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『MIYAMA #2 黒木』

 深山市の朝は、地方都市周辺部に特有の懐かしい静けさに包まれている。その一角にあるスーパーマーケットでは、店長の黒木が早朝から店内の準備をしていた。彼の動きは手際良く、まるで何年も同じ動作を繰り返してきたかのように見える。商品の整理、賞味期限の確認、そして開店前の清掃。これらすべてが、彼の日々のルーティンとなっていた。
 
 しかし、この平穏な日常の中にも、黒木の心の中には常に不安があった。それは、彼の表情や仕草に微妙に現れていた。例えば、従業員が質問をすると、黒木は答える前に一瞬疑わしげな目を向ける癖があった。その目は、相手を計るようで、どこか陰険さを感じさせるのだが、彼がこの人となりには、明らかに過去に原因があるように思えた。
 
 従業員たちもまた、黒木に対して一定の距離を保っていた。彼らは黒木の指示には従うが、黒木が見えなくなると小さな声で話し始める。その会話には、黒木への不満や、彼の性格に対する不安がちらほらと見え隠れする。
 
「あの人、いつも何を考えてるんじゃろうね」

「うん、怖い時があるけん、あんまり話かけとうないわ」
 
 このような雰囲気の中で、黒木はますます自分の世界に閉じこもりがちになり、他人との距離を置くようになっていったのだが、それは宗春の存在が大きく影響している。宗春は深山市の一大企業である三条グループの社長であり、黒木の過去を知る唯一の人物であった。彼の存在は、黒木にとって常に重圧となっている。
 
 宗春の存在は、黒木にとって、ある種の牢獄のようなものだった。彼は三条グループの社長として、町に経済的な影響力を持ちながら、深山市行政にもある種の不穏な影響力を持っていた。宗春と黒木はかっては大学のボート部の先輩と後輩の間柄であったが、しかし、あの事故以来、二人の関係は暗い糸で結ばれた束縛へと変わっていった。



 スーパーマーケットの静かな朝、黒木は新しい納品の在庫をチェックしながら、ふとした瞬間に遠くを見つめる。その視線の先には何もないが、彼の心は過去のあの日に引き戻されていた。湖上に漂うボート、叫び声、そして水面に消える影。警察はその事故を一連の調査の結果不慮の事故として処理したが、唯一、宗春だけはその日に何が起きたを目撃していたのだ。
 
 黒木は事故の数日後、宗春に呼び出された。大学の漕艇倉庫の中で、二人は向かい合った。宗春の目は冷ややかで、何かを突き詰めるような鋭さがあった。黒木は彼の視線を避けようとしたができなかった。宗春の声は静かだが、そのトーンには威圧的な支配が感じられた。
 
「お前、あの日のことを全部覚えとるか?」宗春の問いかけに、黒木の心臓は跳ね上がった。彼は何も答えられなかった。宗春は続けた。「おれはすべて見ていたんじゃ。お前が何をして、何をしなかったか。お前の表情の動きもぜんぶじゃ」
 
 黒木の脳裏には、あの瞬間が鮮明に蘇る。記憶の中で湖に潜り続け、息が続かなくなって、パニックになり、水面に顔を出した時、宗春が目の前にいた。黒木は宗春の目に映る自分の姿に恐怖を感じた。なぜならその恐怖のもとにある殺意は自分から出ているものであり、黒木は宗春を殺そうと考えた。
 
 宗春は黒木の表情の変化を見逃さなかった。彼は黒木に近づき、低い声で囁いた。「お前おれを殺そうと思っとるじゃろ。だが、それは間違っとるぞ。お前の未来はおれが買ってやる」
 
 黒木は宗春を殺すことを諦めた。彼にはそれができる勇気も、力もなかった。宗春は黒木を自分の意のままに操ることができると確信した。それ以来、黒木は宗春の影に怯えて過ごすことになる。

 



 毎日の生活のふとした拍子に、黒木はあの出来事を思い出す。そして、自分がどれだけ宗春に支配されているか痛感する。彼の日々は、宗春の存在によって方向付けられ、宗春によって形作られていくのだ。
 
