見出し画像

君はスマホなしに中国をどう歩くか :一級都市から四級都市の旅


はじめに

 ――高徳地図、アリペイ、携程旅行、ビリビリ動画、そして大衆点評。
 これら便利なアプリを携えて、中国の街をサクサク探索しようと思う。
「まあ、たしかに気になる国だけどさ、あまり行きたくはないよね。危ないでしょ?」
「テレビで『月曜から夜ふかし』とか『世界ふれあい街歩き』とか観てれば十分だよ」
 なにしろ、日本国民の圧倒的多数から低評価を受けている中国だ。正直、このようにお考えの方も少なくないと思う。こちらはすっかり丸腰で、反論の用意はない。でもそんな方にこそ、ぜひ快適な自宅やカフェで体感してもらいたいのだ。変わりゆく隣国の、ほんのり解像度高めのディテール、そして現地ならではのユルい空気感を。
 私はジャーナリストでも研究者でもない、ただの旅好きな四十代男性だ。一九九二年に初めて北京を訪ねて以来、かれこれ二十回ほど中国を旅してきた(延べ四ヶ月あまり)。動機は単純そのもので、同時代のエキサイティングかつエキセントリックな中国を、自分の肌感覚でチェックしないと気が済まないのだ(中学時代からずっと)。
 たしかに、主要メディアが発信する「正統派の中国ニュース」も、SNSに渦巻く「俺の中国論」も役に立つし面白い。だけど、いずれもコンテンツのお題・切り口が定番化しやすいのが弱点だ。中国各地のバラエティー豊かな文化や珍風景、一見ギャグっぽい街角の異世界感は、やっぱり自分で歩かないと心ゆくまで観察できないし、当然写真にもビデオにも撮れないのである。
 中国という国は広大で多面的だ。専門家や記者たちだけでは、とても動静を追いきれない、千変万化のモンスター。いわば「規格外」の他者である。そして、日本人全員が彼に振り回される時代だからこそ、これから私たち一人一人の自由研究テーマになりうると思うのだ。ジャンルは旅行でも、グルメでも、映画・ドラマ・音楽・地理・歴史でもいい。各個人が既存情報のスキマを追いかけつづけることが、より時代にマッチした知中(中国を知る)につながるのではないだろうか。

一線都市、二線都市とは

 出発に先立ち、本稿の取扱説明書をご披露したい。
 このたび、みなさんと私が「未知なるダンジョン」と見立てて冒険するのは、南方の四都市。すなわち、広州(一線都市)、梅州(四線都市)、貴陽(二線都市)、柳州(三線都市)である。なお、当初は梧州(五線都市)も計画に入れていたのだが、旅行中のトラブルによって今回は立ち寄ることができなかった。そんな哀しい事情は追々説明したい。
 では一線、二線とは何か。ここで、中国経済メディア『第一財経』が発表している「都市商業魅力度ランク」を紹介しよう。これは、中国の代表的都市をあらゆる経済指標から格付けし、ビジネス展開ないし消費分析の目安とするものである。二〇一六年以降、毎年改定されているが、今や一般のサラリーマンや大学生も刮目する、超メジャーな都市番付となった。直近の二〇二三年版では、一線都市から五線都市まで全六分類(一線と二線の間には新・一線都市が設置されている)、全国三三七都市が格付けされている。
 そう、すでにお気づきのように、今回の一人旅は「都市番付を横断して、各都市の個性を楽しむべく」計画・演出されている。
 その発端は、五年前の旅にある。
 私はまず、江蘇省常州でバドミントンの中国オープンを観戦、当時のタカマツペアや桃田賢斗選手らを応援した。次いで翌日、内陸の湖北省荊州へ移動し、ぐるりと一周、往時の城壁を残す三国志の名城を散策。最後は、同じく湖北省の省都である武漢で二泊し、世界遺産の黄鶴楼に風雅な東湖、武漢大学、楚河漢街、それから租界時代の建物が美しくライトアップされた江漢路歩行街など、新旧の名勝や商業エリアをめぐった。
 整理してみると、一線都市である上海を経由し、新・一線都市の武漢、二線都市の常州、三線都市の荊州をめぐるコースだった。こうして意図せず先の都市ランクをまたいでみたところ、これも五日間という短期間ながら、思いがけず至極赤裸々な都市間ギャップを堪能することができた。いつにもまして、濃密かつ愉快な旅だった。
 そこで今度は、広州を含む個性的な都市を各等級から選んでみたというわけである。中国南部を五日間で周遊しながら、各城市の魅力やギャップを自分の目で観察していきたい。
 あと、もうふたつ。本稿の旅のテーマをご案内しよう。

どこでもガチ中華リベンジ

 私は子供の時から、大の香菜(シアンツァイ=パクチー)嫌い。
「あなたは損をしている」と言う人もいるが、こればかりは納得がいかない。
 これまで、中国でカレーライスや鍋料理、麺類等あらゆる料理にまぎれ込んだ、その難敵をていねいに取り除いては、慎重に慎重に口へ運んできた。香菜だけではない。九〇年代は他にも、食欲を失わせる数々の苦手食材と調味料に出会ったし、当初は水や白米でさえ、匂いが気になって喉(のど)を通らないことがあった(一応小声でおことわりしておくが、私は日本国内で好き嫌いはほとんどない)。
 毎度、現地で口にしてきたものといえば、まずワンタンや小籠包(ショーロンポー)、揚州炒飯、炒粉、皮蛋(ピータン)粥、牛肉麺、排骨(パイグー=中華風トンカツ)などのおなじみの中華。それから家常豆腐、紅焼牛肉、魚香肉絲(ユーシアンロウスー)、西紅西炒鶏蛋(トマトと玉子の炒め)といった、比較的食べやすい家庭的な中華料理だった。それどころか体調が思わしくない時や、店選びが面倒くさくなると、決まってマクドナルドやケンタッキーへ駆け込んだものだ。もうホント、中華丼や天津飯やレバニラ定食が中国にもあればいいのに、と思うこともしばしばだった。
 昨今のガチ中華ブームすら最初は他人事だった。煎じ詰めれば、コスパ重視でシン・中国を体感しようという旅だ。できるかぎり、飲食イベントの失敗は避けたい。だから他人は他人、自分は自分と冷めていた。
 だが、このトレンドには副産物があった。教材の誕生だ。おなじみ「地球の歩き方」シリーズでは『世界の中華料理図鑑』が、また産学社からは『東京ディープチャイナ』が発売された。さっそく書店で手に取ると、中国の各地方別メニューや東京都内のガチ中華店が熱烈に紹介されていた。これは「買い」だった。
 私はこの二冊で、自分の身体のリスク低減のため各地の中華料理をおさらい。三百を超える料理写真に目を通した。ビジュアル図書の力は偉大だ。しだいに食への好奇心を刺激された私は、味覚の許容範囲・キャパを広げたいと考えるようになった。そうだ、次の旅行では謙虚に、各地自慢の料理をいただくとしよう。こうして、マインドセットの転換が進んだ。
 とはいえ相手は中国だ。現地でやみくもに店に飛び込んでも、あえなく返り討ちに遭う可能性が高い。そう思った私は、次の手に出た。池袋の米線専門店と高田馬場の新店で柳州名物の螺シー粉(ルオシーフェン=異臭で有名なタニシ麺、シーは虫へんに師)に挑み、さらに上野の貴州料理店でドクダミの根炒めなどを試すなど、地元・東京というフィールドで、ガチ中華をガチ体験した。
 結果として、劇的になんでも食べられるようになったというわけではないが、効果はあった。八角やクミンといった主たる香辛料への苦手意識は徐々に減っていったし、自分の味覚の得意・不得意が明瞭になった。また限られた文法パターンと語彙で、店員にいかにオーダーすればよいか、などの知見も得られた。要するに、中華料理への解像度が上がり、自分が言語化できる分野が広がったのだ(これこそ旅の安心材料)。
 絶対に苦手メニューだろうと思っていた螺シー粉でさえ、辛ささえ抑えればスルスルと食べられることが判明した。そんな布石を打って、いざ華南へと旅立ったのである。

キャッシュレス体験の成功と失敗

 もしかしたら、読者諸兄にとって最注目のテーマは、こちらかもしれない。
 くわしい経過については第一章で書こうと思うが、ともかく今回の旅で、私は初めて中国スマホ決済に挑戦した(外国人旅行者は長らく利用できなかったのだ)。
 きっかけは、二〇二三年七月に「WeChatペイとアリペイ、海外クレジットカードとの連携が可能に」(ジェトロ)というニュースが飛び込んできたことだった。
 コロナ禍後の旅にいつ出られるかと、日々やきもきしていた私にとって、これは寝耳に青島(チンタオ)ビールの話だった。冷やっこいような、くすぐったいような。そして、泡を食った。とうとう歴史が動いたなどと興奮し、酔いもしたが、一方で成否は不透明だった。SNS投稿やブログ記事などを参考に、次の旅にむけて粛々と準備をととのえた。
 結論からいうと、この試みは首尾よく大成功する。だが旅の途中で私は、あろうことか決済に使用していたタブレットパソコンを紛失してしまう。しかもSIMカード込みでだ。やんぬるかな。大地の片すみに愛機を置き去りにしたまま、私は旅をつづけた。
 このアクシデントを境にして、この冒険譚は一気にデジタル色が薄まり、良くも悪くも以前のアナログ要素を取り戻していく。はたして中国社会は、時代に逆行する「非キャッシュレス人間」を受け入れてくれるのか。
以上が、本稿をつらぬく第三のテーマだ。なお、このあたりのエピソードは第三章の終盤以降に描いているので、気になる方はそちらを先にお読みいただければと思う。

 つまり、本稿は、(一)経済的・社会的ギャップが顕著な四都市の個性を味わい、(二)ガチ中華への挑戦というテーマを挟みつつ、(三)デジタル決済で念願の脱現金化を図る、そんな旅の模様の再現実況だ。そう、ひとえに「街ナカ視点の主観映像」をおとどけするという手法で、目先を変えながらランダムに、いまどきの中国・等身大風景を素描していく。
 いうなれば作者自身が、読者のみなさんのアバター、すなわち分身である。ぜひゲームの主人公になったつもりで、広州ほかリアルな街を駆けめぐっていただきたい。

(上)中国南部地図、(左下)東京で食べた螺シー粉、および(右下)油溌麺。

凡例とご注意

※中国人民元の換算レートは、二〇二四年一月の旅行時、一元約二〇円。
※文中のルビは、該当部分の文脈および読者の便宜を考慮・勘案し、日本語読み、標準中国語読み、その他の慣用表記を作者の判断で適意使用しています。なお、標準中国語読みのカタカナ表記は、原則として平凡社「中国語音節表記ガイドライン」に準拠しました。
※本稿に記載された情報は、基本的に旅行時(二〇二四年一月)のものです。中国渡航の際は、最新の情報を元に、くれぐれも安全に留意してお出かけ下さい。
※本稿内で紹介している中国「都市商業魅力度ランク」における「一線都市」「二線都市」などを、便宜上「一級都市」「二級都市」と呼び変えている部分があります。

第一章 浦島太郎は便利なアプリを手に入れた(広州)

初めての中国モバイル決済

 時は二〇二四年一月四日。木曜日の午後。
 ここは広州市天河区天河路二二八号のショッピングビル、正佳広場である。
 その地下階にある、翠華餐庁という広東料理店で、私は人生初の「支付宝(アリペイ)支払い」を試みた。
 先にご案内しておくと、アリペイとはIT大手のアリババ集団(グループ)が運営する決済アプリで、最大の競合はウィーチャットペイである。前者は電子商取引ビジネスから派生したサービスで、日本になぞらえれば楽天ペイ。また後者は、テンセント社のメッセンジャーアプリ「微信(ウィーチャット)」由来で、わが国ならLINEペイのような存在といえるだろう。
 何をおいても、中国ではこの両者が絶対的二強である。そして昨年(二〇二三年)、ともにようやく、外国人旅行者が自国のカードを紐付(ひもづ)けして、このサービスを利用できるようになったのである。これこそ待ちに待った「改善」であり、「吉報」であった。
 アリペイの個人アカウント作成とクレジットカードの登録は、すでに数日前に済ませていた。そしてまさに、旅行初日の当会計こそが、私にとってはぶっつけ本番、ドキドキの初挑戦だったのだ(なおウィーチャットペイは結局登録できずじまい)。
 ここでひとまず、足もとの前後関係をかんたんに記しておこう。この日は羽田発の深夜便に乗って、朝がた香港の空港にランディング。時を措(お)かず的士(タクシー)・地下鉄・高速鉄道と移動をかさね、広州東駅到着は午前十一時過ぎ。深紅(しんく)の旅券をタッチして改札通過したあとは、広州地下鉄三号線にゆられ石牌橋で下車。いよいよ市街徘徊へ繰りだす仕儀となり、ゆかいに地上を歩くこと五分で正佳広場(今ここ)である。
 そうそう。中国SIMカードも忘れずに装着し、つつがなくネット環境を確保した。
 ともかく準備は整った。時は来た。私は八インチの台湾製平板電脳(タブレットパソコン)にバーコード画面を表示させると、おずおずと店員の方へ差し出して読み取ってもらった(どうかお願いします!)。
日出(いず)る国からやって来た、遊子の荒い鼻息が天に届いたか。ややあって、「支付成功」の文字がタブレットに浮かび上がった。私はのけぞって歓喜した。
「おお、やったぁ」(しみじみとため息のごとく)
「我第一次能用支付宝付款了!(初めてアリペイ支払いできたぞ)」
――秘制海南鶏飯、四八元(約九六〇円)。
 本日ご注文の品はこちら。アジアン料理を食べ慣れている方なら、たやすく画が浮かぶことと思う。甘いソイソースとチリ、二種類のタレを付けていただく茹(ゆ)で鶏(これがぷりっぷりでジューシーなのだ)で、それにピクルスの小皿、そしてご飯とスープが付いた定番セットだ。元々海南島の移民によって伝えられた料理とされ、ご存じシンガポール・チキンライスの名でも知られている。
 なにしろ最初の食事である。さらにいうと、じつに二十六年ぶりの広州旅行なのだ。浦島太郎は、がぜん気合いが入っていた。現地の口コミ情報をもとに候補は選んでいたが、入店前に店頭の菜単(メニュー)を睨(にら)んでさらに熟考。そうして結局はスタンダードな安牌(アンパイ)を選んだわけだが、店自慢の鶏は肉厚で食べごたえ十分、それはそれは美味だった。
 店内の居ごこちも悪くない。奥行きがあるわりに隅々まで明るく、ホールの従業員もまめに客席を気にしてくれる。もちろん卓上も清潔だ。ちょうど日本のデパートや駅ビル商業施設の、手ごろなカフェテリアを想像していただければよいかもしれない。平日の午後二時過ぎで、ほぼ満席状態。ネット上に高評価が多いのもうなずける。大にぎわいである。
 それでも上品な客層のせいか、やかましさを感じることもない。中国語特有の音楽的な、それでいて適度なボリュームの話し声に包まれて、気ぜわしい旅人もついつい長居してしまいそうだ。そういえば、客席からはかすかに日本語も聞かれた。なるほど、ここなら邦人どうしの気取らない会食にも使えそうだ。
 このようにして広州旅行の第一食目を無難に済ませた私は、タブレットの液晶画面に表示された決済成功の証を、レジの女性に堂々と見せつけた。なにしろ人生初の中国タッチ決済だ。嬉しくてたまらない。なにを隠そう、これは八年越しの宿願だったのだ。

