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記憶の回廊


3年前に認知症を発症した母は、ゆっくりと様々なことを忘れていった。最初は自分に起き始めたことにおぼろげな不安を抱いていたが、やがて「しょうがないわ」という諦めと共に、明日に対する意欲がすこしずつなくなっていった。

平凡な日々の生活記憶は、翌日には消えていき、若き日々の思い出、人生の中で楽しかった時の記憶が、断片的なイメージと共に美しく編集され、繰り返し語られる。介護のため、定期的に母の家に訪問する私は、その会話の重要な聞き手だ。

母の記憶は、何かのきっかけによって引き出され、言葉になって出てくる。引き出すためのいくつかのキーワードやイメージがある。それを話しながら、テレビを見ながら、また音楽を聴きながら、引き出す。ほとんどはもう何十回、何百回も繰り返された会話となるのだが、稀に今まで初めて聞くような話がでてくることもある。驚いて「よく覚えていたね」と言うと、「あなたがそんな話をするから思い出したのよ。なんで思い出したのかしら」と言う。

人生の記憶は自分ではコントロールできない。決して忘れない記憶もあれば、あっという間に忘れてしまう記憶もある。奥深くしまってあり、決して引き出されない記憶もあれば、何度も思い出しているうちに編集されていく記憶もある。それらが集積して、私たちの過去は出来上がっている。なんと曖昧な記憶のシステムに翻弄され、私たちは老いていくのだろう。

短期記憶がどんどんなくなり、昨日のことや今朝の事さえもすぐ忘れてしまう母。日常の会話パターンはほぼ決まってきて、それに合わせてくれる人とは話が弾む。同じことを話していることで、まだ言葉を覚えているという確認のような会話。それが、感情の伝達と安心感を生み、表情が生まれる。しかしもうその外側の世界には行けない。

数少なくなってきた母の記憶の引き出しを探し、今日も私は母に語りかける。そうやって母の記憶の回廊をわずかの時間一緒に歩く。貴重な残された時間を。


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