私と『享楽』

 さて、言い訳の時間だ。

 本記事では、私にとっての『享楽』について話す振りをしながら、最近やたらと覚えたての「享楽」という語を使うのかについての弁明を行う。

享楽とは

 まず、「享楽」という語について簡単に説明したい。但し、ここでは精神分析学で使われる「享楽」という語の使用を目指しているが、私は精神分析学をきちんと学んでいないし、私にその語を精神分析学の文脈で教えた先輩(本当は、SNSで知り合った年上の友達である。しかし、彼をいちいち年上の友達とするのも長ったらしくなって面倒だし、単に友達と呼ぶのは畏れ多いので、先輩とする。)も学部生であり、私は正確な理解を持っていないことは先に了承してほしい。
 一般的な、或いは正しい理解の「享楽」とは別に、私の理解としての『享楽』は、鉤括弧と二重鉤括弧を用いて区別する。
 先輩は誠実に「自分の言っていることは正しいとは限らないし、(その場は個人的な場であったこともあり)全然間違っているかもしれない。俺は精神分析の立場を代表できるわけではない」みたいなことを言っていたということは、先輩の名誉のために予め言っておきたい。私がここで『享楽』について誤った認識を書いていても、先輩に責任はない。というか、多分間違いがあるのでこの記事を「享楽」の理解のための参考には絶対にしないでほしい。

 さて、やっと「享楽」の説明だ。簡単に言えば、通常の快楽とは質的に異なる快楽のことである。たとえば、大好きで大好きで仕方のないチーズハンバーガーを10年間我慢して、10年後に初めて食べたときのその快楽は、そのために死んでも良いとすら思えるものだし、「俺はチーズハンバーガーを永遠に食べることができると断言するぜッ!!」と言えるくらいの快楽である。そして、二口目、三口目と進むと、「やっぱり一つでいいや」となってしまう。
 このような「享楽」は、一般に神経症者には自慰行為を通して「ファルス享楽」(詳しくは自分で図書館に行って調べるんだ!)としてしかアクセスできないと考えられてきた。しかし、私はよく分かっていないが、自閉症者はこの「享楽」にアクセスできるらしい。何故? 何故かは私が論じても仕方ないので、そういうものだと仮定して話を進める。
 その概念の学術的に正しい説明や、「享楽」の働きや、「享楽」という概念のそもそもの妥当性については、私ではなく(学部生でもなく)精神分析学者に訊ねるか、論文を読むなり教科書とかフロイトやラカンの著書を読むなりしてほしい。こんな記事を当てにするんじゃあねえ!

 さて、『享楽』とはそんな感じのものだ。具体的に私が自分で感じていると確信している『享楽』は次のような内容のものだ。

『享楽』の内容

 ビッグバンのときの勢いのまま(「物理法則に従って」という意味だが、私は物理法則は宇宙への説明に過ぎないという立場だから、ビッグバンのときの勢いとさせてほしい。)広がって動いてきた、動いている、そして恐らくは今後も動き続ける宇宙へと、自分が没入し、或いは帰属するような感覚を得る。地球が自転するように、自分も生きている。花が開きやがて散っていくように、自分も生きている。星が生まれやがて死んでいくように、自分も生きている。自分は即ち世界の一部であり、つまり自分とは世界を指す。全ては一つである。そして、我々が偉大な自然に心から感動できるように、自分の存在について感動でき、それは私が意思して止めるか、誰かに邪魔されない限り続く。
 幸せだとは思わないか? そのとき、幸福のために社会に参加する「必要性は」消失する。私はたまたま社会に参加していて楽しいし、愛という幸福を知ることができたので今後も社会に参加するし恋人ともずっと一緒にいたいと願うが、本質的な快楽の面では既に充足している。

言い訳の本番

 そもそも、以下に始まる言い訳を必要としたのは、先輩が、恐らくは私が不完全な理解で······というか全然よく分かっていないのにこの語を頻用するのを見て心配してくれて、「覚えたての単語をめちゃくちゃ使う」という点を指摘してくれたからだ。体系的に学んでいない覚えたての単語を頻用するのは危なっかしい。私の意見では、誰かに批判されたり補足されたりすることで知識を強化できるから、公の場でなければ頻用しても問題ないと思うが、これがさも自分がきちんと理解しているかのように公の場で使い始めると、恥をかくだけでなく周囲に誤った情報を拡散してしまう懸念も浮かぶ。先輩の指摘は妥当である。

 さて、言い訳をしよう。納得していただけそうな理由は複数ある。
 一つ、私は自分の理解が不完全であり、体系的に学んでいない概念を正しく扱えるわけがなく実際に扱えていないことを認識している。
 二つ、私は殆ど常に周りに批判、反論、補足を求めており、また自分の理解が不充分であることを明示するので、危険性は下がる。
 三つ、これは最も重要なことで、私がわざわざこの記事を書いている理由だが、私は以前から『享楽』の内容を体験しており、それを上手く名付けられていなかったから言及の頻度が高くなかっただけである。
 本当は今のように頻繁に言及したかったのだが、私が私の『享楽』に付けた名称は『神からの愛』であり、使いにくい。私は理性的には無神論者だし、あってほしいという祈りもアミニズム的なものに寄っている。つまり、アニミズム的なものがあってほしいという祈りを持つ一方で、科学こそが現在の人間が持つ手法の中で最も上手く世界を説明し予測する体系であると考えている。
 しかし、『神からの愛』というものは――私はキリスト教徒ではないのに――極めてキリスト教的な表現である。誤解を招きそうだ。私は神々に存在してほしいとは思っているし、その祈りを宗教として自己に内面化することは否定しないが、神々が存在するとは思っていない。まして唯一神については私の好みですらない。しかし、私が得ていたものは当に唯一神かの寵愛であるかのように感じられた。

 一文で纏めれば、私は以前から得ていた『神からの愛』という名前を付けた概念を扱う際に、その姿が「享楽」に似ていて、恐らくはそう呼んで間違いないがために、『享楽』として呼んで言及しているのである。

 今後、この記事の内容から私の意見が変化する可能性が大いにあるので、最後にこれを書いた日付を記しておく。

2024年2月20日
夜依伯英

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