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ブルーローズの花言葉 第六章



元ブルーローゼズのイワン、バラを売る

青いバラ六十六本目 イワンの話 二十一

 ブルーローゼズが事実上の解散を迎えて、もう数年が経つという頃だった。
 大切な親友も、大好きだった恋人も一緒くたに失って、俺はもうほとんど生きる希望をなくしてた。人前に出る気力もすっかりなかったよ。俺はサリーと暮らしていたアパートを引き払い、両親の住む実家に戻った。マンチェスター郊外にあるこの一軒家は、俺が「ブルーローゼズ」の印税で両親と妹のオフィーリアにプレゼントしたものだ。まぁ、ここに俺も身を寄せることになるとは思ってなかったけどな。だから、物置同然となっていた俺専用の部屋にわずかな私物を置くほかなかった。笑っちゃうよな。
 俺は庭師か花屋になろうと思ったんだ。なるべく人工物ではないもの、花や木、土といった自然に触れて、癒されたかった。無機質なグラスウールのスタジオから抜け出して、温もりのある世界へと旅立とうとしたんだ。現実逃避に近かったな。
 ショービジネスの世界からは完全に足を洗おうとした。もう、たくさんだった。そいつは俺から何もかもを奪っていったと思ったからさ。まぁ、それまでに多くの恩恵もあったんだけど、追い詰められている時って、どうしても視野が狭くなるよな……俺は自分がどれだけ恵まれていたかを忘れていたんだ。ポップミュージックのお陰で、たくさんの人たちから愛されていたこともな。

 ちょうど親父が園芸に飽きてくれたお陰で、実家の庭に広いスペースがあって、俺はそこで色とりどりのバラを育てることにした。マンチェスターの街中で、俺はリアカーに摘みたてのバラを載せて、ガラガラと引っ張りながらそれを売ることを始めた。最初は冷やかし目的で買いに来る連中がほとんどだったけど、俺があのブルーローゼズのイワンだって気付いても、心ある人たちはそっとしておいてくれたよ。全然気付かない人たちは大抵は流行り物に疎い老人だった。でも、俺にとってはそういう人たちと接している方が気が楽だったな。彼らは余計なことをいちいち聞いてくることもなかったからさ。
「なぜ解散したの? ジョシュはどこ?」
 とか
「『サリー』ってモデルになった人がいるって本当? あれってイワンの実体験なの?」
 とかな。
 思えば、「ブルーローゼズのフロントマン」という肩書のない、ただの労働者階級出身のイワンとして誰かと会話をしたり、バラを通して交流したりするのは久しぶりだった。ブルーローゼズにいた時だって、文字通り「バラを通して」もっとたくさんのファンと交流してたのにな。ただの花売りのイワンの方が、人との距離がずっと近いんだ。どっちも俺であることに変わりはないのにな……おかしな話さ、全く。

 朝、俺が庭でバラを摘んでいると、ある子供がやってくるんだ。彼は毎日のようにやってきては、柵にもたれかかるようにして俺にこう言った。
「イワン。バラを売る君も素敵だけど、僕たちは歌ってる君の方がずっと好きだよ」
「もう、歌わないのかい?」
 訴えかける寂しげな瞳に射抜かれて、その時だけいたたまれなくなったよ。ちょっとだけ心が揺れたけど、それでも「このまま平凡なマンキュニアンとして静かに暮らす」という俺の意志は変わらなかった。半ば意地になっていたのもあった。こう見えて、意外と頑固だからな。だけど、突っ張りまくった俺の心をガラリと変えちまう事件が起こった。

 ある日、彼がいつものようにやってきたと思ったら、少し様子が違った。ズダズダに破かれたブルーローゼズのTシャツを着ているんだ。驚いてそれはどうしたんだって訊くと、学校でやられたって答えるや否や、シクシクと泣き出した。
「とっくに終わったバンドの何がいいんだ」
 グループのボスみたいなヤツにそう馬鹿にされて、取っ組み合いの喧嘩になったというのが真相だった。嗚咽まじりのか細い声で、ようやっと彼は心の叫びを捻り出した。
「悔しかったんだ」
 久しぶりにマグマの如く血しぶきが吹き上がるんじゃないかと思うくらい頭に来て、気がついたら俺はグループのボスと対峙していたよ。自分が散々コケにしたバンドの元シンガーが血相を変えてやってきただけでも相当に度肝を抜かされただろうに、俺はそいつの生意気そうなソバカス面に人差し指を突きつけて、口調は努めて冷静に、だけど目には力を込めて
「おい、よく見ておけ。これから俺がお前に教えてやるよ。バラは枯れても何度でも返り咲くってことを、な」
 と啖呵を切っていたんだ。
 俺が言い放った言葉の意味が分からなかったようで、グループのボスも、泣いていた彼もしばらくぽかんと口を開けて突っ立っていた。
 
 後日、新聞の見出しに踊った「元ブルーローゼズのイワン、ソロデビュー」の文字を見て、彼らは俺がポップミュージックの世界で完全復活したことを知るのさ。きっと、今度は腰が抜けるほど驚いただろうな。何を隠そう、俺自身が一番驚いているけどな。まぁ、俺は嫌なことがあってもいつまでも根に持たないカラッとした性格だってことだよ。ははは。