旅人はいつも蚊帳の外

 話は二〇一六年にさかのぼる。
 その年十二月、私は上海経由で浙江省の寧波(新一線都市)をおとずれた。経済発展いちじるしい沿海都市の一つで、古くは日明貿易の指定港とされ我々にもゆかりの深い土地だ。なお唐代には明州の名でよばれ、教科書でおなじみの高僧・鑑真(がんじん)は、弟子や日本僧らと共にたびたびこの港から日本をめざした。
 さて、初日の夕暮れどき。その寧波の城隍廟近くのテイクアウト軽食店で、私は初めてQRコード決済のマークを見つけた。当初は、それが何なのかよく分からなかった。
「この見慣れないバーコードはいったい……」
「抽選に応募してプレゼントを当てようというキャンペーンかな」
「それともチェーン店の会員登録ツールだろうか」
「いやいや店長募集かフランチャイズ加盟のお誘いかもしれない」
などと自問自答しているあいだ、何人もの客がこのマークに自分のスマホをかざし、ごく簡単な操作で支払いを済ませては、出来立ての揚げ鶏やちまきを手にして去っていった。答えは案外かんたんに得られた。
「なんとなんと、こんな決済方法が登場したのか」
 私はあっけにとられた。まるで未来の一幕をのぞいているかのようだった。しかも予想外のロケーションと、予想外の形で。じつはその約一年前にも、同じ長江下流域の古都、南京と揚州を訪れていたのだが、そんな風変わりな光景には一度も出会わなかった。
 ただ正直なところ、日常的にスイカやパスモのような交通系ICカードを利用している身としては、それが別段便利な手段だとは感じなかった。客としては、カードだろうとスマホだろうと、ピピッとタッチする動作は変わらないし、またいちいち端末を操作しなくてはならない点も、未経験者の立場からは少々わずらわしく見えた。
 だが、各店舗にスキャン機器がなくても支払い手続きが完結する、という仕掛けを踏まえると、普及にともなうハードルは低そうに思えた。その後も寧波の繁華街を歩いていると、路面店ばかりか、リヤカーの商売人までしっかりQRコードを掲げていたからだ。
「進んでいるのかそうでないのか分からないけど、とにかくスゴいものを見たぞ」
 帰国後の私は、周囲にそのように言いふらしながら、よし、次の旅ではぜひ自分も利用してみようと、心の中で決意したものだ。
 また翌二〇一七年になると、国内メディアやSNSユーザーもみなこぞって中国決済アプリの先進性を、各自の経験談とともに述べたてるようになった。そんな時勢もあり、私はますます「中国旅行デジタル化」への期待をつのらせるようになった。
 さあ、ところがである。いざアリペイなり、ウィーチャットペイなり現地のアプリをインストールして、自分のクレカとの紐付(ひもづ)けを試みるのだが、海外発行のカードでは決まって認証段階ではじかれてしまう。何度やってみてもダメで、これにはお手上げだった。SNSの情報によると、一時的に許可された時期もあったがいつの間にか道が閉ざされていたとか、やはり基本的には中国国内利用者しか相手にしていないようだ、というような説明がなされていた(そして、この謎が解明されたことは一度もない)。
 たしかに国家ごと経済圏ごとに、日々新技術が試験・実装される現代社会では、だれがその利便性を享受できる対象者かという点がたいへん重要になってくる。そして、その対象者とは多くの場合、当該エリアの住所・電話番号・勤務先・銀行口座等を有している人々であり、あるいは特定の金融・通信・流通系グループのサービスを長期的に(横断的に)利用してくれる、お得意様ユーザーである。
 だから、たびたび海外出張する人や長期滞在者ならいざ知らず、安定した収益をもたらしてくれるとは言いがたい一見のトラベラーは、残念ながら不利な状況に置かれやすい。
 たとえば、大谷翔平、ダルビッシュ有両選手らが対決した、今年三月のMLB韓国開幕戦。その激しいチケット争奪戦が一時ニュースとなった時も、やはり「韓国の電話番号を登録しないとチケットが購入できない」とあきらめる、海外ファンや日本人記者たちの姿が紹介されていた。結局、現地本流のネットワークの部外者は、知人や代理店を介して購入するか、またはチケット代込みの観戦ツアーを利用するなど、ある種の迂回や割高消費を強いられたわけである。
 たまに中国旅行をもくろむ、私みたいな人間も同じだ。メディアで報じられる新サービスの利便性のウラ側で、毎度高い高い「中国の壁」および「デジタルの壁」に直面し、なかなか脱現金化の流れに乗れなかったのである。
 前回、つまり新型コロナウイルス蔓延の前(二〇一九年九月)に常州・荊州・武漢へ旅したときも、私は手ぎわよくQRコード決済を済ませる地元民たちを横目に、しかたなく現金払いを押し通したものだ。
 なかでも荊州という町は、三国志の主要舞台の一つで日本人にはたいそう有名であるが、沿海部や各省都クラスからは格段にレベルが落ちる、はっきり申し上げて発展途上の三級都市である。その荊州の中心部、高層ビルなどいっさい存在しない旧城内に、一軒のマクドナルド(麦当労(マイダンラオ))が営業していた。そんな地方都市にぽつんと出店されたマックでさえ、店内中央にはタッチパネルタイプの注文機が設置されている。利用客は老若男女問わず、事もなげに操作をすすめ、次々と好みのハンバーガーをオーダーしているのである。そして、例によって現金しか使えない「時代錯誤」な私だけが、小さくなってカウンターに進み出て、店員さんにイレギュラーな旧来型接客をしてもらうのだった。
「えーとすみません、現金でもいいですか? 私にはスマホがないんです」
なんて不器用にことわりながら。
 天下のマクドナルドだと、それでもごくノーマルに応対してくれる。だがご想像のとおり、街中だれでも人民元紙幣を歓迎してくれるかというと、決してそんなことはない。
 昨今、デジタル技術が新旧のシステムを強引かつスピーディーに置き換えてしまう中国では、それに乗っかる店側も人民ユーザーの方でも、新ルールをただちに呑み込み、彼らなりの損得勘定やバランス感覚で適応してしまう。いったん新しい状況に慣れてしまうと、商売人はおのずと釣銭を計算したり、取り出したりする行為が億劫になる。いや実際、彼らにとっては釣銭を常時準備し、厳重に保管しておくのも、それ相応のコストを要する厄介ごとなのだ。
 だから、突然やって来たカタコトの外地人(ワイディーレン)が、事もあろうに現金を取り出した場合、店員が深いため息をついたり舌打ちしたり、やる気をなくして動作がスローになったり、横柄になったり露骨にイヤがったり、挙げ句のはてに憎まれ口をたたいたりするのは、さほど不思議なことではないのだ(中国では!)。

ニコニコ☆スマホ払い

 もちろん、悲観することばかりではない。今では、中国国内の航空券・ホテルのほか、高速鉄道すら日本から簡単に予約できてしまうわけだし、国内旅行と同じように電子地図や口コミアプリも活用できる、たいへんありがたい時代を迎えているのも事実である(そのあたりは後でくわしくご紹介する)。
 ただ、中国十数億人が利用する主要決済アプリが使えないとなると、なんとも残念至極というか、そのガラパゴス仕様っぷりを恨(うら)みたくもなるわけである。
 対して、日本はどうだろう。たしかに年々、バーコード決済の利用率が高まってはいるが、支払い手段としての現金が拒絶される場面はまだ少ない。マクドナルドでの脱現金化でいえば、東京在住の私の感覚だと向こうが五年は先行しているように思う。都心の人気店舗でさえ、タッチパネル式注文機が主流になったのはつい最近のことだ。
 普通に考えれば、いくつかの決済方法が併存する今の状態が、このまましばらく続くのではないだろうか。たとえば、東京ドーム内の売店で現金が使えなくなったとなれば、それはそれでちょっとした経済ニュースになるくらいだ(二〇二二年)。それに、うっかりビールの売り子に一万円札を渡しても、「ふざけるな、おととい来やがれ」と投げ返されることもない(中国ではまだ、釣銭を放り投げられることがままある)。
 もちろん、事の良し悪しとは別次元の話だ。それから同様に、スマホ操作の習熟度や新サービスへの理解には個人差なり地域差があるといった見立ても、ひとまず脇に置く。今は本稿の前提として、中国個人旅行にまつわる環境変化を、私なりにミニマムに紹介しているに過ぎない。このようにご理解いただきたい。
 さらにいえば、なぜ中国でモバイル決済が急速に普及したのか、その社会的メリットおよびデメリットとはなにか、等々。そういった考究・議論は、過去数年間に星の数ほど発表されているので、ご興味のある方は信頼できるメディア(人物)を見きわめて、その見解を参照してほしい。私のようなズブの素人が、それらを適切に引用・要約するのはなかなか難しいし、むしろあまり意味をなさないと思うからだ。
 ともかく。今や中国社会では、店舗側の歓迎具合に照らすならば、「ニコニコ現金払い」ならぬ「ニコニコ支付宝(アリペイ)払い」といった様相を呈しており、あるいはもはや「激おこプンプン現金払い」へと逆振れしてしまっている、とさえ感じられる。
 私としては、そんな中国の新常態をみなさんと共有し、ひとまず心の平仄(ひょうそく)を合わせた上で、おのれの旅の模様や現地の雰囲気を、忠実かつディテールたっぷりに実況・再現してみたいと思う。

 と、ここまで「冒頭の歓喜」の背景・前史をくどくど解説してみたわけだが、いま一度思い出してほしい。記念すべき初デジタル決済の瞬間に立ち会ってくれたのは、翠華餐庁の年配の女性店員であった。こちらの事情を知らない彼女からしたら、会計を終えた一人客がいつまでも得意げに突っ立っているさまは、さぞ気味悪かっただろう。
 そう。自意識過剰な一人旅の情けなさで、この時の私には、嬉しさと照れくささが半分ずつ去来した。先ほどの中国語での独り言は、そんな状況からとっさに出た、相手への事情説明でもあった。
 はたして、聞こえよがしの独り言が耳に届いたか、当の女性店員は「ああそれは良かったね」的な微笑を(こちらの期待どおりに)返してくれた。あるいは、ただ私のドヤ顔を見かねて苦笑いしていただけかもしれないが、まあ今となってはどちらでもよい。
 歴史的歓喜の余韻に包まれながら、私は意気揚々と店を出た。最初の食事としては完全に合格点。そして長年の望みもかなった。幸先良いスタートだ。

フードデリバリー天国

 腹ごしらえが終われば、いよいよ二十六年ぶりの広州街歩きだ。
 じつは正佳広場の館内にもスケート場、水族館、植物園、天文館、図書館、動物標本館、和洋中グルメ、スマホ体験館、蝋(ろう)人形館、キャラクターグッズ店と気になるスポットが目白押しなのだが、私は誘惑を振り切って天河路を歩み出した。
 右手に見えるのは、天河体育中心体育場。中国プロサッカー「超級リーグ」で八度の優勝をはたした、あの広州恒大(現・広州足球倶楽部)が長らくホームとしていたスタジアムだ。左は正佳広場、天環パークセントラル、天河城と、東京風にいうとヒルズ・ミッドタウン系の商業施設が三軒つづく。これが、なんと三ブロックで歩行七百メートルを要する。周辺は東京新宿や大阪梅田をいくらかき集めても足りないほど高層ビルが多いけれど、サッカースタジアムが間近にあるのと、そもそも土地がゆったりしているせいで空がめっぽう広い。私が知る、ごちゃごちゃした広州のダウンタウンとは大違いだ。
 さて今日の予定はというと、まず広州の新都心ともいえる、ここ天河エリアの大型書店で買い物。そこから程近いホテルにチェックインした後は、長年行きそびれていた名所・陳家祠を見物する。そして夕方、老舗数軒でお楽しみの広州グルメを堪能してから、近年報道やトンデモ動画などでも紹介されている「城中村」を徘徊する、とこんな段取りだ。越秀公園、西漢南越王墓博物館、六榕寺など四半世紀前におとずれた、広州を代表する観光スポットには足を延ばさない。ご容赦いただきたい。
 街路へ出てみると、外売(ワイマイ)と呼ばれるデリバリーサービスの運転者が、多数目についた。
 なるほど新型コロナの感染拡大前から、黄色と青のヘルメットをかぶった配達員たちは、すでに街の風景に溶け込んでいた(黄色は最大手の美団(メイトワン)、青は餓了麼(ウーラマ)というグループだ)。上海周辺のイケイケな江南都市はおろか、内陸の湖北省でさえ東京よりずっと出前が普及しているなと、当時痛感したものだ。
 ところが今回はそれ以上だ。むろん、コロナ禍を経て全国的に爆増しているのかもしれないが、私にとって長いことご無沙汰だった中国南方の雄、広州における外売ドライバー大量出現の光景、それはもう圧巻だった。
 ただぼんやりと歩道を歩いていても、数えきれないほどのドライバーが視界に入っては消えていく。彼ら外売ドライバーがそこかしこの商業施設に駆け足で出入りしたり、青、黄、青、黄、青、黄、黄のように一列数珠つなぎになり、バイクで交差点を曲がっていく様子は、見慣れていないとコントかドッキリかと思うほどだ。
 といって、そんな珍風景に頬を緩(ゆる)めていると、また新たなバイクがすっと脇を通り過ぎていって、思わず冷や汗をかいたりする。中国では歩道も安全地帯ではないのだ。
 余談だが、旅先でフードデリバリーの担(にな)い手を見ると、私は賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の「山河ノスタルジア」(二〇一五年)という映画を思い出す。九〇年代後半から現代、そして未来にかけて山西省の家族をえがいた作品で、最後の舞台は二〇二五年の豪州。そこで主人公女性の息子が、思いを寄せる英語教師の家に偶然出前に来るというシーンがある。
 日本上映当時、どこか未来っぽく見えた光景は、意外と早く現実のものになった(先に中国で、遅れて日本でも)。過去の映画作品が見せてくれた未来像と、リアルな日常風景とがいまピッタリと符合しているわけだけど、自国でこれほど大量の配達員を見慣れないぶん、私の目にはまだどうしても奇異に映る。この日常を当然のように受け入れているであろう広州人たちが、ややもすると未来人に見えてくるのである。
 同様に小江監督の「玲玲の電影日記」(二〇〇四年)では、名作「太陽の少年」にも出演した俳優・夏雨が、当時普及していたウォーターサーバーの水運び少年を演じていた。実際、そのころ中国を旅していると、自転車やバイクに透明の大型ボトルを積めるだけ積んで往来をゆく若者がいたるところで見られた。そんなふうに新規ビジネスが路上風景を明快に一変させることもあるし、旅行者の中国体験もやはりそれと無縁ではないのだ。
 このような映像作品を旅の前後に仕込んでいくと、ビジネスライクな関心や理解と並行して、ついつい彼らの生活物語にも思いを馳(は)せてしまうものだ。彼ら自身は今日どんな弁当を食べたのだろう。ちゃんと休暇や睡眠は取れているんだろうか。生粋(きっすい)の広州人かな。それとも広東省の他都市だろうか。どんな将来を夢見ているんだろうか、などと。
 だけど眼前の光景は目まぐるしく、そんな想像はすぐに現実にかき消される。ほらっ、また一台のバイクが私のすぐ横を通り抜けていった(もう、危なっかしいな)。
 そういえば、二〇一八年には中国ファミリーマートが九都市で二十四時間宅配サービスを開始したと報じられたし(提携先は餓了麼だった)、他の日系チェーンも中国出店を加速させ、次世代コンビニへの進化を模索しているようだ。
 ちなみに同時期の報道によると、利用者の半数が九五后(一九九五年から九九年生まれ)と〇〇后(二〇〇〇年代生まれ)だという。中国の若年層の生活スタイルや消費性向が、徐々に日本の若者へとコピーされる。意外と早く、そんな時代がやって来るのかもしれない。

