の思惑をよそに彼はキョトンとしていたよ。
「ジャクソン? マイケル・ジャクソンじゃなくて?」
 なんて逆に聞き返して来たんだ。まぁ、そりゃそうだよな。ちなみにマイケル・ジャクソンも好きだ。大好きさ。彼は俺のヒーローだ。
 軽めに滑った俺のジョークをよそに、お互いの好きなポップミュージックの話題で盛り上がって五時間はあっという間だったね。驚くぐらい、レッキーと俺たちの好みは一致していたんだ。〈これはいける〉と思ったね。〈彼がもしプロデュースしてくれたら、きっと面白いものが作れるぞ〉って直感したよ。

 必ずしも挑発したり、おちょくってるわけじゃないんだけど、俺は緊張すると、とぼけたことを言いたくなるんだ。ファーストアルバムのレコーディング期間中、あるテレビ番組にブルーローゼズの宣伝として出演した時にも、その癖が出たよ。
 イワンから始まって、マックス、アレン、俺の順に自己紹介をした。俺以外は普通に自分の名前を告げる。
「イワンです」
「マックスです」
「アレンです」
「グレアムです」
 順番的に、ああ、俺はオチ担当なんだと思ってついユーモアが発動しちゃったんだよ。その瞬間からブルーローゼズのギタリストはグレアムという名前になったんだ。あははは。ちなみにオンエアを見たら、俺が「グレアムです」と嘘こいてる映像の下の部分に「※ジョシュ」とキャプションが出てたね。笑うしかないね。

青いバラ五十四本目 イワンの話 十七

 オフの日に俺がマンチェスターのメンストリートをぶらついてると、たまたまその服屋を見つけたんだ。
 大安売りの看板を見つけて、何となく中に入った。最大値引きで三十パーセントオフだって、ショップ店員の鼻にピアスをあけた兄ちゃんが言うから、俺はステージで着れそうな新しい服を物色することにした。マント以外でな。
 そこで見つけたのが、白地に燃えた青いバラの花びらが首回りにあしらわれたデザインのTシャツだったんだ。そう、俺が「トップ・オブ・ザ・ポップス」出演時に着ていた真っ赤なカンフーシャツと並んで、ブルーローゼズのパブリックイメージとして定着した、あの「ローズシャツ」との出会いがそれだったんだ。あの年はこれと、さっき言った真っ赤なカンフーシャツと、蛍光イエローのブルース・リーのユニフォームしか着てなかったな。メディアに出る時はそれらのどれかだった。
 いつも代わり映えしない俺のファッションに、サリーは呆れてたね。
「あんた、中学生の制服じゃあるまいし。というか、今時のキッズの方がもっとワードローブのバラエティーあるわよ。人前に立つ仕事してるんだから、もっと身だしなみに気を遣いなさいよ」
 なんて小言を言うから、
「俺としては全部ブルース・リーのユニフォームで通したいんだ。君を初めてお姫様抱っこしたあの時を忘れたくないからね」
 と返してやったら、なんていうか、日本人が寿司を食べる時にのせる黄緑色したやつあるだろ? そう、ワサビ。ワサビだ。それをうっかり大量に噛み潰したような、何とも言えない顔を彼女はしてたよ。ははは。俺も日本で寿司を食べるけど、あれは本当に量を間違えると鼻がツーンとするよな。はははは。分かってくれて良かったよ。
 アレックスにゴリ押されて強制的に撮影した「憧れられたい」と「ゴールデン・ゲイズ」のミュージックビデオはどっちもローズシャツでやったんだ。地味に気に入ってたんだな。そう言えば、ホワイトプール・ボールルームやアレクサンドラパレスも、ヨーロッパツアーもこれだったな。あ、スパイク・アイルランドもか。サリーの言う通り、もうほとんど制服だな。ラスト一着のを買ったから、これを破いたりなんかしたら危なかったな。ははははは。
 俺が何となく、燃えた青いバラが首回りにあしらわれた特徴的なデザインのTシャツを手に取って眺めていると、
「それは現品限りの一点ものだよ」
 と鼻ピアスの兄ちゃんは教えてくれた。値札を見ると六十ポンドと書いてある。〈うわ。高いな、おい。でもレジで三十パーセント引いてくれるっていうし、こんなシャツを着るのは俺くらいだろうな〉と不思議なアイデアが頭に浮かんできて、思い切ってそれを買うことにしたんだ。そしたら、
「こいつだけは値引き対象外だ、一点ものだから」
 とか言われてそっくり丸ごと正規の値段を鼻ピの兄ちゃんに要求されたんだ。俺は、話が違う、というか、そっちを早く言えよと思って、レジカウンターでちょっとした小競り合いの喧嘩になってカチンときたから久々にドロップキックでもお見舞いしてやろうかと思ったよ、鼻ピに。
 でも、その頃は「憧れられたい」が地元のラジオ局でパワープッシュに選ばれてたし、アレックスの策略のせいでちょこちょこテレビ番組にも出てたし、徐々に顔と名前が浸透してたんだ。だから、道を歩けばギャルが近寄ってきて「ハイ、イアン」と挨拶の後にサインを求められて、ウインクしながらそれに応じる機会もぼちぼち増えてきてたんだ。まぁ、俺の名前は「イワン」だけどな、「イアン」じゃない。間違えて覚えてたんだな。去り際に「グレアムにもよろしくね」って言ってたし。誰だ? グレアムって、ああ、ジョシュのことか。案外、人の記憶っていい加減なもんさ。とにかく、以前みたいに変に騒ぎを起こして悪目立ちするわけにもいかなかった。
 それになぜか、そのローズシャツのことを俺はもうどういうわけかめちゃくちゃ気に入ってたし、「絶対着てやる! 俺は絶対にこれを着てステージに立ってやるんだ!!」って意地になってたから、なけなしの大枚揃えてそれを鼻ピがぼーっと見てる前でバシッとレジカウンターに叩きつけて、勝ち誇ったようなドヤ顔で店を出て行ったよ。すぐに「また無駄遣いしてそんな変なTシャツ買って!」ってサリーに怒られるんだろうなって、頭を抱えたけどね。

