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失速する光~「光る君へ」第20回までの総評(2)



『枕草子』の読者は多い

「光る君へ」制作陣の大きな誤算は、『源氏物語』のみを特別視して、『枕草子』を一段下げて位置づける姿勢を取ったことにも認められる。

NHK出版で発行された「大河ドラマガイド 光る君へ 前編」で大石静先生は次のように述べている。

紫式部と並び称される清少納言は自然描写やユーモアのセンスがあって『枕草子』には自身の教養や自慢話も巧く匂わせています。けれどもそこに紫式部ほどの深い人生観はうかがえません。紫式部には文学者に必須の自己否定の回路があり、同時代のほかの女流作家とは格が違う、ただ者ではないと思いました。

「NHK大河ドラマガイド 光る君へ 前編」(2023年)

大石先生自身はそのような感触を抱いても、いざ脚本を執筆する段となったら大切な仕事だから、大人の対応をなさるだろう、あだやおろそかには扱わないだろう…と思ったら、見通しが甘かった。

『枕草子』は、長らく『源氏物語』と並び称されてきた作品である。評論する人のスタンスにより多少位置づけが異なるとはいえ、一般の人にはほぼセットで認識されている。『源氏物語』よりも『枕草子』のほうがしっくりくる、という人も少なくない。私もその末席に加わったばかりである。

『源氏物語』は登場人物が多すぎるし、話も複雑すぎるし、そもそも光源氏の人物像がよくわからないと敬遠する見方があってもおかしくない。私は神戸の街を近所感覚で歩いているため、須磨・明石の帖とは別に「女三宮」が登場するというところで挫折してしまう。神戸市の三宮は「摂津国三宮」の三宮神社に由来する地名だから、そもそも『源氏物語』とは関係していないと頭ではわかっていても、感覚がついていかない。

対して『枕草子』は、一見さんに対する入口の敷居がやや低い。類聚段であげられる地名やお寺の名前などは今でもあるものが多く、それだけで読者に親近感を与える。長谷川町子さんのマンガにもありそうな笑える失敗談や、人や事物の好悪をはっきり言う姿勢も現代人に通じやすい。清少納言が女房仲間から芳しからざる噂を立てられた時、中宮が傘を持つ手の絵を描いて渡し、受け取った清少納言は雨が降る絵を描いて「ぬれぎぬ」を表現したという話、道隆が女房たちを前にしてジョークを飛ばして笑わせた話、「にげなきもの、下衆の家に雪の降りたる。」など、その情景が頭に思い描けるエピソードもたくさん載っている。加えて「春はあけぼの」「冬はつとめて」に代表される詩的抒情性の魅力。

私は「『枕草子』は平安時代の『暮しの手帖』、『後宮中の暮しの記録』でもある」と、少々乱暴な例えさえも思いついているが、当時を生きた人たちの暮らしの息遣いや、ちょっとした生活の工夫の記録も読み取れる。

『枕草子』には『源氏物語』とはまた別種の、深い人生観・生活観が反映されている。「光る君へ」制作陣がそこにほとんど敬意を払わず、道隆一家ヘイトやまひろ引き立てのための道具としか見ようとしなかったのは、残念にも程がある。

藤原伊周をあまりにも悪く描き過ぎたから、子供を含む現代人向けに『枕草子』のあらましを易しく紹介する本や清少納言について語る本で必ず載っている、書き始めた動機についても描写できなくなったではないか。

この文章を書いている時点で第21回はまだ放送されていないが、どうやらつじつま合わせのため、虚構に虚構を重ねる進行にするらしい。それは絶対の禁じ手のはず。
「砂上の楼閣」という言葉をお忘れだろうか?

…そりゃ、現代の定子さまに『枕草子』を詳しく読み込まれたくないはずだ。あまりよく存じ上げない俳優さんだが、ウイカさんのお話ぶりからして、おそらくとても聡明なお方なのだろうから。

今後もこの調子で行くのならば、『枕草子』ファンがグッと来る、「里下がり中の清少納言にあてて定子さまが紙や高麗べりの畳を送り、さらに山吹の花びらに”言はで思ふぞ”(そなたの辛い気持ちは言わなくても、私にはよくわかっていますよ)とメッセージをしたためて、戻ってくるように促し、清少納言はそれに応えた」という、今の言葉を使えば”推しの本懐”エピソードは、ドラマ制作陣に下手にさわってほしくない。ウイカさんと現代の定子さまコンビでぜひ見てみたいシーンではあるけれど。