デジタル時代の旅行プラン

 ところで、いま私の手元には、十五分刻みの旅程シート(B4サイズ)がある。
 何とせっかちなと思われるかもしれないが、もう二十年近く続けている私の習慣だ。たまの中国旅行、複数都市へ足を延ばして目的地に参じ、多少のトラブルに見舞われようと期日にしっかり帰ってこようとなれば、それなりに綿密な計画を用意しておかなければならない。そうでないと私は道中で、気になる路地を発見しては尻尾ふりふり立ち入って迷子になったり、現地の書店が楽しくて何時間でも回遊したり、またはお気に入り風景を納得するまで撮影したりと、自分をムダに足止めさせてしまいかねないからだ。
 中国旅行を計画するとき、私は毎度「高徳地図」という中華アプリにたよる。そうして、まずは目を皿のようにして名所や流行スポット、気になる店舗などを洗い出し、優先順位をつけていく。高徳地図は「大衆点評」という口コミサイトと連動しているので、観光スポットのほか飲食店や小売店の評価も参考にすることができる。ユーザーが投稿した写真も豊富だから、旅行中のガッカリを未然に防ぐのにたいへん役立つ。
 そのうえ、高徳地図は衛星写真も搭載している。これで市内を俯瞰すれば、昔ながらの建物が残るノスタルジック街区をしらみつぶしに探せるのだ。上空のアングルからはブツブツの砂利のように見える、瓦屋根の密集が目印である。このようにして、今のところ開発をまぬがれている、雰囲気の良いエリアが判別できるというわけだ。ただし、都市によっては旧市街地が根こそぎ破壊され、高層建築ばかりになっていたりもする。だだっ広い土地がすっかり更地になっていて、唖然とさせられることも多い。それはあたかも、隕石の直撃を連想させるほどである。日本人によく知られた数千年の古都でも、残念だが軒並みそんな状況なのだ。
 このほか、現地のイメージを具体的につかむため、ユーチューブのほかに、中華系アプリであるビリビリ動画を活用することも多い。最近は観光はもちろんのこと、移住ないしビジネス目的で他省の都市情報(不動産・インフラ・生活風景・物価など)を知りたがる中国人が増えているようで、どんな地方都市であっても街ナカ紹介動画に事欠かない。また長時間のドライブ映像なんかも、都市間のワイルドな自然環境を体感するのにもってこいだ。
 携程旅行(トリップドットコム)もかなり有用だ。私は航空券・ホテル・高速鉄道の予約、さらに観光スポットの情報収集と、このアプリを多用している。
 では具体的に、本アプリの利用履歴をご紹介しよう。
まずは航空券から。今回選んだのは、行きが香港エクスプレスの羽田―香港便、そして帰路が中国南方航空の広州―羽田便だ。コロナ禍前は主に、往復約二万円のLCC上海便で長江下流域の都市をめぐっていたのだが、今回の旅の時期はまだ、便数・乗客数ともに以前の域まで回復していなかった。結局、旅の前々月に往路二万円台、復路四万円台で手を打った。
 次にホテルだが、これも早くから検索を進めていた。というのも、コロナ禍以降に中国観光ビザの発給要件が変わり、たとえ短期であっても原則として宿泊予約の証がなければ申請できないルールであったからだ(そもそも中国ビザを取得するなんて九〇年代の学生旅行以来のこと)。しかし、これこそ怪我の功名というべきかもしれない。このビザ申請なるタスク、とくに全日程にわたるキャンセル前提の宿泊予約という「無意味なタスク」がこのあと、今次の旅行最大のトラブルを救うことになる(第三章)。
 ちなみに、近年は「漢庭酒店」または「錦江之星飯店」という二つの全国チェーンの中から立地・価格・部屋を比較検討して宿泊している。主要都市ではだいたい、鉄道駅周辺や繁華区域、あるいは道路交通の要衝のそこかしこに、これらグループの宿を見つけることができる。大手らしくサービス水準にばらつきがなく、室内備品もひととおり揃っている。そこそこ快適な寝床にありつければそれで良しという客ならば、まったく申し分ない。宿泊料は二、三千円が中心価格といったところだが、上海・広州など一線都市は別格で二、三倍に跳ね上がる。もちろん物件の新旧や間取りの大小、シャワーの圧力や排水のぐあいが若干異なる場合があるけれど、今のところ目立ったトラブルとは無縁だ。スタッフの事務作業も手早く、ストレスがない。フン、泊めてやるといった感じの昔の服務員の無愛想さに、逆に懐かしささえ感じるほどである。みな年若く、職務に忠実で献身的。他国と同様、当然そのように管理されているわけだが、ひかえめな彼らホテルマンのたたずまいや忠実な仕事ぶりが、近ごろの中国の空気をある意味で象徴しているようにも感じる。今回も基本的には使い慣れた漢庭酒店の標準ルームを押さえ、柳州だけは山の眺望目的で比較的高価格のホテルを予約した。
 最後に高速鉄道であるが、都市間をむすぶ一日あたりの列車本数や所要時間を洗い出し、できるだけ効率的に周遊できるきっぷを探した。わずか五日間の旅で六回も乗車する慌ただしさだが、すこぶる便利な乗り物なので、これを多用しない手はない。なお今回、現地では新たに、鉄道きっぷのeチケット化が実現していた(二〇二〇年から実施されているらしい)。以前は予約番号とパスポートを駅窓口で提示し、紙のきっぷを受け取っていたのだが、それが廃止された格好だ。ただ、「身分証明書をかざすだけで駅入場・改札通過できるようになった」との触れ込みではあったものの、実際は外国人のパスポートには対応していない場合が多く、私はたびたび人工通道(有人ゲート)のお世話になった。
 ついでに、正味五日間の旅のアウトラインも大まかに説明しておこう。初日は香港・深セン(センは土へんに川)経由で広州に入り、まずはここを拠点とする。二日目の広東省梅州日帰りを挟(はさ)んで広州に二泊し、次いで三日目は内陸の貴州省貴陽へ移動して観光。さらに夜行列車で広西チワン族自治区の柳州に遊び、四日目は丸一日散策してここで一泊。五日目は夜七時に広州方面へもどるのだが、広東省梧州で途中下車して特色ある騎楼(チーロウ=南方特有のアーケード付き建築)街を歩く。そして夜はふたたび広州に泊まり、翌日朝の便で帰国すると、こういうスケジュールだ。昨年秋から、宿泊都市を変更したり順番を変えたり、滞在時間のバランスを調整するなど、じつに四十以上のコースパターンを俎上(そじょう)に上げ、作成した計画である(当初は仏山・肇慶・長沙・武漢・南昌・桂林などの候補地があった)。
 こうして、あらかじめ入念な準備をしてコースをさだめ、名勝旧跡から路地裏までサクサク周遊。そうして、できるだけ現地の等身大風景を目に焼きつける。それがぼくの旅のスタンスである。見かけ上はバックパックを背負っているが、安旅自慢を気どる性格でもない。簡単にいえば、コスパ重視のせっかちな時短旅行である。地図や旅行グッズや観光情報など、必要アイテムをせっせと仕入れて現地に乗り込み、いくらか感覚優位な態で未知のダンジョンを冒険しようという、そんなロールプレイングゲームみたいな趣向なのだ。
 かようなわけで、旅は本来十人十色、遊子おのおのに価値観や優先順位があると思うが、本稿はこうした独自台本の上で進行することをお示ししておきたい。

本と地図とマンガを買う

 さあ、広州の街をどんどん探索しよう。
まずは、天河路と体育西路の交差点にある「広州購書中心」という書店ビルだ。ここは国営の新華書店グループが運営する、いわば広州市の旗艦店。他都市でいえば北京図書大厦、上海書城、深セン書城に該当する。吹き抜け構造の上階から店内をめぐる。
 文学ジャンルでは、相変わらず日本人の名前が目立っていた。海外文学コーナーには数十冊の推薦書が面陳列されているが、ユーチューブ発で話題の雨穴『怪屋謎案(変な家)』がさっそく登場。つづいて、中山七里・綿矢莉沙(綿矢りさ)・中村航・角田光代・鬼塚忠・知念実希人・宇佐見鈴(宇佐見りん)・坂木司・島田庄司・伊岡瞬・宮部美雪(宮部みゆき)・辻村深月・東川篤哉・宮本輝・大江健三郎・久生十蘭・林芙美子などの名が堂々と踊る(圧巻のラインナップである)。
 また動漫(アニメ)作品コーナーを通りかかると、宮崎駿・新海誠作品や中国CGアニメ「長安三萬里」の画集が存在感を示し、また『ONE PEACE』、『名探偵柯南(名探偵コナン)』、『文豪野犬(文豪ストレイドッグス)』、『衛宮家今天的餐卓風景(衛宮さんちの今日のごはん)』、『迷宮飯(ダンジョン飯)』といったタイトルは、なんと全巻揃う人気ぶりだ。
 この大型書店に滞在すること約一時間。私は手当たりしだい、もろもろの品をかかえて収銀台(レジ)へと進んだ。しめて四四二・八元。
――『梅州指南地図』ほか掲陽・潮州・汕頭・汕尾各都市地図。計六〇元
――『不自吃漫画――這就是大中華美食2』五九・八元
――『舌尖上的中国――美食之旅』九八元
――『熟女単身日記』、『熟女租房日誌』各三九元。
――『超有趣的大唐漫遊記』五六元
――ブロック玩具「螺(ルオ)シー粉(フェン)店」七九元(すべて現金払い)
 さて、念願の宝刀アリペイを手に入れながら、いまこれを鞘(さや)に隠して一〇〇元札を使うとはなにごとかとお思いになるかもしれない。これには理由がある。
 なにしろ、ここは中国である。入国前は、アカウント登録したアリペイが現地で全く使えないなんてケースも考えられたし、海外発行のクレカにしても大陸であまねく通用するとは限らない。また、中国本土では「鉄板」ともいえる銀聯カードも、日本の発行会社が一時受付を停止していたために今回準備できなかった。となると、保険として、やはり我らが諭吉先生でなく毛主席の紙幣がいくらか必要になってくる。それで今回、私はおよそ六千元という、自分にとっては多めの現金を持参していたのだ。五年前の旅の余りが三千元弱(当時のレートは一元=約一六円)。残りは東京の両替店で直前に用意したものだ(一元=二〇円)。そんなわけで、道中小銭を切らさないためにも、ときどきは紙幣を使うつもりでいた。
 購入した品のうち、梅州など広東省内の都市地図と二、三番目のグルメ本は、今後の旅行計画のため。ただ、ガイドブック類の売場は少々拍子抜けだった。コロナ禍のせいか、どうも新刊が少ない印象なのだ。二〇一〇年代半ば、日本でも爆買い訪日客が話題となり、流行語大賞にも選ばれたのは記憶に新しい。だが、日本行きに限らず、当時の中国人の国内外旅行熱はものすごかった。どこの書店でも、『地球の歩き方』や『ロンリー・プラネット』のような分厚い国別・省別ガイドがずらりとならび、定番観光スポットやご当地グルメの手引きはもちろん、古鎮や伝統建築のガイドブック、あるいは高速鉄道の新ルートを取り上げた本(特にチベット方面)などが、まさに棚からあふれんばかりに陳列されていた。
 さらにコロナ禍直前には、エクスナレッジ社の人気シリーズから『神社の解剖図鑑』の翻訳版が平積みされるなど、コアな訪日リピーターが手を伸ばしそうな本もまた、ちょいちょい顔を出していた。それと比較すると、日本旅行をやたら推すような気運でないことも何となく察せられるし、今は思い立ったら即スマホで情報収集して予約・手配まで完結させられる時代である。自由に投稿された写真や動画やブログなど、人を旅に駆り立てる「きっかけ」がネット上にごろごろ存在しているわけで、大衆の旅行欲と新刊書の棚とが水魚のごとく心をかよわせ、相(あい)呼応していた頃には、もうもどらないのかもしれない。
 それから、『熟女単身日記』と『熟女租房日記』。これは浙江省麗水出身の女性漫画家・熊頓による十数年前のコミックエッセイで、その部類の棚では今も筆頭扱いで推されていたもの(彼女は二〇一二年、病気のため三〇歳の若さで亡くなっている)。
 コロナ禍前から現地の書店を観察するに、近年どストレートに「癒し」を提供する本が目立ってきた。二〇〇〇年以前の娯楽要素の欠片もない、ひたすらマッチョで大人志向だった中国書籍ラインナップからは、隔世の感がある。たとえば最近では、まるで日本の出版業界と同期するかのように、中国でも猫の写真やイラストをモチーフにした本が急増、店によっては特別コーナーが出来ているほどだ(可愛らしい販促ポップ付きで)。
 また、幼少期から日本の漫画文化に親しんできた若者が対象であろう、シュールな視点で等身大生活を扱うコミック本も、おおいに棚を賑わせている。私がこの二冊に手をのばしたのも、当時の中国の都市生活風景や、一人暮らし周辺の諸アイテムに興味があったからだ。同世代の中国人(または若者)が抱える興味や不安、そして日々の雑感。そんな短い旅では見えづらい部分が、これらの作品からのぞけるのではないかと思ったのだ(新作ではないが今に続く社会文化トレンドのハシりと想定して)。
 ぶっちゃけて言うと、中国に『週刊文春』や『週刊プレイボーイ』のような、同時代の大衆文化が丸わかりできるような出版物があれば、そりゃもうよだれを垂らして即買いするのだが(『anan』や『ゼクシイ』もストレートで良い)、日本人からすると、中国の書籍・雑誌はまだどこか奥ゆかしいというか真面目というか、とにかく欲望ベクトル丸出しではない気がするのだ。もちろん、海外ファッション誌の中国版などは二〇〇〇年以前からあったし、娯楽分野では文芸なりスポーツなり、軍事・科学・クルマなりの専門誌があった。九〇年代の旅でよく見かけた報刊亭(街角の新聞スタンド)でも、その種の雑誌が売れ筋であった。ただ一方で、私のようなよそ者が現地のいまどきの都市生活をこっそり概観したいと思ったとき、参考にできる本・雑誌はさほど多くなかったのである。
 そういう意味でいうと、店内で興味深かったのは「断捨離」本の人気である。コロナ禍前からずっと平積みされていて、日本よりも明らかに注目期間が長い印象だ。家事にまつわる実用書は多けれど、通常の国内書とは毛色が違って心に留め置かれやすいのかもしれないし、もしかすると断捨離という「最新の和製漢語」が、生活風景を一にしだした彼らの心にもダイレクトに刺さるのかもしれない。

