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【落語小説】あやかし妖喜利物語 第二席 林家彦六伝

林家彦六伝

 気付くと与太郎は、古めかしい家の玄関の前に立っていた。最近ではとんと見かけることのなくなった三軒長屋である。

「あっ、さっきのチンドン屋!」

 隣にいたのは、例のチンドン屋の娘であった。今は剽軽な格好ではなく、煌びやかな花魁姿である。

「ウフフ、与太郎さん。そんなところに突っ立ってないで、早く中に行きましょう」

 娘は与太郎の手を取って、家の中に引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺は今持ち合わせが…」

 持ち合わせはないがこんな幸運を断るつもりもない。こうなりゃ居残りでもなんでもやってやると、自分から進んで中に入っていく与太郎である。

「キセガワよ、帰ってきたのかい」

 二人が玄関でドタバタやっていると、奥から落ち着いた声がした。中を覗き込むと、和室が二部屋の狭い家だった。4畳半と6畳。広い方の部屋には、人がいた。もの凄く歳を取った妖怪みたいなお爺さんが、火鉢の前に座布団を敷いて正座していた。

「師匠、ただいま戻りました。任務にピッタリの者を連れて参りました」
「ご苦労さん。そいつかい、元科学者の優秀な若者というのは」

 お爺さんは与太郎のことを指してそう言っているようだった。

(元科学者?確かに俺は化学工場の跡地に勝手に入り込んで住んでいるが。任務?それより若者ってどういうことだ?俺はおっさん歴30年以上のベテランだぞ?)

「それなんですけどね、師匠。やっぱりそういう将来のある人を連れてくるのは、どうも良心がチクチクっちゃいまして」
 キセガワと呼ばれた娘が言った。

「何、別人を連れてきたのか?」
「はい。ですがご安心ください。いなくなっても誰も悲しむ人がいない者を連れてきました」
「むう、それもそうじゃが」
「大丈夫ですよぉ。大名人エンチョ師匠が教えるんですから、心配ありませんってぇ」
「うえへへ、それもそうじゃのう。座布団一枚あげよう」

 見えすいたお世辞に相好を崩すお爺さん。ボンッと白い煙が出て、それまで何もなかった畳の上に座布団が現れた。

「うわっ、何だこりゃ、手品か?」

 驚く与太郎にキセガワが答えた。
「手品じゃないわ。これはエンチョ師匠の妖術よ」

「よ、妖術?てことは、やはりこの爺さん妖怪か!?」
「大師匠の前で失礼よ。それよりあなた、さっきから疑問がサザエの先っぽみたいに渦巻いてるんじゃないの?」

 それもそうだ。いくら与太郎の頭が空っぽだとは言っても、疑問だらけである。少し説明が必要だろう。

※林家彦六伝は、林家木久扇師匠の創作落語。八代目林家正蔵(後の彦六)に入門したときの状況を面白おかしく綴った傑作。因みに木久扇師匠は元科学者。

※中…吉原のこと。

※居残り…吉原で支払いができない客が店に残ること。居残り佐平次という噺がある。

※キセガワ(喜瀬川)は落語によくある花魁の名前。

※花魁が心中相手を選ぶ噺は品川心中。

※エンチョ…伝説的な大名人三遊亭圓朝とは無関係。


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