悲しみはいつも突然やってくる

青いバラ六十七本目 イワンの話 二十二

 忘れもしない秋の夜だった。ピーターからの電話をとると、サリーが危篤状態にあると告げられた。夜空に信じられないくらい細長く弧を引いた三日月がやたら目についたのを覚えている。いつ思い出しても、自分の耳から友達の声で伝わってくる衝撃と、そのスッと描かれた三日月がフラッシュバックしてくるんだ。電話の受話器もなおざりにして、俺は車のキーを握り締めるとアパートを飛び出した。
 教えられた救急病院の病室へ駆け込むと、暗闇のなかベッドのそばにピーターとエヴァが付き添っているのが目に飛び込んだ。息も絶え絶えになりながら二人へと近寄る。
「イワン……」
 ベッドに突っ伏して泣いていたエヴァが気付いて顔を上げ、涙をいっぱい溜めたモスグリーンの瞳で俺を見据えた。ピーターはそばで彼女の頭をそっと撫で続けていた。
「来てくれたのね……」
 心ばかりの会釈をする。即座に俺の足はガクガクと震えて、その場にへたり込んでしまったんだ。自分でも、情けないほどに目の前の現実が受け入れられなかった……ドラマや映画でしか見たことがない、いろんな色をした管を大量にぶち込まれたサリーが横たわっていた。彼女は身体のほぼ全てを包帯で巻かれていた。
「交通事故だそうだ……」
 ピーターは首を左右に振った。それを聞いたエヴァはわっと声を上げてまた泣き出した。
「だめよ、死んではだめ……もう一度、ブルーローゼズのライブを見るまで死ねないって言ってたじゃない……サリー、死んではだめ。ほら、イワンがいるわ」
 エヴァは再び突っ伏してわんわんと号泣した。俺は前後不覚な気分になって部屋中いっぱいに目が泳いでいた。呼吸が荒くなって涙が出てきた。底なしの無力感がじわじわと俺の全身を蝕んだ。愛する人の危篤状態を見るのは何度かあったけど、大往生ばかりの死に目にしか立ち会ってこなかった自分を少し恨んだよ。大切な人が理不尽すぎる事故で突然にして死の淵に立たされることへの免疫が、俺にはほとんどないんだから。
 
 廊下にある非常灯のささやかな光が、サリーの眠る部屋にそっと差し込むのが分かった。誰かがドアを開けて、ただ嘆くばかりの俺たちを見ている。そいつは数分前の俺と同様に、その場に立ち尽くしているようだった。翳りが支配する静謐な空間に、しばらく人影がただゆらゆらと揺れていた。
「……いい加減、そんなところにいつまでもいないで入ってこいよ」
 涙を拭うことも忘れて振り返り、俺はそいつの顔を見た。逆光のなか、長い前髪に片方が隠されたブルーの瞳を俺の両目が捉えた。俺のかつての親友がそこに立っていた。
「ジョシュ……」
 元恋人が死の淵を彷徨っているさなか、俺はこんな悲痛なかたちで親友だった男との再会を果たした。

青いバラ六十八本目 ジョシュの話 十九

 ベッドに横たわるサリーと、いつか見たラファエル前派の絵に描かれた、歌を口ずさみながら川に流されていく儚げなオフィーリアが重なった。彼女は、この世と向こうの世界の狭間で揺らぎつつあると直感した。

 深夜三時。既に肌寒くなった夜空のもと、サリーが眠る病院の庭に俺とイワンはいた。一つしかないベンチの端と端に腰掛けて、二人してタバコをふかした。それぞれの頭のなかでは、ピーターの言葉を反芻していた。
 イワンと別れた後、サリーは俺の想いにも応えることはできないと二人の前から姿を消した。それでも、友人づてに彼女の消息は小耳に挟んでいた。確か、取材先で知り合った人と結婚していたはずだった。相手は彼女の実直な人柄にふさわしい、派手さはないけど穏やかなタイプの人だと聞いていた。俺はずっと、彼女の幸せな結婚生活が続いているものだと思っていた。だが、残念ながらそうではなかったと知った。サリーの夫は流行りの感染病で亡くなっていた。イワンがソロシンガーとして、俺が画家として、それぞれのキャリアをスタートさせた時期と、彼がこの世を去ったタイミングは奇しくも一致していた。
 両手で顔を隠して泣きじゃくるエヴァの肩を、ピーターはそっと抱いていた。
「君たちが……あんなことになったのはもちろん知ってるよ。だから、来てくれないだろうと思ってた。ありがとう」
 彼は悲痛な面持ちで俺とイワンに礼を言った。これまで、どれほど共通の親友に心配をかけ、俺たち二人に対して特別な配慮を払わせていたのかを痛いほど悟った瞬間でもあった。
 
