見出し画像

【枕草子】よしよしの関


類聚段

改めて「枕草子」を読んでいる。

この作品には「島は」「浜は」「森は」など最初にお題を記し、それに対応するものを次々と挙げていく短い文章が結構多い。専門用語では「類聚(るいじゅう)段」という。

例えば

寺は 壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるが、あはれなるなり。石山。粉河。志賀。

角川ソフィア文庫 新版枕草子 197段

と、今でもよく知られている寺院を挙げている。

お題の対象は、草・鳥・虫・猫など身近な動植物、星・雲・月など空にあるもの、指貫・狩衣・扇の骨など当時の生活必需品と様々だが、地名や施設名もたびたび取り上げられている。それも本人が直接行けるはずのない、かなり遠方の土地にまで言及されている。

浦は をふの浦。塩釜の浦。こりずまの浦。名高の浦。

角川ソフィア文庫 新版枕草子 195段

現代の市町村名をあてはめると

をふの浦:三重県多気郡明和町大淀(伊勢)または三重県鳥羽市(志摩・麻生の浦)
塩釜の浦:宮城県塩釜市
こりずまの浦:神戸市須磨区
名高の浦:和歌山県海南市

となる。須磨を「こりずま」と称するのは「懲りず」との掛詞として使われた例(古今和歌集収載「こりずまに またもなき名は 立ちぬべし 人にくからぬ 世にしすまへば」など)を意識したのだろう。

動植物や自然現象に関しては清少納言が直接見た際の印象で列挙していったのだろうが、遠くの地名に関する知識はどのようにして得ていたのだろうか。

まず考えられるのは「歌枕」。古来から数多の和歌に詠まれて、いつしか歌を詠む際にふさわしい語句として定着した地名である。清少納言は当時入手できる和歌集を熟読して覚えていったのであろう。それは、中宮定子から何かご下問がある際、詠歌に限らず、いつでもすぐに気の利いた答えができるようにするための勉強だったと想像する。

清少納言流 記憶力アップ術

清少納言は時折、地名の文字や音の響きから受ける印象を添えつつ筆を進める。

な入りその淵、誰にいかなる人の教えけむ。

角川ソフィア文庫 新版枕草子 14段より

「な入りその淵」は現在の大阪府大東市にあった池のこととされている。

「誰がどんな人に”入るな”って教えたんでしょうね?」

無闇に入ったら危ない、くらいは知っていても、誰が誰に注意したのかの方が気にかかっていたのだろう。

地名の音の響きといえば、北海道のアイヌ語由来地名を思い出す。19世紀後半に入植した開拓者たちはアイヌから土地の名前を聞いて、その音や意味から連想される漢字をあてはめていった。このnoteでも以前「十弗」について記事にしたが、

ユク・トラシ・ペツ(鹿が沿って上る川)→幾寅
クッタルシ(イタドリが群生するところ)→虎杖浜(こじょうはま)

など無数に例がある。イタドリを虎杖と書くことについては「枕草子」の「見るに異なることなきものの、文字に書きてことことしきもの」(見れば大したことないのに、字に書くと大げさなもの)でも言及されている。

虎杖(いたどり)は、まいて虎の杖と書きたるとか。杖なくともありぬべき顔つきを。

角川ソフィア文庫 新版枕草子 149段より

清少納言は疑問を解決しきれなかったが、茎の模様が虎の皮に似ていることに由来するらしい。

このように、文字を見てまず感じたことをメモしたり、誰かから聞いたことを何か他の物事と関連づけて覚えていったりは、現代でも記憶力アップ術として推奨されている。清少納言は日頃から記憶力を鍛える習慣を身につけていたがゆえに、女房仲間たちの中でとりわけ優秀と評される立場となったのだろう。

畿内→伊勢→奥州→駿河→?

