イヤイヤ期に関する諸解説と照合してみた

こんにちは。年が明けてなお、我が子のイヤイヤ期、継続中であります。
ひっくり返って泣き喚いたり、地団駄踏んで動かない、というような現象は、減ってきている(収まってきているのか、こちらが諦めて応対しているからなのか、多分後者だね)。

「イヤ」の言い方のバリエーションが増えてきていて、
🎶イヤーだぁ〜🎶
🎶要らなぁ〜い〜🎶
という、ミュージカル調のものが、ある時を境に急増しました(ここ1週間ほどはまた減少傾向)。

ミュージカル調と書けばなんだか楽しそうですが、子どもの意思は固く、種類としては前回書いたイヤの種類で言えば、”その3「意思として「イヤだ」(短く言い切る)」”と同じだったりします。言い方を変えて相手の気分をくすぐる作戦か?

さて、そんな毎日ですが。
今日は、世の中の育児書等の「イヤイヤ期」に関する諸解説と照らしわせてみての感想をお伝えする形で、最近のイヤイヤの近況についてお届けできればと存じます。というわけで・・・

イヤイヤ期実録その3。

ま、実のところ、イヤイヤ期に突入したと思しき最初の数日、いろいろ調べてみて、「あーやっぱりこれはイヤイヤ期ね」と認識して以来、大して調べていないのが実情です。
調べたところで、目の前の状況は変わらず、これといった具体的な対策はあまり書かれていない(調べ方が悪いかもしれませんが)。
あるとすれば、親としての心構え(というか心持ち?)について、学ぶべきところはあるかもしれない。が、色々諦めて「命にかかわらないことは全OK」で臨んでいる身にとっては、心構えを説かれても、なんだか心が痛い(のではないかと想像する)ので、目の前で走り回っている生命体への対応に集中している今日この頃です。

(ですので出典や引用があるようなものは、イヤイヤ期のごく当初にメモっていたものです。相変わらずメモのままのものが多い・・・。)

その1 イヤイヤ期=自我の芽生え 

「イヤイヤ期」の解説として、最も一般的で、多分そうなのであろう、「自我が芽生える時期である」というやつ。もはや出典を示すこともできないくらいたくさんの育児書やサイトでその説明を目にしました。

うん、なるほど。確かに間違いなく、自我は芽生えている。

以下は、イヤイヤ期突入1ヶ月くらいでメモっていたもの(原文まま)。
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確かに圧倒的に「人間」になってきている、このところ。
この「イヤ」という意思だけれではなく、
喜怒哀楽の全てがはっきりしてきている。

だから、「いや」もすごいけど、笑い方も人らしくなっているし(とっても可愛い)。
他人を思いやる気持ちみたいのも芽生えているようだ。
例えば、私が慌てて何かして手をぶつけて「痛い」というと心配そうな顔をして、ぶつけたものに「め」と言ってくれる(彼女が痛がった時に、例えば転んだときに、私が床を触って「痛くして、これが「めっ」だったね」と言っているから)

全てがジェットコースター。
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この頃、何をもって「自我」と解釈していたのか、我ながら謎だけど(人間らしさ=自我?)、その後、もっとわかりやすく「自我」が芽生えている我が子。いわゆる「自分でやりたい」「一人でやる(から手伝うな)」というやつ。

11月頃は「ママあっち」と言われることがあった。例えば、公園のすべり台。階段を一緒に後ろから上って、上まで行くと、「ママあっち」と言われ、一人で滑りたいらしい。落ちないか心配しながら、私は階段を降りて、滑り台の下で待つ、みたいな。

その後、「自分!!」「◯◯ちゃん!!(自分の名前)」というようになった。
うん、わかりやすく、「the 自我」ですね。そのまま過ぎる!言葉が少ない分(しゃべれない分)、大変ストレートなワーディングです。
靴下をはく時、靴を履くとき、洋服を着替える時、ご飯食べる時。難しいのは、絶対いつもそうなわけでもないこと。そして、しょうがないけど、実際に一人でできるわけではないこと。やむなし。こっそり(?)サポートして、「できたねーすごいねー」「あ、一人で履けたねー、ママびっくり」と言うわけです。
あー、この気持ちで新人教育に臨めば、新人も育つのかもしれないですね、はい。勉強になるなぁ、子育て。ぶつぶつ。