ついでに麺屋模型も買う

 さて、買い物のなかで最も高価格なのは、螺シー粉(ルオシーフェン=柳州名物のタニシビーフン)の店を模した、中華ブロック模型である。螺シー粉とは、具材の一つである発酵タケノコが大いなる異臭を放つという、そんな致命的な欠点を持ちながら、なぜかいま若者人気をさらっている特異な麺料理である。原料は米粉で、スープの味は酸っぱくて辛い。他に干した豆腐や青菜や煮玉子、さらに鶏の足や落花生を入れたりする。
 そして、このレゴ似の商品がいかにも広東・広西にありそうな南国風の店構えで、しかも色彩豊かでポップな仕上がり。箱も光沢マットな質感の紙で、なかなか見映えがする。他にも、広東グルメやドリンクスタンドや和雑貨の店が商品化され、とぼけた味わいが外国人ウケしそうだった(この種の商品を紹介する日本人Xユーザーは実際多い)。
 余談だが、最近のレゴや中華ブロックの人気には目を見張るものがある。ここへ来る途中、正佳広場付近のレゴショップでは千元もする豪華商品が数多くならんでいたし、五年前の武漢でも、レンガ積み洋館のたたずまいをした大型レゴショップをのぞいて、私はその品ぞろえとディスプレイの奇抜さに驚かされた(とくにご当地の世界遺産である黄鶴楼が、約一メートル半の高さで店内に鎮座していたのは衝撃的だった)。
 この書店の一階特設コーナーでも、硬軟さまざまなテイストの玩具模型・ジオラマ・ままごとセット、あと対象年齢不明のインテリア模型などが大々的に展開されていた。おなじみ中国南方航空(本社は広州)の航空機モデルもあれば、人民解放軍の空母・福建(二〇二二年進水、二〇二四年就役予定)の模型も堂々店頭にならんでいた。
 これらの商品群とて、見たところ爆発的に売れている形跡はない。でも、我々にも容易に共感可能な、時にシュールで遊び心をくすぐる玩具が、中国人の心を捉えはじめているのは確かなようだ。たとえば、話は飛躍するが、日本の観光地の伝統的みやげ品といえば、ご存じ提灯・湯呑み・ペナントが相場だが、これが中国となると、主力商品は櫛(くし)・栓抜き・竹製の扇・トランプ・仏像の類である。あと絹製品・印鑑・首飾り・玉製の腕輪なども見かける。どうだろうか。心惹かれる人は少ないはずだ。
 それが、いまや星巴克(スターバックス)に行けば、当然のように各都市オリジナルのマグカップやタンブラーを販売しているし、訪日観光客が唐吉訶徳(ドン・キホーテ)やまんだらけや中野百老匯(ブロードウェイ)に巡礼して、せっせと日本風味の商品を買い込んでいるとこらからも分かるように、お互いの物欲に焦点を当ててみると、知らず知らずのうちに我々が似たような消費文化を謳歌しだした、というのも一面事実なのである。とりわけ子供の頃から親しんできた作品・キャラクターのグッズならば、自然と財布のヒモをゆるめてしまうというのが、もはや日中共通の人情である。
 他方、店内には中国共産党関係の本をディスプレイする一角があった。そこにはシックな机も用意され、五、六人の若者がしずかに「学習」していた。あと、日本で話題の「上野千鶴子ブーム」も当店で確認できたし、相変わらず日本文学部門は存在感を放っていた。そしてコクヨの文具も人気だった。現場からは以上です。

武漢のブックストアで考えたこと

 いくら本が好きだといって、長々と独り言をつぶやいているわけにもいかない。
 とはいえ、現地書店の日本文学推しのすさまじさは、中国未体験者の方には一度ご覧に入れたいところである。例えば、武漢の中山大道にあった「物外書店」の世界文学コーナーでは、なんと日本人の作品が約半分を占めていた(ざっと数えて六百タイトル以上)。
 とくに平積みされた新刊の顔ぶれがまた圧巻だった。割愛せず全タイトルを記しておくと、夏目漱石『我是猫(吾輩は猫である)』、芥川龍之介『羅生門』、野坂昭如『蛍火虫之墓(火垂るの墓)』、伊坂幸太郎『金色夢郷(ゴールデンスランバー)』、新海誠『秒速5厘米(秒速5センチメートル)』、岩井俊二『情書(ラブレター)』、小川糸『山茶文具店(ツバキ文具店)』、西川美和『永久的托詞(永い言い訳)』、清少納言『枕草子』、連城三紀彦『一朶桔梗花(戻り川心中)』、谷川俊太郎『一个人的生活(ひとり暮らし)』、川端康成『雪国』『伊豆的舞女(伊豆の踊り子)』、京極夏彦『百器徒然袋・雨』、乙一『ZOO』、緑川幸(緑川ゆき)・村井貞之(村井さだゆき)『夏目友人帳・小説』、谷崎潤一郎『細雪』、太宰治『人間失格』、曲亭馬琴『八犬傳』、湊佳苗(湊かなえ)『告白』、堀辰雄『起風了(風立ちぬ)』、是枝裕和『歩覆不停(歩いても歩いても)』、山田宗樹『被嫌棄的松子的一生(嫌われ松子の一生)』、小泉八雲『怪談』、京極夏彦『百鬼夜行・陽』、北野武『北野武的小酒館(全思考)』と、こんな調子である。
 今や中国人は飯を食らうがごとく、日本作品をモリモリ摂取・咀嚼し、そっくり消化しているかのようである。武漢や広州の人みんなが知日派ってわけじゃないさ、という見方もできよう。だが、都会の一等地に建つ人気書店のシビアな選書を思えば、日本関連本の物量・売場展開・レコメンド状況は、見れば見るほど現代中国人の旺盛な知日熱を浮き出たせるのである。
 一方で近年いみじくも、日本の地上波テレビ番組「ブイ子のバズっちゃいな!」や「月曜から夜ふかし」の中国発信動画が注目を浴びたのは記憶に新しい。両番組がフラットに映し出した中国人若年層・高齢層の赤裸々な本音、自然体のすがたが、思いのほか日本人視聴者の好奇心や笑いのツボと共鳴したということだろう。さらに、多くの中国人インフルエンサーが流暢な日本語を駆使し、等身大の話題で中国(人)紹介を試みて支持を集めているのも、ここ数年の顕著な傾向だ。いわば嫌中トレンドとパラレルで、知中をはかどらせる社会情勢も(局所的にではあるが)着実に生成されているといえそうだ。
 実際、マイペースな歩行者となって現地人の生活範囲をなぞれば、我々が異様なまでに「消費者」として均質化している場面が発見できる。日中両国はいまだに大小のズレを抱えているが、それでいて個人レベルでは意外と似かよった話題・関心を持ち、同じような風景と都市環境に囲まれて暮らすようになった、というのも事実だ。とりわけ、アニメやゲームなどのエンタメ分野は、若者の共通文化・共通言語だともいえる。
 そう、我々もようやく都市生活者や消費者の目線で、彼我のギャップを面白がりつつ、知中(中国を知る)の次元を増設できるようになったと思うのである。あたかも、私たちが他都道府県民の常識なり気質なりをオーバーに取り上げて、同情・共感・羨望・嫉妬等さまざまな感情をまじえて面白がるように。
 もうお分かりのように、この旅にはそんな背景と、私なりのモチベーションがある。
 購入したばかりの本をかかえ、私は天河路と体育西路の交差点に出た(ホテルまではほんの数分の距離)。振りかえると、スケルトンな円筒形ビルに優衣庫(ユニクロ)の真っ赤な巨大ロゴが取り付けられ、まるで銀座数寄屋橋の不二家の如く圧倒的存在感を誇示していた。最近は下調べしなくても、しばしばこの赤いロゴに遭遇するので、まるでわざわざ中国各地へユニクロ詣でに来ているかのようだ。いや頼もしいかぎりである。
 道すがら果物屋で清涼飲料二本を買い、ホテルにチェックインする。少時休憩。
――天然椰子汁、王老吉。計一〇元(アリペイ払い)

アリペイの神通力が使えない

 本章のはじめに、広州を旅するのは二十六年ぶりだと書いた。
 忘れもしない。一九九七年と翌九八年につづき、今回の旅が三度目となる。
 いずれも春休みの学生旅行で、旧租界地の沙面にあった青年旅社(ユースホステル)に投宿。『地球の歩き方』を参考にそこへ投宿し、越秀公園、南越王墓博物館、光孝寺、六榕寺、石室(聖心大教堂)といった名所を訪れた。
 合わせて一週間程度の滞在だったが、印象深い光景が多い。たとえば騎楼(チーロウ)とよばれる石造りの屋根付きアーケード街。料金交渉直後にヘルメットをかぶらされ、気づくと高架上を激走していたバイクタクシー。時間を忘れて眺めていた、ノスタルジックな珠江と人民橋。それから当時、その珠江沿いに軒を連ねていた乾物屋の独特な匂い、南方大厦という昔ながらの百貨店。バックパックを放り出して、豪勢に食事したいくつかの老舗広東料理店。そのほか、ありとあらゆる食用動物に出会えた清平路市場、北京路の静粛な国営書店、いつも交差点の歩道橋の上にいた片足の老人、今は無き沙頭咀の香港ゆきフェリー乗り場、緑濃き烈士公園、時間をもてあました高齢者たちが後ろ手に壁新聞を眺めていた孫中山記念堂、空気も治安も絶望的に悪かった広州駅など。
 試みに、手元の一九九三年の昭文社『エアリアガイド・中国』で広州のページを開くと、今いる天河区はまったく掲載されていない。地図の掲載範囲でも東側は広州動物園で切れてしまっているし、市内の見どころとして挙げられているのは、越秀公園・中山記念堂・鎮海楼・陳氏書院・六榕寺・光孝寺・黄花崗公園・広州動物園・仏山・珠江遊覧。じつに越秀区の歴史的スポットが中心だ。
 首都・北京では王府井大街が大改装され、上海では浦東にテレビ塔(東方明珠)が誕生し、香港では大嶼(ランタオ)島に新空港がオープンした頃だ。国内の広州ガイドの内容も、越秀区と茘湾区が中心。ビジネスマンは別として、天河区をほっつき歩く日本人など、ほぼいなかっただろう。今回の旅ではこれを踏まえ、天河に泊まって新都心エリアを歩きつつ、その合間にノリノリの浦島太郎として、懐かしき旧街区を訪ねることにした。
――タクシー(漢庭酒店~陳家祠)。三二元(アリペイ払い)
 私はホテルを発ち、タクシーで西進すること二十分。陳家祠に到着した。
 ここは陳姓の広州人が一族の子弟を教育するためにできた書院であり、祖先をまつる祀堂も兼ねている。清末の一八九四年完成で、陳氏書院ともいう。左右対称に前院・中院・後院・東院・西院がならび、それぞれが回廊でむすばれる代表的な中国南方建築で、さらに柱や欄干や梁(はり)にほどこされた精緻な彫刻が見ものとされている。
 入場口には、QRコードをかこむ見慣れたモスグリーンのマークが掛かっていた。おっと、これは微信(ウィーチャット)アプリを使って入場すべし、とのお触れだ。
「やれやれ、これはまずいぞ」
 そう思いながら、そろりそろりゲートへと進んでいった。私の周りにも数人、スマホ片手に手間どっている高齢者がいた。
 うーん、何か抜け道がないものだろうか。こちらはダメで元々の外国人だ。
 さて、みな入場ゲートにスマホをかざし、難なく三本バーを通過していくところ、私は水戸のご老公の印籠よろしく、日本国パスポートを堂々と係員の鼻先にかざした。
「私は外国人です。これでいかがでしょう?」
 係員は表情を変えずに、斜め後方を指さした。
「うむ、それならあちらへ行きなさい」
「あっ、はい。どうもすみません」
 よく見ると、人波の向こうに昔ながらの切符売場らしき建物があった。有人窓口を案内してくれたのだ。
 そちらには、すでに高齢者たちが数人並んでいた。入場料は十元。現金で二十元札を出して、釣銭を受け取る(こういう事態にそなえて、現金は何がなんでも崩しておきたい)。
――陳家祠・広東民間工芸博物院。一〇元(現金払い)
 結局一分もかからずに、めでたく陳家祠への入場をはたした。
しかし、天下のアリペイが使えず、ウィーチャットペイ限定で入場システムが組まれているとは恐れ入った。このように代替方法が一瞬で示され、しかも数歩の距離とわずか数秒の時間で手続き完了できたからいいようなものの、追い返されたり面倒な端末上の操作が必要となったら、まごつくどころか早々にあきらめたくもなる。
 首尾よくスマホ決済のアプリは手に入れたものの、意外と名勝旧跡が鬼門かもしれない。そのように思った。
 盛んに鳥が鳴くなかを入場。一万五千平米の敷地は予想以上にゆったりとしていた。主要な建物は軒先までの高さが四メートルほどもある。玉やステンドグラスの窓、重厚な木の扉の彫刻が印象的なほか、内部は建築設計図や修復過程の説明なども充実している。修復作業の映像を流すモニターや、全長約五メートルのタッチパネル地図、記念メダル自販機など、付帯する設備も興味ぶかかった(とくに展示用の発光パネルが伝統家具を模した透かし彫り屏風的什器に取り付けられているところもグッドだ)。
 しかし最大の見どころは、屋根の上のカラフルな立体装飾である。よくある龍だ鳳凰だ、雲だ天女だというのでなく、獅子も鳥も草花も人物も魚も器もみな「万物大集合」といった感じで、棟や破風を所せましと埋めている。伝統建築や牌楼の前で人形がごちゃごちゃ居並ぶ箇所などは、特にセンスが突き抜けている。なお、これらのデザインは、広く古典の故事や地方の風物に材をとっているそうだ。
 このように工芸品の展示はあるし参観客も多いので、往時の姿をイメージするのはやや難しい。だが、広いスペースでは遊び心も生まれる。私は陳一族の長老になったつもりで鷹揚に堂宇を歩いてみたり、あるいは奉公人が用向きに急ぐが如く、敷地内を軽く小走りしたりしてみた。他の参観客も「抜けのよい」回廊で自撮りしていたり、真剣な表情で修復事業のパネルを読んでいたり、中庭で仲間とじゃれたりと、思い思いの構え・発想で館内をめぐっていた。
 陳家祠を参観すること四十五分。私は同地を退出し、中山七路と康王北路の交差点に出た。
 このあたりは以南の歴史文化街区のいわば入口だ。季節は真冬だが、背の高い街路樹の傘の下、南国の陽気でのんびりとした空気が流れている。
 交差点の南西角では、青と黄のヘルメットをかぶった二人組が路上ライブを敢行していた。歌は広東語。青のほうがギターとボーカルで、黄色がドラム担当だ(これがポリバケツとドラム缶とシンバルの三点セット)。二、三十人の通行人が、足を止めて静かに聴き入っている。中には、バイク上で寝そべりながら二人の熱唱をながめる別のドライバーもいた。はたして、当代の中国社会の光と影を映す、外売(ワイマイ)音楽・外売文学なんてジャンルが今後育ってくるのかこないのか。さてどうだろう(まあ非常に絵になるだけに、単なる客寄せのコスプレである可能性も捨てきれないが)。
 そういえば、先ほどご紹介した天河路はいわゆる新都心の商業エリア、まさにハレの土地柄であり、ドライバーたちの動きもキビキビとしていた。だが、こちらへ来ると、まるで休憩中のタクシーのたまり場のような雰囲気だ。新興のオフィス街や商業地とはひと味違う、いい意味で肩の力が抜けた場所。そこへ市内をくるくる駆け回る、多忙なドライバー達たちが引き寄せられて来る理由も、なんとなく分かる気がした。
 配達戦争から一時離れ、みな思い思いの姿勢でオフの時間をすごしていた。バイクの上で睡眠時間を取りもどす、仲間と情報交換をする、ドラマの続きを視聴する、など。キラキラとした天河路もいいが、彼らの素のすがたが見えるこちらの風景も、むしろ現代っぽくて味わい深い。