青いバラ五十五本目 イワンの話 十八

 これまでライブでやってきた定番曲の「憧れられたい」から「サリー」まで、俺たちが作り上げた楽曲を収めた「ブルーローゼズ」がついに世に放たれた。
 リリースされた当初は特に変わり映えのしない毎日を過ごしてた。でも、街を歩いていると声をかけられる頻度が上がってきたし、何よりも半年後に振り込まれた印税の金額を見て、目玉が飛び出そうになった。音楽ジャーナリストの評価もおおむね好評だった。「六十年代のサイケデリックロックをダンサブルにリメイクした」と書かれたレビューに、ジョシュはちょっとふてくされて雑誌を放り投げていたけど、俺は言いたいヤツには言わせておけと思った。
 ああ、売れたんだ。と実感した。今の俺たちは「マンチェスターで一番のバンド」と称するのにふさわしい立ち位置にいた。

 俺はアレックスのマネージメント手腕には素直に感心していたけど、ブルーローゼズを宣伝のためにメディアに出したがるところには、どうしても抵抗があった。特に、俺のルックスに重きを置いた売り方には、はっきりとした違和感を抱いていたんだ。雑誌社のカメラマンに俺一人で、しかも鼻毛も見えそうなくらいのドアップで写真を撮られそうになると、俺ははっきりと断ってたよ。俺は自分のルックスについて、特に何とも思わないし、褒められても「ふぅん」って感じだった。そもそも、俺はスターになりたいとか、テレビに出て有名人になりたいとか思ったことがほとんどないんだ。むしろ、街を歩けなくなるほどにブルーローゼズが売れまくったらどうしようとすら思っていた。
 「トップ・オブ・ザ・ポップス」の出演は、マンチェスターで一番売れているポップスターにとって既定路線だった。収録日当日、俺はブルース・リーの蛍光イエローのユニフォームで番組に出ようとして、サリーに猛烈な勢いで止められた。仕方なく真っ赤なカンフーシャツにしたら、アレン以外の三人が真っ赤なトップスを選んでて見事にかぶっちまって、ドラムス前の三人がやたら赤い集団になったんだよ。ははは。俺らみたいなバンドには専属のスタイリストなんてつけてなかったんだよ。なんかやたらとトマトばかり目についていたから、赤っぽいものばかり好んで選ぶようになってたんだな。
 その頃にはサリーと一緒に暮らしてたんだ。たまの休みはスクーターに二人乗りして遠出をした。人生で最高に幸せな時間だったよ。
 俺はこのまま彼女と結婚して、ずっと一緒にいられるんだと思ってた。