 言葉を交わす間もなく、吸い終わっては次のタバコをくわえ、それに火をつける。足元に一箱分の吸い殻が散らばった。庭の向こうにこんもりとした森が見え、その上から朝日が夜空をゆっくりと黄色く塗り替えていった。明け方のしんしんとした寒さはピークを迎え、なす術もなく黙って煙を吐くだけの俺たちを容赦無く包み込んでいく。
 俺は目だけを動かして横にいるイワンを盗み見た。あいつは泣き腫らした目でぼんやりと視線を投げていた。知らぬ間に目元に小皺が刻まれ、クマがあることに気がついた。幼なじみを、時間がすっかりくたびれかけた中年男に変えてしまっていた。
 俺のいなかった時間を、イワンはどんな風に過ごしてきたんだろうか。もちろん、ソロシンガーとしての活動は把握していたが、それ以外の彼について、ほとんど交差点ですれ違う赤の他人に等しいくらい知らない。
「なあ」
 不意打ちでイワンに話しかけられて、心臓が口から飛び出そうになった。
「あの時さ……俺がサリーと喧嘩してなかったら、こんなことにはならなかったのかな。どう思う、ジョシュ……」
 一筋の涙がイワンの頬をすうっとつたって流れていく。口にくわえたタバコの煙が、憂いを帯びた彼の横顔を覆う。不覚にも、俺はその様子が物悲しく、とても美しいと思ってしまった。
「イワン……それを言うなら、俺だって……お前とずっとバンドを続けていれば、気持ちを彼女に伝えていなければ、サリーは今もお前のそばで笑っていたかもしれないじゃないか」
 イワンははっとして振り返った。ようやく、俺の顔を正面から見てくれた。彼の鳶色の瞳から堰を切ったかのように涙が止めどなく流れた。堪えきれずに俺も泣いた。俺たちは思わず抱き合っていた。大の大人が二人して夜明けのベンチで声を上げて泣いた。

「やぁ、お二人さん」
 声に驚いて振り向くと、「バッド・ドリーム」の前店長が立っていた。
「朝早くから青春ごっこかい? いいねぇ、僕も混ぜてくれよ」
 彼の右手には、いつものフラスコみたいな変なビンを持っていたが、どうも様子がおかしい。違和感があるんだ。俺たちが十代後半の頃、彼は二十代半ばのはずだった。だけど、十数年ぶりに現れた目の前の彼は、まるで昨日会ったばかりみたいにちっとも老けていないように見えた。
「君たちには、今こそ、僕の力が必要なんじゃないかな」
 店長はそう言って長い髪をかきあげると、フラスコみたいな変なビンをくいっと口につけた。

「バッド・ドリーム」店長の話

青いバラ六十九本目 イワンの話 二十三

 変わった本屋「バッド・ドリーム」の地下には隠し部屋があった。机の上で蛍光グリーンの液体がアルコールランプで煮たてられ、フラスコから妖しい煙をコポコポ立てていた。壁一面を巨大な本棚が覆い尽くし、びっしりと本がささっている。なかには見たこともない文字が背表紙に踊っているものもあった。
 まるで魔法使いの学校を舞台にした映画みたいな光景に、俺とジョシュは我を忘れて首をキョロキョロさせた。店長が「どうぞ」とソファへ座るよう即すと、俺たちは彼に言われた通り腰を下ろした。まだ、目の前にいる若い姿のままの男の真意が飲み込めなくて、居心地が悪かった。次の瞬間、バッド・ドリーム店長から発せられた言葉に俺たちは度肝を抜かされることになる。
「僕は、未来から来たんだ」
 彼の話を要約するとこうだった。
 店長は「トラベラー」と呼ばれる種類の人間だった。彼が住む未来では「時空を飛び越える旅行」はよくあることだそうで、俺たちが暮らすこの時空をなぜ旅先に選んだのかは、
「ブルーローゼズのサイン入りグッズは、僕の未来でも高く売れるんだよね〜。特に使用済みの私物なんかは最高なんだよ」
 と、やってることに対して割とセコい理由をけろっとのたまった。ゲスな笑みを浮かべると、すかさず変なフラスコのビンをくいっと口につける。俺とジョシュは顔を見合わせた。頭の中で、数々のメモリーが蘇る。
「道理で、俺が飲み終わったビールのビンを欲しがるわけだ」
「俺なんか、タバコの吸い殻まで回収されたぜ」
「しかも、『サイン入れてくれ』ってせがまれてさ」
 呆れる俺たちに構わず、店長はテーブルに灰皿をすっと差し出し
「吸うならどうぞ。もちろん後で吸い殻はもらうからね、良いよね?」
 などと言い放つ。手には袋を持ち、吸ったそばから吸い殻を詰め込もうとしている。彼は「さあ、いつでもどうぞ」と言わんばかりに両手で袋を上下に振ってパンっと鳴らした。どこまでも貪欲な男だ。少なからず俺たちは引いた。
 ジョシュがこほんと一つ咳払いし、
「ところで、なぜ店長はお若いままなんですか? 俺よりも年下に見える……」
 と話題を変えようとして質問した。
「これさ」
 店長は手に持ったフラスコのビンを高く挙げる。意味が飲み込めなくて、俺たちの頭上に大きくクエスチョンマークが浮かんだのを察知したのか
「これは妖しいクスリではなくて、若さをキープする魔法の液体なの」
 と言って、がははと笑い飛ばした。
「君たちも、年齢に比べて見た目が若々しいってよく言われるだろ? あれは僕がこの液体を吸わせていたおかげさ。僕に感謝してよね」
 知らぬ間にアンチエイジングをしていたことに、またしても俺とジョシュは度肝を抜かされた。しかしながら、ここまではほんの序章に過ぎなかった。この後、店長は戸惑う俺たちをよそに「この世の真実」を連発し、数えたらキリがないほど俺とジョシュを仰天させるんだ。
「あ、後で写真撮らせて。もちろんサインも入れてね」
 おっかなびっくり続きの俺たちに構わず、店長はポラロイドカメラをパシャパシャと試し撮りしていた。呆れ果てる俺らに構わず、どこまでもマイペースだった。