”初めての映像化”に対する責任

私が一番好きな大河ドラマ作品は「太平記」である。この作品は今なお強い影響力を持っている。「長崎円喜は、フランキー堺の顔で覚えている」とおっしゃる、その時代の歴史研究者がいたり、金沢(北条)貞顕ゆかりのお寺を「アタックチャンスの菩提寺」と形容している人がいたりで笑える。

佐々木道誉は法名で、実際は若いうちに剃髪しているはずだが、今の人には派手な衣装を好む武士で、ハッハッハッハと豪快に笑い、人を食った言い方をする”判官殿”として覚えられているだろう。すなわち、普段あまり話題にならない時代の人物は、唯一の大河ドラマがその印象を決めてしまう。

「光る君へ」が終了した後も、藤原実資は色が黒く恰幅のよい人、藤原斉信は切れ上がった目じりが印象的な人、源倫子は一見おっとりした猫好きのお嬢さまだが、腹の中がなかなかわかりづらい人という印象で、現代人に記憶されていくだろう。「初めての映像化」とはそういうことである。大河ドラマは「歴史再現ドラマとしての側面を持つエンターテインメント作品」として世のコンセンサスを得ていて、それが放送局に対する芸能界側からの信頼にもつながっている。本作制作陣は、その責任をどこまで理解しているか。

あまり話題にのぼらない時代を取り扱う貴重な作品で「ひどい人格の持ち主」と表現されて、そのイメージが当分定着してしまう現象の怖さを、制作陣はわかっていないのではないか。藤原道隆・道兼・伊周・隆家・義懐たちにどう申し開きするのか。

近代・現代を生きた人を相手に悪い描き方をしたら、たちまちBPO行きになるだろう。1000年以上前の話で、一条帝以外は直系の子孫がいなくなっている人たちだから、好きに作劇しても構わないと、油断しているのではないか。

翳りゆく魅力

「光る君へ」の話が進むにつれて、まひろの魅力がどんどんくすんで行った。大石先生が躍起になって、いろいろな活躍を盛り込もうとするたびに空回りを起こしている。

第20回では、越前守に任命された源国盛の申文が文章博士の代筆であったことを道長が問題視した後で、為時が提出した申文がまひろの代筆によるものであると気づいて、淡路守に決まっていた為時を越前守に任命しなおす話が描かれた。為時が一条帝に漢詩を奏上して、それに感動した帝の命で越前守となったという有名な逸話をアレンジした形だが、視聴者はそのダブルスタンダードぶりを微笑ましく見るものと信じて疑わないのだろうか。「世界はまひろのためにある」かのような作劇が続くと、やがては番組について解説・考察するサイトの文章までもが空疎に見えてくる。

「好感を持たれ、信頼を置かれているうちは、多少の欠点があっても好意的に見てもらえるが、一度信頼が失われたり、不信感を抱かれたりすると、些細なことでも徹底的に悪く受け取られる。」

今ではよく知られている、人の心理の傾向である。私自身長年そこに思いが至らず、幾度も苦く惨めな思いを味わった。制作に携わっている皆さんも、おそらく失敗を重ねつつ人生経験として消化しているはずである。それをなぜドラマに反映しようと思わないのか。

後半、まひろが越前から都に戻ってきて、道長の政権が盤石になったら、再び大石先生の得意パターンに持ち込めるではないか。道隆が関白になった時代を描く際は辛抱のしどころと割り切り、主人公側をよく書きたい気持ちをぐっとこらえて、筆致を抑える姿勢を、なぜ取れないのだろうか。

近年は様々な分野において「目先の利益しか眼中に入らず、大局観を持った判断ができない」話をよく聞く。アカデミズムやエンターテインメントの世界でも「今だけ金だけ自分だけ」の毒が回りつつある。大河ドラマも例外ではないと思い知り、今(2020年代)という時代の深い闇をのぞいた感がする。

「光る君へ」は、序盤で大がかりなフィクションを仕掛けて視聴者を振り向かせた。それを嘘くさく感じさせないためにも、中盤は定石通りに話を進めていくほうがよい。数回分の尺を取って、清少納言や定子さま、一条帝、さらに道隆や伊周について、書籍などを通じてよく知られているエピソードをたくさん紹介して、魅力的な人物に描いた上で長徳の変以降の暗転へと進めていくほうが、物語に深みが出るし、制作陣が最も思い入れのあるところの、後年の主人公サイドの活躍ぶりの描写にも説得力を与えるだろう。

