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何でもかんでも「人間」に原因を見出そうとする人

どんな仕事でも「人的ミス」は不可避である。だが同時に「人的ミス」でない事例も往々にして存在する。と私は思う。

そういうときに原因を「人間」に見出そうとするのってすごくナンセンスだなあと私は思う。

たとえば天気が悪いのは誰かのせいじゃないし、機械が壊れるのは寿命かもしれない。

もちろん天気予報をみてない「人」が悪い、とか機械整備を怠った「人」がわるいとか、そういうこともあるだろう。でもその人が雨を降らせたわけでもなければ、機械をハンマーでボコボコにしたわけでもない。そういうとき「人」を責めたって、いやな気持になるだけで解決しないと思うんだけどなあ。「不慮の事故」は人為とは関係なく常におこるものであり、「不慮の事故」が起こる前提で、その都度原因を究明していくほうが合理的だと思うんだけどなあ。

エラーの原因を何でもかんでも「人」に求めてしまう理由は、「そのほうが楽だから」なのだろう。ヒューマンエラーでない場合「誰か」にその責任を負わせてしまえばとりあえず自分は責任を負わなくて済む。目的は問題の解決ではなく「うまくいかなかった責任」から自分がのがれること。または「うまくいかなかったストレス」を誰かにぶつけることなのだろうと私は思う。

「ヒューマンエラー」ではないのだから、そもそもどうあがいてもその責任は「あなた」にも誰にもないのでは?と思うのだけれど。

「責任」という話でいえば私は「連帯責任」という概念自体も反吐が出るほど嫌いだ。(法的な話は別として)

中学生のころ学校に漫画を持ち込んだ子がいて、「連帯責任だ」ということで謎の居残りをさせられたことがある。その子とは仲良くもないし、漫画を持ち込んでいたことすら知らなかった!わたしにいったいなんの責任があるというのか!全く理解できなかったし、今も理解できない。

日本人は特にそういう人が多い気がする。(ものすごい主観です)やはり「責任」ということばをおしつけられて育った弊害なのだろうか。責任という言葉の重みに洗脳されすぎである。


すこしはなしがそれた。組織においてふわふわしした「責任」の押し付け合い合戦がおこるのは、「担当」の範囲が曖昧だからなのだろう。

面白い話なのだが、欧米では(というか米国では)それぞれにパーテーションのある半個室のような作業場が与えられるのが普通であるが、日本では管理職が大部屋を好む傾向にあるそうだ。(何の記事で読んだか思い出したらリンクを貼ることにする)

こんな記事もある

(リンク消えた。今日は眠いのでリンク後で貼ります。)

日本社会において「これが私の範囲です」というと、「やる気がない」「他人への配慮がない」とみなされがちだが逆である。「ここまではきちんとやります」という意味なのだ。逆にいうと「範囲外」のことは「好意」でやっていることなのだ。そんなことにまで「責任」をおしつけられてはたまったもんじゃない。だって「あなた」はその「責任」から逃れようと必死ではないか!なんでそんなものを人に押し付けるんだ。驚愕である。

業務担当範囲を明確にし、浮いたところは「好意」で処理してもらう くらいの感覚のほうが変な押し付け合いもなく合理的かつ快適なのは自明であるし、あちらこちらでそう叫ばれているではないか。

にもかかわらず、いまだに「責任」の押し付け合いをしている人を見ていると昭和の「責任」文化(というのだろうか)の悪影響の深さを感じずにはいられないのである。

なんというか 責任は 果たす(果たそうと努力するため)もので 取る とか 押し付ける もんじゃない と私は思うのだ。

なんだかよくわかんないけどふわふわした怖いものだから逃げたくなる。

「範囲」が決まってさえいれば、押し付けたり 取ったり するようなことにならないのだ。だってその範囲にしか責任は発生しないのだから。


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