 前述の通り、店長のように時空を行き来するトラベラーは存在する。ただ、彼が自由に飛び越えられるのは時空だけだそうだ。俺たちの世界では、時空は過去と未来。俺やジョシュ、あるいは店長が生きる世界線のことで、「縦の世界」であること。パラレルワールドは時空を持つ異世界。無数に存在する他の世界線のことで、「横の世界」である、と、本棚にささっていた様々な本を引っ張り出して店長は教えてくれた。いろんな図録を見させられて、俺の脳みそは軽くショートを起こしそうだったが、ジョシュはその手のSFめいた話は強いみたいで
「……本当にそんなことがあるんだ」
 と妙に感心していた。店長の講義はさらに続いた。
 原則として、トラベラーが過去に干渉するのは御法度だという。まぁ、歴史が大きく変わってしまう可能性があるから、それは当然だろう。しかし、そこはゆるくて「バレなきゃOK」なのは暗黙の了解でもある。個人による干渉などたかが知れているし、結局は干渉された相手が決めることなのでその通りになるとは限らない、というなんともフワッとした理由だ。それから、「正義のヒーロー」の存在も教わった。彼らはいろんな時空やパラレルワールドを自由に移動することが可能で、そこへ干渉する人間や、自分の都合の良いように改ざんしようとする悪者を退治するパトローラーだ。公的な存在ではなく有志ではあるが、その日夜の努力に人々から敬意を込めて「正義のヒーロー」と呼ばれている。時空やパラレルワールドに対し、過度な干渉をしたと見なされればパトローラーが全力で止めるが、慢性的な人手不足のため全てに目を行き届かせるには限度があるということだった。
「結構、ゆるいんですね。もっと厳しいのかと思った」
 俺はついちょっと笑ってしまった。ずっと緊張していたのが少しほぐれたせいだ。
「そうだね。でもね、そんなゆるやかなルールのおかげで、イワンはこの世に生まれたとも言えるんだよ」
「どういうこと?」
 変なフラスコみたいなビンから口を離すと、店長は俺の瞳をじっと見つめて、語り始めた。
「イワン。君のお祖父さんはパラレルワールドのトラベラーだったんだ」
 テーブルから一冊の本がずるっと落ちて、俺の足元に広がった。そこには若い頃の俺のじいちゃんと、ばあちゃんが写っていた。

青いバラ七十本目 ジョシュの話 二十

 イワンの亡くなったお祖父さんは、パラレルワールドのトラベラーだった。
 彼は俺たちとは違う世界に暮らす人で、恋人だったイワンのお祖母さんが亡くなってしまい、どうしても彼女にもう一度会いたくて、この世界にやってきた。
 店長は床に落ちた本を拾い上げ、呆然とする俺たち二人にそれの背表紙を見せた。キリル文字とハングル文字が入り混じったような、どう頑張っても読めない文字が書かれていた。
「ここには『思い出のアルバム』と書かれているんだ。君のお祖父さんがパラレルワールドから持ってきたものだよ」
「ちょっと待ってくれよ」
 イワンはソファから立ち上がると、部屋中をぐるぐる歩き回った。
「だって、信じられるかよ。俺のじいちゃんが別のパラレルワールドの住人? そこで俺のばあちゃんが死んだって? そんなバカな。じゃあ、俺が知ってるばあちゃんは誰? というか、どっちのばあちゃんなんだ?」
 イワンは頭を掻き毟りながら唸った。脳内で混乱を極めている様子だった。
「そうか……」
 俺は子供の頃に見た、ある映画を思い出した。主人公は事故で死んでしまった恋人を救うために、何度もタイムリープを繰り返す。しかし、恋人が生き返るとか、命を救われるとかいうことはなく、分岐点からたくさんの「異世界」が枝分かれするだけ、というオチに絶望を覚えた。

 もし、世界が一つだけではなかったとしたら? 
 別の可能性が無数に枝分かれしていたら? 
 映画とは違い、たくさんの「異世界」のどれかに大好きな人が変わらず暮らしていたら? 
 きっと俺も、イワンのお祖父さんと同じことをするだろう。