好きなキャラクター

苦言を呈するにも結構エネルギーを要する。ここで「ドラマに登場した、好きなキャラクター」をあげて、気分転換を図りたい。

<男性>
1. 一条天皇
2. 源雅信
3. 藤原宣孝
4.  直秀

<女性>
1. 藤原定子
2. いと
3. 清少納言
4. 藤原穆子

一条帝と定子さまはビジュアルが飛びぬけてすばらしい。お二人とも、現代人でいるところが想像つかないほどである。それだけになおさら、ぐだぐだ脚本の犠牲になったことがおいたわしい。

いとは、単なるコメディリリーフに留まらない存在感を示している。兼家が世を去ったと聞いた際、一応は為時から見えない位置に隠れつつ満面の笑みを浮かべて喜ぶ姿や、あちこちほっつき歩き、特に道長がらみのことになると夢遊病者のようになるまひろに言葉の釘を刺す姿や、「姫様と大納言様は、間違いなく深い仲でございます」と、抱っこする様子を身振り手振りで表現しつつ、興奮して為時に話す様子など、その人間くささに共感を持つ。乙丸百舌彦の従者コンビはちょっと出来すぎに描かれている。

清少納言は、ウイカさんの役に対する情熱にきちんと応えられる脚本になっていない。文字通りの”役不足”である。為時宅で油を売る場面は、道長のうわさ話などではなく、まひろとの文学観の違いが視聴者に伝わる話題にできないか。たとえば

「この間、隆家さまが”姉上、すばらしい扇の骨を手に入れましたよ!ふさわしい紙を探しております。あれほどの骨は見たことがありません!”とおっしゃって、身ぶり手ぶりでお話なさるので、中宮さまがお笑いなされて。私は”それ、クラゲの骨じゃありませんの?”と申し上げましたの。」

「まあ。」

「隆家さま、”それは私が言ったことにいたしましょう。”ですって。」

「それ、隆家さまは本当にクラゲの骨を手に入れたのかもしれませんよ?」

「まひろさま、そんなわけ…」

「いいのですよ。まことにクラゲの骨が見つかったという奇跡にすれば、物語ができるでしょう?」

「まひろさまは、何でも物語にしてしまうのですね。」

…とすれば後半の布石にもなるし、文学的にも深みのある場面にできるだろう。実際は清少納言が思いついたアイデアで、みだりに変えては専門の研究者に叱られるかもしれないが、この話ならば政治の根幹に直接関わらないし、ドラマ上まひろに手柄を譲る演出にして構わないだろう。少なくとも往年の人気コント番組を彷彿させるような趣向よりは、いくらかでもましではないか。

それでもここに清少納言を挙げるのは、第20回で藤原斉信に「中宮は見限れ」と言われた際、心底軽蔑するような表情を向けたことに対する評価である。「必要以上に、こいつに構ってしまったのは、不覚だった」という悔いも含む顔つきは見事だった。

宣孝は最初こそドラマ内でそう目立つキャラクターではなかったが、「山吹のいみじくおどろおどろしきにて」を映像化してくれたことに拍手を送りたい。あれ以来、為時家のシンボルカラーが濃い黄色になった。実資には例の絵、まひろには紅と、相手の心理のツボを押さえるプレゼントができる人として描かれている。

藤原穆子ママは、一見物静かでおっとりした性格のように見えて、要所要所で策士の顔を見せるところがよい。この人に関しては若かりし頃のご活躍がらみでよく語られている。「狼なんか怖くない」を思いつく人は多いが、倫子と道長の結婚話をまとめる際「『私のドン』ではなくて『私がドン』だ」と評した人がいて、横隔膜が痙攣するほどに笑い転げた。

ベテラン陣では何と言っても源雅信。兼家や詮子からいろいろと圧を受けて情けない声をあげながら、よき父親であろうとする姿勢だけはぶれない姿がよかった。実際は倫子とあまり年齢の変わらないはずの、斉信の妹のひとりを妾としていたと聞いて、平安時代の闇を感じている。

