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ご神体が鏡の理由

今日は、弥彦神社にいってきました。
雨が綺麗に降っていて、
まるで自然のシャワーのようで
気持ちよかったです!
参拝したらやみました!

★神社のご神体には「鏡」が多い

参拝するとき、
ご神体を目にすることも
多いと思います。

その際、
鏡が多いなあと
思ったことはありませんか?

ご自宅用の神棚。
あれも、
ホームセンターで 
売られているものは、
ご神体が鏡です。

そもそも、
他のものを
ご神体にしている神社は
珍しいんですね。

なぜだろう、と
不思議に思いませんか?

私も気になって
以前いろいろ調べてみました。

そして最終的には
鏡であることが腑に落ちたので、
ちょっとご紹介します。

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★天照大神をあらわす「鏡」

日本の神道と
切っても切れぬご縁、
天照大神(あまてらすおおみかみ)。

実はこの神様をあらわすために、
鏡を祀っているそうなのです。

日本神話を
授業で勉強しなくなって
久しい今、
古事記の内容を知らぬ人は多かれど
(私も詳しくはありません)、

その名を知らない人は
少ないのではないか……
というほどの有名な神様、
天照大神。

太陽の化身であるといわれたり、
高天原を統べる最高神
と呼ばれたりしますね。

では、なぜ
この天照大神を表すことが、
鏡になるのか。

これは、神話にある
「天岩戸」のお話につながります。

ある日、弟神であるスサノオノミコトの狼藉に、アマテラスは天岩戸という大岩に隠れてしまいます。

アマテラスに出てきてもらうために、他の神々は色々画策し、アメノウズメノミコトに岩戸の外で踊って盛り上がってもらい、少しアマテラスに戸を開いてもらうよう仕向けました。

案の定、「外がにぎわっている。自分以外にそんな素晴らしい神がいるのか、見てみたい」と気になったアマテラスは、岩戸を少し開けます。

外には、鏡を用意しありました。
少し外を見たアマテラスは、そこにあった素晴らしい輝き(鏡に反射した自分の光)に驚き見とれ、一瞬気を取られます。

そこをタヂカラオさんに、一気に戸を開けてもらい、無事アマテラスを外に連れ出すことに成功した……というお話。


いわゆる神話の一シーンですが、
これは
「日食を表したものだ」
という意見が昔からあります。
太陽信仰です。


世界各国、
農耕を営む民の中には、
作物をはぐくむ太陽を
信仰の対象とする部族が
数多くあります。

日本も
農耕を大事にしていましたし、
太陽を神格化したものが
天照大神だと
いわれているのです。

どちらにせよ、
そのお話でも出てきたように、
太陽という輝きを
うつすために
鏡は使われました。

日本のほとんどの神様の
祖になっている
天照大神を
祀る、崇拝するという目的、

あるいは
太陽信仰を表すために、
鏡をご神体にしている神社は多い、
という訳です。


★「鏡」は唯一、自分を映すものだということ

つづいては
別の角度からのお話。

いきなりですが、
人は、
自分の姿を
自分で認識することが
できませんよね。

そこで鏡を使います。

余談ですが、以前ドラえもんで、「鏡のない世界」を「もしもBOX」という道具で見てみる回がありました。(子どもと見てました笑)

さて、
これが何を
意味するかというと、

つまり
鏡をご神体に持ってくると
いうことは
「自分自身を見つめなさい」
ということ。

人は、
自分の姿を
自分では
見ることができません。

ふだん、他人の尺度で、
自分を感じています。

自分が
どういう言動をしているかも、
自分では
外側から見ることが
できないわけです。

そこで、鏡の登場です。

鏡に自分を映すことで、
人はようやく
自分の姿と向き合えます

つまり、
神域である神社に
鏡を置くことで、
「真剣な気持ちで自分の姿を見てみなさい」
「自分本来の姿を見つめなさい」
という意味が
こめられている訳なのです。

自分は自分を正当に評価
しているだろうか。

他人の意見に
振り回されていないだろうか。

今日の決定は、
本心から
自分の意志だったろうか。

あえて
自分自身と向き合うことで、
それが見えてきます。

そしてそれが
神と向き合うことにも
なるわけですね。

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★神=自分、ということをあらわす「鏡」


鏡は、かがみと読みますね。
ちょっと言葉遊びのようなのですが、
こんな言葉があります。

「か我み」

これは何を表しているかというと、
真ん中に我(が)、
つまりわれ、
自分自身があります。

では、
「我」以外の部分は、
どうですか?

「か み」


そうなのです。
鏡は「神」の中に
「我」が入っている
言葉なのですね。

これは
何を表すかというと、
我、
つまり自我をなくすと
「神」になる、
ということなのです。

自我をなくすとは
つまり、
エゴをなくす
ということです。

「自利利他」
という言葉を、
聞いたことはありませんか?

これは仏教用語ですが、
自分の利益「自利」と
他人の利益「利他」が
合わさっている言葉です。

自分を幸せにすることが
他人の幸せにつながり、
ひいては
他人のためにすることが、
自分の幸せでもある、
という状態です。

「情けは人の為ならず」
と似ていますね。


仏とは結局、
このように、
悟りを
自分と他人のために
使う存在なのだそうです。

逆の言葉で
「我利我利(がりがり)」
というものもあります。

(ガリガリ……(›´ω`‹ ))

これは、
利益をすべて、
自分のためにする
という意味ですね。

この「我」を
なくした状態が、
「神」である、
というわけです。

無心になったとき初めて、
人は神とつながれる。
神になりうる、
という意味なのだそうです。

無心というと
心がない状態に
聞こえますが、
そうではなく
一心
に近いものです。

ただひたむきに、
心をこめている状態。
集中している状態。

スポーツでよく言う
ゾーン、なども
この状態であるといえますし、

何かに
一心不乱に
打ち込んでいる時にも
こうなりますね。

クリエイターの皆さまが
作品に集中しているときも、
この状態なのでしょう。

よく
「神がおりてきた」
なんて言いますよね。

実は、 
おりてきただけではなく、
我をこえて
「かみ」
になっているわけです。

そうなんです。
神は、
自分の「中」にある
のです。

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★神は自分の中にある、ということ


神性、
という言葉があります。 

これは、
神のように清いもの、
神のような性質、
という意味です。

神性を帯びる、
などと使われます。

今さらですが、
人は全員
「神性」というものを
生まれながらに備えています。

発揮しているかどうかだけしか、
差はありません。

なぜなら、
自分の奥に、
神がいるからなんですね。

これは
「我こそは神である!崇めたたえよ!!!」
なんていう、
勘違いも甚だしい
アヤシイ新興宗教とは
違います(笑)

「人はだれしも、そもそも神である」
という意味です。

全ての命は
目に見えないところで
つながっていて、

それらはすべて
神とつながっている、
ということなんです。

科学的にいえば、
量子力学においては
すべては波長である
とも言いますね。

すべては
観測するまでは粒子であり、
観測者の意志が伝わると
動きを変え、
運動をはじめるのです。

この
「人はだれしも神である」は
すべては粒子であり波長である」に
とても似ています。

神はそもそも法則である、
ともいえるわけです。

すべての命の中には、神が存在している
ということです。

結果、
神は自分の中にも
他人の中にもあります。

そして
自分の中の神とつながれば、
人はいつも
平穏な気持ちでいられるわけです。

だから私は、
ご神体が鏡……という
神社が多いことについて、
こう思うのです。

神は自分の中に在る。
自分と深く向き合え。

と。

最後までご覧いただき、
ありがとうございます!

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