「そうなんだよ」
 俺は店長の言葉に我に返った。
「ジョシュ。君が考えている通りだ。異世界……俺たちは一般的にパラレルワールドと呼んでるけど。こことはちょっと違った世界がたくさんあるんだよ」
「例えば」
 と言って店長はビートルズの写真を見せた。その写真に違和感を覚えた。紛れもなくビートルズではあるが、とてもよく似たそっくりさんを見せられた気分になった。
「この世界では、イワンのお祖父さんとビートルズは、イワンたちと五十歳以上離れている。しかし、あっちの世界では二十歳くらいしか違わないんだ」
 驚きに慣れ過ぎたせいか、俺はもはや何を言われても「そうなんだ」としか思わなくなった。イワンは「ええっ!!」とコメディアンも顔負けなくらい大げさに驚いていたけどね。まぁ、俺があいつの立場だったら、これまでのとんでもない話に卒倒するだろうな。
「まぁ、これはニューヨークのブロードウェイでトリビュートバンドをしている、ビートルズそっくりさんの写真だけどね」
「えっ」
「冗談だよ」
 俺とイワンは絶句するしかなかった。それを見て店長はクククと笑った。しょうもないジョークで驚いてしまった自分にちょっと腹が立った。まだまだ彼のペースには追いつけないようだ。
「それはさておき、いくつものパラレルワールドにビートルズがいる。同様に、イワンも、ジョシュも、僕も、他のパラレルワールドでそれぞれ別の人生を送っているんだ。少なくとも十二人はいるといわれている」
 しばらくの沈黙を経て、イワンは口を開いた。
「店長、あんたの話がもし本当なら、俺のじいちゃんは未来を変えたってこと?」
「まぁ、厳密には違うけど。異なるパラレルワールドの人だからね。でも、お祖母さんからしたらそういうことになるかな」
「じゃあ、じいちゃんには何かしらのペナルティーがあったの?」
「うーんと、これはあくまで結果論だけど、運良く正義のヒーロー連中からは見逃されたようだね」
「それと」
「元いたはずの君のお祖父さんはどうしたかって? 一つの世界に同じ人は二人といられないから、おおかたは違うパラレルワールドに弾き飛ばされたんだろうね」
「なんで俺の言おうとしたことが分かるんだよ、あんたエスパーか」
「君のその綺麗な顔に書いてあるから。簡単だよ」
「どうして店長は俺のじいちゃんのことを知ってるの?」
「だって、知り合いだもの。もっと言うと、かつて君の前に現れて、『お前はシンガーになれ』と助言したジーン・サンレノ。彼の正体もイワンのお祖父さんなんだよ」
 イワンは後ろにのけぞって、そのままソファの背もたれから落ちるようにひっくり返った。バッターン!! と派手な音がして振動で机の上のフラスコがガタガタ揺れた。
「おい、大丈夫か」
 俺に抱えられながらイワンは震え出した。
「嘘だろ、ありえない。だって、どう見てもジーンだった……いや待てよ」
 店長は脚を組みなおし、頬杖をつきながらまんざらでもないといった様子で笑った。
「僕の特殊メイクのテクニックも、なかなか捨てたもんじゃないね。彼は時空を超えて、君に会いに来たんだ。わざわざ変装までしてね」
「ちくしょう……」
 俺には彼らの話してることがさっぱり見えなかったけど、イワンは悔しそうに顔を手で覆った。
「ま、それもこれも、全ての魔法と不思議を愛するイギリスによくある話だね。彼らイギリス人は理解があるから、僕らみたいな人間には助かるよ」
 店長はフラスコみたいな変なビンにライターで火をつけて吸い込んだ。イワンはずっと顔を手で覆ったままでいる。
「じいちゃん、いろんな人間の人生を変えすぎだろ」 
「そういう人なんだよ。でも、良かっただろ? 彼は君のことをずっと心配してたぜ。『俺のせいで孫のイワンがポップミュージックと親友から離れてしまった』って後悔してた」
「じいちゃんは生きてるのか?」
「いや、亡くなってるよ。彼には未来が視えるんだ。僕なんかよりすごい能力を持っていたよ」
「もう訳わかんねぇ」
 いよいよ俺も頭が痛くなってきた。
「そう、イワンのお祖父さんはすごい人だった……だけど、彼も神ではないから人間の生死だけはどうにもできない」
 店長はため息をついた。
「死んだ人を生き返らせることも、瀕死の人間をこちらへ呼び戻すことも、誰にもできない」 
 それを聞いて、ついにイワンがキレてしまった。ヤツは立ち上がると拳で壁を思いっきり殴った。ゴッという音を立ててレンガにヒビが入った。
「じゃあ、あんた、なんで俺たちに近づいたんだ。こんなヘンテコな場所に連れてきて、頭がおかしくなりそうな正気じゃない思い出話を聞かせようとでも? あんた、言ったよな? 『僕の力が必要なんじゃないかな』って。俺はてっきり、サリーを救う方法があるんだと思った。あれは口から出まかせだったってことかい? だとしたら」
 イワンは脚を高く上げると、店長の前にあるテーブル目掛けて踵をひと思いに振り落とした。木製のテーブルは衝撃で真っ二つになった。
「承知しないぜ。すぐにでもそのテーブルと同じ姿にしてやる」
 これはまずいことになった、と慌てる俺とは対照的に、店長は醒めた目で自分を真っ二つにすると宣告した男を見ている。
「あるよ。別の方法ならね」
 店長は懐から袋を取り出すと、中身を手のひらに載せた。青くて、奇妙な印象がする植物の種のようなものだった。
「これで〈ブルーローゼズが解散しない、みんながバラバラにならない世界〉にすればいいんだよ。そうすればサリーは助かる」
 それが君たちの望みだろ? と店長は笑った。