直秀については以前の記事で詳しく言及したので、ここでは割愛する。

Dark Soulmate

私自身はSNSで「光る君へ」関連の投稿を一切していない。ドラマファンや”歴史オタク”、平安文学愛好者の方のアカウントは、どなたもフォローしていない。いいねもつけていない。まだ、語るに足るものを何ら持ち合わせていないゆえである。しかし様々な知見を得て、考察を深めるためにSNSは貴重な手段である。脚本が迷走を始めたおかげでいろいろ調べはじめ、高い識見をお持ちの方のご発言に触れる機会ができたのは、私にとって望外の収穫だった。

とりわけ、国文学研究者の圷(あくつ)美奈子さんによる「1940年改訂の小学校国定教科書『小学国史』において、藤原道長の専横を栄華と言い換え、その顕彰を図ろうとした」という研究成果(2020年10月学会発表「教科書の中の『藤原道長』-『望月』の表象と<戦前>の歴史教育、国語教育をめぐって」)には驚かされた。いわゆる”皇国史観”を色濃く反映させた戦時中の歴史教育と言えば、文永・弘安の役の際の”神風”、楠木正成・正行父子の過剰な顕彰、足利尊氏・直義兄弟を「稀代の逆賊」と教えたエピソードがあまりにも有名で、亡き祖母や母もよく話していたが、それだけではなかったとは!

この知見を踏まえて、改めてドラマストーリーを思い返してみると、道隆・伊周に対する異様なまでの貶め方や定子の描き方は、足利氏を「逆賊」と刷り込もうとした策動にもどこかオーバーラップするものがあり、背筋が寒くなってくる。

圷さんは1990年代から『枕草子』について精緻な読解研究を続けているお方で、査読を経た優れた論考をいくつか発表なされている。ご著書を拝読したいと思うものの、いずれも専門書である。国会図書館か都立図書館に行けば多分あるのだろうが、素人がNatureやThe Lancetの文献をいきなり読もうとするようなもので、今の我が知識レベルではとても読みこなせないだろう。

「光る君へ」制作陣は、「もともと陰険な独裁者として語られてきた藤原道長を再評価しようとする試みは、戦争前夜の歴史教育にも通じる」という指摘に対してどこまで自覚的なのか知るよしもないが、今からでもまひろと道長を「Dark Soulmate」と再定義できないだろうか。少なくとも状況証拠をつかみつつある倫子にとって、二人は既にDark Soulmateである。

27日月曜日に公開するべくこの記事を準備していたが、その前の金曜日(24日)、さる資料がポストに届けられた。早速目を通す。なるほどなるほど、そう持っていくおつもりか。

もちろんネタバレになるのでここではあからさまに記さないが、やはり「私がドン」なのか。

しかし、制作スタッフは『枕草子』と定子さまに対する敬意が本当に薄いねえ…劇中ただ一人、今も直系の子孫がいらっしゃる登場人物の愛情をそう描くの?…まだまだSNSは荒れそうである。あるいは見限られる形で静かになるのか?

一番の懸念は、二首の御製の扱いである。
先に詠まれたほうは、ドラマで取り上げられるかどうか。
そして後に詠まれたほうは、『権記』に基づく解釈がなされるかどうか。

今の世はいつまでも続くか?

SNSで「何年か後に清少納言のドラマを作ってほしい」と無邪気に言うドラマファンのアカウントを見かけたが、まず期待できないだろう。道長再評価の歴史修正という以前に、何の不安もなくテレビドラマが制作放送され、当たり前のようにそれを楽しめる環境は果たしていつまでも続くだろうか。良くも悪しくもノストラダムスに鍛えられた人生ゆえ、どうして何年も先のことをそんなに楽観視できるのだろう、と思ってしまう。政治劣化、利益至上、知性軽視、デジタル全体主義などに代表される社会情勢、さらに気候変動、大規模災害…現代社会が抱えるカタストロフィーへの懸念は、ノストラダムスとは違って相応の科学的根拠を有する。

「光る君へ」の第1回が放送された日の昼過ぎから「花子とアン」というドラマの総集編を再放送していた。初めて見る作品だが、結構面白くできていて、録画をかけておけばよかったかもと思った瞬間、緊急地震速報が鳴った。能登半島の地震活動が、まだ活発だった。せめて今年1年だけは平穏であってほしいと祈った。「光る君へ」は、その希望になるはずだった。なのに…。

ぐったりもやもや疲れた心を抱えたまま、もうすぐ熱帯夜地獄の季節を迎える。

※タイトル画像はYUKARIさんのイラストを使いました。



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