龍津路グルメ散歩

 つづいてやって来たのは、アーケード状の騎楼(チーロウ)街・龍津路だ。石造り建築の一階部分がへこみ、洒落た歩道になっている。街並みは洋風だが、ここには庶民的な食事処が点在している。
 私はさっそく「超記」という店に飛び込み、広東名物のボー仔飯(ボーは保の下に火)をいただいた。
 チャーシューなどを載せた土鍋飯といった感じの料理だ。間口はせまいが、なかなか豪華な店構えで、意外と奥行きがある。一階は十卓、壁は上半分が白くて、下が石積み風、天井は真っ黒でいまどきの間接照明がぶら下がっている。親子連れもご夫婦もいれば、高齢男性、高齢女性の一人客もいる。
 ここでは注文で苦戦した。店のおばさんの指示どおり、卓上のQRコードを読み取ってメニューを閲覧する仕組みなのだが、なぜかその画面へと進めない。操作やシステム自体は簡単だ。新大久保や高田馬場のガチ中華店でも、ほぼ同じ仕様の注文画面を利用したことがある。なまじそんな成功体験があるだけ、ちょっとくやしい。
 数分間格闘したのち、私はあきらめておばさんに助けを求めた。
「すみません、海外のスマホでは難しいみたい。ここで注文していい?」
 いかにも間抜けな言いようだが、相手も商売だ。おばさんは笑って、口頭での注文を受け付けてくれた。
「どれにするんだい?」
「えっとね、この咸魚なんとかってヤツを」
――咸魚双ピンボー仔飯(ピンは手へんに并)。三四元(アリペイ払い)
 臘肉(豚の干し肉)、炒めた牛肉、それに干した魚が載った豪華版を注文した(モバイル決済成功)。約十分で、具材てんこ盛りのボー仔飯が着丼。定番の青菜も添えられていた。早速いただいてみると、まず味のバラエティーとその強烈さに驚く。すなわち、牛肉と青菜はほどよい塩味、カリッとした臘肉は甘口と超甘口が混ざり、咸魚は読んで字のごとく塩辛い。土鍋を埋めるご飯はインディカ米だ。外はお焦(こ)げをまとってパリパリ、中はふっくら。こちらも食感の変化が楽しめるのだ。
 だが、味濃いめ好きな私にも、なかなか強烈な一品だった。とくに、塩の固まりのごとき咸魚にはお手上げ。これはこれでいい勉強になった(次に来たときは鶏肉・キノコ載せをたのむとしよう)。箸とレンゲの二刀流で土鍋と格闘すること二十分。例の咸魚と甘すぎる臘肉、この両極端な二種を少量残し、店を出た。
 帰りぎわに、同店のスタッフ募集のポスターを発見。そこには、食住付きで「レジ四五〇〇~七五〇〇元、ホール四〇〇〇~六〇〇〇元、洗い物三八〇〇~五五〇〇元、厨房五〇〇〇~七五〇〇元」と月給が提示されていた。担当職種ごとに「要求」がちょっとずつ異なるのも興味深い。順に一部を抜き出すと、レジは細心・親和力(注意深く親切で優しい)、ホールは有団体合作精神(チームワーク重視)、洗い物は吃苦耐労(苦しみやつらさを耐え忍ぶ)、厨房は無不良嗜好、である。どれもお決まりのようでいて、いや経験則という線もありそうだ。
 龍津路の騎楼街アーケードを歩くこと五分。もう一軒のお目当て広東料理店「伍湛記」に到着した。日は暮れて、各店舗のネオンが思い思いにちらつき始めた。
 こちらの入口も、金色の店名にさらに金ピカの電飾が仕込まれていて、今はまばゆいばかりに存在をアピールしている。店内は天井を外したスタジオ風の空間に、シンプルな黒テーブルと木製のスツールが配置され、中央が幅の広い通路。映画のセットみたいに、こじゃれた内装である。親子連れや男女数組がのんびり粥をすすったり、スマホに目を当てたりしている。ヘルメット姿の外売(ワイマイ)くんたちも奥にちょこんと座っていた。
 入口寄りの卓につくと、さっそく卓上のQRコードから注文するようにうながされた。今度は大丈夫だろうか。おそるおそるバーコードをスキャンし、指定されたURLへ飛ぶ。すると、こちらは一発で店舗メニューにたどり着いた。いいぞいいぞ。ちなみに、この店は状元粥という料理が名物なのだが、もうご飯類は腹におさまらない。おすすめの中から別の二品を注文し、それから支払いはアリペイで完了。これはカンタン、カンペキだ。
――排骨拉腸。一八元
――徳昌咸煎餅。五元(ともにアリペイ払い)
 ほんの二、三分で咸煎餅が到着。見た目はしなびたドーナツのようである。口に入れると予想以上にひんやりとして、たしかにしなびていた。スイーツでもない。ただ、クセのない香ばしさは何かの脇役にぴったりである。そう、よく朝食の油条(ヨウティアオ=揚げパン)を粥にひたして食べるように、これも粥と一緒に注文するような添え物なのだろう。味気ない代物だが、後ろで粥を食べている人を振りかえりながらパクついて完食。
 お次は、遅れてやって来た拉腸。米粉を蒸して重ねた半透明でぬるぬる、もちもちのヤツは、オイスターソースの海にその身を横たえていた。思わず箸で持ち上げようとするが、ずっしりと重量感がある。エイヤッと箸でこじ開けると、脂身まじりの豚あばら肉が現れてその油分がソースに混じる。見た目はオイリーだが、食べてみると意外にくどくない。米粉部分の独特の食感が口当たりよく、肉も食欲をそそるスタンダードな味付けで、交互に食べていると箸が止まらない。おやつ感覚でいける点心なのだ。とはいえ無心でがっついていると、さすがに満腹が近づいていた。七割ほどでギブアップ。一八時四十分に退店した。
 当店の営業時間は八時半から二十時半。あまり遅い時間だと食事にありつけないので、連続二軒ハシゴとなったが、一人で中華食べ歩きはやっぱり難しい。
 私は腹をさすりながら、ネオンがより輝きを増した龍津路へと出た。夜の広州観光はこれからだ。

噂の未開発地区を徘徊してみた

 城中村、という言葉を聞いたことがあるだろうか。
 読んで字のごとく、街中の村、すなわち周辺地区の目覚ましい発展に取り残された、比較的未開発のエリアを指す。おのずと人口密集地であることが多く、中国の大都市にはたいてい、こう呼ばれる旧街区が各所にある。中層・高層のビル群がひしめく新興オフィス街、そこに隣接する下町の住宅街や飲食街。そんなイメージを持っていただければよいと思う。
 二〇二三年に日本全国で上映された中国映画、ロウ・イエ監督の「シャドウプレイ」がまさしく、ここ広州の城中村を取り上げたドンピシャの作品だった。天河路にほど近い洗村一帯の再開発をめぐって、不動産王・役人・家族・愛人の思惑が交錯し、殺人事件へと発展するスリリングな内容だが、私は劇中、四川省の変面ショーのように切り替わる新旧の街並みがことごとく気に入った。
 学生時代はまだ開発途上にあり、旅で立ち寄りもしなかった天河エリアが、そのような新旧のギャップを呈して話題になっているとは。もしや最終形態が近づいているのかもしれない、と現状が気になった。そこで、高徳地図と衛星地図アプリ・谷歌地球(グーグルアース)をせっせと動かして、希望にかなう市街地を数ヵ所発見したのだが、最終的に賑わいと雑然性、さらに規模の大きさから、天河区東部の車陂エリアを選んだ。
 天河路のホテルから東へ約十キロ。車陂は約一平方公里ほどの広さで、一時代前の賑わいを残す、ごちゃごちゃしたレトロ街区である。ちなみに、天河区中心部にほど近い石牌もまた城中村として有名であり、日本人による城中村投稿はその石牌に集中している。駐在員の勤務先が郊外の工場地帯でない場合、おのずと行動範囲がそのあたりに集まるという背景もあるだろう。
 さて、短い滞在時間だが、とりあえず足を踏み入れてみよう。そう考えて夜の車陂へ車を飛ばしてやって来た。
――タクシー(龍津路~車陂)。五四元(現金払い)
 中山大道から当該区域の北口へと進入。車止めのために設置されたか、頭上二メートル弱の分厚いゲートが外来者を迎える。さっそく迷路がはじまった。
 入口こそコンビニの美宜佳、デザートドリンクの蜜雪冰城と有名チェーンが肩を寄せ合うが、幅三、四メートルのガチャガチャ道に入ると、一階は明るい商舗、上階が真っ暗な居住区という光景に様変わり。そうかと思うと初めて分岐が現れ、かまわずに進むと道幅が二メートル弱になった。自転車とバイクがひっきりなしに飛ばして走るので、かなりおっかない。ただ半面、路面が基本ガタガタで、大きくうねっている場合もあり、だから車両が近づくとガチャガチャと派手な音がしてすぐに分かる。
 途中、一軒の商店でペットボトルコーヒーを購入。ところが、ここも海外クレカには対応していないのか、モバイル決済は失敗。レジのおばちゃんに現金払いを申し出る。
――コスタコーヒー・ココナッツ味。八元(現金払い)
 すると、このようすを見ていた四十でこぼこの客が、私を日本人と知って話しかけてきた。聞くと彼は以前西科姆(セコム)に勤めていたという。おそらく地元民だろう。私が「そうか有名企業だね。たしか最初の社長は飯田亮さんといったよね」と急に思い出した名前を口にすると、すかさず「そうだそうだ」と屈託なく笑った。おばちゃんも彼と異邦人とのやりとりを面白そうに聞いていた。もっと話を聞いてみたくもあったが、話が込み入ると聞き取りが及ばない。買い物が終わると、「じゃ、おやすみ」と言って別れた。
 北門大街、大塘后街、東渓和興里北一巷などと看板を見ることもあれば、なんだかよく分からないまま道なりに進んで、あえなく行き止まりに当たることもあれば、思いがけず古めかしい祠に出会うなんてこともある。蘇氏宗祠・松寿カク公祠(カクは赤におおざと)といった旧跡スポットはあらかじめマークしていたが、実際は地図を見る余裕もなく、出たとこ勝負で歩いていた。狭い道はとことん暗く、道幅が一メートルもない。
 コンビニ未満の食料品店や、クリーニング屋、コインランドリーのほか、理髪店・美容院(快剪一五元なんて看板も)、二輪の修理屋、湯粉面(スープ・ビーフン・麺)の店もよく見かける。赤や紫のネオンが妖しく輝くのは、ネイルと眉・睫毛(まつげ)タトゥーの店だ。商舗が消え、開けっ放しの住居や固く閉ざされた扉が続くと、灯(あか)りも現世感も薄れる。自分が地上にいるのか地下にいるのか、屋内なのか屋外なのかもあやふやになる。ただ完全なる闇ではないし、人通りが絶えることがまずないのは安心である。
 徘徊中に聞こえてくるのは、男声・女声の録音された宣伝文句、民家の話し声や椅子のきしむ音、バイクや自転車の走行音やクラクション、子供の甲高い声とさまざまだ。それが、やはり住宅オンリーの地区へ入るとほぼ無音。自分の足音がカスッカスッと路地に響いては消えてゆく。
 建物がみな古く、人口密度が高いわりには、道はたいして汚れていない。所々にごみステーションがあって、制服を着た係員が見張っている。そこへ歩行者が次々にやって来ては、ポイッ、ポイッと投げていくのだ。たまに、係員が見とがめてあれこれ注意している場面も見受けられる。小包をぶら下げている若者も多い。菜鳥驛站という宅配の中継地があちこちにあって、そこへ差し出しや受け取りに来る。路地裏にもそういった営業所が見え、歩道にせり出した棚に客を待つ荷物が無造作に置かれていたりする。見た目はちょっとたよりないが、これこそまさにラスト・ワンマイルのロジスティックス拠点だ。いま日本のコンビニが請け負っている一部業務・機能を、このような都市全体に配置された専門業務スポットが代替している。
 奥まった小路も好きだが、若者で賑わう屋台街二本が気に入った。
 まずは、高地大街。食堂や果物屋やテイクアウト菓子の路面店も多いが、山東雑糧煎餅、汕頭腸粉、土家鮮肉餅、陝西潼関肉夾モー(モーは食へんに莫)、牧牛人街頭牛排、東北手工水餃、隆江猪脚飯、雷州猪雑串、渝味小面、など、中国各地の地名を冠した屋台が左右に連なり、それはそれは壮観である。
 それからずっと見逃してきたが、若年の通行人たちのトレーナー・キャップ・ジーンズ・スニーカー・パーカー姿は、もはや日本人の同世代と少しも変わらない。注意ぶかく見れば、バッグや髪型のトレンドが多少異なるかなと思うぐらいだ。それと目視からはっきり断言できるのは、スーツ姿は百人に一人くらいだということ。
 このあたりは一部暗渠化しているのか、たまに水辺に出ることがある。とある駐車場から池に出ると、暗闇の向こうに賑わいがのぞいた。それがもう一筋の屋台街だった。
 大塘中街は車一台通れる比較的広い通りで、ヘルメットに長い耳を付けた外売ドライバーが大勢行き交う。高地大街よりもさらにローカル風味を増した、魅惑の通りだ。重慶小面、湛江生蠣、東北冷麺、寿司、醤汁鉄板豆腐、潮汕炒粉、柳州手撕鶏、手打檸檬茶、糖炒板栗、湛江蝦餅(以上原文ママ)などの屋台が出ている。
 一口ずつ全部お試ししたいところではあるが、後で「お目当ての一杯」が控えている。屋台店主の売り声や誘いを振りきって、それでも各店の食欲そそる出物・売り物を凝視しながら、私は広州東郊のダンジョン・車陂から退出した。
 ここは昼間の徘徊も、また違った雰囲気が味わえそうだ。中華アプリの動画で観察したところでは、ひとたび市場の中に入り込めば、耳をつんざく売り声、呼び込みの自動音声が四方八方から飛び交う。海鮮・青果・乾物・香辛料・生肉などさまざまな商店が軒をつらね、狭い舗道には歩行者、バイク、リヤカー、ベビーカーがひしめき、物売りも強引に路上を占拠・移動して大渋滞。そんな様相であった。外来の歩行者など、きっと視覚・聴覚の暴力と当地の熱気にコテンパンにやられ、それどころかディープな城中村・車陂をつつむ匂いという匂いが鼻中でブレンドされて、恍惚の世界に軽くトリップできるだろう。
 NHK「ドキュメント七二時間」などで特集すれば、胸やけするほど人間味の濃い、画期的な回に仕上がるだろう(反面で外地人には情報量が多すぎて脳内処理が困難だろうとは思うが)。
 いまやウェブ検索すると、城中村でフィールドワークを行ったという学術論文も発見できるし、じつに関連情報は数多い。また観光客目線で(つまり物見遊山で)城中村を歩くというのも、現地のアプリ動画群を覗くかぎり、今後密かなトレンドになるだろうと予想される。近年は強引な立ち退き工事のようすが報じられることも多い。だが、実際のところ相対的にみて開発が遅れている地区というだけで(生活インフラ・防災・衛生・住宅等々の問題はあるにせよ)、なにも土地の人々が一様に「発展に取り残された、かわいそうな存在」というわけではなさそうだ。いわば旧城内も天河も車陂も、現実にはそれぞれが広州市区内の「同時代の顔」なのだ(そりゃ新興のキラキラ天河路界隈を基準にすれば、中国のほぼ全てが立ち遅れた土地になってしまう)。みなさんも機会があれば、旅先都市の多様な顔をのぞきに、城中村を訪れてみてはどうだろうか。
 中国では、本当にバラエティーに富んだ新風景が同時進行で誕生し、そのかわり地元の人々が見つめてきた平凡な景色がひそやかに消滅している。旅人は、新時代のピカピカな街路や便利な新交通網に慨嘆しては、そのかたわらに散在する旧時代の痕跡を目にすることになる。短時間の散歩で出会ったり、すれ違ったりする人民のみなさんの戸惑いと幸福感をちょっぴり想像しながら。思うに、その繰り返しが一歩ごと、一瞬ごと、私にとって中国の旅の醍醐味なのである。