 そんな黒木の元に、井原が現れた。井原は彼女が中学校に通っていた頃に、同じ町の大学のボート部での事故で学生が亡くなったと聞き、ショックを受けた。というのも彼女が育った町は近畿地方の海に面した町で、大学以外は何もない町である。そんな静かな町で学生が亡くなり、また一時的にせよ同じボート部の学生に容疑がかけられるような事故が起これば、真実の是非を問わずにさまざまな噂がたつ。当時中学生だった井原もその噂に熱心に耳を傾けたひとりであった。
 
 井原は高校大学と進学するかたわらあの事故の真相を知りたい一心で、事故関係者のその後の動向をインターネットで調べていた。その過程で彼女は黒木は岡山県北部の深山市にいることを探し出し、また職場は三条グループで会社の社長は三条宗春だということを知る。宗春と黒木はボート部の先輩と後輩の間柄であることも彼女はネットからの情報で知ることになる。
 
 井原は、大学を卒業し、岡山市に本社を置く新聞社に就職した。彼女はボート部の事故が自身にもたらした衝撃を、またそのショックの根幹にあるのは、当時学生だった黒木が同じ部活仲間であった友人を殺害したかもしれないと容疑をかけられたことであり、その真相を追い求めるために、新聞記者という職を選んだのだ。
 



 朝の深山市は、まるで古い写真のように、色あせた静けさに包まれている。街の一角で、スーパーマーケットの店長、黒木が静かに仕事をしているのを井原は遠くから眺めていた。彼女の目的は一つ、大学のボート部で起きたあの事故の真実を探ることだった。しかし、黒木はその取材に対し一貫して心を閉ざし続けていた。
 
 井原は改めて黒木に接触を試みた。「黒木さん、お忙しいところすみません。少しのお時間をいただけないでしょうか」
 
 黒木は僅かに顔を上げ、深いため息をついた。「もう何度も言っとるが、私は何も話さんよ。仕事に戻るけえね」
 
 井原は、朝露が光る公園のベンチで手帳を開きながら、また取材が失敗したことを綴る。彼女のペンが紙に触れる音が、静かな朝の空気を切り裂く。
 
 「また拒否された…いったいどうすれば黒木から話がきけるのか」彼女はつぶやき、ため息をついた。取材を断られるたびに、井原の心には小さな裂け目が増えていく。しかし、彼女の真実への情熱は挫折で折れるものではなかった。黒木への取材が無理ならば、深山市住人への取材かさねて、黒木の人物像を浮かび上がらせようと試みたのだ。
 
 「黒木さんか? いつも店の中でせわしなく動いとるね。こっちが挨拶しても、なかなか目を合わせてくれんしねえ」
 
 「黒木さんは本当に一生懸命働いているわ。でもあの人はいつも寂しそうじゃね。宗春さんとどんな関係にあるのか知らんけど、大変そうじゃね」
 
「店長の黒木さん、いつ見ても忙しそうじゃね。あの人、三条グループのために色々と背負い込んでるって噂じゃし」

「三条さんねえ、あの人がこの町を動かしてると言ってもおかしくないわねえ」
  
「黒木さんにはちょっと同情してしまうわ。あれだけ働いて、宗春さんの期待に応えようとしてるけど、本当にそれで幸せかなあ? たまに飲み屋でみかけるけど、あんまりいい飲み方じゃないねえ 」
 
 取材を重ねるうちに、井原は三条グループが市民の生活にどれだけ深く関わっているかを知る。多くの人が宗春を警戒し、同時に彼の経済的影響力に依存している現実。黒木への同情と三条グループへの忖度がアンビバレントに同居していることが、深山市住人への取材を通じて、井原にはなんとなく感じられてきた。
 
 井原の取材は、深山市の表層に隠された住人たちの希望と絶望、そしておそらくは三条グループの本当の姿を浮かび上がらせることになるだろう。それは、この町の複雑な心象風景を照らし出す、一筋の光となるのかもしれない。彼女はその光を追い求め、日々の取材を続けていこうとする。

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