青いバラ七十一本目 ジョシュの話 二十一

 寝息を立てるローズと子供たちを起こさないために、俺はできるだけ音を立てないようにリュックへ使えそうなものを詰め込んだ。自宅の外で待つ車に乗り込んで、気がついたら俺とイワンは虹色の扉の前に立っていた。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
「チャンスは一回だけだ。くれぐれも、気をつけて。彼らに見つからないよう幸運を祈ってるよ」
 少し離れたところから店長が右腕を上げて、人差し指と中指をクロスさせて振って見せた。
 

「これで〈ブルーローゼズが解散しない、みんながバラバラにならない世界〉にすればいいんだよ。そうすればサリーは助かる」
 店長は袋を俺に渡した。
「これは?」
「魔法のバラの種。君たちにぴったりのロマンチックなアイテムだろ」
 店長は俺たちにある「作戦」を伝授した。
 全ての世界線を変えることは厳しいが、それらをコントロールする「時の部屋」に行き、管理システムのプログラムをこのバラの種で書き換える。そうすれば、理論上、俺たちのこの世界も、他の俺たちがそれぞれの人生を送るパラレルワールドも、過去から遡ってそっくり意のままにできるという。
「このバラの種をそれぞれの世界線に撒けば、ブルーローゼズのサクセスストーリーを組み込んだ青いバラが咲き、過去を書き換える。君たちは、ブルーローゼズの音楽で今度こそ世界を征服できる、というわけさ」
 店長の目の奥が妖しく光った。
「でも、もし正義のヒーローに見つかってしまったら」
 そう言いかけて俺は口をつぐんだ。
「……君たちの運に賭けるしかないね」
 珍しく深刻な面持ちで、店長は手指を顔の前で交差した。
「これって、犯罪になるんじゃ」
「大丈夫。この世界では、世界線とか時空とか、ましてやパラレルワールドなんてまだ存在することすら知られてないし、もし万が一、書き換えに失敗して彼らに捕まっても大した罪にはならないよ」
「俺はやるぜ」
 壁にもたれながら俺と店長の話を聞いていたイワンが口火を切った。
「たとえ犯罪者になったとしても、サリーが無事であるなら、俺は何だってやる」
 さも当たり前であるかのようにイワンはそう言うと、首を左右に振ってコキコキと鳴らした。迷いのかけらもない、信念を帯びた眼差しだった。

「ジョシュ」
 横にいる鳶色の瞳の持ち主が俺の名を呼ぶ。
「お前には家族がいるんだから、こんな危ない橋を渡らなくても良いんだぜ。俺一人でやっても」
「イワン」
 俺はイワンの顔を覗き込んだ。
「言ったろ? 俺たちは親友だって。親友というのは、運命共同体なんだよ。それに俺たちは、一度は世界の頂点に立ったバンド・ブルーローゼズなんだから。不可能なんてないさ」
 イワンは目を細くして笑った。
「ああ、そうだな。忘れかけてたよ……」
 俺たちはお互いに笑うと、虹色の扉に手をかけて同時に押した。扉の向こうには、一生の記憶に残るほどに長くてシリアスな勝負が、俺たちを待っていたんだ。

世界線をかける少女の話

青いバラ七十二本目 世界線をかける少女の話

「いよいよだな」
「ああ」
「これで俺たちが世界を支配できる。拡散する種、名付けて『ローゼズ作戦』だ!」
 ビッグ・ベンや東京タワーなどを映したモニターがずらっと並ぶ前で、二人の男は勝利を確信して笑った。

 
 ベッドに腰掛け、丸めた「不合格通知」を再び広げて私は涙ぐんだ。何度見ても、本命の私立聖女子中学校に落ちたという結果は変わらない。三年間、週五日、夕方六時から終電まで続くスパルタ塾に通い、努力を重ねて来たのに。
「チコ、入るよ」
 自室のドアが開いて、隣の家に住む幼なじみが入ってきた。
「まだ泣いてるのかよ」
 私は慌てて涙を拭った。幼なじみは空いてるスペースに腰掛ける。
「いい加減、元気出せよ。あれだけ頑張って勉強したんだから残念だったろうけど。俺は嬉しいよ。春から同じ中学に通えるんだからさ」
 憧れの黒と白のブレザーに赤いタータンチェックのスカートの制服が着られないなんて。私の頭は着損ねた制服のことばかりで、幼なじみの慰めが耳に入ってこない。
「と、とにかく、元気出せよ。これ、俺からの入学祝いだ」
 彼が差し出したのは、可愛い猫がプリントされた二つ折りの鏡だった。
「じゃあな、また中学でもよろしくな」
 幼なじみはそう言って出ていった。私は鏡で泣きはらした自分のまぶたをまじまじと見つめると「ぶっさ」と吐き捨て、もらったばかりのプレゼントをスカートのポケットに入れた。すると、目の前の空間が突然ぐにゃりと曲がった。