さらによく見ていくと、後世の研究者が調べても具体的な位置を比定しきれない、歌枕として使われた形跡もない地名まで現れる。私は以下の段に着目した。

関は 逢坂、須磨の関。鈴鹿の関。岫田の関。白河の関。衣の関。ただ越えの関は、はばかりの関にたとしへなくこそおぼゆれ。横走の関。清見が関。見る目の関。よしよしの関こそ、いかに思ひ返したるならむと、いと知らまほしけれ。それを、勿来の関と言ふにやあらむ。逢坂などをさて思ひ返したらむは、わびしかりなむかし。

角川ソフィア文庫 新版枕草子 107段

<意訳>
関は、逢坂の関、須磨の関、鈴鹿の関、岫田の関、白河の関、衣川の関。ただ越えの関(ただ越えるだけの関)は、はばかりの関(躊躇する関)と比べようがないと思う。横走の関、清見が関…見る目の関。”よしよしの関”(まあ、いいかの関)とは、一体どのように思い返したの?って、とても知りたいよね。越えずに踏みとどまった関を勿来(な来そ=来るな)の関と言うのかしらね。逢坂の関をそんなふうに思い返したら、つらいでしょうね。

「源氏物語」に登場する

こりずまの浦のみるめもゆかしきを
塩焼くあまやいかが思はん

は、「古今和歌集」の和歌を意識しているかに見せかけて、ちゃっかりこの段から引っ張ってきている。シキブさん、さんざん「枕草子」のお世話になっておきながら、ナゴン先輩に対してあの書き様はないでしょ。”人を憎んで作品を憎まず”なのかもしれないけれど。

再び現代の市町村名(※)をあてはめてみる。
(※)1984年現在の名称を用いる。2000年代の広域合併により、土地の歴史に由来する名称が市町村名に直接反映されなくなった事例が増えたため。

逢坂の関:滋賀県大津市
須磨の関:神戸市須磨区
鈴鹿の関:三重県鈴鹿郡関町
岫田(くきた)の関:三重県一志郡白山町川口
白河の関:福島県白河市
衣の関:岩手県胆沢郡衣川村・西磐井郡平泉町
ただ越えの関:万葉集より「直越」の字をあて、奈良県生駒市・大阪府東大阪市の暗峠とする説がある。
はばかりの関:宮城県柴田郡柴田町 船岡城・白石川付近
横走の関:静岡県駿東郡小山町
清見が関:静岡県清水市
見る目の関
よしよしの関
勿来の関:福島県いわき市

当時の都人になじみの深い近場から始めて、伊勢参りに所縁の関を続けたと思いきや、いきなり奥州に飛び、当時は東国の辺境だった駿河まで戻った挙句、謎の関を書き連ねる。(「枕草子」は富士山について全く言及されていない。)
なんじゃこりは?

脳内の動きを想像する

書いている時、清少納言の脳内で起きたことを想像してみる。最初は歌枕のみならず、周囲の貴族連中の話によく出てくる近場の関を思い出し、次に奥州の歌枕を連想する。奥州といえば少なからず思うところもある。

「何思い出しているのよ、回り道しちゃった。…えー、横走の関、と。」(”横走り”には”回り道”の意味もあるらしい)

セルフツッコミを入れつつ、横走の関からの連想で同じく駿河にある清見が関を挙げて、「見るといえば、見る目の関というのも確かあったんじゃなかったっけ?」

そこから再び思考が脱線しはじめる。

「そういえば誰か、よしよしの関なんて言っていなかったっけ?どうして”まっ、いいか!”なんて思い直したのかしらね…」

ため息をつきながら文章を仕上げる。

この思考過程には、実際に清少納言の身近で起きた事件が関わっているのではないかと、さらに妄想を広げてみる。

妄想ストーリー「よしよしの関」

清少納言と親しかった男性貴族は、ドラマ「光る君へ」にも登場する藤原斉信(ふじわらのただのぶ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)がよく知られている。この二人との間に生じたエピソードは「枕草子」にも詳しく記されている。

