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「男の世界」についての考察

【注意】この記事には、荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 Part7 スティール・ボール・ラン』集英社〈ジャンプ・コミックス〉(以下、『SBR』と略させていただく。)のネタバレが含まれる。但し、これは個人的な経験だが、『SBR』は多少ネタバレを喰らっていたり結末を知っていたりしても、卒倒するくらい面白かった。

 ある程度『ジョジョ』を知っているとか、『SBR』を既に読んだとかいう人は序文を読み飛ばしてほしい。

序文

ジョジョについて

 『ジョジョの奇妙な冒険』の名を聞いたことがない人はいないだろうが、このシリーズについて簡単に触れておくと、集英社から出ている『週刊少年ジャンプ』(1986年 - 2004年)だったり同じく集英社の『ウルトラジャンプ』(2005 - )に掲載され、単行本も出ている荒木飛呂彦による漫画作品である。第6部まではアニメも作られている。各部ごとに主人公とラスボスが変わる。第3部からは主として「スタンド」と呼ばれる能力を使って戦う漫画である。私は第7部(それが『SBR』である。)までしか読んでいないので、それ以降のことは知らない。

『SBR』

 『ジョジョ』第7部に当たる『SBR』では、1890年のアメリカ合衆国でサンディエゴのビーチからニューヨークまでを乗馬によって横断する「スティール・ボール・ラン」レースが開催され、なんやかんやあって主人公枠のジャイロ・ツェペリとジョニィ・ジョースターがそれに参加する。そしてなんやかんやあって色々な敵と戦いながら、優勝を狙っていくのである。
(『SBR』の公式HPはこちら。)

この『物語』はぼくが歩き出す物語だ
肉体が……という意味ではなく
青春から大人という意味で……

『SBR』第1巻#2

リンゴォ・ロードアゲイン

 さて、そんな『SBR』だが、割と序盤にリンゴォ・ロードアゲインという敵が現れる。『ジョジョ』シリーズのスタンドには時間に関係する能力もあるが、リンゴォは唯一、第3部の主人公・承太郎とシリーズの各ラスボス以外で時間に関係する能力を持つ。

『SBR』第8巻#34

 リンゴォのスタンド『マンダム』の能力についても面白いが、この記事では、リンゴォの独特の美学「男の世界」について考察していく。

 レースに参加するジャイロとジョニィは、気付けば果樹園地帯から抜け出せなくなっており、それがリンゴォの仕業だと本人から告げられる。

考察

「男の世界」とは

このオレを「殺し」にかかってほしいからだ
公正なる「果し合い」は自分自身を人間的に生長させてくれる
卑劣さはどこにもなく…漆黒なる意志による殺人は
人として未熟なこのオレを聖なる領域へと高めてくれる

『SBR』第8巻#34

 これが「男の世界」だという。この考えを現代的な価値観で男女差別的であるとか、反社会的だとかいうのは簡単だ。1890年代に生きるリンゴォ自身も「反社会的だと言いたいか? 今の時代………価値観が『甘ったれた方向』へと変わって来てはいるようだがな…」と言っている。

 リンゴォは、「社会的な価値観」「男の価値」との二つがあると言う。そうなると、当然「男の世界」とは「男の価値」を持つ者の世界となる。この世界とは、恐らくは「その人にとっての世界観とそれから構築される環世界」のことを指すものだろう。たとえば「自閉症の世界」と言ったとき、自閉症者が沢山いる世界だとか、彼らが支配する世界だとか、そういったものではなく彼らが見ている世界のことを指すと当然理解できるはずだ。

 「男の価値」とは、リンゴォや、彼と戦って生長した(つまりは影響を受けた)ジャイロにとっての、一種の理想的な規範である。リンゴォが「男の価値」を重視するようになったのは、彼が病弱だった幼い頃に軍服の大男に性的に襲われ、その際に「漆黒の意志」を以て大男を射殺して以来、病弱でなくなったからだ。

目には力がみなぎり その皮膚には赤みがさした
彼には「光」が見えていた
これから進むべき「光輝く道」が………
(中略)
公正なる闘いは内なる不安をとりのぞく
乗り越えなければならない壁は「男の世界」
彼はそう信じた………
それ以外には生きられぬ「道」

『SBR』第8巻#35

 「男の価値」を語るリンゴォと戦い、ジャイロは父親の言葉を想う。それは「感傷」を恐れる父親である。『SBR』のツェペリ家は処刑人の家系であり、ジャイロの父は、死刑という人を殺す行為が、殺人ではなく刑罰として正しく行われるために「感傷」を避けていた。では、「感傷」とは何か。簡単に言えば、作中に『受け継いだ人間』の精神や「社会的な価値観」として示される社会正義やその家系の正義、価値観、動機と、一方で『漆黒の意志』に代表される自分の感情や価値観との間のギャップであろう。この「感傷」に関しては、私の上記の解釈とはやや異なるが、次に示すnote上の記事が分かりやすく説明している。

