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ブルーローズの花言葉 第二章



「パンクス派・モッズ派連合」と「オールドロック軍団」

青いバラ十三本目 イワンの話 五

 憧れのヒーロー、ブルース・リーの影響で放課後は毎日のように自転車で空手の道場に通い、「砂場の出会い」から仲良くなったジョシュとカンフーアクションものとアニメーションを中心とした映画について語り合う。砂場を取り合って一戦を交えた近所の悪ガキ連中とも仲良くなって、俺たちの子供時代はそんな感じでごく普通に過ぎて行った。
 順調にわんぱくな少年として成長して、中学に上がると、俺は再び人生を変える出会いを果たすことになる。
 パンクロック・ムーブメントの到来だ。
 パンクロックの歴史をここでちょっとだけ振り返ると、そのルーツは意外にもアメリカ、特にニューヨークのアーティストに遡るんだ。代表的なのは、ニューヨーク・ドールズやイギー・ポップと彼が率いるザ・ストゥージズ、ラモーンズだ。彼らは激しくてビートの早い攻撃的なサウンドと、奇抜なファッションで世の視線を集めることに成功した。
 パンクと言ったら、俺たちが住むイギリス発祥の音楽だと思われがちだけど、それはニューヨーク・ドールズのマネージャーだった男マルコム・マクラーレンがプロデュースを手掛けた、そう、あの伝説的バンド、セックス・ピストルズのインパクトがいまだに強く残ってるせいだろうな。彼らは、例えばビートルズのようにテレビカメラに向かってニッコリと笑いながらインタビュアーの質問に答える愛想の良いロックスターの伝統を破って、初めて登場したテムズ・テレビの生放送番組「Today」で、とびきりの悪態を付いてたんだ。俺もたまたまその番組をリアルタイムで見てたけど、司会者のビル・グランディとのやり取りの中で、ジョニー・ロットンの発する言葉が見事に放送禁止用語のオンパレードで、度肝を抜かされたのをよく覚えてるよ。
 ちょうど思春期に差し掛かろうとするややこしい時期の少年だった俺にとって、ブラウン管の中で大人相手にこれでもかってくらい悪態を吐きまくる彼らに心を奪われるのは時間の問題だった。
 翌日、登校すると、予想通りキッズの話題はセックス・ピストルズが初出演したテレビ番組のことで持ちきりだった。ピストルズ談義に花を咲かせてたなかにジョシュもいた。パンクでいうなら彼はクラッシュ派で、俺はどちらかというとジャム派だったんだけど、「セックス・ピストルズが最もイカしたパンクバンドである」って結論は共通してるんだ。ジョシュは、最近あいつのいとこの兄ちゃんにプレゼントしてもらったという古いエレキギターで、早速「アナーキー・イン・ザ・U.K.」のギターリフをコピーしてた。いつの間にか、彼は自分の空想世界をアウトプットする手段だった絵筆からエレキギターに持ち替えて、空前絶後のパンクロック・ムーブメントの楽曲を手探りで弾くことに夢中になってたんだ。まぁ、あいつに限らず、あの頃のキッズはみんなセックス・ピストルズを始めとしたパンクに夢中になってたんだけどね。ただし、一部の例外を除いて、な。

青いバラ十四本目 イワンの話 六

 俺のレコードコレクションといえば、じいちゃんに引越しの餞別としてもらったビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」が記念すべき最初のコレクションだけど、パンクロック・ムーブメント真っ只中の頃になると、ますます増えていった。すでに百枚くらいは持ってたかな。俺はオールドロックももちろん好きだし、幼心に大いに衝撃を受けたパンクも好きになったし、もうちょっと先になると、レゲエやブラックミュージック、ファンク、ヒップホップなど、国籍問わず多岐にわたるジャンの音楽が好きになった。いつの間にか、格闘技漬けから音楽漬けのガキになっちまったんだ。
 まぁ、あの「珍事件」が起こる前までの話だけど……。
 セックス・ピストルズのデビューアルバム「勝手にしやがれ」も、もちろん持ってた。金もない子供の俺がどうしてそんなにたくさんのレコードを持っていたのかというと、実はカラクリがあるんだ。あらかじめ言っとくけど、盗んだわけじゃないぞ。俺がガキの頃は、テレビ番組の懸賞でよくレコードをくれたんだ。最後のクイズに答えると漏れなくプレゼントがもらえるってやつさ。それである日、ピストルズのレコードが賞品になってたから、喜んでテレビ局に電話をかけまくった。なかなか繋がらなかったね。しかし、考えてみると、あれだけ物議を醸した新人バンドのアルバムなんか景品にするんだから、あのテレビ局こそパンクだよな。信じられないよ。ははは。
 「勝手にしやがれ」はレコード盤が擦り切れるんじゃないかってくらい、繰り返し聞いたよ。俺たちブルーローゼズの、ファーストアルバムの頃の歌詞が少しだけ左寄りだと言われるのは、無意識レベルでセックス・ピストルズの反体制的な歌詞の影響を受けてるせいかもな。
 俺もジョシュも、パンクス大好き少年にすっかり変身していたけど、学校のキッズの中には、パンクロック・ムーブメントを快く思わない連中がいたんだ。そいつらのことを「オールドロック軍団」と呼んでた。彼らは古き良きロックを愛するというポリシーで、エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードを神として崇めてた。奇妙な連中だよ。ギリギリ許せてもザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスまでで、パンクなんかもうヤツらにしたら新参者も良いところで、もっての他だった。俺はオールドロックももちろん大好きだけど、さすがにやりすぎなんじゃないかって思った。いうまでもなく、ヤツらとは当然のようにウマが合わなかったよ。
 大体、ファッションにしたって、コッテコテにポマードで固め切ったリーゼントに、首から下は黒い革ジャン、黒パンツ、爪先の尖ったブーツ、インナーは赤と黒のボーダーシャツ。一体、こぞりこぞって、どこから買ってくるんだよ、ってジョシュと一緒に呆れたよ。そもそも、赤と黒のボーダーシャツはパンクともちょっと被ってるしさ。エルヴィス崩れの男どもが徒党を組んで廊下を我が物顔でずらずら歩いてくるんだ。邪魔でしょうがないよ。一方の俺たちパンクス派とモッズ派は、そこまで厳密に統一はせずに、思い思いのファッションを自由に楽しんでた。パンクス派は、ジョニー・ロットンみたいに所々が破れたトップスに鋲や安全ピンでアレンジを施したり、気合いの入ったヤツは休日に鉄道でロンドンまで行って、キングス・ロードにあるブティック「SEX」で洋服やグッズをしこたま買い込んだりもしてた。モッズ派は、細身のモッズスーツに身を包んで映画「さらば青春の光」ごっこに浸るのがお決まりのスタイルだった。俺は日によって違うかな。ジョシュはどちらかといえばモッズの格好をしてることが多かったかな。ペリー・ボーイズとかも定番だったな、そういえば。

