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オープンチャット5日目記録(4/9)

オープンチャット5日目です。ちょっとペースダウンしながら、ゆっくり続いています。

前回は、そもそも愛の存在の認識自体、育ってきた環境で違ってしまうのでは?という話をしていました。キリスト・イスラム圏の説く"love"と、日本でいう「愛」も違うよね?という話に繋がっています。

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5日目スタート

田村:今まで「愛」が絶対的な意味で使われたことってありますかね?私はあんまりないような気がしています。「絆」という言葉よりも、日本人にとっては「愛」という言葉がやっぱり曖昧すぎるのではないかしら。だからこそ「愛」という言葉が何か一つの絶対的な意味に囚われなくて済んでるのではないでしょうか。

萩谷:確かに、おっしゃる通り、「愛」という言葉は曖昧です。だから、私たちもこうして議論をしているわけですもんね。
 
私は、愛を絶対化しようとする試みを、日本国憲法における家族愛・恋愛において感じています。「家族愛」に関しては、現在の自民党が発表している憲法改正案のうち、24条『家族、婚姻等に関する基本原則』という条文で『家族は社会の基礎かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない』という一文があるんですよね。これって「家族愛」というものを憲法にて定義しようという試みなのかなと思いました。

現行の憲法24条に『婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する』ということが定められています。現在日本では同性婚は認められていません。
これも「結婚」を「恋愛」の延長線上に置くとするならば、ある種「恋愛は男女がするものだ」と憲法によって定義しているのかなと。

もちろん両方のケースで、「愛」という言葉は一言も使われていませんが、「家族愛」「恋愛」の意味が、憲法というシステムによって定義されているのではないかなと思いました。

オープンチャット参加者のコメント:憲法の定める家族や婚姻によって愛が定義されるものであるとするならば、愛とは、国や社会という共同体が要請する幻想なのだと思います。
婚姻や家族という枠組みはそれを用いる国からすれば、所属する人を管理するための仕組みであると理解しているので、あくまで箱に過ぎない婚姻や家族に精神的根拠やモチベーションを与える幻想、物語が愛なのかと。
浅学ですが、少し前に論じられている宗教的な無条件の愛というものも、ひとつの解釈として、権力者層が人々を統制するために都合のいい方便であったという話もあったかと思います。
イスラム教のコーランが、人々に規律を与えることを目的に神という権威を後ろ盾にした文書であるように、大多数の人々が無条件の愛を持ち他者を慈しむ謙虚な人であった方が、統制する立場の人間が利益を得るのに適していますから。そういった共同体の機構(システム、と換言してしまっていいのでしょうか)あるいは存続を目的とした種という総体が要請する幻想としての愛と、現代の表現作品が標榜しやすい口語的な愛(およそ精神性、神秘性に偏重したものが多数かと思います)の間にはなんらかの隔たりがあるように思えます。
(より個人的な意見ですが、そうした日本でテーマになりやすい口語的な愛というやつは、家族という仕組みに強く従ってきた人々が西洋的な個人という観念を得た結果、共同体からの要請は忌避し排そうとしたものの、表層的な美々しい方便の部分だけは好んで個人のものにしようとした結果、これだけ再定義に苦しんでいるのかなあなどと思っています)

田村:めちゃくちゃその通りだと思います。そして、このような知見を頂けるだなんてとてもうれしいです……ありがとうございます。私もその通りだと思うからこそ、「愛」なんて本当ににあるのか……?と思わずにいられません。そういった意味では、「自由」そのものが本当にあるのか?という問いとかなり似ているかもしれませんね。

国家だったり宗教だったり、なにか大きい「構造」が要請する「愛」という幻想は、それはそれであるとして、そうではない個々の「愛」なるものは存在するようにも思える、そこを言語化したいのですが。そして、萩谷さんのいう憲法の定義は、なにかしらの「幻想」を要請するためのものなのかもしれません。

萩谷:確かに、宗教や国会が要請する「愛」は人々を統治するための「幻想」ですね。

ロビン=ダンバーという人類学者は、人間が円滑に社会を営むための最大人数は、霊長類の群れの数と人類の脳の容量から計算した結果、150人であると結論付けました。それ以上の人数の集団社会を維持するための幻想として、「構造」は「愛」という幻想を必要とするのかもしれません。

となると、それは自己とは無関係のトップダウン的な「愛」で、個別の愛はある種、対局にあるものですね。だからこそ隔たりと感じるのかもしれない。

個人間の「愛」に関してなんですが、僕は、自身の考えや言葉を相手が解釈してくれる時に「愛されてる」と感じる時があります。理由を考えてみたことがあるのですが、僕は両親が共働きだったので、小さい頃にじっくり話を聞いてもらえる機会があまり無かったからなのではないか、という結論に至りました。そういう意味では、「愛」は「自身の欠落を埋めるもの」という考え方もできるかなと思います。

田村:「愛」は「自身の欠落を埋めるもの」興味深いですね…!私は「欠落」を肯定するものかな、とも思います。「欠けて」いる部分を認めて、でもあなたに生きていてほしいと言うことというか。

多分、コメント下さった方の仰ってる、構造的なものが要請する「幻想」としての「愛」は、トップダウンとは違う位相にあるものだと思われます。あくまでも構造ないしは統治者たちが「幻想」として、個人に「愛」なるものを要請するのではないでしょうか。つまり、自己とは無関係とも言いきれないのでは、、、

例えば、日本に「結婚」という概念があって、そしてその「結婚」とは幸せなものである、モデルルームのような家に住んで、子供を2人育てて、、みたいな、それがあたかも「幸せ」であるかのように語られ、「幻想」を見させられるのだと思います。そして、それを信じている人も一定数いると思います。

本当はその「幸せ」なイメージって、自分から出たものではなく植え付けられたものであるけれど、でも信じてしまう部分もある、ということは、個人の領域にまで影響を及ぼしているのではないでしょうか。

次回に続く…

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