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なぜ隣の芝生は永遠に蒼いのか

比較、それは不幸の元。
と同時にやらずにはいられないパンドラの箱。
考えたくないと思えば思うほど比較してしまう。

私は子供の頃から他人が羨ましくて仕方なかった。
あの子は私より見た目がいい。
あの子は私より頭がいい。
あの子は私より才能がある。
自分が持っているものを無視し、他人が持っているものに注目してしまうことが多かった。
自分が持っているものはあまり誇らしく思えなかった。

もちろん私自身この悪癖は認識していて、頭では比較をしないように努めてはいる。
それでも気付いたら他人を羨んでしまっている。
自分を憂いてしまっている。
どうして私はあの人みたいに自信が持てないの?
どうして私はあの人みたいに要領が良くないの?
どうして私はあの人みたいに他人に興味が持てないの?
どうして?
どうして・・・

私は死にたいとよく思う。
無に還りたい、という感覚の方が近い。
私にとって「無」になることは救いであり、
無限に湧いてくる「有」の苦しさからの離脱である。
世間的にはこういった発言はセンシティブで、触れてはいけない雰囲気がある。
いわゆる「メンヘラ」が注目を浴びるために言うことだと考える人もいる。
きっとそれも一理あると思う。
でも多かれ少なかれ、こういった発言をする人は皆「救い」を求めていると思う。
私は誤解をされたくないから表立ってはその言葉を言わないようにしている。
だからといってその感覚が消えることはない。
ひっそりと、苦しくなった時によく思っている。
別に本気で死のうと思っているわけでない。少なくとも今は。
あまりにも苦しいからちょっと救いが欲しいと思うだけ。

どうやったら比較を辞められるかを調べてみた。
「人と比べるのは人間として当たり前。
自分と他人は違うということを感覚で認識することが大事」と書かれていた。
頭ではわかる。
でも感覚ではわからない。
これからもきっとずっと悩み続けると思う。
でも程度の差こそあれど、誰もが抱える悩みだと思う。
私もきっと誰かにとっての比較対象なんだろう。