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『MIYAMA #5 虎然』

ある日の早朝、霧が静かに街を覆う中、山熊組の若頭である李虎然は、思いがけず黒木からの電話を受け、その内容に心を乱されていた。黒木の声は冷静を装っていたが、言葉の端々からは緊迫した空気が滲み出ていた。会話の内容は些細なものだったが、黒木の言葉には、間もなく彼に仕事を依頼するかもしれないという、不穏なほのめかしが含まれていた。

虎然は、その依頼が沈倫に関わるものであり、おそらくは彼を排除することを目的としているに違いないと察した。というのも前々から黒木は沈倫を目の敵にしているのは裏社会では知られた話で、つい先日も沈倫は何者かに襲われたが、あれはきっと黒木に仕業に違いない。山熊組にとって三条グループは表には出てこないが、重要なビジネスパートナーであることには違いなく、黒木の言葉を軽視するわけにはいかない。

しかしいっぽうで、虎然は沈倫との間に深くて長い関係を持っていた。二人はともに中国系日本人で、県下のコミュニティで幼い頃からの付き合いがあった。血のつながりにも劣らない強い絆で結ばれていた二人だが、虎然は黒木からの電話を受け、友人と組織の狭間で深い葛藤に陥っていた。

黒木の言葉は虎然にとって明確なサインだった。沈倫が黒木にとっては邪魔な存在で、取り除きたい意志があること。そして虎然は、黒木が自分にその役割を期待していることを察していた。この静かな街で、そういった暗い仕事が行われること自体は珍しいことではなかったが、対象が沈倫であるとなると話は変わってくる。沈倫は、幼い頃からの友人であり、虎然の人生において重要な存在だった。
 
「沈倫よ、お前はいつからそんなに面倒に巻き込まれたんじゃ?」虎然はひとりごちた。声にもならないその言葉は霧の中に溶け込んでいった。街が目覚めるにつれて、彼の心の霧も晴れていくことはない。かえって、この組織の冷酷さと彼の情の深さが、対照的に彼を苛んでいった。
 
山熊組として、彼は三条グループとの関係をどう保つか、暴対法が施行されて以降は、組としての収入に制限が入ったため、三条グループと良好な関係を維持するのは山熊組の存続に関わってくる。三条グループは表社会では光り輝く存在だが、裏では山熊組がその支えとなっている。二山市に拠点を置く山熊組は、地方都市の暗部で、無言の威圧を持ち続けてきた。本来であれば、黒木からの依頼を断ることはありえないが、相手が沈倫となると話は変わってくる。虎然と沈淪は中国系日本人としての共同体で育ち、彼らは強固な絆で結ばれていた。
 
「沈倫、俺たちは子供の頃からの付き合いじゃ。それがどうして今になって、俺たちのじゃまをするんじゃ」虎然は、冷え切った手を握りしめ、その葛藤に顔を歪めた。
 
窓から差し込む薄暗い光が虎然の顔に影を作り、彼の内なる闘いを照らし出していた。彼は沈倫との過去を振り返り、共に過ごした日々、共に立ち向かった困難、共に築いた夢を思い出した。そうした記憶が今、彼の前に立ちはだかる最大の試練となっていた。
 
黒木が望む道を選べば、虎然は自らの魂を抉り取ることになる。沈倫を手にかけることは、彼の心にある正義と誇りを全て奪い去るだろう。だが、拒めば組織の総意に反し、山熊組の未来に暗雲をもたらすことになる。虎然はその深いジレンマの中で、友情と義理、情と理、それら全てが彼を締め付ける。
 
「沈倫、お前とのこれからを、どう切り開けばいいんじゃ?」彼のひとり言は、誰にも聞こえない。けれども、その言葉は二山市の霧の中で、何回も繰り返され、しかし結局虚空に消えていった。沈倫との友情、組への忠誠、そして彼自身の生きざま。それらが交錯する中で、虎然は深く苦悩しながらも、決断を迫られていた。
 



ある日の晩に黒木は二山市内のひっそりとしたバーで虎然と会っていた。場所は虎然がよく通う、普段の喧騒からは隔絶された空間である。黒木と虎然の間に流れる空気は、見た目の落ち着きとは裏腹に、緊張で張り詰めていた。
 
