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早朝、お寺へ法話を聞きに行った

先祖代々お世話になっているお寺が近所にある。
祖母が亡くなった時や、七回忌の時に家まで来てくださった住職さんのことは覚えていた。
先日、たまたまお寺の近くを歩いていると「お晨朝(じんじょう)」の案内について張り紙が貼ってあった。朝の法話のことだ。
写経で仏教の教えに触れることや、親戚から新興宗教に誘われることが最近あり、家が代々受け継いでいる仏教について、もっと根本から理解しておきたいなと思っていたので、参加を決めた。
住職さんのお話を聞けるのを楽しみに、寒いけれど5時半に起き、お寺に行った。

うちの宗派は、浄土真宗本願寺派。
このお寺の朝の法話は毎月16日、朝6時から。
晨朝(じんじょう)とは、仏語で現在の朝6時ごろのことを言うらしい。
このお寺で毎月16日に勤行があるのは、親鸞が亡くなったのが1月16日で、月命日だからでは?と祖父が言っていた。

生きとし生けるものを見捨てない

30分ほどお経を読み、その後住職さんの身近に起きたエピソードを聞き、
その後経典の一部を解説してくれた。
その中で印象に残ったのが「摂取不捨」という言葉。
「仏がこの世の衆生、生きているものすべてを見捨てず、仏の世界に救い上げる」という意味で、煩悩だらけでも、悪いことをした人も、みな救われるというのが浄土真宗の根底にあるようだった。

その後、「枕経(臨終勤行)」についても聞き、祖母が亡くなった後、家に住職さんが来て祖母の隣に座ってお経を読んでいた情景を思い出した。
当時は悲しみの中でなんとなく見ていたけれど、仏事の行いにはきちんと意味があるんだなーと知ることができ、行って良かったなと感じた。

おばちゃん、うちの情報つかみすぎ

解説が終わった後、住職の奥さん(坊守という)が出てこられ、
奥さんが弾くオルガンの伴奏にのって、皆んなで仏教讃歌のようなのを歌った。
その後、美味しいお茶とお菓子を持ってきてくださり、住職さんと奥さん、参加していたおじちゃん2人と、ストーブを囲みながら少し談笑した。

珍しく若い人がいるので「朝から若いのに偉いね〜〜」と言われ、「祖父がお世話になってます」と名前を言うと、みんな知り合いだったようで私に質問攻撃が始まった。
「何番目の子?」「あ〜◯◯さんのお子さんね?」「前◯◯に住んでたってね?」「お父さん大変だったって聞いたけどお元気?」とか聞かれ、おばちゃんが予想外にうちの事情をなんでも知っていて少し居心地が悪かった。笑
きっと祖母は生前、たくさん悩みや近況をここでお喋りしてたんだろうな。
祖父もつい先日お寺にお喋りしに行っていたし、2人にとってお寺は心の拠り所なんだろうなと感じた。
最後に「土曜の夜7時からコーラスやってるからおいでなさい、お婆ちゃんも昔来てたわよ」と誘われ、ニコニコしながら解散した。地域の人から思いがけなく、祖父や祖母の話を聞き、地域の繋がりや温もりを感じた。

宗教について考える

最近、親戚からある新興宗教に誘われることがあり、礼拝に一度足を運んだことがある。
新興宗教といえば、高額献金や宗教2世の問題があるが、
その親戚は信仰することで心を支えられているようで、本人の救いや支えになるのであれば、それ自体は悪くないと思っている。(強い勧誘がある訳でもない)
自分にとってもその宗教が必要か、と言われるとわからない。今のところその教えを必要としていないし、勧誘も少し嫌だなーと思ったりする。

今日の法話の後、浄土真宗について調べて理解を深める中で、
新興宗教ではなく、私は昔から受け継がれてきたものを純粋に受け入れるのがいいなと率直に感じた。
それに気づけただけでも、行って良かったなーと思った。

何を信じるのかを決めるのは自分。
自分の人生を決めるのも自分。

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