事実は小説よりも生成り

大谷翔平選手がすごい。すごすぎる。漫画のキャラクターみたい。

投げてはメジャーの屈強な打者をバタバタ薙ぎ倒し、打っては三試合連続ホームランという。

もちろん、大谷選手の活躍は見ていてワクワクしますし、さらなる活躍への期待に胸が踊ります。

ただ……。

……なんか、参っちゃいますよね。

物語の書き手として、「現実が物語を超える」光景を目の当たりにするのは、嬉しさと悔しさが同時にやってくるふしぎな感情になります。

物語の作り手としては、『商売上がったり』な感覚にもなります。

仮に、漫画や小説などで今の大谷翔平選手の活躍を描いたら、間違いなく「非現実的だ」「都合が良すぎる」と叩かれてしまいますから。

「事実は小説よりも奇なり」といいますが、でも、事実は事実なのだから、「奇なり」という言い回しはぼくは少し違うのかなと思います。

いうなれば『事実は小説よりも生成り』。

装飾がなく、それ以上でも以下でもないということで、大谷選手みたいな『小説を超えた事実』があるほど、事実の力を再確認してしまいます。

『小説を超えた事実』には、二つあると思っています。

それは『天才』と『天災』です。

それらは「これまでの想像を超える」という点で共通していますから、遭遇したときに、物語の作り手たちは、ふと、自分の足元を見つめて真顔になってしまうんですね。

自分の存在意義に疑問符を突きつけられている気分になる。物語の可能性を否定されたような気がする。

だから、たとえば、震災のあとには『震災後の文学はいかに可能か?』みたいな言説が多かったのだと思います。

でも、それは『今後も自分は物語を書いていていいのか?』という、ぐらつく足場を補強するための作業になりかねないので、あまり興味はないのですが。。

「こんな時代になぜ書くのか?」と問われたら、「書きたいから書くんだ」と開き直れるほうが、ぼくは好感が持てます。

……というか、本来は、そうでしかありえないはずです。どんなに理論武装しても、人は、そうしたいからそうしているはずです。

もしくは、そうしなければならないと思ったからそうしている。

だから、自分が足場を置く分野で、『〇〇の可能性』とか、『〇〇だけが持つ力』という言説を言うのは、本音に反するという点で美しくないという感覚があります。

それは、デザイン、文学、アニメ、漫画、スポーツ、音楽、編集……なんでもそうですが、自分のいる分野の地位を喧伝しすぎても意味がないというか。

「スポーツにしかない可能性がある。」

「デザインだけが持っている力がある。」

「音楽だけが伝えられるメッセージがある。」

それは、『あたりまえ』とも言えますし、『別のものに代替可能だ』とも思います。こういう、反対の意見を同時に抱えるということも、人の態度としてはままあることだと思います。必ずしも片側に寄らないと生きていけないということはありません。

どっちとも言える。だから、考えてもしょうがない。

だから、「それはデザインにしかできないことか?」などと問うようなことは本質的に無意味だと思います。

問題は、「じゃあ、どこまで小説(想像の可能性)を超えられるか?」だと思うんです。

自分のいる分野の可能性や存在意義を考えるのではなく。

その分野で、『生成り』のまま、どこまで突き抜けられるか?

ぼくは小説を書く人間ですから、変な言い回しになりますが、「小説を超える小説」を目指さなければなりません。

そして、それは可能だと思います。事実、そういった小説をいくつも読んできました。

魂が打ち震えるような読書経験でした。

事実よりも事実で、生成りな小説。

そんな物語を、ぼくは書きたい——そう夢見ています。


そのために、大谷選手の活躍のような、『小説よりも生成りな事実』と対峙して、それを超えるべく、粛々と、自分のやるべきことをやっていきたいなと思っています。

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