 「オールドロック軍団」を率いるボス的存在だった男がアダムだったんだ。この後、俺とアダムは、ことあるごとに対立することになる。

青いバラ十五本目 ジョシュの話 四

 いとこの兄ちゃんがくれた古いエレキギターは、俺を絵の世界からパンクの世界へと一気に引きずり込んだ。もちろん、相変わらず色鉛筆や水彩で画用紙に絵を描くことは大好きだったけど、アンプに繋いだエレキギターでセックス・ピストルズの「サブミッション」をコピーすることの方にハマっていったんだ。
 学校では、あの「セックス・ピストルズ暴言事件」以来、雨後のタケノコのようにニョキニョキ増えたパンクス派が優勢だったけど、「オールドロック軍団」の連中が依然としてその威圧感で幅を利かせてた。特にボスのアダムはエルヴィス・プレスリーに心酔していて、新興ジャンルのパンク・ロックを下に見ていたんだ。
 さらに悪いことに、イワンとアダムの相性は最悪だった。
 アダムがオールドロック軍団を引き連れて廊下をぞろぞろ歩くのが日課なんだけど、どういうわけか、間の悪いことに必ずと言って良いほどイワンとすれ違う。モッズスーツに髪をオールバックにしたイワンと目が合うと
「おい、何こっちにガンつけてるんだよ」
 と、アダムが顔を近づけながら威嚇するんだ。あいつのポマードで黒光したリーゼントの先端が、イワンの額にぐりぐり当たるたび、俺は肝を冷やしたよ。いつ大戦争が勃発するんじゃないか、とね。
 イワンは中学の頃からすでにハンサムボーイで通ってて、密かに女子からの人気も高かった。いわゆるルックスでモテるタイプだったんだ。どうやらそれも、硬派な男を自認していたアダムの気に触ったようだね。ははは。だけど、アダムは違うクラスだから気がつかなかったみたいだけど、可愛い顔に似合わないくらい、イワンは桁外れのお調子者だった。例えば、昼下がりの授業中……なんで午後の昼下がりの授業って、あんなにほいほい睡魔が襲ってくるんだろうな。不思議だよ。おっと、そう、授業中に居眠りこいてるイワンが先生に指されても、変顔したり、意味不明な言葉を言ったり、質問にまともに答えずにふざけてばかりいるんだ。突然のひょうきん者によるギャグの連発に、もうクラス中はいつも決まって大爆笑の洪水さ。
 よく、顔も悪くなくていいヤツで、男からの人気は高いけど、どういうわけか女子ウケはイマイチなお調子者って、君たちの周りにも一人はいたりするだろ? イワンはまさにこのタイプなんだ。ちょっとぶっ飛んでるところもあるからな。面白いから、あいつのそんなところも俺は好きだけど。だから、彼はルックスで話題にはなっても、中学の時はガールフレンドの類はなかなかできなかった。イワンがまともに会話する異性と言ったら、あいつの母親か、妹のオフィーリアか、食堂のおばちゃんくらいだった。カウンターでトレイを渡しながら
「おばちゃん、俺のは大盛りにしてくれよ」
 ってあいつは必ず頼むからね。
「あいよ、こんなにたくさん食べてくれて作った側は嬉しいよ」
 おばちゃんはニコニコしながらイワンの皿にアツアツのミートボールを、エベレストかと見間違えるくらい大量に盛り付けるんだ。まぁとにかく、残念ボーイってやつだね。あくまで中学の時はね。まぁ、同じく残念ながら、モテないって点は俺も大して変わらなかったけど。
 当初、イワンは軽くあしらってたけど、こうもアダムによる一方的な挑発が毎日のように続いて、ストレスがだんだん溜まっているようだった。俺たちは古き良きオールドロックももちろん大好きだったから、好きな音楽ジャンルの違いでアダムと争う理由なんて、どこにもないんだけどね。後から本人に聞いた話だけど、アダムとしては、俺らを含めて、ビートルズやザ・フーの名盤と称されるレコードであんなに大喜びしていた人間が、いくらパンクロック・ムーブメントの真っ最中とはいえ、みんなしていきなり掌を返したようにセックス・ピストルズにハマったように見えたというんだ。それで、いかに軟弱で、ミーハーで、いい加減で移り気な連中だと憤りを感じるようになったらしい。俺たち当人としては、良い音楽に古いも新しいも関係なく、楽しんでたつもりだったんだ。
 まぁ、アダムの出自を考えれば、そういう風に一方的に誤解しちゃう気持ちも、分かる気はするけどね。

 イワンを中心とした「パンクス派・モッズ派連合」と、アダムをボスにする「オールドロック軍団」による、火花ばちばちの一触即発状態が続いていたある日。
 俺たちに何度目かの「事件」が起こった。そう、俺たちの前に「彼女」がやってきたんだ。
 この出来事はイワンと俺の人生にとって、とても計り知れないインパクトを、しかも長期に渡って与えることになる。

サリーの登場

青いバラ十六本目 ジョシュの話 五

 「彼女」は何の前触れもなく、イワンと俺の前にやってきた。神秘的なまでに真っ黒な長い髪と、見る者に頭が良さそうな印象を与える、きりっと涼しげな奥二重の瞳が印象的な女の子だった。

