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図書館の本と、太宰治の「紙幣」#107

図書館でよく本を借りる。

傷んでる本、綺麗な本、書き込みがある本。

綺麗な本に遭遇すると、まるで私しか借りてないのかと思う。
中にはしっかり前の日付の栞が残されているから、複数人の手に渡っているのだろう。
それでもとても綺麗な状態だ。

かと思えば、鉛筆とはいえラインだったりカッコ書きされてたりする。
がっかりする。
当たり前だけど、みんなの本なのよ。
元の状態で返すのが筋じゃろが。

それにしても1つの本を複数人が順番に回し読む。
予約をして、取りに行って。
図書館に行って選んで。
誰もお互いを知らない。
共通しているのは、この本が必要なこと、買ってまでも必要がないこと、もしくは買えないことぐらいだ。

太宰治の「紙幣」を思い出した。
雑な説明をすると、紙幣が転々とする様子が紙幣目線で書かれているものだ。


どうしてこの本を読んでいるのか。
この本を読む理由は何か。
なぜこのタイミングなのか。
この本から得たものは有益だったのか。
そんなもの人によって違うけど、本はそれを知ってるんだなって思うと、ニヤニヤしちゃう。

私は紙媒体の本が好きだ。

美女と野獣に出てくる、キャンドルとかティーカップみたいにおしゃべりしているに違いないと思ってる。

本を読んでる私を、本は見てる。
もっとめくってと催促して、もっと栞を挟んでと催促する。
そして、沢山挟んだ栞を全て抜き取って返す時、その本とはお別れする。
ありがとう、と。

でもうっかり再会する時がある。

その時本は私を慈悲深く見守る。
「レポート再提出になったんだね、がんばろうね」と。

小さな時におばあちゃんに言われた事がある。
「〇〇ちゃんは、本を傷めないで読むねぇ」と。

私は本に書き込みができない小心者だ。
付箋を貼ることはあっても、書き込むことはできない。

本に跪いてるのかもしれない。

思想であり、ドキュメントであり、研究であり、想像。
そういう生モノを閉じ込めた存在だ。

本で埋め尽くされたリュックを背負って図書館を出る時、中で本がざわついている。
重たい背中でそれを感じるのが好きだ。

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