 BBCに着くまでに、アレックスが運転する車の中で、俺はあることをして今夜の視聴者の度肝を抜いてやろうと考えついたんだよ。
 控え室に入ると、今夜の共演者が待機してた。アンハッピー・サンデーズのベズが俺たちが到着したことに気づくと
「よお、イワン」
 と近づいてきてハグを求めた。彼らは「マッドチェスター・ムーブメント」と呼ばれる時期に売れたバンドの一つで、俺たちブルーローゼズとほぼ同時期にデビューしたんだ。これまで何度もハシエンダやインターナショナルで一緒に対バンもしたから、気心の知れた仲間がいてくれて俺はちょっと安心した。だけど胸に秘めている計画は実行しようと決めた。あのマックスと四六時中、行動を共にしているせいか、なんだか俺のイタズラ心も刺激されっぱなしな感じだった。
「イワンはいつ見てもハンサムだな。俺もイワンと同じメイクにしてくれよ」
 ラリっていたのか、ベズの相方のイライザは誰もいない壁に向かってそう叫んでた。

 「トップ・オブ・ザ・ポップス」は、見たことある人は分かるだろうけど、「口パク」が基本なんだ。つまりは、番組の進行の都合で、編集がしやすく失敗も少ない「当て振り」といわれる、カラオケ音源にバンドが動きを合わせる方法でやるんだ。
 俺たちの出番はアンハッピー・サンデーズのすぐ後、番組のトリだった。司会者による紹介の後、最新曲「ゴールデン・ゲイズ」のカラオケ音源が流れた。俺たちはイントロから弾いてるフリをした。
 サビに差し掛かった瞬間、俺は踊りながらハンドマイクのシールド部分を掴んで振り回したんだ。ビュンビュン風を切って楽しかったぜ。「トップ・オブ・ザ・ポップス」という国民的な音楽長寿番組でこんなことをやるのは後にも先にも俺だけさ。もちろん口だけは流れてくる俺の声に合わせて最後まで動かしてたぜ。え? 口パクだから安心して聞いてられるって? うるせえ。誰かこいつを追い出してくれ。冗談だよ、びっくりした? ははは。
 横でベース弾いてるフリをしているマックスが俺を見ながらギャハハ笑いを浮かべてたよ。調子に乗った俺はアウトロ部分でマイクを客席に放り投げると、観覧者がそれをうまくキャッチしてた。
「きゃ〜イワンと間接キッス!!」
 とか何とか言って女の子同士で奪い合ってたよ。それを見ながら俺は空手の型を披露した後に、両手をグーにして胸を叩くゴリラのドラミングの仕草をして曲は終わった。同時に俺たちも終わった。もうBBCのプロデューサーはカンカンで俺たちに番組の出禁を言い渡したよ。俺たちのトップスよりも真っ赤な顔して怒ってたな。はははは。アレックスはスタジオの壁にもたれながら口に手を当ててクククと笑ってた。「これで明日からますます話題になるぞ、レコードが売れる!」とでも思ってたんだろうな。
「まぁ落ち着きなよ、これでも飲みな」
 パーティー好きなベズとイライザは、プンプン怒ってるBBCのプロデューサーにこっそり持ち込んでたコニャックをぶっかけて、アンハッピー・サンデーズも仲良く出禁になってた。まさに彼らにとってはアンハッピーな出来事だな。何はともあれマッドチェスター・ムーブメントを象徴する破天荒な一夜になったよ。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

取材費や本を作成する資金として有り難く活用させていただきます。サポートいただけたら、きっとますますの創作の励みになります。どうぞよろしくお願い致します。