 その日、俺たちはいつものように昨日見たテレビ番組の話をしながら廊下を歩いていた。イワンが廊下の窓際を、俺は彼のすぐ隣をぴったりとくっついて歩いた。そうしないと、アダムがどこからイワンにぶつかってきて不要なイチャモンをつけてくるか、分からなかったからね。俺は彼による奇襲を警戒しつつ、イワンをさりげなく窓際に誘導しながら歩いた。結局はその日に限って、アダムはいなかったから杞憂に終わったんだけど。
 俺の心配もどこ吹く風で、イワンはいつものように面白おかしくトークを展開した。俺は彼によるテレビ司会者の顔真似に
「わはははは!! 似てるわ、それ、もうあかん」
 と声を上げて盛大に笑った。だんだんオールドロック軍団との確執のことも忘れていった。あまりにしつこく続けるから、俺は何度か廊下の途中で立ち止まって腹を抱えざるを得なかった。なんで思春期の頃って、あんなに何でもかんでも面白おかしく感じるんだろうね。もし、イワンに今度会う時があったら、彼の得意な物真似を見せてもらうと良いよ。変に器用な男さ。歌はアレなのにな。ははは。冗談だよ。
 調子に乗ったイワンがえんえんと繰り返す物真似にもう我慢できなくて、俺が笑いながら後退りしたその時、すぐ後ろにいた誰かに思いっきりぶつかったんだ。そのせいで、その誰かが持っていたスケッチブックを落っことしてしまったことに気づいた。ばさばさっと派手な音を立てて、スケッチブックの中身が床一面に散らばった。しまったと思って、慌てて拾い集めようとしゃがんだ俺の目に、色とりどりのイラストが飛び込んだ。女の子の絵だったんだけど、そのどれもが色づかいが素晴らしくて、スケッチブックの所有者がいかに素敵なセンスを持ち合わせているかが、一瞬で分かった。
「すごい……上手い」
 俺は思わず心の声を口から漏らしていた。
「本当だ、綺麗だ」
 イワンもひょこっと顔を覗かせて、うんうん頷いた。絵心のかけらもないイワンですら感動していた。取り憑かれたようにひとしきり作品を眺めて、かき集めたスケッチブックを床でトントンとやってようやくまとめると、俺たちの前に女の子がずっと立っていたことに気がついた。見たことのない顔だと思った。
「ありがとう……」
 女の子は顔が真っ赤になっていた。
「絵がとても上手いんだね」
 俺たちがはしゃいでイラストを褒めるのを見ていたせいなのか、それとも面と向かって褒められたせいで照れているのか、ますます顔が赤くなった。火にかけたやかんみたいに、今にも湯気が出そうだった。彼女の周りだけみるみる温度が上昇する気さえした。
「落としてごめん。君、見かけない顔だね」
 スケッチブックを渡しながら俺が聞いた。
「今日から転校してきたの。サリーよ。香港から来たの」
「香港だって!?」
 それまで俺とサリーがやり取りするのを、我関せずと頭の後ろで腕組みしながら聞いていたイワンが急に食いついてきた。
「俺はジョシュ、こっちのサル顔の男はイワン」
「香港って、サルもカンフーするって本当?? というか、もしかして本物のブルース・リー見たことある!? そうだ、タピオカって好き!? 香港人なら飲んだことあるんでしょ?? あれ美味しいの??」
 サリーが香港から来た転校生と知ってテンションがヒートアップしたのか、イワンは自分のロールモデルとなったブルース・リーにまつわる質問を矢継ぎ早に彼女にぶつけた。とにかくあいつはびっくりするほどテンションが高かった。サリーもビクッとなってて、俺があいつの両脇に手を入れて羽交締めにしなければ、それこそバナナを持った飼育員にじゃれるサルみたいに彼女に飛びついてたかもしれない。っていうか、サルがカンフーするって、なんだ、その不思議な質問……。

 これが、イワンと俺と、サリーの「ファースト・コンタクト」だったんだ。

青いバラ十七本目 イワンの話 七

 サリーとの「ファースト・コンタクト」については、もちろんよく覚えているよ。「香港って、サルもカンフーするって本当??」って質問も、我ながらすごく俺らしくてナイスだよな、ははは。

 とにかく、俺は香港から転校して来たっていうサリーに、聞きたいことがたくさんあったんだ。
 授業開始のチャイムが鳴って、俺はジョシュに羽交締めにされたままずるずると教室に引きずられていった。
「驚かせてごめんね。じゃあ、またね」
 とジョシュが彼女に言い残してね。あいつはいつでも冷静なんだ。サリーは、慌ただしく自分の身に起こったことがまだ飲み込めてないといった様子で、ハトが豆鉄砲食らったみたいにポカーンとしてた。俺は、彼女のエキゾチックな黒髪がとっても良いなと思ったんだ。それは、俺の人生のロールモデルだったブルース・リーと同じ髪色だから、という理由だけではなかったんだな……今思うとね。なんか、恥ずかしいな。
 放課後、俺はジョシュと共に早速サリーが編入したクラスを突き止め、ほとんど有無を言わさずに俺の家に彼女を連れていった。当時のマンチェスターに香港人の血を引く人間が引っ越して来ることは、頻繁にあることじゃなかった。「見慣れないアジア系のルックスをした転校生」のニュースはすぐに俺らの学校中を駆け巡り、俺たちがサリーの居場所を特定するのは簡単だった。
 サリーは、最初は俺の剣幕にたじたじだったけど、ジョシュもいて安心したのか、やがて突然のハプニングを楽しみ始めた。俺は〈意外と度胸あるな、こいつ〉と思った。今日会ったばかりのヘンテコな男二人に囲まれていても、サリーは動じてなかったからね。自分が描いたイラストを褒められるのは、慣れてなかったみたいだけど。俺は彼女を部屋にあげると、待ってましたと言わんばかりに親父と俺が集めた山ほどのブルース・リーのコレクションとそれにまつわるウンチクを披露した後で、もう数え切れないほど鑑賞した「燃えよドラゴン」のテープを流した。俺たちはサリーを挟んで三人揃ってそれを見たよ。彼女がトイレを理由に逃げ出さないように、ね。
「私、この人知ってる。なんかで見たことあるわ」
 意外にも彼女はそれなりに映画を楽しんでいるようだった。そうこなくちゃね、と思ったよ。まさにブルース・リーの名言通り「考えるな、感じろ」だよ。俺たちはいつでも、直感で動くし、自慢じゃないけど俺の直感はあながちデタラメでもないんだ。「砂場の出会い」でジョシュにやったみたいに、ピンチに陥った主人公を拳振り上げて応援するのに夢中になってるサリーを、俺は横から観察した。刺さるような視線に気づいて、サリーがこっちを振り返ると、いつかジョシュのブルーの瞳を覗き込んだ時みたいに、彼女の瞳の奥まで潜り込んだ。映画が進んで、エンドロールが流れるまで、飽きもせず見つめ合った。これまでの人生で経験のない、豊かで美しい時間が流れた。二重とも一重ともつかない、ミステリアスな魅力に溢れたサリーの黒い瞳は、いともたやすく覗き込む少年の心の芯までとらえた。やがて、俺の「センサー」が彼女のことを「こいつはいいヤツだ」と認めた瞬間が訪れたんだ。自分で言うのも照れるけど、俺の人を見る目は、確かさ。それを俺は「センサー」と呼んでいるんだ。いつだって「考えるな、感じろ」の精神さ。どんな時も、自分の心の声に耳を傾けて、人生を楽しまなくちゃね。

 こんな感じで、俺にはジョシュの他に、サリーといういい仲間ができたんだ。俺たち三人はいろんなことをして遊んだ。まぁ、それが原因で、時として少しばかりのアクシデントに見舞われたりもするんだけどね……。

青いバラ十八本目 サリーの話 一

 私なんかがブルーローゼズについて何かを語るのはちょっぴり照れくさいけど、世界中のファンと同じように、私にとっても彼らの存在は特別だから、知ってる限りのことを話すわ。少しばかりのパーソナルな情報も交えながらね。

