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短いほうの時間

春はあけぼの。
夏は夜。
秋は夕暮。
冬はつとめて。

『枕草子』冒頭の、あまりにも有名な言葉である。
有名になりすぎて、『枕草子』はそれだけかと思っている人は、数ヶ月前までの私自身も含めて、少なくないだろう。

改めてこれらの言葉を見ると、各々の季節において「より短いほうの時間帯」に風趣を感じる心が伝わる。長いのは好きでないのだ、いろいろな意味で。

あけぼの、すなわち夜明けの薄明は忍び足のように始まり、ほんの少しの時間あかね色の空と紫色の雲を見せ、赤玉のような太陽が顔を出したかと思えば、みるみるうちに明るくなる。

夏の夜は短い。
待ちかねるかのように日が暮れると、どこからともなく涼しい風が吹き、うだるような暑さから解放される。月あかりや蛍の光跡、雨音の気配をふと感じて、一日張り詰めた心が一瞬なごむ。

秋は日暮れが早まる。
夏の頃は疎ましいほどだった陽光が、不意に愛おしくなる。
夜明けとは逆に、空の移ろいは裾引く余韻を残す。上を向けばカラスや雁のシルエット、下に目を移せば茂みからの虫の音が愛惜の念を彩る。

冬の朝は遅い。
まだ暗いうちから炭火を起こし、御前にお持ちするため、雪景色の長い廊下をしずしず歩く。不意に顔にかかる、炭火の暖かさと匂い。中宮さまは今日もご機嫌麗しいだろうか。寒い朝だからこそ、余計愛おしい。

それぞれ短時間のうちに現れて、うっかり気を取られているうちに消えてしまうものだからこそ愛でたいのだ。この文章が1000年を超えて語り継がれるのは、その心の動きに共感する人が、いつの時代にも絶えなかった証だろう。

清少納言は、同僚の女房たちが見逃してしまうようなところにまでアンテナを張っていた。それは何の思惑もなく、彼女にとってはごく自然なことだったのだろう。中宮は彼女のそういうところもお気に召していたとうかがえる。

メディアにもよく出演する、平安時代の文化風俗について研究している専門の先生が

「枕草子は、美化に美化を重ねて書かれている」

と発言されていて、悲しくなった。作者としては、一部の読者をいたずらに刺激しないように筆致をコントロールする工夫はしても、基本的には気負わず自然体で綴っていったのではないか。現代のカメラレンズのように。

美化に美化を重ねて描かれようとする人は、多分他にいる。


このnoteでは毎回6000字前後の長い記事を書いているが、たまには清少納言に敬意を表して、短くまとめてみようか。


以上で、ちょうど1,000字となりました。
今回もYUKARIさんのイラストをタイトル画像としました。



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