トイレ臭のタニシ麺

 人気の中国人女性インフルエンサー・楊小渓(ヤンチャン)に、『三三地域の暮らしと文化が丸わかり!中国大陸大全』という著書がある。ここにも、広西チワン族自治区・柳州の名物、螺シー粉(ルオシーフェン=タニシビーフン)が紹介されている。該当部分を引用するとこうだ。
「臭豆腐にも似ていて独特の臭みがありますが、その臭いはタニシではなく、中に入っているメンマから出ています。『男子トイレのにおい』ともたとえられるように苦手な人はダメかもしれません。でも、辛くてすっぱくて、ハマっちゃう味です。」
 この螺シー粉がいま、中国の若者のあいだで静かなブームを巻き起こし、なんと流行の波は東シナ海を越えて、東京まで押し寄せている。私が都内二店舗でこれを試したのは冒頭に書いたとおりだが、ここ広州にも「周成芝」という人気店を探しだした。基本メニューの螺シー粉が一三元から二六元という超安値で、店内もまずまず清潔そうで合格点。しかも、天河路の宿泊先から歩いてすぐ。これは試さない手はないと、城中村の魅惑の屋台をスルーしてここへやって来た。
――タクシー(車陂~天河)。三〇元(現金払い)
 ちなみに地図アプリで見るかぎり、ここ天河路のショッピングエリアの南側は、和洋中ほか世界中の料理が提供される一大グルメスポットである。韓国料理ありタイ料理あり、順徳料理に湖南料理につけ麺、さらにデザート専門店も多数あり。ただ問題は、一人旅でどれだけ楽しめるかということだ。そうすると候補はかなり絞られる。そこで結局、勝手知ったる柳州名物をここで先に食べてしまおうと考えた。それにだいたい、この異臭で名高い外地のメニューを、なぜ広州の都会っ子が喜んで食べているのか。まずはその人気っぷりをこの目で確かめたい、という野次馬根性があった。
 さっそくカウンターの店員に口頭でオーダーする。
――三鮮螺シー粉・微辣。一六元
――可楽(コーラ)。二元(ともにアリペイ払い)
 おそるおそる「微辣(ウェイラー)でお願い」と言ったら、ちゃんと注文票レシートにまで印刷されてきた。デフォルトで辛さを加減してくれるのは嬉しい。
 コーラは百事(ペプシ)の瓶。注文後に自分で冷蔵庫を開け、これを取って自由に着席する。それから、ホール従業員にチケットを渡す。
 客はとにかく若い。みんな二十代に見える。あまりに幼いので、なにか学食に紛れ込んだような違和感がある。一人客もグループも、客層はまちまちだ。長い髪をたくしあげながら麺をすすっている女子もいるし、食事を中断し、二人でガニ股になってカウンターに突っ伏し、スマホをいじっている男女もいる。
 私と同じ卓に座ったのは、両腕に派手なタトゥーを入れた金髪女性と、ピンクのボブヘアの女性の二人組だった。化粧っけのない女性が多いので目立つ。麺がやって来るなり、トッピングの酸笋をボウルごと持っていき、豪快に放り込んでいる。ただ、食べ始めると、皆おとなしくなる。大きな声を上げて店内のBGMを奏でているのは、主にレジと厨房とスタッフたちだ。いまの若者は革命的までに小声なのだ。
 螺シー粉が広州でどれほど浸透しているのかは分からないが、先ほどの城中村の高地大街・大塘中街では、どちらも各二軒の螺シー粉屋(路面店)が確認できた。この店も最も古い口コミが二〇二二年なので、比較的新しいようだ。麺がやって来るなり、あれこれ写真に撮ったり、少量を箸でつかんでおそるおそる口に入れたり、あるいは酢や酸笋や辣椒醤を少しずつ何度も追加している子を見ると、ああ初心者も多いのかなと察しがついたりする。
 そして待つこと五分で、私の螺シー粉がご到来。ほんのり独特の香りが漂うだけで、強烈な異臭というほどではない。匂いの元である酸笋は、蓋付きボウルから自分で増量するのだ。まずは何も加えずにスープを一口。半透明やや黄色、そして表面にラー油的な輝きが浮く外見どおり、たしかに味は酸っぱ辛い。でも中国語でいう清淡というべきか、さっぱりした印象でもある。
 具材はネギに青菜に豆腐干、キクラゲ、椎茸、豚の細切れ、落花生、そして今のところ少量の酸笋である。麺は丸形の米粉で、塗り箸との相性は悪く、これが滑る滑る(これには毎回苦戦する)。私はボウル半ばまで、スープ飲み飲み麺をたぐり、後半いよいよトッピングに挑戦(卓上は匂いがキツくなったが)、合間にバラエティーに富んだ具材を楽しみながら、漬け菜かみかみ麺を食べきった。東京では食べきれなかったのに、これは異様に満足度が高かった。
 思うに、これが本寸法ですと酸笋をぶっ込むのでなく、量を加減できる方式こそ、人気が出る(人気を保つ)理由なのかも知れない。これなら私のような外国人はもちろん、おとなしい今の子たちにとっても飛びつきやすく試しがいがある。いうなれば逃げ道が用意されているのだ。酸笋のボウルに透明の蓋が付いているのも、新時代らしい配慮だ(それでも店内はだいぶ臭うのだが)。
 しかし、意外な人気店と意外な人気メニュー、そして意外な客層と店内の雰囲気。この収まりや組み合わせの妙というのも、やはり現地の食堂に来て、そこに身を置いてみなければ味わえないものである。私はたしかな満足感を得て、店を出た。
 最後は、コンビニ二軒で菓子・飲料類を少々調達。まずは体育西路の喜市多便利店。
――可口可楽草苺味、三得利梔意烏龍茶。二〇・一元(アリペイ払い)
 コカ・コーラのいちご味と、サントリーのくちなし風味烏龍茶(無糖)である。中国のサントリー烏龍茶は微糖があるので要注意だ。
 次に、天河路のセブンイレブン広州購書中心店で、カフェラテをテイクアウト。
――熱拿鉄・大杯。一二元(アリペイ払い)
 今日の歩数計の値は、香港到着以降のカウントで「二万九九九七歩」だった。

第二章 冬の客家過疎村クエスト(梅州)

高速鉄道で行こう

 真冬の広州の夜空はどこまでも高く、そして黒々としていた。
 二日目の早朝、タクシーを飛ばして広州南駅へ向かう。
 運転手は浅黒い小顔の男で、最初寡黙そうに見えたが、話してみると河南省の出身だと教えてくれた。私が日本から来た旅行者だと明かし、鄭州・開封・洛陽といった未踏の地名を口にすると、だんだんノッてきて、
「河南は中国文化の源だ。おまえは黄河を知ってるか? フイ麺(フイは火へんに會)が美味いからぜひ食べなさい」などと延々お国自慢をする。
 生まれは安陽市だという。中国古都学会によると、中国十大古都(二〇一六年)のうち四つが河南省にあるとされ、洛陽・開封・鄭州とともに安陽も認定されている。比較的知名度は低いが、古代王朝・殷の都だから、それはもうレジェンド級の扱いである。
「ああ、そういえば『安陽嬰児(安陽の赤ちゃん)』って映画がなかったっけ?」
私は、いつか都内の映画祭で観た作品の名をふった。リストラされた独身男が、養育費目当てで娼婦の赤ん坊を育てるという物語だった。くわしい内容は忘れたが、地方都市・安陽の下町の匂いたつ風情を思い出した(もう二十年ほど昔の映画だ)。
 しかし、運転手の反応は何もなかった。初めて聞くタイトルらしい。すこし間をおいて、また河南省は中国文化の源泉うんぬん、が始まった。私のほうも世辞でなく多少は興味があるので、聞き取りのおよぶ限り、なるほどそうかそうかと聞いていた。
 すると、またフイ麺の話に戻った。フイ麺。それは幅広の麺を使う河南の名物料理で、羊肉・羊骨を煮込んでスープを作るのが代表的という。食べ物の話題が出たところで、
「そうだ螺シー粉(ルオシーフェン)は食えるか? 聞くところによると若者に人気らしいけど」
と私が訊ねると、彼は小さく首をふった。
「螺シー粉を知ってるのか? 俺は食べたことがない。とても臭いからな」
そう言って、本当にイヤそうな顔をした。
「昨日の晩、体育西路で食べたよ。味は悪くなかった。でも、顔と手がまだ匂うんだ」
私が勝手にそう報告すると、彼はクックックッと笑いだした。つづけて、
「いま東京には中国人が十万人もいてさ、螺シー粉専門店も何軒か出来ているんだよ」
などと、要らぬ情報を教えてあげた。彼は、信じられないというように大きく首をふった。そうこうするうちに、空港のように大きな駅舎が見えてきた。
「あなたが日本に来ることがあったら、私が案内してあげるよ」
「ああ、それはいいなあ」
 こうして、私たちの会話は終わった。
――タクシー(天河~広州南駅)。七四元(現金払い)
 駅舎に入り、まず入場ゲートを通過する。ここは何度やってもパスポートが読み取れず、しかたなく端っこで係員にチェックしてもらう(昨日の深セン駅と広州東駅はパスできたのにな)。
 ゲートの先は見通しのよい、一個の長方形巨大空間。このコンコースが、いわば待合室および通路として機能している。
 さあ、乗車する列車の改札口をチェックしよう。前方の電光掲示板には、これからやってくる列車の詳細がずらっと表示されていた。順に列車番号、終着駅、出発時刻、プラットホーム、ステータスである。
車次/終到站/開点/站台/状態
G276  青 島 六時四七分 14 在此候車
 C6903 湛江西 六時四七分 23 在此候車
 G6349 梅州西 六時四八分  6 在此候車
 D3802 大 理 六時五〇分 18 在此候車
 C9933 陽 江 六時五四分  3 在此候車
 D1852 貴陽北 六時五五分 16 在此候車
 ぼくが乗るのは三番目の梅州西行きだが、各列車の終点がバラバラなのにお気づきだろう。青島は山東省の都市で黄海に面し、湛江は広東省西部に位置する南シナ海の港町。大理と貴陽はそれぞれ、中国西南部の雲南省、貴州省に属する。日本人には馴染みのない方式だが、中国全土に張りめぐらされた編み目のごとき線路の上に、複雑な営業路線が組み立てられている。在来線も同じことで、いわばサンライズ瀬戸・出雲、あるいは往年の北斗星やトワイライトエクスプレスのような列車が、無数の運行パターンで広大な中国を走っているわけだ。
 仮に、旅行情報アプリ・携程旅行(トリップドットコム)の鉄道予約画面などで北京や上海などの都市名を入力すれば、どれほどバリエーションに富んだ路線があるか、容易にお分かりいただけると思う。なお日本語で書かれた便利な情報源としては、半期ないし年一回ペースで更新・刊行される、『中国鉄道時刻表』というマニアックな書籍がある。中国では二〇一六年を最後に、鉄道局の時刻表が発行されなくなったので、たいへん貴重な存在といえる。
 迷子にならぬよう、厳重に該当列車を確認したあと、私は構内のマクドナルドに入店した。もちろん、朝食をとるためだ。
「おやおや、今回の旅はガチ中華で通すんだ、と宣言しなかった?」
 そう的確にツッコむあなたは、全面的に正しい。だが、私にはやらねばならない宿題があった。旅先各地で、何度も使用をあきらめていた注文機にリベンジするのだ。
 予想どおり、客席入口にタッチパネル式のマシンがあった。
 おそるおそるスクロールとタッチを繰り返し、最後にアリペイ払いを敢行。無事に決済完了と相成った。
――図林根香腸営養巻、香腸、熱豆乳。三六元(アリペイ払い)
 仇討ちは案外、あっけなく遂げられた。
 しかも、前述のとおり肝心の支払いアプリが、アリペイとウィーチャットペイのほぼ二強なのだ。これほど便利なことはない。ひとたびこの状況に慣れてしまうと、今度は日本のレジや自販機で、必死に支払手段を選ぶのが馬鹿らしくなりそうだ。
 私はホッと胸をなでおろしながら、こちらの朝マック、ソーセージとスクランブルエッグ入りのタコスをほおばった。
 でもとにかく、これまで指をくわえて眺めていた相手をねじ伏せたのだ。この早朝のマック攻略には自信を得た。省と自治区をまたいで、都合四都市を周遊する旅だが、全国展開のマックがこれなら道中なんとかイケるのでは。そう楽観的に思った。
 そうこうするうちに、発車時間が近づき、改札口が開いた。私は飲みかけのホット豆乳を手に、梅州行きの高速鉄道に乗り込んだ(この時もやはり有人窓口で)。
 列車はまず深センまで南下し、それから終点の梅州を目がけて、広東省東部をひた走った。最初は見慣れたビル群を見やりながら小一時間。後半はのんびりと田舎風景を楽しめるのかと思いきや、じつは果敢に山深き地帯を分け入るコース取りだ。特に潮汕駅以降は、長いトンネル、短いトンネル、また長いトンネルと、地上と地中を出たり入ったりしながら、内陸部・北西方向へと進行した。
 そうして列車は午前十時二三分、梅州西駅に到着した。

そして誰もいなくなった

 これから日帰り散策する梅州は、広東省東部に位置する四線都市である。
 多くの指導者・有名人を生んだ「客家」の故郷として名高い。客家とは、独特の文化や言語をもつ漢民族の支流のことで、広東省や福建省を中心に華南エリアに広く集住している。そして梅州には、客家文化の中心地とみなされるだけあって、独特の形状をした伝統的家屋が、市内に今なお多数現存するのである。ちなみに、日本の映画ファンにもおなじみの侯孝賢(ホウシャオシェン)監督も梅州出身でもある。
 本稿内で再三ご紹介している高徳地図でもいいし、おなじみ谷歌地球(グーグルアース)でもかまわない。ひとたび梅州市の衛星写真地図をのぞけば、何やら半円形と小さな四角を積み木風に組み合わせたような、ふしぎな建造物が目に飛び込んでくるはずだ。
 と、ここで「ドーナツ状の巨大家屋を見た記憶があるけど、それと似ているな」と思った方は非常に鋭い。
 今度は福建省の南西部に注目してほしい。試しに、承啓楼、あるいは初渓村と検索すれば、別種の巨大円形建築を探し当てることができる。客家円楼と呼ばれる、いうなれば親戚筋の建築様式である。以前、TBSの人気番組「世界ウルルン滞在記」(一九九八年、第一四〇回)でも取り上げられたので、覚えておいでの方もいらっしゃるかもしれない。その後、福建土楼は二〇〇八年に世界遺産指定された。
さて、時を戻そう。
――タクシー(梅州西駅~南龍村)。五〇元(アリペイ払い)
 梅州西駅から約三十分。私は南龍村人民政府前にいた。
 運賃がやけに高いのは、運転手の言い値をせっかく値切ったのに(それでも高めの三十元)、アリペイ操作に手間取って打ち込みをミスしたからだった。残念無念だが、それに気づいたのは下車数分後だった。
 ただ本当のところをいうと、私の心はすでに客家民居にあった。それに、も年かさのドライバー氏もこちらの要領を得ぬ説明に根気よく付き合ってくれて、知りもしないし検索しても出てこない、超マイナーな客家民居までなんとか送り届けてくれたのだ。まあ、料金をはずんであげたことにしておこう。
 今回の梅州訪問には、じつは手引き書がある。二〇〇〇年刊行の岡田健太郎『客家円楼に行こう』だ。二十年前の旅行の達人が、陸の孤島ともいうべき中国南部の村々を訪れて書いた、建物紹介・平面図・交通アクセス入りの旅教本なのだ。私はこの「聖典」をたよりに、一度福建省の客家土楼村へ旅したことがある。
 いま私が立つ南龍村も、一応そのガイドで言及されている一つだ。しかし、情報は少なかった。愛用の地図アプリをもってしても、この村随一の伝統的家屋がちゃんと保存されているのか、はたまた一見客が参観できる状態なのか、いまいち判然としなかった。
 そんな期待と不安をないまぜにしながら、ちょっとした勾配の舗装道をすすんだ。鳥のさえずり、ニワトリの鳴き声が聞こえる。おやっ、どこかで犬も吠え出した。
 と、ものの一、二分で目的地に着いた。
 正面に「龍徳囲」の額を掲げた、一軒の古めかしい家屋が、鬱蒼とした常緑の木立を背にして、青空のもと堂々と建っていた。瓦屋根の下の伝統的な提灯、そして文字の消えかかった対聨(ついれん=門の上や両脇に対句などを貼ったもの)の赤い色が、色あせてはいるが白壁と対照的でビビッドである。
 だが、あたりはしんとしている。まさか、勝手に立ち入りはできない。私は人の気配をうかがいながら、とりあえず前庭をうろうろしながら、外から写真を撮り始めた(建物は背の高い平屋で、幅が二十メートルといったところだ)。
 すると数分経ったとところで、男が一人出てきた。年の頃五十くらいだろうか。
「こんにちは。私は広州から参観に来ました。一人です。そう、游客(ヨウコー)です」
 あやしまれぬよう、私は来訪の目的を笑顔で伝えた。
「ふーん、お前さんは游客か」
「はい。いま、少し写真を撮ってました。あと、この建物って中入れるんですか?」
「ああ、好きに参観すればいいさ。茶は飲むか?」
「お茶ですか? それはどうもどうも。でも今はけっこうです」
 どうやら誰も住んでいないらしい。ただ、この相手は何者か。普通に考えて、家屋の主人、あるいは親戚筋か。いや、保存活動の世話人、はたまた役所界隈の人間が休憩がてら茶を飲んでいるだけかもしれない。そんなことを考えていると、彼が言った。
「そうか、じゃあ俺は行くぞ」
「ハーイ。あっ、この家の人はいないんですか?」
「ああ、いないよ。俺はここで鶏を飼い、豚を育てているだけだ」
 そう言い捨てると、役所方面へスタスタ歩いていった(ポカーン)。
「ウソでしょ? 養鶏(ヤンジー)養猪(ヤンジュー)?」
 残された私は、その古びた屋敷を一人で見学しまくることにした。