 私は香港人の母さんとイングランド人の父さんの間に生まれて、中学の時にイギリスのマンチェスターに引っ越したの。それまではずっと、香港で暮らしてた。父さんは「タイムズ」の新聞記者で、赴任先の香港で母さんと知り合い、結婚したの。マンチェスターには彼の仕事の都合でやってきた。当時の香港はイギリスの統治下にあったから、当然、私には「ヨーロッパ人っぽい」ミドルネームもある。もちろん英語の勉強もしてたけど、マンチェスター訛りに耳が慣れるまでは大変だったわね。
 イワンとジョシュとは転校当日に出会ったの。もちろん、よく覚えているわ。人生の中で三本の指に入ると言ってもいいくらい、なんて言うか、面白かった。だって、誰かに見せるともなく描き溜めていたスケッチブックが廊下に突然落ちて、男の子二人に見られてしまったんだもの。「あちゃ〜、やってしまった」って感じよね。思わず両手で顔を覆ったわ。それでも、彼らは手分けして拾ってくれた。
「君は誰? 絵がとっても上手いんだね」
 と、青い目で背の高い男の子は、褒め言葉までつけて優しく渡してくれた。驚いたわ、英国紳士は気遣いが上手なのね。香港の学校だったら次の日から登校拒否になるくらい男子にからかわれてたかもしれない。初めて他人に作品を褒められたものだから、思わず赤面しちゃった。
 驚きはそれだけじゃなくて、自己紹介をすると、もう一人のサルみたいな男の子が急にテンション高くなって香港についていろいろ聞いてきた。
「香港って、サルもカンフーするって本当??」
 って鳶色の瞳をますます大きくさせて言ってきたわ。もう、茫然とするしかないわよね。忘れもしないわ。

 私たちはその日以来、急速に仲良くなって、学校でもよく一緒に行動してた。
 ジョシュとは、絵を描くのが好きと言うこともあって、よくお互いのイラストを見せ合いっこして遊んだ。私のは初日にバッチリ見られたわけだから、もう恥ずかしいものなんて何もなかった。開き直って二次創作として描いた「スパイダーマン」のコミックも読んでもらったりしてたわ。
 彼の部屋には、小学校に上がる前から描き溜めた膨大な量の画用紙があって、そこに描かれた作品のどれもがファンタスティックで、時間を忘れて見入ったわ。彼にはギタリストとしてだけでなく、画家の才能もあったのよ。個展を開けばいつでも、彼の芸術作品をひと目見たさに押しかけたギャラリーでいっぱいになる。それは何も、彼がブルーローゼズのギタリストとして有名人だからというわけじゃないのよ。確かに理由の一つだろうけど、それが全てではないわ。こんなちっちゃい子供の頃から彼に絵の才能があることは、誰の目にも明らかだったんだから。
 イワンの方は、とにかく最初の印象は「変なヤツ」だった。顔はものすごく可愛いと思ったけど、とにかく根っからのひょうきん者だった。予測不能な行動をして、誰かを笑わせることが好きだったみたい。出会ったその日のうちに、ジョシュと一緒に私のいるクラスに現れて
「おい、このクラスにサリーって転校生はいるか? アッいた!! おい、すぐに俺の家に行くぞ!! 君にとても良いもの見せてあげるから!!」
 ってドアのところから大声で叫ぶんだもの。クラスメイトはポカーンよ。転校初日くらいは静かに過ごそうと思ってたのに、計画は台無し。イワンのせいでめちゃくちゃ目立ってしまって、間の悪いことにそれを見ていたクラスの女の子たちに目を付けられてしまった。
「なに、あの子、もう男子に色目使ってる」
「いやらしいわ、アジアンのくせして」
「あの子のアクセント、おかしいわよね」
 私をからかう彼女たちのヒソヒソ声が、聞こえよがしに耳に入ってきた。
「おい!!」
 その子たちに対して、イワンは怒鳴った。
「お前ら、サリーを悪く言うな!! サリーはサルがカンフーする国から来たんだぞ、雨ばっかり降りやがって退屈なイングランドよりも、香港の方がよっぽど刺激的だろ!!」
 彼なりに譲れない主張なんだろうけど、イワンの弁舌にまたしても私たちはポカーンとなったわ。
「それに俺なんか、ソ連かぶれな親父のせいでイワンなんてロシア人みたいな名前だけど、ちっとも嫌じゃないし気にしてないぞ!! むしろ個性的で誇りに思ってるくらいだ!! ちょっと自分と違うからって、他人をからかうのはやめろ!!」
「きゃー、イワンが怒った」
「なにあいつ、おかしなことわめいてて意味不明なんだけど」
「ヤダ〜、最悪」
 女の子たちはさぞかし呆れたって様子で、口々に文句を彼に投げつけた。ひとしきり言い放った後で、バツが悪そうにそそくさとクラスを出ていった。私は平凡なスクールライフが終わるのを予感しながら、机の上で何度目かの「あちゃ〜」って呟いてから頭を抱えた。これからいばらの道が自分を待ってる、とも思った。だけど、正直言って、イワンが庇ってくれてちょっぴり嬉しかったの。確かに天然入っててお調子者だけど、正義感が強くて、曲がったことが嫌いなだけで、根はいいヤツだなって思ったわ。後から知ったけど、イワンはあんな感じでも女の子に結構人気があったみたい。だから、転校してきたばかりの私と絡んでるのが面白くなかったのね。案の定、女の子の友達はなかなかできなかったけど、その代わりに面白い男の子二人が親友になったから、マンチェスターの暮らしは退屈はしなかったわ。
 その後、連れていかれたイワンの家で大量のブルース・リー・コレクションをこれでもかってくらい見せられて、「燃えよドラゴン」のビデオをイワンとジョシュに挟まれる謎のフォーメーションで、半ば強制的に鑑賞することになった。抵抗するのも疲れたし、全てを諦めたって感じで開き直った私は、この状況を楽しむことにした。気がつくと隣のイワンが私の顔をじっと見て、
「サリー、君はきっといいヤツだな」
 ってニカっと笑うの。顔は可愛いけど、やっぱり変なヤツだなって思ったわ。