「虎然さん、お前は沈倫のことをどう思っとるんじゃ?」黒木が口火を切る。彼の声は落ち着いていたが、その目は冷たく、計算されたものだった。
李虎然は少し沈黙した後、ゆっくりと言葉を選びながら答えた。「沈倫は…やつは古い友人じゃな。じゃが、なぜそんなことを聞くんか?」黒木の表情は読み取りづらい。心の中では、友情と現実の間で葛藤が渦巻いていた。
 
「沈淪は、グループにも組にも邪魔な存在じゃろ。実際、あいつはわしの邪魔しかせん。グループにはもともと関係ないが、深山に沈倫がおること自体が面倒なんじゃ。それに組としても扱いには困っとるじゃろ。組員でもないあいつに、仕事出すのはそろそろもういい加減にしたほうがえんじゃないか」
「そんなことはあんたに言われんでもわかっとるよ」
「そう言うかと思うたわ。じゃけどなあんたには決めれんよ。あんたと沈倫の仲のことはよう知っとる。じゃから外から言われんと、あんたには決めれん」
「なにが言いたいんじゃ?」
「あいつをな…始末してほしいんじゃ」
黒木の言葉は直接的で、その重さに虎然は震えた。
「黒木さん、そりゃあまた急じゃな」李虎然は言葉を詰まらせる。山熊組として、また個人としての彼の立場を思い返しながら、沈倫との過去を振り返っていた。そんな彼を手にかけることができるのか。
 
会話の中で、黒木は虎然が断りづらい状況を利用していることを隠そうともしなかった。そして、虎然もまた、黒木が沈倫に対して抱く不満と嫌悪が根深いものであることを理解していた。
 
この夜の会話は、深山市のさらなる暴力の連鎖を予感させるものだった。二人の間で交わされた言葉は、社会の裏側で進む計画の一端を示しており、それがこの閉ざされた地方都市にどのような影響を及ぼすか、誰にも予測することはできなかった。
 
会話が終わり、外に出た虎然は深くため息をついた。夜空を見上げながら、彼は沈倫との友情、そしてこれから訪れるであろう困難に思いを馳せた。この小さな町で起こることなど、世界の片隅の出来事に過ぎないかもしれない。しかし、虎然にとって、そして沈倫にとっては、避けられない運命のように思えた。
 
虎然はバーを出た後、二山市の繁華街を抜け、山熊組事務所に向かった。足元には霜が降り、彼の長い影が月明かりに揺れていた。道すがら彼の心は、黒木の依頼と、それが引き起こすであろう暴力の連鎖について考えを巡らせていた。
 
沈倫との思い出が彼の心を支配していた。子供の頃からの絆、中国からの移民としてマイノリティとして生きることの困難に立ち向かってきた記憶、それらが虎然を苦悩させる。彼らの関係は、単なる友情以上のものだった。それは、家族も同然の、互いの運命を共有してきた深い結びつきだった。
 
組の事務所に着いた虎然は、部屋のソファに腰を下ろし、一服の煙草に火をつけた。煙が天井に向かってゆらゆらと昇り、彼の思考は更に混沌としていった。彼は三条グループとの関係を維持する重要性を理解していた。彼らとの良好な関係継続は、山熊組の存続には不可欠だ。だが沈倫を失うことの重さも、同じくらいに彼の心を圧迫していた。
 
煙草の煙に混じって、虎然の内省はより深まった。沈倫がいなくなれば、自分の人生にも大きな穴が開く。彼との思い出が脳裏を埋め尽くし、それらを失うとすれば、彼の心は確実に引き裂かれるだろう。そして、黒木が提案した計画の冷酷さと、それを実行した場合に虎然自身が背負う罪の重さを考えると、彼の胸は痛みで一杯になった。

黒木の思うように計画が成功すれば、表面上は平和が保たれるかもしれないが、その影では恐怖と緊張が市民の間に広がるだろう。そして、その一部始終が、まるで暗い劇場で繰り広げられる劇のように、人間の表と裏を浮き彫りにする。
 
虎然は、自分が直面している状況の全てを受け入れながら、沈倫との友情、そして山熊組としての義理を天秤にかけた。しかし結論はまだ出ない。深山市の早朝の静けさは、この先、どれほどの嵐を迎えるのか――虎然にはその全容が見えないままだった。

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