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日記のハイライト (2022/8/某日)

ある暑い日、久しぶりに電車に乗った。身をかがめて懸命に電子機器を覗き込む群衆が、私を迎える。何人かはドア上部の液晶画面を見て、駅名を確認し、無関心そうな目つきのまま、手元の液晶を触る作業に戻った。

大人しく座っている三、四歳くらいの少女と、優先席に座る老人だけが前を見ていた。少女は、毎日訪れる新たな発見をこの空間に見つけようとしているのか、楽しそうに色々な場所を注視していた。だから、厭世観に満ちた眼差しで佇む老人を見て、その対比になんだか悲しくなる。私はまだ、あの少女が持つような好奇心を持てているのだろうか。私から見て左側に少女がいて、右側に老人がいて、私はちょうど真ん中、やや少女寄りの位置にいるからセーフだろうか。いや、そもそも私は年齢的にセーフだろうが。

こうやって杞憂に支配されている時、ADHDの症状がひどくなる気がする。この前も、部屋で眼鏡の行方が不明になり、ようやく見つけた頃には約束の時間だった。夜更かしをしていると、もっとひどい。親が起きるか起きないかの勘繰りに囚われてしまうから、集中力散漫になって常に貧乏ゆすりをしている。私の右脚だけやたら細い怪奇現象は、こうした背景の下で起きている。

到着間際を知らせるアナウンスが流れ、大勢が下車する素振りを見せ始める。群衆が個人の集合に化けて、電車内を狭くする。私と少女と老人とだけの空間は、どうやら横浜までのようだ。停車後、ドアが開くまでの数秒に緊張が走る。階段までは距離のあるドア位置なので、しばらくの間一緒に歩くだろうメンバーを確認する。『ファインディング・ニモ』の終盤、魚達が一致団結して同じ方向に泳ぐシーンを思い浮かべる。群れの魚、イワシだろうか。ドア窓に映る私は、間違いなく人間の群れの中の一人だった。私はイワシ。個性とか特徴とか特別な資質とかを持たないイワシ。

意外と長いドアが開くまでの数秒は、なにがイワシだよ、と私を我に返らせるには十分な時間だった。稀に脳内で起こる躁状態は、思考と論理を飛躍させ、その間考えること以外の一切が出来なくなるから怖い。ドアが開いて、世界が動き出す。乗車待ちの人々で囲まれた通路を抜けて、改札へ向かう。無数の靴音と声、誰が導くでもなく作られた列、自動改札機に足止めされるOL、その後ろの男性の迷惑そうな顔、柱に群がる待ち人、騒ぐヤンチャな学生。どれもこれも息苦しかった。通り過ぎれば忘却される顔々にも、その数だけ人格がある。誰もが自分の人生を持ち、自分を主人公だと思うが、結局は圧倒的多数を占める一般人に変わりない。どこか自分は特別な存在のはず、価値のある人間のはず、と思いながら、大きなことを成すでもなく、家族や親戚、友人で構成された小さなコミュニティで慎ましく生きる。思い出す価値もない日々の連続は、若々しさと世界への関心を奪って行く。気づけば堂々と優先席に座れるほど歳を取り、あの老人のように渇いてしまう。みんなみんなちっぽけ。もちろん私もその一員に他ならないけど。何百回も経験したこの無力感は、訪れるたびに前回を超える絶望を与えてくる。

ふと、どこに向かって歩いているのかを考えた。流されるように降りたが、私の目的地は横浜ではない。慌てて立ち止まる。スマホをいじっていると乗り過ごしてしまうから、と気をつけていたのに、スマホがなくてもダメじゃん。遅刻を詫びるメッセージを友人に送り、改札方面へと小走りで向かった。


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