青いバラ十九本目 サリーの話 二

 イワンのせいでクラスじゅうの注意を引きつけ、女の子たちの輪になかなか入れない日々にも慣れてきた。
 どういうきっかけかは忘れたけど、私はイワンに誘われて、あるバンドのコンサートに行くことになった。
「サリーがここに来る前から、ジョシュと行こうってずっと言ってたんだけど、あいつが熱を出しちまったんだ」
 ああ、確か、イワンはそう言ってたから、ジョシュが倒れちゃったのね。思い出した。イワンはこほんと咳を一つして、私の前に二枚のチケットをヒラヒラさせて見せた。
「無駄にするのはもったいないし、せっかくだから行こうぜ」
 チケットはマンチェスターでも人気のバンドのものだった。まだこっちの音楽に詳しくない私でも、代表曲は聞いたことがあるくらいのメジャーな存在だった。今度の土曜日は父さんも日本への出張でいないし、家族揃ってミートローフを食べる予定も消えたばっかりだから、私はイワンの提案に乗ることにした。
 会場は郊外にある煙臭いライブハウスで、そこで私は香港では見たことも出会ったこともない種類の人たちをたくさん目の当たりにした。普通にドラッグの売人が出入りしていて、彼らは袋に入った白い粉のようなものを高値で売り捌いてた。イワンはそんなのどうでも良いって様子で、私を連れて慣れた感じでヒップホップのかかる薄暗いフロアへ足を踏み入れた。
「イワン、私、こーいうのはちょっと……」
 手を引っ張られ、彼の後を小走りで追いながら
「ちょっと、怖い……」
 と、私は本音を漏らした。ロックのコンサートなんて初めてで、正直、少し退廃的なムードに圧倒されていた。
「平気だから」
 イワンはくるりと振り返ると目を見てきた。
「サリーには俺がいるし」
 鳶色の瞳を臆することなくまっすぐ向けて、恥ずかしげもなく言葉をかけてきた。もうこっちの顔から火が出そうだった。ジョシュもよく呆れ気味に言ってたけど、本当に、こういう時のイワンって、やけに堂々と見える。彼が「大丈夫」とか「平気だから」とか、相手を安心させるためにポジティブなフレーズを使えば、不思議と〈ああ、きっと彼の言う通りになるんだろう〉と思える。そのお陰で、何度、私たちは痛い目に遭ってきたか……。きっと天性の人たらしなのよね。あーあ。思い出しても腹が立つ。ふふふ。
 それでも幾らかの不安を抱えたまま開演時間を迎えたけど、ライブ自体は通常通りに何事もなく始まった。終わった頃には、私はすっかりそのバンドのファンになってた。イワンの言う通り、心配することなんか何もない、楽しい時間になった。
 今はどうか分からないけど、その頃はファンが希望すれば、終演後にバンドが待機する楽屋へ挨拶しに行くことができたのよね。まぁ、驚きよね。目の前で演奏してたスターと、わずかな時間でも、対面でお話できるんだから。昔の人はサービス精神が高かったのね。
 当然、すっかり舞い上がってた私はイワンと一緒に、さっきまで歌ってた人がいる控え室を訪れることにしたの。スタッフに案内された部屋へ入ると、ボーカルの彼が待ってた。本当に同じ人で、感激した。悪い大人に騙されなかったことを神に感謝したわ。
 私はつい先ほど買ったばかりのレコードを差し出して、サインを求めた。すると思ってもみない言葉が返ってきた。耳を疑ったけど、彼は確実に、ライブでの低くて深みのある声でこう言い放ったわ。
「ああ、良いよ。ボクと寝てくれたらね」
 言葉の意味が分からなくて戸惑う私より、イワンの方がすぐさまアクションを起こした。
「おい!! 冗談も大概にしろ!!」
 耳をつんざくほどの大きな声で叫ぶと、イワンは彼の要求を手で振り切った。
「たかがサインくらいで、ふざけんな!! 相手はまだ十代の、子供だぞ!!」
 〈あんたもでしょ〉ってうっすら思ったけど、本気で怒りの色をたたえたイワンの瞳に、どきっとした。気がついたらまだぼんやりしている私の手をイワンが引っ張って走って、控室のドアを激しく音を立てて閉めた。
 「ロリータ・コンプレックス」みたいな、幼い子供を性愛の対象にする特殊な性癖を示す言葉が、まだ一般的になる前の出来事だったの。実際に、そういう人は昔からいたのね。でもイワンは、たとえジョークであっても許せないほど、潔癖な一面があるのよ。普段は、ジョークもちょっぴりエロい話も友達と楽しんでるし、賑やかな人なのにね、ちょっと意外でしょ。
 あの時、イワンは彼なりの方法で私を必死に守ってくれたんだと、幼すぎて気が付けなかった。
 ちなみにサインをもらい損ねたレコードはどうにも聞く気になれなくて、イワンにそっくりあげちゃった。その後のことは、知らない。ほどなくして、ボーカルの彼は若くして死を選んだ。少し、同情したわ。生き馬の目を抜くショービジネスの世界に身を置くことは、私たちの想像以上に厳しくて、心を病みやすいのかもしれないわね。残されたメンバーは、バンド名とジャンルを変えて続けるって風の噂が流れたけど、マンチェスターに住む人々の関心はすぐに違うところへ向かっていったわ。

青いバラ二十本目 ジョシュの話 六

 高熱で寝込んだ俺の代わりに二人でライブに行ってから、サリーは以前にも増してイワンのことばかり話すようになった。
 それまでは、どちらかと言えば、俺との方が接することは多かった。読んだアメリカンコミックの話で何時間でも盛り上がったし、レコードの貸し借りでお互いの家を行き来もしてた。彼女は「スパイダーマン」のスパイダー・グウェンや、「バットマン」のハーレイ・クインみたいなアメコミに出てくるヒロインも大好きで、それについてならいくらでも語れるんだ。ちなみにハロウィンのコスプレも両方とも経験済みさ。ここだけの話ね。
 サリーは、まぁ、イワンと俺のせいでもあるけど、クラスの女子からは少しだけ白い目で見られてて、彼女たちの輪に馴染めないことを気にしているようだった。俺らの前では平気なフリをするけど、ふとした拍子に寂しそうな顔をするんだ。まだ、マンチェスター独特の訛りに慣れきってないことに対する引け目が、時として明るい彼女をネガティブにさせていたのかもしれないね。事実、彼女が何か発言をすれば、広東語の特徴的な抑揚が残る、たどたどしいアクセントをクスクス笑うヤツもいた。頑張ってる人を笑うのは、超絶ダサいよな。俺は好きだけどな、彼女のアクセント。一生懸命で、可愛い。
 まぁ、こうして公で話すときは割とクイーンズ・イングリッシュを使うように意識してる俺はともかく、イワンのヤツなんかは、マンキュニアンである自分に誇りを持っているせいか、とにかくもう、労働者階級独特の言い回しとマンチェスター訛りが混ぜこぜになってるからね。今でもそうだろ? あいつと、クラウドバーストのウィリアムは、訛りがきつくてインタビュワー泣かせとして有名だもんな。そりゃあ、香港で生まれ育ったサリーでなくてもお手上げさ。なにせ、俺たちと一緒に仕事をした、あるロンドン生まれの中産階級出身のイギリス人でも
「ジョシュ、彼らは本当にイギリス人ですか? 話してることが、これっぽっちも分からないのですが……」
 って涙目で訴えてくるくらいなんだから。ははは。
 それでも、休み時間に女子グループへサリーが頑張って話しかけても、ほんの二言くらいで相手が会話を切り上げてしまう。ずっと借りていたマンガを返そうとクラスを訪れて、その現場にばったり居合わせてしまった時は、本当に気まずかったな。
 俺は、周りに溶け込もうと努力するサリーのことがいじらしく思えて、だんだんと気になるようになった。一日の中で、明らかに、彼女のことを考える時間が増えていくのを感じた。
 家に帰って、母親が作ってくれたビーフシチューと豆の煮込みをかき込んで、エレキギターを弾いて、ステレオでレコードをまわして、風呂に入って、ベッドに潜り込んで眠りに落ちる前に、今日のサリーが笑ってる顔を思い浮かべるんだ。すると、穏やかな気持ちが胸いっぱいに広がる。