その2 甘えられる環境だからイヤイヤ言う

自我の芽生えと並んで、見かけるもう一つの解説が、イヤイヤ言うのは「信頼できる人へ甘えているのである(だから良いことなのです)」というやつ。
自我が芽生えているという原因があって、それを「イヤイヤ」という形で発露するのはどういう状況なのか、という解説なのだと理解している。

これね、もう、世の中がグルになって、心の折れそうな親を激励しているとしか思えない。これについては子どもを見ていても真偽のほどは私にはわからないが、世の中の好意(?)を受け入れて、そう思うことにする。

その3 宝の2歳児(モンテッソーリ教育)

「イヤイヤ期」と並んでこの時期をあらわす言葉に「魔の2歳児」というのがあります。
しかし、「魔の2歳児」ではなく「宝の2歳児」なのです、というのが、藤井棋士で今大注目のモンテッソーリ教育の考え方なのだそうです。出典はこちらの記事です。日経DUAL「魔の2歳児ではなく「宝」の2歳児 秩序感が大切」

これを読んだ時の、第一声(自分の頭の中)は、「モンテッソーリって、マザーテレサだったのか?!」です。
ネガティブに捉えるのは良くないですよね、わかりますよ。親の気持ちの持ちようが大切ですよね、はい、そうなんだと思います。あはは。頭では、「そうか、宝だよね」とも思いますよ、けどなかなか「そうよ、宝だから、こんな期間も素敵ね(キラキラ)」って思えないです。ってところですかね。
ちなみに、「順番」「場所」「一人でする」が満たされないのが原因。という指摘は、前回も言及した通り、すごい腑に落ちています。

そして、「宝」とまでいくかはともかく、「魔」とか「イヤイヤ期」という名称が良くない、ってのはあるかもしれない。こっちまで、「はぁー(ため息)」という気分になってくるから。

その4 イヤイヤ期は数週間で終わることもある

衝撃のお言葉の全容はこちら。日経DUAL「子どものイヤイヤ その裏に何が隠れている?」

子どもは「親に理解してもらいたい」という気持ちを持っています。親が子どもの気持ちを上手にくみ取ってあげることで、イヤイヤ期が数週間で終わってしまう場合もあります。反対に、コミュニケーションがうまくいかないことでイヤイヤ期が長期間続いてしまうということもあります。

・・・。はい、終わりませんでした。
「数週間」って言う場合、「数」は1桁の数字ですかね、ですよね、通常。今数えてみましたところ、イヤイヤ期になって16週目に突入しておりましたです、我が家。
いやあ、しかし、これをメモっていたところをみると、そこへの期待もあったんでしょうね、過去の私。残念でした、過去の私よ。

しかしあたらめて今読み返すと、いいこと書いてあるぞ、この記事。

子どもの気持ちを代弁しながら「イヤだったね」「悲しかったね」など言葉をかけてあげると「この気持ちは『悲しい』ということなのか」とだんだん理解できるようになります。

それはわかる気がする。この「共感してあげる作戦」でうまく行くこと、確かにある。ただ、こっちの「共感」がなおざりで「イヤだよねー」って棒読みだったりすると、逆効果。。。さらに、ちなみにと言うべきか、共感というより、遊び感覚で、子供の「イヤだー」を真似て、「イヤだー」とリピートする(夫がよくやってる)と、これまた怒ってさらにでかい声で「イヤだー」と言っている。
「気持ちを代弁」ね。心からの共感ね。大人でもそうしてもらったら落ち着くもんね。そういもんかもね。

というわけで。

なんだかんだ、やっぱり、「人間」になってきているということなのだと、書き連ねてみれば思えてきたのでした。

うん。明日からも頑張るか。おやすみなさい。

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