豚と風水と客家民居

 そうそう。おじさんは立ち去ったが、小屋には主がいた。暗がり中に四、五頭の豚が確認できた。初めはおとなしく寝ている様子だったが、私が小屋に近づくと、興奮したのかブヒブヒ鳴いたり、狭苦しそうに互いに体をぶつけ合ったりした。
 二十分ほど見学したところで、私ははてなと動きを止めた。この建物、さほど大きくないのだ。いったん門を出て、引いた構図でしげしげ眺めてみた。
「そうだ、これじゃない」
 背後には、半円形の月池(ユエチー)が灰緑色に淀んでいた。こちらも立派な建物である。だが、今日私が狂喜して梅州に乗り込んできたのは、別の客家民居のためだった。豚の鳴き声こもる小屋を後にして、もう少し先へ歩いた。
 そうしたら、あったあった。
 白い堅固な壁がまっすぐ続いていた。山を背にし、見たところ高さ四メートルになんなんとする立派な瓦屋根の建築が、いくつかは切妻の白い防火壁を向け、正面は平側を見せて、およそ七十メートルにわたって連なる。今ひとつ奥行きが想像できず、またどこからどこまでが一体なのかも分からない。改めて全体を視界に入れると、まるで広い住宅展示場に立っているかのような景色である。
 圧倒されながら写真を何枚か撮っていると、そこへ鍬(くわ)を担いだお婆さんが通りかかった。ここは話をしておくべきだろう。
「こんにちは。見学に来ました」
「ああそう、ゆっくり見ていきなさい」
お婆さんはこれだけ言って通りすぎて行った。
 まずは正面を横切って進み、やっとこさ中央の入口にたどり着いた。
「何じゃこりゃ」
 なるほど家の格好はしているが、その圧倒的サイズや威容たるや、まるで要塞である。自分から求めて来たくせに、ちょっと気持ちが引くぐらい、堅固すぎる客家の城だった。
 それはさておき、建物探訪の前に少し説明を試みよう。
 この抜粋囲について、自身も広西チワン族自治区の客家出身である林浩博士は「囲龍屋の一大傑作」と称賛している。
 囲龍屋とは、ここ広東省梅州地区を中心に分布する、円形と直線を組み合わせた建築様式である。中心には複数の横屋が配置されて直線的な構造をとり、その後方が半円形の池、前方が半円形の建物となっている。だから空から眺めると、全体がまるで一個の円ないし陸上トラックのごとき長円形のように見える。また多くが山の傾斜を背に建てられていることから、その立体的な造形を龍になぞらえて「囲龍屋」とよぶ。
 抜粋囲については、林氏の解説が分かりやすいので要約せずに引用したい。
――山ひだに沿って建てられており、前低後高、正門と中堂では四メートルの高低差がある。左右に横屋がそれぞれ四列、さらに後部には二重の半円横屋があり、部屋数は全部で一〇八である。建物が山に沿って下っているので、家中どこからでもいつでも、遠近の風景を眺めることができる。この土楼は客家潘氏の一五代が建てたもので、現在は二四代になっているが、なお四〇戸二〇〇人余りが生活している。(『アジアの世紀の鍵を握る客家の原像』中公新書)
 なんとなくイメージが湧いてきただろうか。
 ただ、この非常にユニークな形状の囲龍屋ではあるが、奇抜さ面白さが一目で分かるのは、やはり航空写真か衛星地図で見た場合である。その点、どこからどう見てもドーナツ型の要塞に映る「円楼」、さらに洋風装飾と物見台の高さが印象的な広東省南部の「ちょう楼(ちょうは石へんに周)」と比べると、いささかパンチに欠けるのも事実である。
 たしかに、福建省南部の円楼や方楼も大きいには大きい。たとえば土楼王と呼ばれるドーナツ型の二宜楼は、直径七一メートルの四階建てである。一つの土楼の中に、一族最大三百人が居住していた。ただ、あちらは「精魂込めて要塞を作りました」というような、ある意味正直な形をしている。しかも円楼は、円いがゆえに見方によってはユーモラスなのだ。そのギャップが人気の所以でもあろう。
 それに対してこちらは、正面から臨むとまるで可愛くない。むしろ、こちらからひれ伏す気持ちにさせられる。
 よく古典落語で、あまり物を知らない町人が武家屋敷に用向きがあって入口でまごついたり、強面の門番とひと悶着起こしたりする場面があるが、まさにそんな気分である。外敵からの守りを固めたいという意思、それから裕福になった一族の威信を表現したいという意思。その両方が、ここにいるとビシビシと伝わってくる。さすが客家らしいというべきか、家造りの発想が斜め上をいっているのだ。
 とはいえ、ここには門番がいない。中ではどんな暮らしをしているのだろう。また仕切り直しだ。だれか日向ぼっこに出てこないかな。だが、こちらも人の声や生活音が聞こえず、しんとしている。
 仕方ない。門は空いているし挨拶もした。私は要塞の内部へお邪魔することにした。
 結果として。ここも無人の館だった。入口に寄付者の名前と金額が書かれているところから察するに、一族の資金によって管理・保全されていることは分かったが、常住する人もいなければ、観光地として入場料を取っているわけでもないのだ(たまたま管理人がいなかっただけで、外地人から十元くらい徴収している可能性もあるが)。
 上空からの写真はインプットしていたが、実際に入ってみると、もう広すぎて訳が分からない。中央に先祖を祀る場が配され、その周囲を無数の部屋が囲み、たがいに連結している。洗濯場やトイレの跡も残されている。
 やはり特徴的なのは、山側に見られるカーブした建物だ。いわば競輪コースで見られるバンク状の傾斜、その外周を弓なりの平屋が取り囲んでいるというわけだ。その内側はおのずと斜面の空き地になっている。これなら鶏もたくさん飼えるし、子供の遊び場にもなる。
 外見からは全く分からないが、ひとたび一周すれば、円楼のごとき部分も建物どうしの高低差も知れようという、なかなか奥の深い建築構造なのだ。
 中央の衍慶堂から外側へ向かうにつれ、補修の度合いは下がる。だが、全体として建物が崩壊している部分はなく、保存状態は悪くないように見える。最近の状況は分からないが、何より改修用と思われる木材が転がっていたり、半円形の屋根瓦がきめ細かく整っていたりするところを見れば、ある時期まで保守が行き届いていたことが分かる。
 各小部屋にはかまどがあったり、洗い場的なスペースがあったりするが、道具類はほとんどなくてガランとしている。その扉の上には「大吉大利」「如意吉祥」などのおめでたい筆文字が残り、中には「毛沢東主席説(いわく)」とだけある青字のフレームデザインが壁に描かれていたりもする(輸入物の便箋みたいな可愛らしいタッチだ)。毛沢東時代、新しい講話の内容やキャッチフレーズを書き写していたのだろうか。実際、過去に福建省の土楼群をめぐった時も、赤字で「中華人民共和国万歳」とか「毛主席なんとかかんとか」と大書された壁をたくさん見た。こういうディテールも含めて、一族数百人が生活を営み、代々知恵を継承して各時代を生き抜いてきた証といえるだろう。
 これは本当に来て良かった。私が参照した岡田氏の客家民居ガイドは、じつに二十四年前の刊行だ。そこには「内部装飾は質素であり、保存状態もよいとは言い難い。特に、もともと二つあった子囲龍のうちの一つが既に壊されてなくなっているのは残念だ」と記述されるが、本年とって二〇二四年、同じ場所に何ら障害なくたどり着くことができたし、その上崩壊前の状態を見学できたというのは嬉しい。梅州の名だたる客家建築がみな素晴らしい状態でいるとは思えない。この村を選んで、ラッキーだった。
 とはいえ、「おおよそ三〇〇年前の建築で、現在も潘氏四〇家族二〇〇人以上が暮らしている」とも同書には書いてある。すると、住人たちはどこへ引っ越したのだろう。
 見わたせば、周囲はビルこそないが、近代的な民家が山沿いにぽつぽつ建っている。この村にも二十数年分の大変化があったとみえる。そんな環境で、関係者の資金により旧家がそのまま保存され、丘の上にひっそりと佇んでいるのは、考えれば考えるほど奇跡に近い。自分の幸運さを喜ぶよりも、当地の関係者に深く感謝すべきなのだ。
 できれば一人か二人、話がしてみたかったが、あたりは犬の吠える声と、他の民家のテレビ音声が聞こえるだけ。いつまで待っても、人影は現れなかった。
 ところで、帰国後に梅州の写真を振りかえっていて気がついたことがある。抜粋囲の正面左に、真新しい三階建ての豪邸が建っていたのである。扉は金属製、窓という窓には鉄格子がはまる、防犯対策バッチリのお宅である。そして、屋上全体をトタンの三角屋根が付いている。見学中は抜粋囲本体の観察に夢中で、まったく気づかなかった。しかも、そんな邸宅が抜粋囲東側の少し離れた土地にも角度を変えて建っていて、まさかこの二棟が抜粋囲の一族の新邸宅では、と思えないこともなかった。

福建省ドーナツ土楼

 もう二十年近く前のことだが、私は同じく五日間の弾丸旅行で、福建省永定県にある客家の土楼群を訪れたことがある。のちに世界遺産に登録される、城塞のような伝統民居である。香港・深セン・しょう州(しょうはさんずいに章)・竜岩を経由、すなわち鉄道・夜行バス・タクシー・路線バス・バイクタクシーを休みなく乗り継いでぶっ飛ばし、山間の村に入り、築百年以上の集合住宅を二日間周遊した(出発日夕方に香港到着、翌日午前に永定着という強行軍だった)。
 いまはどういう状況か知らないが、承啓楼という美しいドーナツ型四階建ての大型土楼には、当時旅行者を空き部屋に泊めてくれる家族があって、ぼくは彼らの好意でそこに二泊した(もちろん最後は謝礼を支払った)。江という姓の一族が数百人住んでいた。建物の中心に祖先を祀るお堂があり、その周りが炊事場と家畜の飼育スペース、さらに円形の通路を隔てた外周が各戸の居住区となっていた。
 ちょうど年長の台湾人観光客が一人遊びに来ていたので、ぼくは彼と一緒に付近の古民居をめぐったり、現地の墓参りを見学したり、歩き疲れるとちょっとした食い物屋でビールを飲んだり小吃(シャオチー)を食したりした。彼が永定を離れると、今度は地元のバイクタクシー運転手が、野越え山越え川越えて、各村の特色ある家々を見せてくれた。そのうえ夕刻になると、遠慮しないでうちで飯を食え、酒を飲もう、家族に紹介したい、泊まってもいいぞ、いいやぜひ泊まれ、などと熱心に誘ってくれた。そのときは心が揺らいだが、江氏宅にも義理があるし、翌日早朝に承啓楼発のバスに乗らないと帰国が危ういと思ったので、丁重に辞退したしだいである。
 そういう場所に泊まると、おらが一族のコミュニティーの内と外では、まったくもって世界が異なるのだ、という彼らの考え方が実感できる。百聞は一泊に如かず、だ。外地から一人やって来たぼくにとって、そこはまるで合宿所みたいな世界だった。二泊もすると、高齢の江夫婦は寮長さんと寮母さんみたいに思え、そのお孫さんは一族みんなの弟分に思えてくる(子供の両親はともに出稼ぎ中だった)。それは当の住民たちがもつ強固な連帯感とは異質の、付け焼き刃の仲間意識には違いないが、血縁とそれ以外を明確に区切る文化・習慣・歴史を、間近から眺める良い機会ではあった。ぼくは承啓楼滞在時、江氏宅のたしか三階に寝泊まりしていたのだが、小便は部屋のなかのバケツで、大便は外の厠所(トイレ)でするように言われた。日が暮れれば、あたりはほぼ闇である。深夜土楼の外へ出て、キャンプ場みたいな真っ暗闇のなかトイレを使っていると、ああ、ここは土楼という城塞の外側、すなわちコミュニティーの圏外なんだ、自分の身は自分で守らなきゃいけないんだ、などと妙に心細い思いをしたのを覚えている。
 承啓楼にしても他の土楼にしても、やはり閉鎖的な居住区域の心地よさと、面倒なしがらみや不自由さの両面があると思う。でも、長らくそんな制約のなかで、連帯のメリットにすがってきた彼らの住まい方は、少し意識的に心に留めておきたいと思う。福建省永定県の思い出を参照し、時々そんなことを考えながら、観光がてらぼくは寄り道を繰りかえしている。