 今思えば、あれが俺の初恋だったんだな。

青いバラ二十一本目 イワンの話 八

 俺は、大人が子供を性的な対象にしたり、彼らに対して暴力を振るうことが何より嫌いなんだ。あの時も、ヤツの薄汚い言葉を遮って、サリーを連れてまだライブ直後の興奮が残る夜の街へ駆け出した。彼女は何が起きたのか、わけがわかんない感じだった。
「ダメだ、あんなヤツの言うことなんか聞いちゃ」
 走り終えると、街頭の下で俺はサリーを思わず抱き寄せて、囁いた。
「サリー、君には俺がいるから、大丈夫だって、言っただろ……」
 自分でも、なんでここまでドラマチックな振る舞いをしたのかは、忘れたよ。憶えてないよ。たぶん、唯一できた女の子の友達に対して、頼れる男を演じることでカッコつけたかったんだな。ははは、やめてくれよ。俺だって、ガキの頃は背伸びの一つもしたさ。ははは。
 まぁ、当のサリー本人は、ハグは俺たちの国の挨拶程度の習慣だと解釈してたし、さらに、俺のマンチェスター訛りが強すぎて意味が分からなかったみたいだ……。まぁ、いちいち説明するのも面倒くさいから、何より野暮だからあえてみなまで言わずにそういうことにしておいたよ。あはは。
 俺はサリーに対して、はじめは〈香港人だ、すげぇ〉って感じに思ってた。生まれて初めて、オリエンタルな魅力を持った異性に会った。それがサリーだったんだ。だからと言って、そのフワッとした気持ちがすぐに恋に発展したかと言えば、答えはノーだった。もちろん、サリーは昔から魅力的な人だったけど、当時の俺は本当にガキで、食堂で女の子とどのランチを食べるかよりも、男の友達とつるんで、最近聞いたレコードの話とか、好きなテレビ番組の話とかをする方が、ずっと関心があった。時には男同士、殴り合いの喧嘩もしたし、以前よりも頻度は減ったけど、まだ、空手の道場にも通ってたしね。とにかく、夢中になれるものが他にありすぎて、恋愛に割けるほど、俺の頭の中はじゅうぶんなキャパシティーがなかったんだよ。
 もちろん、サリーのことはジョシュと同じくらい、大切に思ってはいたけどね。

 ところで、アダムという男のことを、みんなは憶えているかな?
 そう、俺たちを「パンクス派・モッズ派連合」と一方的に呼んで、廊下でことあるごとに絡んできた「オールドロック軍団」のボス的存在の男のことだ。あいつがね、ついに俺とジョシュを陥れるために動きだしたのさ。

激闘! 「パンクス派・モッズ派連合」対「オールドロック軍団」

青いバラ二十二本目 ジョシュの話 七

 あの日、俺は学校から帰ると、いつものように自分の部屋のベッドの上でアメリカンコミックの新刊を貪り読んでいた。すると窓の外から、誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。それはクラスメイトのモッズ派の男で、三階の俺の部屋まで小石をしきりに投げていたんだ。俺はマンガの世界に没頭していて小石のぶつかる音になかなか気づかなかったんだけど、痺れを切らせた彼はついに叫んだってわけだ。自慢じゃないけど、昔から好きなものに対する集中力のすごさは、目を見張るものがあるんだ。ははは。おっと、笑ってる場合じゃないな。この話は結構、シリアスなんだ。
 異変に気付いた俺がようやく窓を開けると、モッズスーツの男はそれを見て再び叫んだ。
「大変だ!! イワンがアダムに捕まった!! ヤツらは橋の下にいる!!」
 次の言葉に俺は耳を疑った。
「サリーも一緒だ!! あいつ、アダムのヤツ、サリーを人質にしてイワンを呼び寄せたんだ!!」
「うわぁ〜!!」
 あまりの事態に、普段は寡黙なことで有名な俺でも、さすがに気がどうにかなりそうになって叫んでた。それから、武器になりそうなものをありったけかき集めて、部屋を猛ダッシュで飛び出したんだ。その頃はまだスクーターも持ってなかったから、走って現場に行くしかなかった。
 「橋の下」というのは、マンチェスターで最もやばいヤツらが集まることで有名な場所だった。「くまのプーさん」に出てきて、プーがクリストファー・ロビンやピグレットと一緒に棒投げ遊びをするような、そんなメルヘンチックで可愛らしい場所じゃないんだ。そこは「バンクス・ブリッジ」と呼ばれる大きな橋の下で、橋は長年放置されていたせいでサビだらけのみすぼらしい欄干が、思わず見る者の同情を誘うくらいだった。無駄に大きすぎるせいで日当たりも最悪で、一年中じめっとした嫌な場所だった。周辺には見たこともない変な雑草がぼうぼうに生い茂ってるほどで、誰の手入れもされていないのが丸わかりだったんだ。
 階段の隅にいつの間にかホコリが溜まるように、陰気なところには様々な清々しくないものが集まってくる。人間が「悪さ」をするにも絶好のスポットで、珍しいドラッグの売買や、反社会勢力の如何わしい連中が抗争をするのに使われるともっぱらの噂だった。ただでさえまともな人間の出入りを遠ざける「橋の下」だからこそ、アダムはイアンとの決闘の舞台に選んだんだろう。空手使いのイワンとじゃまともにやっても勝てないと踏んで、用意周到に俺たちと仲が良いサリーに目をつけた、というのが実のところだろう。
 実を言うと、それ以前にひやかしでイワンと「橋の下」へ行ったことがあるんだけど、すぐに引き返したよ。目の焦点が合わない、明らかにいかれたスキンヘッドの男が注射針を持ってこっちに爆走してきたからね。俺たちは必死になって逃げたことは言うまでもないさ。危険すぎる地獄の入り口に、俺は役に立ちそうな道具を詰め込んだバッグ片手に急いで向かったわけだ。俺はイワンみたいに格闘技の心得があるわけでもないから、道具に頼るしかないんだ。正直、無茶だと思ったけど、それでも何はともあれ行くしかない。全てはそう、親友のイワンとサリーの二人をオールドロック軍団の魔の手から救うために、ね。
 家から一目散に猛ダッシュして十五分くらいの「橋の下」へようやくたどり着いた時には、もう乱闘待ったなしな状態だった。既に何発かパンチを食らったようなイワンの姿もあった。サリーがどこにいるかは、俺の位置からはよく分からなかった。膝に手をやって乱れた呼吸を整えつつ、俺は公衆電話のボックスの在り処を探してキョロキョロと首を動かした。
 よりによってあんなに恐ろしい橋の下で、俺が最も恐れていた「パンクス派・モッズ派連合」と「オールドロック軍団」による戦いの火蓋が、ついに切って落とされようとしてたんだ。

