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犬の一生(序):アンジェロという名の犬の物語

来る日も来る日も最高気温の記録が塗り替えられていく。
そんな平成最後の夏。

電話が鳴った。

『ごめんね、ごめんね。謝らなくちゃいけない』

取り乱したおばが泣きながらそう言ったそうだ。

『アンジェロが大怪我をして脳死だと告げられた。……どうすればいい?』


予期せぬ一報に私たちは言葉を失い、泣き、数週間に渡って議論を重ねた。

・犬の「脳死」をどう捉えるか
・「尊厳死」を選ぶべきか否か、誰がその決定権を持つのか
・終末ケアへの覚悟があるか


そして、アンジェロとの思い出や未来を話す中で、私たちは家族と“出会う”ことになる。

長くなるけれど、アンジェロという名の1匹の犬が家族を結ぶお話を残しておきたい。彼への尊敬の念と愛を込めて。


* * * * *

アンジェロは、私たちが初めて飼った犬の名だ。
私たちと彼は、少しだけ複雑な関係にある。

本題は次回にして、ここでは長いながい彼の一生についてお話しようと思う。彼がどんな風に愛され、離され、出会い、年老いたのか、書き残しておきたいからだ。


【海を渡ってやってきた子犬との出会い】

彼と私たち家族が出会ったのは、私が中学生だった頃のこと。
彼は、オーストラリアで牧羊犬をしているジャックラッセルテリアの子犬として生まれた。その後、海を渡り、小さなペットショップで兄弟犬とともに売られていた。とてもやんちゃで、同じケースの中にいる兄犬に飛びかかっては噛みついていた。

「かわいそうなお兄ちゃんの方を飼おう」

そう両親が言うと、その子犬はピタリと噛むのをやめた。
言葉がわからないはずなのに、私たちを上目遣いで見つめてくる。そんな様子に私たちは思わずふきだしてしまった。

くりっとした目と、うなじとおしりにある利かん気の渦巻き。
その日から、その子犬は私たちの家族になった。


飛んだり跳ねたり大忙し。何にでも誰に対しても興味津々。天真爛漫な性格から「この子は天使」と母は彼をAngeloと名づけた。素敵な名前だったけれど、私たちは幼い彼を愛を込めて「アンジ」と呼び、成長すると親しみを込めて「アンジロウ」と呼んだ。

アンジはよく噛み、よく物を破壊しては汚し、よく「抱っこして」とクンクン鳴き、皆を困らせる子犬だった。
でも、それが子犬の愛すべき点だと教えてくれる存在だった。


可愛かった子犬は、あっという間に筋骨隆々の立派な青年に成長した。人を噛まなくなり、抱っこを求めることもなくなった。朝になると自らリードを咥えて寝室に向かい、父を起こした。山道を歩き、溝に飛び降りて水を踏みしめながら冒険した。柵の向こうにいる凶暴そうな大型犬たちに勇敢に吠え、自分の方が強いことを父に示し、誇らしげに外界をパトロールした。

一方で家の中では勇者をやめ、よくくっついては甘える犬だった。ソファでレポート課題に唸る私の横はアンジロウの定位置のひとつだった。私と肘掛の間に器用に入り込んで寝るのだ。L字姿の窮屈な寝姿。腹を見せ、歯を見せイビキをかく。成長しても、私たちにくっついて眠ることが大好きだった。


【アンジェロ、「犬」を育てる】

数年後、私たちに家族が増えた。
トイプードルの子犬がやってきたのだ。

けむくじゃらで驚くほど小さい、得体の知れない生き物。
犬なのかわからないそれは、子犬の頃のアンジロウとは対照的に、人間にも世界にも、何もかもに関心を示さなかった。ベッドの下に逃げ込んでパタパタと駆け回るばかり。食べることも排泄することもよくわからず、捕まえようとする人間の手から逃れては暗闇の奥へ潜っていく。

マックロクロスケがようやく犬らしい姿になっても、人に懐かず、おもちゃで遊ぶこともしない。

そんな不思議な妹に、アンジロウは「食べる」ことを教えた。

・ごはんは美味しい
・たくさん食べることが幸せ
・ごはん=幸福に終わりはない!

次に「遊ぶ」ことを教えた。

・おもちゃは楽しい
・投げてもらうと格別
・噛んで破って綿を全部出したらおしまい!

アンジロウは、妹にたくさんの「犬の幸せ」を教えた。

・陽の当たるLioのベッドが昼寝にベスト
・窓から並んで外を見下ろすことは支配者の義務
・悪いことをしたら机の下に隠れる
・お母さんに撫でられると自信が回復する
・家族にお尻をくっつけると安心!