 気がついたら桜の咲く私立聖女子中学校の校門前に立っていて、可愛いと評判のセーラー服を着ていた。
「嘘でしょ。私、もしかしてここの生徒なの? やったぁ」
 私は跳び上がった。きっと不合格通知は何かの間違いで、自分はきちんと憧れの第一志望校に合格していたのだ。夢にまで見た新しい生活が始まる。期待でウキウキしながら校門をくぐり、私は一年A組と書かれた自分のクラスのドアを開けた。
 しかし、夢心地な気分をいっぺんに醒めさせる出来事が待っていた。ドアの上から大量の冷水が落ちてきて、無情にも私をさめざめと濡らした。足元にバケツが転がった。
「何あれ最低〜」
 クラスじゅうの女生徒が大爆笑した。
「だっさ。成績トップで入学したからって、調子に乗ってんじゃないわよ」
「本当よね。良い気味」
「ちゃんと片付けなよ〜」
 リーダー格の女子と、周りの取り巻きが頭から爪先までずぶ濡れの私を見ながらクスクス笑う。
 いたたまれない気持ちになって、私は教室から飛び出した。遊びたいのも我慢して勉強した結果、自分を待ち受けていたのが、嫉妬による陰湿ないじめ。理想と現実の落差に、私はすっかり虚しくなった。体操着に着替えようとロッカーを開けると、またしても空間がぐにゃりと歪んで中に吸い込まれてしまった。

 今度は薄暗いところへ飛ばされたようだった。放り出された時に思い切り尻もちをついてしまって「うっ」とうめいた。数え切れないくらいのモニターがびっしりと埋め尽くし、二人の男が並んで立っていた。
「なんだ、こいつは」
 派手な蛍光ピンク色のアディダスのジャージ姿で、ゴーグルみたいなサングラスをかけた男は、驚いた様子で突然現れたセーラー服姿の私を見た。
「落ち着け、イワン。さっきシステムをいじくり回した時に時空の誤作動で飛ばされてきたんだろう。構うな。それより時間がない」
 背が高く前髪で片目の隠れた男がクールに制止し、作業に集中するように求めた。
「ああ、そうだな、ジョシュ」
 イワンと呼ばれた男が向き直ると、ニヤッと笑って頷いてみせた。
「俺たちの計画は誰にも邪魔されやしないさ、そうだろ」
「ああ、俺たちの『ローゼズ作戦』は誰にも止められやしない。あっはっは」
「残念。あたしに止められないものなんてないのよね」
 声がする方へ全員が振り向くと、迷彩柄のタイトパンツ姿で、高校生くらいの女の子が立っていた。
「誰だお前は」
「また新キャラが出た」
 ジョシュがため息をついた。
「あたしは正義のヒーローよ」
 女の子は右手で腰まである髪をサラッとなびかせた。
「そこまでよ。覚悟しなさい」
 決め台詞の後、彼女は気合いの声とともに飛びかかった。
「面白い。俺が相手だ。ジョシュ、続きを頼むぞ」
 蛍光ピンクジャージのイワンがグラサンを外して遠くへ投げると、指をバキバキと鳴らして正義のヒーローからの攻撃を待ち受ける。

 ヘビに睨まれたカエルみたいに、一連のやり取りをただ見ていた私はようやく我に帰った。さっきまで中学校の教室にいて、同級生からバケツで水をかけられたのが嘘みたいに感じていた。混乱する頭を抱えて、状況を冷静に分析することに努めた。まず、体操着に着替えるためにロッカーを開けた途端に吸い込まれ、気がついたらここにいた。よく分からないけど、男二人は見るからに怪しそうだし、きっと彼らのせいで自分はここへ飛んでしまったのだろう。目の前に繰り広げられている出来事が夢じゃないことは、乾き切っていないセーラー服が教えてくれた。私は、にわかには信じがたい現実を受け入れることにした。なんとなくだけど、怪しい外国人二人が決行しようとしている作戦とやらを止めないといけないと本能的に悟った。正義のヒーローとともに彼らを止めなければ、世界の歴史が劇的に変わってしまうと思った。
 おそらく、たくさんのモニターに映るのはそれぞれ異なる世界線だ。現に、その一つにはさっきまで自分がいた私立聖女子中学校が映っている。モニターの下にあるのがそれらを管理するシステムだろう。イワンは正義のヒーローとのバトル真っ最中だが、相方のジョシュは来るべき時に備えて手を動かし続けている。彼は大きな丸い円錐状の部品がついた機械をリュックから取り出すと、システムに嵌め込もうとした。あれで何かをするつもりだろう。あの機械を壊さないといけない。
 いても立ってもいられなくなった私はジョシュに体当たりした。ジョシュは長い脚で踏ん張って衝撃に耐え、逆に私を押さえつけてしまった。私の窮地に正義のヒーローが怯んだ隙を、イワンは見逃さなかった。彼の鋭い目が怪しく光ると、一撃で気を失うツボにクリーンヒットをお見舞いした。
「悪いね。俺は空手の有段者なのだ」
 とイワンはいやらしい笑みを浮かべた。