青いバラ二十三本目 イワンの話 九

 自転車に乗って、空手の道場から家への帰り道を走ってたら、奇妙なことに、普段は話もしたことがないオールドロック軍団の一人が待ち伏せしてた。リーゼント頭のそいつはバブルガムを膨らませてそれをパチンと弾かせると、「待ちくたびれたぜ」といった感じで俺に何かを投げて寄越した。
「読みな。俺らのボスによる、パーティーへの招待状さ」
 捨て台詞を吐くと、クックック、と笑いながら何処かへ消えた。怪訝に思いながら、クシャクシャに丸められたレポート用紙の殴り書きを見て、俺の脳天は一気に沸騰した。あまりにも気が動転してバランスを崩し、跨いでた自転車ごとガッシャーン!! とド派手な音を立てて横へ倒れてしまったくらいだ。それには、こうあった。
「サリーは預かった。橋の下で待つ。来なかったら彼女がどうなるか、頭の良いお前ならわかるよな。アダム」
 広げたレポート用紙から、何かがポロリと落ちた。サリーがいつもつけているハスの花をかたどった髪飾りだった。俺は怒りで頭のてっぺんから真っ二つに裂けそうになった。
「アダム……良いだろう。目にものを見せてやる。今日がお前の命日にしてやるよ」
 カラカラと音を立てて車輪が廻ったままの自転車を起き上がらせると、俺は来た道を凄まじいスピードで戻り、道場の更衣室に駆け込んだ。

 橋の下に行くとオールドロック軍団がたむろしていた。俺は乗っていた自転車のペダルをフル回転させると、後方へ飛び退いて避難した。自転車は猛スピードで忌々しいリーゼントと革ジャン野郎どもの列に突っ込んでいき、そのままボロボロになったコンクリートの橋脚へ激突して倒れた。
「よう、イワン。やっと来たか。あんまり遅くて、俺はお前が尻尾を巻いて逃げ出したかと思ったぜ」
 橋の下で、アダムとオールドロック軍団は一斉にどっと笑った。
「サリーはどこだ。彼女は関係ないだろ、すぐに解放しろ」
「まぁ、そう焦るなよ。サリーはあそこだ。特等席を用意してやったんだ。安心しな、彼女には何もしていないさ。まだ、な」
 アダムが指差す方向に目を向ける。ロープでぐるぐる巻きにされたサリーが、ここからじゃちょうど死角になるくらいのギリギリのところで、橋の欄干にくくりつけられていた。
「せっかくだろ? 俺とお前でパーティーを楽しもうじゃないか」
「ふざけんな!!」
 天井知らずかと思われた俺の怒りは、いよいよピークへ達しようとしていた。勢いをつけてアダムに飛びかかった。ヤツの手下どもが五人くらい前に出て抑えようとしたが、全員ぶっ飛ばしてやった。ついでに自慢のリーゼントも手でグシャグシャにしてやった。こうなると俺は誰の手もつけられなくなるんだ。
 俺は着ていた上着をおもむろに脱ぐと、片手でバサっと空へ向かって放り投げた。いつも持ち歩いている、蛍光イエローに黒いラインが一本サイドに走る最高にクールなユニフォームに身を包んだ俺が橋の下にいた。そう、俺が本気で闘う時は、決まってブルース・リーのトレードマークといえるこのユニフォームに着替えるんだ。
 銅鑼の音が頭の中で鳴り響き、
「アチョー!!」
 という怪鳥音とともに俺は決めポーズを取った。 
 しかし俺を待ち受けていたのは、爆笑の渦だった。
「なんじゃそりゃ!! わははは!!」
「イワン、もしかして俺たちを笑わせにかかってるのか????? ぎゃははは」
 示し合わせたかのように、オールドロック軍団は全員腹を抱えてひいひい笑いやがる。
「イワン……」
 ぶら下がってるサリーが俯く。肩の部分が小刻みに震えているのが、遠目からでも分かった。笑いを堪えているんだ。おかしくってたまらないって時に、彼女がよくやる癖だ。
 置いて帰るぞと一瞬、本気で思ったよ。
「良い気になるなよ、今のうちにせいぜい一生分、笑っておくんだな」
 気を取り直して俺はアダムへ向かって構えた。
「おっと、それはできない約束だぜ。あれを見な」
 橋の上から、サリーをぶら下げたロープをバタフライナイフで切ろうとする革ジャン野郎がいた。
「一歩でもお前が動けば、彼女は底無しのドブ川目掛けて真っ逆さまだ」
「アダム、卑怯すぎるぞ。俺が何をしたっていうんだよ」
「何もしてないのに人気があるからムカつくんだよ、何がパンクスだ」
 アダムのアッパーが俺の顎にヒットした。とっさに受け身をとるが、少しだけクラクラした。
「お前のそのスカしたツラも、これで見納めだ!!」
 すかさずアダムがパンチを乱打する。もはや万事休すか。
 その時、聞き覚えのある声が響いた。
「お前ら、やり口が汚すぎて、ロックンロールの風上にも置けねぇぞ!! 覚悟しろ!!」
 それはいつかの俺が飛び蹴りを食らわせた、小太りな上級生のあいつだった。名前は……何だっけ? 思い出せないな。とにかく、その小太りな上級生にアダムは猛烈なタックルをされて、塊になってゴロゴロと河原を転がった。同時に、ようやく到着したモッズ派とパンクス派による援軍と、小太りの上級生の、懐かしい取り巻きどもが雑草の陰から飛び出してきた。彼らは逃げ惑うオールドロック軍団を多勢に無勢で追いかけた。橋の下は揉みくちゃになった。突拍子もなく始まったらんちき騒ぎに俺は呆然とした。
「イワン、走れ!!」
 そこにジョシュが加わると、彼は何かをサリー目掛けて投げた。あいつが美術の時間に「図鑑で見たアフリカ奥地の原住民が狩りに使っててイカす」とかいう、よく分からない理由で作ってた巨大ブーメランがクルクルと飛翔した。黄色と緑で彩色されたブーメランは器用に彼女を吊すロープを切った。俺は助走をつけて勢いよくジャンプして、落ちてくるサリーをお姫様抱っこで受け止めた。まさにプリンセスのピンチを救う勇敢なナイトって感じで、カッコいいだろ? もう少しタイミングが狂っていたら、二人して仲良くドブ川にドボンだったけどな。俺の超人的なジャンプ力と、瞬発力があってこそなせるワザだったのさ。
 サリーを助けてジョシュに預けると、俺は伸びていたアダムにとどめの一撃を与えるべく、あいつの土手っ腹を蹴飛ばした。不意打ちにうっと呻き声をあげて、崩れたリーゼント頭のアダムは俺を見上げた。
「これでお前も、オールドロック軍団も、終わりだ」
 怒りの鉄拳を下そうとして右手を振り上げた俺の背中に、誰かが抱きついてそれを制止した。
「やめて、イワン。もういいから……」
 泣きじゃくってるサリーがそう訴えた。頭に血が昇った俺は、彼女のすすり泣くか細い声を聞いて、ようやく我に返った。
「分かったよ……」
 バックハグをするサリーの両手にそっと右手を置いて、クールダウンした俺は大人しく従った。
「サリー、君が無事なら、俺はそれで良いんだ」 
 アダムは隙を突いて逃げ出そうとしたけど、ジョシュが投げた巨大ブーメランが旋回してきて彼の脳天を直撃した。今度こそ泡を吹いて気絶したみたいだった。