小さかった毛玉は、アンジロウの皿からごはんを横取りするほど食欲旺盛な犬になった。文句を言い続ける妹犬にピシャリと一声で叱りつける兄犬。2匹はいつも一緒だった。対照的な犬だったけれど、彼らは仲良しだった。


【別れ】

こうして2匹の犬を家族に迎え、山の上で共に暮らしていた平和な数年は、あっという間に過ぎ去っていった。
私が高校を卒業した年、私たち一家は都会に戻ることになった。

平坦で溝もなく角ばかりあるアスファルトの道路。2匹が走り回るには窮屈な家。窓を開ければ他人の言葉が間近に迫るほど音が響く距離感。

人間の私でさえ、環境の変化にストレスを感じたくらい大きな変化だった。

自然の中で育ったアンジロウは、窮屈過ぎる環境によく吠えるようになった。トイレも失敗するようになった。遊び相手だった私たちが大学生活であまり家にいなくなると留守番も増え、子犬だった頃のように物を壊すようになった。ストレスで皮膚が荒れ、毛が抜けるようになり、通院しても餌を変えてもなかなか治らなかった。

皆が困惑していたけれど、この環境に慣れるまで待つしかないと思っていた。


そんなある日、ポストに匿名の手紙が一通入れられていた。

『この建物は、犬を2匹以上飼えない規則です。保健所に通報します。』

以前はそんな規約なんてなかったはずだ。
そんなことを言われても今すぐなんて無理だよ。
2匹とも家族だよ。規約を変えられないの?
ルールはルール。守らなきゃいけない。
引っ越せないの?
まだローンもあるんだ。仕事だってすぐには変えられない…。

でも!
でも……
でも………………。


家族が言い争う中、アンジロウとリリーは部屋の隅から申し訳なさそうに喧嘩を見守っていた。大丈夫だよと声をかけてあげたくても、私たちは不安だらけだった。


それ以来、アンジロウが吠えると厳しく叱られた。突然に変わってしまった家族に、きっとアンジロウも、どうしたらいいかわからなかったはずだ。トイレの粗相は前よりもひどくなった。叱っても解決しない問題だと皆がわかっていたけれど、アンジロウは申し訳なく感じるようになり、トイレの後は隠れるようになってしまった。

やっぱり叱るのは間違ってる。
でもどうすればいいのかわからない。
間違いだらけの悪循環。

引っ越してきたばかりの私たちは、誰かに相談するということも思いつかないでいた。嫌がらせは続き、ポストや玄関前に汚物を入れられたり置かれたこともあった。


最後に1本の電話がきた。

こちらは、○○保健所です。匿名で、おたくの犬が近所に迷惑をかけているとの通報がありました。数日中に伺い、捕獲する予定です。殺処分になるので、どちらの犬にするのか決めてください。

電話をかけている人が嘘をついていることはわかっていた。誰だかは知らない。でも、この人をここまで追い込むほど、私たち家族は迷惑をかけているのだと思うと言葉が出なかった。

しばらく答えることもできずに沈黙した後、「保健所に確認するので、あなたの名前を教えてください」と答えると電話は途切れた。受話器を下ろした手は震えていた。

誰かが「犬を殺せ、殺せ」と毎日、私たちを呪っている。
規則を破ってしまった罰は何て重いんだろう……。

私が泣くとアンジロウはぴたりと横にくっついた。
昔、課題をしていた私にくっつくように高い温度で私を温めてくれた。
けれど私はアンジロウに何かを返すことができなかった。

当時の私たちは、まだまだ犬のことも飼育することへの知識も乏しかった。
「可愛い」だけじゃ許されないことを知りながら途方に暮れていた。


悩んでいた時、自然のある土地で暮らしている親戚の家の犬が亡くなった。その家のおばさんが「困ってるなら、うちにおいで、アンジロウ。私はあんたが好きだよ。あんたも私のこと好きでしょ?」と手を差し伸べてくれた。

私たちはたくさん話した。
答えは決まっていたけれど、たくさん話し、たくさんアンジロウを抱きしめた。

アンジロウ。
幸せになってね。ごめんね。
ごめんね。幸せになるんだよ。

そう言って泣きながら、罪悪感と安堵とともにアンジロウを見送った。


【新たな家族と老犬】

それからの10年。
私たちはアンジェロと家族ではなくなっていった。

会う度にアンジェロは私たちを覚えていてくれた。尻尾を振り、満面の笑みで駆け寄って飛びかかってきた。それでも、アンジロウはおばさんに一番の忠誠を誓う、おばさんの犬になった。

毎朝毎晩、おばさんに連れられて土手を散歩した。アンジェロは昔のように冒険し、自信を取り戻していった。草原を自由に走り回った。粗相の失敗もなくなり、皮膚病も治った。皆に可愛がられ、アンジェロもまた、新しい家族を愛した。

赤ちゃんが泣けばすぐに大人を呼びに行き、親戚が集まれば赤ちゃんの遊び相手にもなった。全ての家族を守る使命に生きていた。

そして、アンジェロは立派な老犬になった。目が悪くなり、よろよろになり、時たま認知症になって徘徊する、よくいる老犬になったのだった。おばさんに面倒を見てもらうようなり、余生をのんびりと生きていくように見えた。


アンジロウは、私たちの家族だった。
そして今は、別の家の犬になっている。

老衰で死ぬ前にまたアンジェロに会いたい。
覚えていてくれてるかな… 忘れられてたら少し悲しいかも。

そう思っているうちに、その日は突然やってきた。


夜中にふらりと家を抜け出したアンジェロは階段から転げ落ちたのだった。

〈続く〉

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