彼らとはある意味ユーモラスなやりとりをしていて、清少納言にとって気の置けないボーイフレンドと言えるだろうか。

他に、左近衛中将・藤原実方(ふじわらのさねかた)とも親しかったと言われている。父は藤原定時、母は源雅信女(源倫子の異母姉)。父が早世したため、叔父・藤原済時(関白藤原道隆の飲み友達のひとり)の養子となった。歌人としても知られている。「枕草子」における登場頻度は少ないが、だからこそ清少納言にとって秘めた恋、”本命”だったのではないか、という見方もある。贈答歌もいくつか交わしている。

実方は995年(長徳元年)1月、陸奥守に任ぜられる。突然の人事異動で憶測を呼んだらしい。一説によれば、朝廷の御前で和歌を巡って行成と大ゲンカした末、一条天皇に「みちのくの歌枕を見て参れ」と叱られ、左遷されたというが、これは後世の作り話とも言われている。

その年は疫病が流行していて、4月には養父・済時も感染の末薨去。実方は喪に服し、それが明けた9月に帝から餞別を賜り出立した。赴任から3年あまり過ぎた長徳4年12月(太陰暦。ユリウス暦では999年1月)、現在の宮城県名取市内で乗っていた馬が倒れ、その下敷きになる事故が起きて亡くなったという。都への帰参はかなわなかった。

これを踏まえて、妄想ストーリー「よしよしの関」を考えてみた。

第1幕

995年10月。後宮で中宮定子づきの女房たちがおしゃべりしている。

女房A「そういえば左近中将さま(実方)、もうみちのくにお着きになられた頃かしら?」

女房B「そうねえ。もうお見えにならないとわかっていても、淋しいわね。」

女房A「勿来の関、はばかりの関、どちらをお通りになられたのかしら?」

女房B「さあ…(私に聞かれても…)」

女房A「左近中将さま、”都を離れるのは気乗りせぬ”と仰せだったけれど、出立の日に帝からお餞別たんと賜って、”よしよし”(まっ、いいか)と仰せになられたそうよ。」

女房B「うふふ。踏ん切りがついたのでしょうね。」

女房A「勿来(来るな)の関やはばかり(通行が憚られる)の関があるのだったら、”よしよしの関”があってもいいわよね。」

女房B「いいわね、それ!よしよしの関、うふふふ!」

二人が声を立てて笑っていると、定子から召し出されて御前に向かう清少納言が隣の廊下を通りかかった。二人の話をそばで聞いていた女房がたしなめる。

女房C「しーっ。今、少納言さまがお通りになりましたよ。」

女房A「あっ…左近中将さまは、確か少納言さまの…」

女房B「お話変えましょうか。」

女房C「お二人とも、お声が高すぎですよ。」

女房A・B「はい。」

二人は声を潜めて話を続ける。この時、中宮さまは何を仰せになられるだろうかと思いを巡らせ、急ぎ参上しなければと頭がいっぱいだった清少納言の耳には、扇ごしに「よしよしの関」という言葉だけが聞こえていた。