「いよいよだな」
「ああ」
「これで俺たちが世界を支配できる。拡散する種、名付けて『ローゼズ作戦』だ!」
 ビッグ・ベンや東京タワーなどを映したモニターがずらっと並ぶ前で、イワンとジョシュは勝利を確信して笑った。私と正義のヒーローはロープでぐるぐる巻きにされ、くくり付けられた柱から冷めた視線を送った。
「ごめんなさい。余計なことをして、あなたの足を引っ張ってしまった」
 私はしゅんとして正義のヒーローに謝まった。
「大丈夫。まだ終わってないわ」
 気絶したフリをしていた正義のヒーローは、小声でそう言うとぱちんとウインクしてみせた。後ろ手に縛られた手で、お尻のポケットに隠し持っていた小型ナイフを取り出す。
「じっとしてて」
 彼女は私に目配せした。
 イワンとジョシュは私たちの異変に気づく様子もなく、頼まれてもいないのにここに至るまでの道のりをとうとうと語り始めた。
「俺たちのバンド・ブルーローゼズはまさに黄金期だった。解散さえしなければ、今頃は世界一のバンドになっていたはずだ」
 堪えきれずイワンは目に涙を浮かべた。ジョシュが青い種を片手に続ける。
「このバラの種をそれぞれの世界線に撒けば、バンドのサクセスストーリーを組み込んだ青いバラが咲き、過去を書き換える。俺たちは、俺たちの音楽で今度こそ世界を征服できる」
「もう二度と解散しなくて済む!」
「俺たちこそが、世界のトップ・オブ・ザ・トップだ!」
「再び返り咲いてやる、バラだけにな」
 イワンとジョシュは揃って高笑いをした。

 続け様にイワンはぽつりと続けた。
「今度こそ、サリーを傷つけたりなんかしない。俺たちは、ずっと一緒だ」
 ジョシュは黙ってそれに頷いた。

「盛り上がってるところ悪いけど、ショーはお開きよ」
 間髪入れずに正義のヒーローが飛び蹴りをかました。
「悪者が自分語りをしている隙に脱出する。ヒーローもののお約束ね」
 攻撃しながらそう解説する正義のヒーローの余裕さに、私は妙に感心した。
 不意打ちに慌てたジョシュは、エレキギターを改造したレーザー銃で迎撃する。彼女は軽々とかわし続けるが、このままでは埒が明かない。なんとかしないとと焦って私がスカートのポケットを探ると、幼なじみにもらった鏡の感触があった。
「伏せて!」
 正義のヒーローが身を低めると、ジョシュが放ったレーザー光線が私目掛けて一直線に駆け抜ける。鏡で受け止めると光は真っ直ぐに跳ね返り、イワンとジョシュがもろに食らってエレキギターごと吹っ飛んだ。彼らは自分たちが作り上げた機械にぶち当たってそれを壊してしまった。
「反射の法則よ。学校で習わなかった?」
 鏡にふっと息を吹きかけると、私は決まったとばかりに捨て台詞を吐いた。強い光を浴びたせいか、バラの種が一気に芽吹いてイワンとジョシュをトゲのあるツタでぐるぐる巻きにした。
「うわーやめろ、痛い」
 咲き誇る青いバラの隙間から彼らの悲鳴が聞こえるのだった。

 ローゼズ作戦は二人の少女によって失敗に終わった。
 私と正義のヒーローは、イワンとジョシュを乗せた護送車を見送った。しばらく沈黙が流れた後、気がつくと、私の目から大粒の涙がこぼれていた。
「なんか、信じて頑張ってきた先の未来が、期待していたものと違ったみたいで……なんだかもう、どうしていいか分からなくなっちゃって。私、これからどうすればいいの。何を信じて頑張ればいいの」
 非日常的な体験による緊張感から解放され、つい本音がもれてしまった。正義のヒーローは泣きじゃくる私の小さな肩をそっと抱いた。
「チコ、あなたはとても勇敢だったわ。その賢さであたしと、世界を救った。もっと自分に自信を持ちなさい。それに、たとえ期待していた未来じゃなかったとしても、幸せはいつもあなたの心が決めるのよ」
 彼女の言葉に涙の雨はますます激しく頬をつたうが、やがて落ち着きを取り戻していった。
「さ、元の世界線に帰りましょう。送ってあげる、この時間操作マシーンでね」
 私たちはゆっくりと過去へ向かって歩き始めた。

 表参道ヒルズの前で、正義のヒーローは可愛い猫がプリントされた二つ折りの鏡をポケットから取り出して眺めた。
「あの時、割れちゃったのよね」
「チコ、ごめん。追試で遅くなった。高校の数学がこんなに難しいなんて、うわぁああ」
 よほど急いでいたのか、足をつんのめって思いっきりダイブしてきた自分の幼なじみをお姫様抱っこで受け止めた。
「ありがとう。世界はもう、救った?」
「ええ。あんたがくれた鏡でね」
 キョトンとする幼なじみを、私は微笑みながら見つめていた。

「なぁ、ジョシュ。今更だけど、こんなことしなくても、もっとお互いに歩み寄って話し合っていれば、やり直せたんじゃないかな」
「ああ、そうだな。まだ間に合うさ。時間はたっぷりあるんだし……ムショの中でな」
 護送車の中で、イワンとジョシュはようやく大切なものに気がついた。だけど、それには少し時間がかかり過ぎたようだった。

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