 この記事は秀逸で、「男の世界」を「漆黒の意志を持つもの同士の公正な果たし合い」と定義している点以外は、完全なる説明を行っている。

 では、その定義を私が否定するのは何故か。
 上の記事では、ジャイロも「男の世界」=「漆黒の意志を持つもの同士の公正な果たし合い」へと突入したと書いてある。リンゴォはジャイロとの戦いを公正なる果し合いとしてジャイロに「ようこそ……… 『男の世界』へ……………」と告げているから、たしかに作中ではそういうものなのかもしれない。しかし、私は「男の価値」を以て、「漆黒の意志」を以て行動するとか、生きるとかいうことが「男の世界」に生きることだと思う。このリンゴォとの戦いは、それ以降のジョニィとジャイロの方向性をはっきり分けた戦いである。リンゴォ戦が始まるときに、リンゴォはジョニィになら自分を殺せると言っている。ジョニィには「漆黒の意志」があるからだ。この戦いでジョニィは更に明確に「覚悟」を決める。二人の「男の価値」は似て非なるものだ。「男の価値」を持つ「男の世界」に生きるというロールモデルは、明確なひとつの価値基準ではなく、ひとつメタ的な規範であり、各人にそれぞれのあり方があると考えるべきだろう。

「男の世界」への到達可能性

 「男の世界」の厳密な定義や魅力を語るのも素晴らしい光栄だが、私が重心を起きたい視点は、次のことにある。「男の世界」が「男の価値」を持つ者の世界ならば、仮に女が「男の価値」を持った場合でも、「男の世界」には到達しうる。では、「男の価値」とは性別上の男だけが持つことのかなう価値なのだろうか。

 次に書くことは、個人的な話だ。急に何を言い始めるんだという気持ちになるかもしれないが、続く議論の為に読んでほしい。

 以前、私は自分の父親と殴り合ったことがある。私が母を殴ったからだ。全力の殴り合いだった。物理的にも家庭内だったし、私は当時18歳だったし、父は私や或いは私の弟に暴力を行使したのは後にも先にもこの一度だけだ。私の父親はその一度以外、怒ることもそもそも少なく、声を荒げることは決してない。少なくとも私は父のその暴力を虐待だとは思っていない。しかし、これは反社会的だし、多分法律に引っかかる。それでも虐待ではなく喧嘩だ。法に抵触するとしたら暴行罪か、決闘罪かもしれない。この喧嘩……リンゴォ風に言えば「果し合い」は、私が持っていた「俺の価値観」と父の示した「私がどうするべきか」の戦いとも見られる。喧嘩の後、すぐにそのギャップが埋まったわけではない。それから一年半くらいを使って少しずつ、それのギャップは埋まってきた。そして、勿論のことだが、私の「俺の気持ち」と父の「俺の気持ち」の殴り合いでもあった。
 父親が息子に見せた唯一の暴力は、彼の妻を守る為の暴力であり、彼の妻への攻撃に対する報復としての暴力だった。私は決して「愛の為ならば相手を殴っても良い」とは受け継がなかった。父もそんなことを受け継がせたくはないはずだ。むしろ、覚悟である。父は息子を殴りたいと思うような性格ではない。覚悟が決まっていなければいけない。愛には、その為に他の大切な人を傷付けるようなことですらも受け入れる覚悟が必要だ。大切な人を傷付けるべきであるという話ではない。私はそれを受け継ぐことができた。そして、それは「俺の気持ち」と徐々に重なり合って、乖離することがなくなった。

 この件は、まさしく男から男へ受け継がれるものと、男同士の戦い、それによる成長であるわけだが、重要なのは登場人物の性別ではない。たしかに男女で比べれば、殴り合いは男のほうがしそうだが、本当に殴り合いでしかこうしたことはできないのか。話し合いや、内省や、或いは人生という戦いの中でも、「男の価値」を持つに至ったり「覚悟」を決めたりということはできるはずだ。

 前述の通り『SBR』の舞台は1890年だ。だから、そこで「男の価値」と呼ばれるものは「男の」価値なのだ。
 では、現代にその価値を持ってくるとすればどうだろう。次では、現代社会の中で「男の世界」とはどんなものになり得るか、それを考察する。