第2幕

それに先立つ995年8月。清少納言の局を実方が訪ねてきた。

「出立の日が決まった。来月27日じゃ。」

「まあ…」

「明日から支度に入る。そなたとも、当分会えぬ。今宵は語り明かそう。」

「ええ、存分に。」

二人は十六夜の月を眺めつつ、徒然に語り続けた。世間話、ちょっとした笑える失敗、出会った頃の話、定子と帝の仲睦まじさと茶目っ気…外では秋の虫が涼しげに鳴いている。

夜が更けると、自ずと肌が重なった。

「そなたも、共に参るか?」

「もったいないお言葉…意地悪ですわ。」

「ははは、一応は言うておかぬとな。中宮さまがご案じ召されたら、どうかよしなにお伝え差し上げてくれ。」

「かしこまりました。…流行り病は峠を越えましたやら。どうぞお気をつけて。」

「うむ。…いかがした?」

清少納言の目に涙が光る。

「このまま、時を止めとうございます…」

実方は無言でうなずく。

「必ずや、息災でお戻りくださいませ…」

「案ずるな。」

実方は再び、強く抱きしめた。

数日後、内裏からの使者が「この度の下向にあたり、帝より餞別が下賜される」と実方に知らせてきた。

9月27日。実方が帝に拝謁すると、出された餞別は彼が予想していたよりもはるかに多く、かつ豪華なものだった。

御簾の向こうでは、帝が優しく微笑まれているご様子。実方は改めて、時に我を忘れ声を荒らげることもあった、これまでの無骨な態度を恥じ入った。

「まこと、有難き幸せに存じまする。」

帝が下がると実方は伏した顔を上げ、晴れ晴れとした表情を浮かべた。

「まあ、これでよしとするか。みちのくの歌枕を見て参ろうぞ!」

実方は東山、さらに逢坂の関の方角を見つめた。

その頃、清少納言は密かに歌を詠んでいた。

”とこもふち 淵も瀬ならぬ涙川
袖の渡りはあらじとも思ふ”
(私の寝床は涙の淵になっています。浅瀬ではなく、涙の川です。あなたが出向く袖の渡りも、これほど深くはないと思います。)

第3幕

995年10月。実方の一行は下野(栃木県)に入った。

「都より、空の色が濃いのう。」

関東では冷たく乾いた風が吹きはじめ、澄んだ青空が広がっていた。従者が火を起こすと、たちまち多くの草が燃える。同じ晴れた日でも季節により、時刻により空の色合いが違って見える。そこに趣が感じ取れると教えてくれたのは…あの女だった。

歌枕によく出てくる「さしも草」(よもぎ)が生えるという伊吹山の丘(現代の栃木市吹上)が見える。

「これが伊吹山か…近江の伊吹よりずいぶん小さいのう。」

かつて

”かくとだに えやは伊吹のさしも草
さしも知らじな 燃ゆる思ひを”
(こんなにも恋焦がれていると伝えたいのに、言うことができません。伊吹山のさしも草が燃えるほどに恋しているとまで、あなたは知らないでしょう。)

という歌を詠んだことがあった。もともとは高貴な姫君目当てで詠んだ一首だが、あの女がどこかでこれを目にしたのか、

”思ひだにかからぬ山のさせも草
誰か伊吹の里は告げしぞ”
(思いもよらなかったわよ!誰が伊吹の里に行くなんて言ったの?)

と詠んでいたと、不意に思い出す。自分にとってほろ苦い記憶が残る一首を目ざとく見つけ、そう詠むとは恐れ入った。怒る気にもなれない、むしろ痛快な思いだった。

その時は自分もまた、下向など思いもよらないことだったが、今まさに伊吹の里を目の当たりにしてみると…。

あの女の勘は大したものだった。
さすが、中宮さま一番のお気に入りだけのことはある。

実方は白河の関を越え、みちのくに入った。さらに北へ進み、白石川沿いの道を通ると、小さな関所が設けられていた。はばかりの関である。

”やすらわで思い立ちにし東路にありけるものか憚りの関”
(ためらわず思い立って来た東国だが、憚りの関まで来ると気後れしてしまった)

この旅で初めての、不意に湧き起こる真の思いに実方は気づいた。

逢いたい、あの女に。
恋しい…。

第4幕

995年11月。定子から早上がりを許された清少納言は、局で燭台を灯し、炭櫃の火を起した。そろそろ冬至。都では時雨も多くなってきたが、今日はよく晴れている。日は既に暮れ、西に茜色をわずかに残したコバルトブルーの空といくつかの星が屋敷を覆っている。