初期ブルーローゼズ、誕生

青いバラ二十四本目 サリーの話 三

 騒ぎを聞きつけた大人たちが橋の下にわらわらと集まってきて、私たちを保護した。
 あとになって、アダムは私とイワンが付き合ってるんだと勘違いしてた、と白状してくれた。私を人質にしてイワンを脅せば、倒せると思ったらしいの。子供の浅知恵というか、そんなわけないのに、笑っちゃうわね。
 イワンの蛍光イエローなブルース・リー姿はちょっと、いえ、かなり面白かったけど、橋から落ちてくる私を両腕で受け止めてくれた時は、その真剣な表情にドキッとした。
「ナイトが助けにきたよ、お姫様」
 腕の中の私に、イワンはぱちんとウインクして見せた。
「ばか……イワンのばか」
 私は泣きそうになりながらも、笑った。別に、お姫様と呼ばれたから、嬉しかったわけじゃないわよ。ふふふ。本当に、イワンったら、ばかなんだから。
 ジョシュも来てくれて、怖い目にも遭ったけど、本当にこの二人と親友になって良かったと思った。

 首謀者のアダムはもちろんのこと、どういうわけかイワンも「喧嘩両成敗」ということで、一週間くらい自宅謹慎処分になった。部屋から出られない彼の代わりに、私とジョシュは毎日、ノートを持って訪ねた。もちろん授業のノートなんてイワンは興味がなくて「学校で今日あった笑えるニュースについて聞かせてくれ」と私たちにせがんだ。退屈そうではあったけど、ここぞとばかりに筋トレに励む彼に落ち込む様子はかけらもなくて、イワンらしいなと思った。

 謹慎処分が明けると、意外なゲストがイワンの家にやってきた。玄関のドアの前に、髪を降ろしてぺったりしたヘアスタイルのアダムが立ってた。私とジョシュはダイニングルームのドアから、顔をひょこっと出して彼らのやり取りを伺った。
「親父にやられたんだ。笑うなよ」
 ぶすっとした様子で、イワンが笑うのを咎めた。
「すまんかった。謝るよ。音楽に優劣なんてないのにな」
 オールドロック軍団のボスは、ペコっと頭を下げた。
「そりゃそうだよな」
 イワンはえっへん、といった様子でふんぞり返ると、アダムに部屋に上がるように催促した。アダムは私を見ると同じように謝ってくれた。もうしないって誓ってくれたから、彼を許したの。それから私たちは百枚はあるイワンのレコードを片っ端からステレオにかけて、朝まで騒いだ。

 こうして、「パンクス派・モッズ派連合」と「オールドロック軍団」の確執は、雪解けのように消えていった。

 中学もあと少しで卒業を控えた頃。
 私たちの学校では、毎年恒例の行事として、ホールで卒業生による出し物をすることになってた。そう、つまり、「ブルーローゼズ」の初舞台は彼らの母校のイベントだったのよ。うふふ、なんだか微笑ましいエピソードよね。
 ほとんど即席で結成したコピーバンドで、リハーサルをする時間もろくになかったけど、彼らは大いに盛り上げたわ。曲はビートルズとエルヴィス・プレスリー、セックス・ピストルズのカバーで、在校生も、卒業生も、先生たちも関係なく、みんなビートに合わせて踊ってた。私は、写真の授業をきっかけにずっとカメラに興味があって、一眼レフで演奏するブルーローゼズを撮影した。ジョシュが言ってくれたの。
「サリーの撮る写真が好きだ」
 嬉しかったし、自信にもなった。

 おっと、自分の話ばっかりで、ブルーローゼズのメンバー紹介がまだだったわね。改めて紹介するわね。
 ギター、我らが寡黙なアーティスト・ジョシュ。
 ベース、怒らせたら危険な天使の顔を持つ男・イワン。
 ドラムス、オールドロックを愛する札付きのワル・アダム。
 お待ちかねのボーカルは、まさかの小太りな上級生のあいつ! 
 彼の名前は……あれ、何だっけ、忘れちゃったわ。

青いバラ二十五本目 小太りな上級生のあいつの話

 何を隠そう、俺こそが、イギリスを象徴するロックバンド、ブルーローゼズの初代ボーカルだったのさ。

 あの日、ジョシュからの電話で「パンクス派・モッズ派連合」と「オールドロック軍団」による橋の下での抗争を知った俺は、イワンのピンチを救うためにすぐさま取り巻きを集めて駆けつけたんだ。俺はチャンスだと思ったね。これであいつに恩を売れるわけだからな。ははは。
 もちろん、それをネタに揺すったりたかったりなんかして、バンドに加入したわけじゃないぞ。エントリーの締め切りがすぐそこまで迫ってても、なかなか見つからないボーカルをしゃかりきに探し回ってた彼らの方から「ど、どうぞ……良かったら僕らのバンドで歌ってください、パイセン」と誘ってきたんだからな。わはははははは。
 先輩だの後輩だのなんてちっぽけなことだ!!
 誰も俺を止めることはできない!!
 どこにいようと俺は何度だって不死鳥の如く蘇り、お前らの前に舞い戻ってやるぜ!!
 そうだ、ちょうど良い。この機会に、俺の名前を言わせてくれ。俺は決して、ただの「小太りな上級生のあいつ」なんかじゃない。ちゃんとした名前があるんだ。偉大なロックバンド、ブルーローゼズの初代ボーカルを務めた男の名前を、その胸に刻んでいってくれ!!
 いいか、よく聞け。俺の名前は……
 あれ? どこ行くんだ? え? 時間切れ? 嘘だろ、ベタなお約束みたいなこと言って……またかよ、こんなのってないよ。いつも名前を言えないまま終わるんだよなぁ、あーあ。

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