現代と「男の世界」

 そもそも「男」とはなんだろう。「男の価値」を女も持てるとしたら、ここでの「男」は生物学的なオスのことではない。1890年代や、20世紀の間であれば、「男の価値」は「男らしさ」から生まれ、「男らしさ」とは「オスらしさ」で良かったのだ。「男の価値」と「オスらしさ」の間には飛躍があるが、オスとしての強者は、理想的には「男の価値」を持つはずだった。
 私は、それはむしろ女(生物的な視点を強調するために、この節ではメスと呼ぶ。)が決定したことだと思っている。オスとしての強者、ここでは「強者男性」の語に倣って、強者オスとしよう。強者オスとは、男性ホルモン的な身体(オスらしい身体)を持ち、そしてより多く、或いはより確実に子孫を残す。遺伝子を殆ど同じくする兄弟が子孫を残せるように協力するのも生物としての強者と見て良いだろう。では、確実に子孫を残すにはどのような条件が必要だろう。大抵の生き物では、メスが相手を選ぶ側だ。レイプするという手もあるが、法で規制されている国が殆どだし、先進国ならレイプしてもアフターピルを飲まれてしまうかもしれないし、堕胎されるかもしれない。そうだ、メスに選ばれなければいけない。つまり、強者オスがどのように振る舞うべきかは、メスの好みによって決定する。

 現代では、フェミニズムが台頭し、LGBTの概念が普及し、メスの好みや要請が変化した。オスも変わらなければならない。上述二つの潮流の中で、男らしさというものは有害であるとまで言われるようになった。
 まあ、それは良い。
 「男」とはなんだろう。こちらの方が重大だ。「男」とは、これまでたまたま男が持っていたというだけで、本質的には性別を問わないただの規範の一つなのではないだろうか。その規範だけが優れた規範ではない。でも、他の規範と並び立って確かに価値のある規範なのではないだろうか。それを、現代社会を失いつつある。

 「男」というのは、「主体」のことを指している。

 これを書いていてふとX(旧Twitter)を見たとき、相互フォロワーであるきりしきさんが次のように投稿していた。

Twitterやリアルでその考え少し変ですよとか自分自身や他の誰かを傷つける言葉ですよ、とか思って、意見したくなるけどそういったものはみんなその人のそれまでの人生のぜんぶからくるどうしようもない要請から吐きだされているものでその人の人生のぜんぶを知らない以上なにをいってもしかたないけど
そうしてぐっと、こらえて、なにも言わないでそっとしておくことがほんとうにその人のためなのだと、だまって見ていることを選んでいると、それはそのまま誰かが傷つきつづけることになることで、せっかくこことそこに人がいるのにな、私と私じゃなくてあなたと私なのにな、と無力さを思う

https://x.com/kirisikisiki/status/1766788851576832276?s=20

 こういうときに「男の世界」が必要なのではないだろうか。この投稿は、考えや価値観の成長に「あなたと私」であることが有用だと暗に示している。私もそう思う。でも、きりしきさんの仰る通り、「その人の人生のぜんぶを知らない以上なにをいってもしかたない」のかもしれない。そういう意見をすることは、相手に一度きっぱり反対することでもある。
 これは、現代社会の「公正なる果し合い」ではないだろうか。そして現代社会の「男の価値」とは、お互いの成長の為に相手を傷付ける覚悟をするということなのではないだろうか。その「価値」は当然、男でない者でも持つことができる。

最後に

この夜依伯英にとっての男の価値

 「私」という一人称は冷静だ。公的で、'official' だ。他人行儀で「正しさ」に立脚する一人称だ。だからこの節では、この夜依伯英を「俺」と呼ぶ。それは個人的で、熱のあるものだ。この俺の思う「男の価値」を、決して客観的な正義だとか社会的な価値として発信するつもりはない。俺が内面化した「男の価値」だ。

 「男の世界」には、オスじゃなくても入ってゆける。メスでも、何者でも、「男の価値」を持ってさえいれば。「男の価値」は、確固たる信念であり、確固たるアイデンティティであり、俺やお前の生きる指針だ。
 いざというとき、たとえば恋人や家族が命の危険にあるときに、相手を殺してでも「愛」を遂行する覚悟だ。
 もし逃げなければならなくなったら、逃げるということから逃避するな。自分が弱いだとか、つらいだとか、悲しいということに向き合って、それらを正面から感じる覚悟が必要だ。正面から向き合わなければ、成長はない。
 もし相手を否定することが、相手や、お互いの成長の為に必要だと思ったのならば、否定する覚悟だ。相手を傷付けるかもしれなくても、それをする覚悟が必要だ。

 再びだ。「男」というのは、「主体」のことを指している。主体として思考し、主体として「覚悟」して、主体として行動せよ。きっと、だからリンゴォ・ロードアゲインもこう言ったのだ。

受け身の『対応者』はここでは必要なし

『SBR』第8巻#34
『SBR』第8巻#34

 ようこそ、「男の世界」へ。

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