今宵も紙を広げ、墨をする。

「今日は筆が進みそう。」

そんな予感がする。

今日は御前で「関」の歌枕が話題に上った。清少納言は女房たちの話を思い出しつつ筆を取る。

「関は、逢坂の関、須磨の関…」

書き始めたら、ある女房が「ただ越えの関」と答え、定子が「それは万葉集にありますね。」と応じた、先ほどの場面を思い返す。その時、実方の顔がふと思い浮かんだ。

「河内のただ越えの関なんて、実方さまが通ったはばかりの関より、ずっと近いじゃないの。比べ物にもならないわ。…あっ、そういえばこの間誰か、”よしよしの関”なんて言っていなかったっけ?」

清少納言はあれこれ思い出そうとしたが、そんな歌枕は聞いたことがない。

「あのお方、出立の時”まあ、いいか。”と仰せになられたと聞いたけれど…どうしてそんな風に思い返したの?帝からのお餞別に満足しちゃったの?知りたいわ、知りたい…」

一段書き上げて御簾を上げると、空は既に漆黒に包まれていた。

ふっとため息をつくと、ろうそくの炎がふっと揺れた。

藤原実方陸奥守赴任から998年後の”はばかりの関”付近
(1993年4月、宮城県柴田郡柴田町)

日常会話から?

以上は素人なりの妄想だが、この件に限らず「枕草子」に登場する不思議な地名は、日頃女房仲間と付き合っているうちに、清少納言本人なり他の女房なりが思いつきで、あるいは冗談として言ったものが結構含まれているようにうかがえる。後世の学者や専門家がいくら考えても確かめられるはずがない。私たちが普段、身近な誰かとおしゃべりしている話やジョークのほとんどがその場で消えてしまって残らないのと同じである。

歌枕によく出てくる遠くの地名を覚えることは、現代人にとって見知らぬ外国の細かい地名に接することに相当するだろう。紙が貴重で簡単にメモすることもままならない時代、誰かの空想から生まれた言葉や、現代人が「寒い」と卑下するダジャレなども、記憶をつなぎとめるための大切なツールだったと想像できる。

「枕草子」は随筆の元祖とも言われているが、先例がなく、本人にその意識があるはずはない。中宮からのご下問に対応するためのメモ&記憶力トレーニング、日々のおしゃべりで印象に残った話や身の回りの様々な事物に対する自分の心証、人間観察、後宮で起こった特筆すべき出来事、さらに定子崩御後「あの素晴らしい後宮をもう一度」と、できる限り記録に残しておきたいと思い立ち、改めて筆を取ったものを混然一体に記した集合体が「枕草子」ではないだろうか。

ウイカ少納言

「光る君へ」では、第7回にもファーストサマーウイカさん演じる清少納言(ききょう)が登場した。

やんごとなき姫君たちが屋外に集まって顔出しの上打毬見物などあるわけないこと、にわか勢でもわかるレベルやろ!というヤボなツッコミはさておき。(もしかしてツッコミ上等、どんどんかかって来いと思いながら脚本を書いている?)

ききょうは、赤染衛門から挨拶を受けると満足げに微笑む。(かなり先の話になるが、赤染衛門は女房引退後の清少納言の消息を知るひとりという。)一方、倫子はじめ左大臣家の姫たちについては徹頭徹尾無視。

茅子は「何この人、清原さまの?身分の割に偉そうな。うちに来るのがまひろさんで、まだよかったわ。こんなのが来たらもう、やってらんないわよ!」と内心思っていただろう。

ウイカ少納言、快調に飛ばしているのは何よりだが、最初から態度の大きい人物に描いてしまうと「宮にはじめてまゐりたるころ」の段のような、宮仕えにまだ慣れないウブな清少納言の姿は作れそうにない。藤原伊周にからかわれる前に、その両親にもう会っちゃったし。藤原実方も登場しなさそうなのが残念である。やはり「スピンオフ枕草子」を見てみたい。














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?