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「全てはブラフマンである」を実践してみた。

インド哲学を学ぶグループに参加している。
と言っても、リアルタイムでのミーティング参加はいまだハードルが高く、アーカイブ受講とコメントでのやり取りが中心だ。

今回はバカヴァッド・ギータ第10章
「バガヴァーン(全知全能者)の輝きについて」というテーマだった。

内容は私ではうまく伝えられないので省くけれど、とにかく「全てはブラフマンである」この一言に集約された世界観を存分に楽しむことができた。

ガイド役のYさんのおすすめは、散歩に出たときに「あれもブラフマン」「これもブラフマン」と思って周囲を見渡して歩いてみることだそう。

これはなかなか面白そう。(まあ、これを面白がって実際にやる人間は少数派だと思う)

実は、散歩に出るまえから「ブラフマン」を感じる機会があった。

キッチンで冷蔵庫から野菜を取り出した後、ドアを閉め忘れたので、つい足をつかって閉めた。「あっ、ブラフマンを足で触ってしまった。」
そういう意識が生まれてくると、今度はあらゆる事物に対する扱いが自分の中で変化しているのがよく分かる。

その日の夕方は、夫が急な仕事で不在の為、私が1人で2匹の犬を散歩に連れていくことになっていた。
山間の田舎道をのんびりと歩くのだが、まずこの犬たちの背中を見ながら、「雑種のブラフマン」「柴犬のブラフマン」と唱えてみる。


左が雑種のブラフマン、右が柴犬のブラフマン

雑種のブラフマンは草を食べてばかりでなかなか前に進まない。
柴犬のブラフマンは鼻息荒く猫を探してる。
「ブラフマン」ってかわいい。
「ブラフマン」って自由だなあ。

桃の木を見て「ブラフマン」、畑の人を見て「ブラフマン」、タンポポの花を見て「ブラフマン」、草、野良猫、子供、風、お墓。
そう、目に見えるもの、肌に感じるものは全て「ブラフマン」

皆さん、ついてきていますか?(笑)

そんな風に周りのものを感じながら歩いたことがなかったので、この日の散歩はとても楽しかったし、何より新鮮だった。

いつもは、他の犬とすれ違う時うちの犬が興奮して暴れるから嫌だなあとか、暑いなあ、寒いなあ、疲れたなあ、夜ご飯何食べようかなあ、などと意識があちこちに飛んでいることが多いけれど、「すべてがブラフマン」そう思うだけで、私は全体世界の中に包まれているような気がしていた。私は安心して歩くことができたのだ。
歩きながら瞑想を体験していたのだと思う。

そして、いちばん大切なこと。
それは、私自身も「ブラフマン」であると思い出せたこと。
だから私はもう全てを持っていて、既に十分満たされた存在であったのだ。私ってスバラシイ。そういうこと。


「ブラフマン」とは何か?を説明することなく、そろそろ文章も終わりへと近づいているけれど、やはり今は説明しないでおこうと思う。

私もあなたも「すべてがブラフマン」

きっと分かり合える日が来ると思う。
よくわからないまま、ここまで読んでいただきありがとうございました(^^)




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