坂の上の鎮遊記

 私は山を下った。
 山肌にへばりついた家々を背に、役所の建物を通りすぎ、平坦な田園風景の中を歩いた。ついさっき車で来た道なので、その先に埃っぽい国道と土気色した鎮(町)があることは分かっていた。
 実り多き季節ではないが、乾いたそよ風が広い田畑の上を舞い、ニワトリがあぜ道をついばみ、三輪車に乗った子供が爆走する。そんな、のどかで平和な光景だ。車もそれほど走ってない。
 それはともかく。私はとうとう、中国の流浪の民、客家のみなさんが求めた安住の地、それも主要ホームグラウンドへとやって来たのだ。そんな満ち足りた感慨を胸に、一歩一歩進んだ。
 徒歩十分ほどで橋を渡り、すぐ国道に出た。そこが南口鎮である。都市でも田舎でもありがちなのだが、道幅はめっぽう広い。二車線ずつの車道と十分な路肩に加え、街路樹を挟んで内側にも二車線ほどの空間がある。そこが主に駐車スペースであり、積載等の作業場や商売物の借り置き場であり、さらには子供や飼い犬の遊び場、住人どうしの世間話の場、それに老人の日向ぼっこなどの用途もある。一方、外来の歩行者はほとんどおらず、こちらは肩身が狭い。
 両側には三、四階建ての無骨な住宅がどこまでも続き、一階は自動車修理、家具、化学肥料、麻雀機、魚頭煮粉(魚の頭入りビーフン)などの看板が見える。ただ、よそ者がどれどれと入っていくような店構えではないし、シャッターが閉められた店舗も多い。特段治安が悪いということはないが、初めて中国を訪れる日本人ならば、たいていの人が「なんだかコワい」と言い出しそうな雰囲気だ。
 百メートルほど国道を歩いたのち、私は次の目的地である僑郷村に向かうため、道を曲がった。ここから南口鎮を横断し、また別の田園地帯を散策するのだ。
 南口鎮は思いのほか山がちだった。緩やかなカーブをえがく、片側一車線道路が斜面に伸びていた。今しがた国道沿いの無骨な街並みを紹介したが、鎮の中もまた、物々しい鉄格子が各階にはめ込まれ、なおかつ一階部分が引っ込んだ形の、南方らしい住宅建築が左右に続いていた。人通りは少なかった。
 途中、坂のなかばで菓子と玩具をあつかう商店に立ち寄った。お馴染みの三国志と、話題のSF映画「流浪地球(邦題=流転の地球)」の登場人物フィギュアが、一個五、六元(日本円だと百円台)で売られていた。心中随分と迷ったのだが、ここで荷物を増やすと面倒なので、結局買わずじまい。店の主人は「安いだろ、ほら買っていきなさい」などと、ずっと笑顔でせき立ててきた。時間をかけて何体も手にとり選んでいたため、期待が大きかったのかもしれない。私が帰ろうとすると、古典芝居のように露骨に残念そうな顔をした(帰国した今ではちょっと後悔している)。
 さて、なだらかな丘のような鎮を歩くこと二五分。スロープ状の曲がりくねった道路やいくつかの分岐を過ぎ、私は白やベージュのタイル張りの建物群や、あまり食欲をそそられない食堂や屋台をかき分けて進んだ。ビルの狭間には一棟、瓦屋根の伝統建築も発見した。正面は丸みを帯びたM字型の白壁が立ちはだかり(その幅およそ二〇メートル弱)、その中央に通路が口を開けている。奥まで通り抜けできるようで、暗がりだが両側は雑貨店のようだった。子供の遊び場も兼ねているらしい。ちょうど通りがかった時に一人の少年が後ろを振りかえりながら飛び出してきたが、またすぐに仲間のほうへ消えていった。
 だいたいにおいて娯楽性のない、無機質な街並みではあるが、他にも五階建ての学校が立派な建物で目を見張った。名を安仁学校といい、現代的にアレンジされた特殊デザインの石牌坊が建っている(ちなみに牌坊とはいわゆる中華街の入口などにある伝統的な門のことで、屋根や庇付きのものを特に牌楼という)。
 これは帰国後に検索して分かったのだが、この安仁学校こそ、南口鎮の名家である潘一族が十九世紀初頭に設立した私立学校。さらに、先ほど紹介した伝統建築もまた、潘家が一九〇八年に地元に建てた商業施設だという(こちらは「永発街」という)。彼らは神戸・上海・香港そして南洋をまたぐ商社グループを経営し、その送金・移民送出の窓口や雑貨店を、この永発街に設置したそうだ。そういえばと思い、現地でなにげなく撮った写真を見ると、たしかに白壁中央に「永發街」なる額が掛かっていた。まさか内陸都市・梅州の郊外で、百年前の貿易事業の痕跡に出会えるとは思わなかった。まあ、これ以上深入りはしないが、なかなか予習・復習が楽しい散歩道だ。
 最後にだらだら坂を下って南口鎮を抜けると、南龍村よりも広大な耕作地帯へと入った。仰々しく「伝統村落・僑郷村」なんてモニュメントと、道路・橋・門楼の建設費用の寄付者名簿の石碑まで建っている。面白いのは、人名の九割ほどが潘の姓であり、寄付金額は人民元、香港ドル、台湾ドルが入り交じっている点だ(上位者はなぜか人民元と香港ドル両方で寄付している場合が多い)。
 ともかく、村を起点にした一族のネットワークが時空を越えて脈々と築かれ、その実入りがきちんと故郷に流れ込んでくるという、そのシステム(からくり)が、ここに明快に示されているわけだ。そう、私のような通りすがりの異邦人にも分かる形で。

僑郷村の巨大廃屋めぐり

 畑の中の一本道を進み、橋を渡ると、また小山の連なりへとぶつかる。
 新旧の家々が、その山並みに沿って私を待ちかまえていた。ここからは、手当たりしだい囲龍屋を探して見学して回った。
 地図アプリの衛星写真から、なんとなく感じてはいたが、ここには特に観光地化もされていない、手つかずの(いや手放された)伝統民居がゴロゴロとしている。ただ、それがアポなしで見学できるものかどうか、出発前の段階ではまったく分からなかった。現地で人に出会えば挨拶をして頼み込んだり、事情を聞くなりする心づもりだったが、みやげ代わりに酒・タバコ類を持参してこなかったことを、内心後悔しながら集落に入った。
 しかし、思いもよらないことだったが、僑郷村にはそもそも人影が少なく、ほとんど誰とも話す機会がなかった。しかも、通行人はだいたいバイクか自転車に乗っていて、外地からやって来た旅人など、まったく視界・関心に入っていないようだった。
 それだけではない。僑郷村には、たしかに多くの囲龍屋が比較的きれいな状態で残されていたが、なぜか十中八九、無人状態であった。たまに出会うものといえば、アヒルに豚にニワトリ。なんとも、のどかすぎる過疎の村だったのだ。
 私がめぐったのは順に栄陽堂(僑郷潘氏老祖屋)、蘭聲堂、捷昇廬である。
 とくに栄陽堂は、大きすぎる半円形の池が圧巻だった。潘という提灯をぶら下げた石牌をくぐると、直径八十メートルはあろうかという灰緑色の淀みが現れる(トンデモないサイズだ)。そして円弧に立つと、小高い山の連なりを背にして、くだんの囲龍屋が弦長いっぱいに白壁と壁を見せるのである。中央の建物も、じつに東西四十メートルほどあるが、なまじ平屋だけにかえって凄みがある(こちらは北向きだ)。
 空は快晴。遮るものなき環境で、日当たり抜群。池のほとりの物干しでは、洗濯した衣類と白菜かなにかを一緒に干している(どちらも大量に)。
 池のほとりで作業中のおじさんに見学許可をもらって、建物内へ。
 主屋には祖先を祀る祭壇があり、建物もよく修復されているが、側面の横屋は旧時代のまま。とくに壁も屋根も朽ちかけている。南側は抜粋囲と同じく、小さな部屋が半円形の弧状に繋がっていた(そこも四メートル程度の高さに地面がせり上がる)。
 中は無人だったが、豚と鎖に繋(つな)がれた犬はいた。どうも、ここの家と隣家の境がよく分からないのだが、各所に生活用品が覗いたりテレビの音声が聞こえたりするので、途中で見学を切り上げて外に出た。こちらも二〇一七年など、墓参の際の一族集合写真が何枚も掲示されている。もちろん募金の記録も。やはり、この建物は一族の絆と一体であり、彼らの宝物なのだ。
 舗道へ戻ると、池のそばの日陰で三羽のアヒルが寝そべっていた。ふと池に目をやると、今度は水清く底が見えた。さっきは逆光でそうとは気づかなかったのだ。
 こうして私は、犬とアヒルと豚に見送られて僑郷村を西へと歩き出した。

最大の南華又廬へGO

 最後に訪れたのが、客家民居界の雄、南華又廬である(もう名前からしてカッコいい)。例によって、潘一族の十六代目、潘祥初が清の光緒三〇年(一九〇四)に建てたとされる。
 私は二十年ほど前、先述の『客家円楼に行こう』なるガイド本で、この巨大建築の存在を知った(南華又廬に関しては平面図入りだった)。福建省のドーナツ型土楼を見たときと同様、私は驚愕した。だが当時は梅州への交通の便が非常に悪く、たびたび旅程のシミュレーションを行うも先送りせざるを得ず、旅はなかなか実現しなかったのである。
 南華又廬はまず巨体であるがため、また山沿いの舗道からは数メートル低い平地に建つがため、小山の麓に早くからその身を現していた。白壁に囲まれたその偉容は、基本的に二階建てなので地面を這う配管のごときフォルムにも見えるのだが、切妻の横屋が時には荘厳な瓦屋根を向けたり、また時には大銀杏形の真白な防火壁を見せたりと、見る者が位置を変えるごとに多彩な影を表出させた(やっぱり来て良かったと思う)。
――南華又廬入場料。一〇元(現金払い)
 入口には門番らしき女性が一人。あとで写真を見るとウィーチャットペイのQRコードが貼られていたけど、私はなにげなく十元札を渡して、すんなり入場した。来場者はどうやら私ひとり。まあ雰囲気のユルさから想像するに、仮に客がアリペイしか使えない状況でも、たとえば彼女のアカウントを経由するなどして、なんとか入場させてもらえるのではないだろうか(楽観的な推測にすぎないが)。 
 建物は、それは見事なものだった。
 いままでの囲龍屋と異なり、言うなれば長方形の館である。建築面積は一万一千平米を超え、部屋数はなんと一一八。ここに主人と八人の息子が一族で住んでいたらしい。なるほど、中心線上にある天井の高い広い空間が母屋たる堂屋で、左右に四棟ずつ居住スペース(横屋)が配置される。かつ、各区画に階段があり、それぞれ八部屋と中庭をもつので、そりゃ内部はもう迷路状態である。
 居住区の奥には炊事場や道具置きがあり、これも十数部屋を有する。さらに、左右後方にはそれぞれ三階屋の砦(とりで)があり、敵の来襲に備えて銃が撃てる小穴も作られたという。回遊していて楽しめる要素が多い。緑やコバルトブルーの窓枠の装飾(竹を模している)とか、中庭に据えられた巨大な石のプランター、そして建物の裏手に広がる半円形の庭など。ゴテゴテの中華色とは異なる、彼らなりの美意識と調和があるのだろう。この地の家々を覗いては感じられるのは、一族の結束と自然との同化みたいなことだ。仮想敵への備えを講じながらも、土地との結びつきや生活臭を隠さない。そして儒教的な家族主義も垣間見せてくれる。
 また、室内のあちらこちらに遠景の俯瞰写真が飾られていて、これがたいへん役に立った。やはり大建築を楽しむには地べた視点だけでは不足で、何らかの「神の視点」を借りるに限るのだ。
 最後に、気になっていた後方の角っこに建つ砦を訪れた。まず果樹園のような裏庭へ回り、外側から観察する。美しい白壁と階上に穿たれた危険な小穴、このギャップが面白い。そよ風に常緑の葉がサワサワといい、虫の音も取りのさえずりも聞こえる。一月なのに春の空気だ。次に建物内へ戻るが、安全上の問題か立ち入り禁止の案内。それでも私はあきらめきれず、反対側の砦へ。運良くというべきか、そちらは何の注意書きもなかった。ただ、階段の一部は木製でよくきしんだ。そっとそっと足を運び、なんとか階上へ出ると、前方左右三面の窓に加え、しっかり斜め下方向へ削られた例の穴が壁に並んでいた。いや、天井付近にも光の差す窓がある。梁(はり)ともいえぬ足場用の木材も壁から壁に渡されている。そう、この家の者たちは非常時、この三階の小部屋をさらに上下二段に分かち、砦一つにつき都合十丁ほどで敵を銃撃する準備ができていたのである。一族の富と安全を守る気概がよく分かった。
 南華又廬の見学を終えたのは午後三時。ぴったり一時間いたことになる。
 なお、このとき私は小型の中華ドローンを持ってきており、離れた場所から軽く飛行撮影を試みたのだが、風やまぬ環境と練習不足のため、あえなく挫折した。
 今回は来訪を切望する期間が長かったこともあり、客家民居めぐりに相当時間を費やした。日帰り旅の後半は、梅州の新旧市街ウォーキングも楽しみにしていたのだが、もうこのあたりで私は、マイペースに田舎めぐりをして終わろうという気持ちでいた(そもそも計画がキツすぎたのだ)。
 すでに西日がきびしい。私は国道に出て、さっきとは別ルートで南口鎮へ移動。九路のバスで市内中心部へと戻った。
――公交9路バス。三元(現金払い)

圧が強い客家料理店

 せっかくの初梅州だが、早くも列車の時間が迫っている。
 新市街・旧市街を徘徊する余裕はあまりない。
 バスの中で行き先をしぼり、まずは梅江一路の新華書店を冷やかす。二階の客家本コーナーを探索すると、これが小説・随筆・歴史などテキスト中心のラインナップ。唯一の建築ビジュアル本は大型すぎて、残念ながら手が出なかった。もう一つ、観光関連の本が予想以上に貧弱だった。この店は中規模ながら、一応文学から科学まで一通りのジャンルを揃えている。図書館みたいにテーブルと椅子も用意されている。国内外のガイドや地図が豊富に陳列されていてもいいのに、なぜか『中国自助游』『中国古鎮游』、それから定番の『深度游』シリーズが北京・桂林・雲南を揃えるくらいだ。
 これは意外だった。ただ冷静に考えれば、コロナ感染爆発期からそう時間が経過していない時期、四級都市の梅州からさあ観光に出ようという富裕層が、まだ上位都市ほど育っていない現況の表れかもしれない。私は書店一軒しか観察していないので、それ以上のことは分からない。
 唯一面白い現象だと思ったのは、近年学生たちに人気だという「山東省淄博市で串焼きを食べる旅」のガイドブックが出ていたことだ。今どき本になるとは、そりゃちょっとした珍現象といえるだろう。報道によれば、当地の町おこしが若者人気に火を付けたらしい。しかし、この時はうっかりして購入するのを忘れてしまった。
 本屋を出た私は、そのまま梅江一路を北上し、お目当ての客家料理店へ入った。平均消費額二三元という大衆レストランだ。
「潤心客家小吃」という店名を確認して、ガラス張りの店内へ。どうやら厨房につながる窓口から客がメモ書きによって注文し、その場で決済を済ませてから、任意のテーブルで料理を待つというシステム。しかし、メニューが多く、当然漢字だらけなので読むのに苦労する。ここは口コミを頼ろう。
 私は高徳地図から大衆点評の投稿をチェックし、その料理写真と手元のメニューを見比べた。ざっくりいうと、やはり客家らしい料理、店の看板料理だ。腹も満たしたいし、甘味もほしい。まず、客家料理といえば牛肉丸である(もっといい物がありそうだが、ここは軽食屋なので)。そして炒飯が食べたいと言うと、男が厨房を確認して「没有飯(ご飯がない)」と怒鳴るので、作戦を練り直し。結局、牛肉丸スープに豆腐を入れてもらう。あと、口コミで人気だったレンコンの和え物とデザートを一椀、以上。
――客家雑丸(加白豆腐)、拌蓮藕、椰ない(ないは女へんに乃)紅豆黒米。二九元(アリペイ払い)
 それぞれ一二元(豆腐四個でプラス二元)、八元、七元である。
 獅子頭というこぶしサイズの肉団子は各地で食べたことがあるが、この牛肉丸は初めて。しかも注文したのは牛肉・豚肉・牛筋の三種だ。小粒だが、どれも想像以上に弾力があり、牛筋はコリコリ感がたまらない。豆腐も絹ごしながら不思議な歯ごたえがあり、さらにスープは薄味だが飲ませる。ザ・健康食といった感じだ。レンコンは薄切りにされて、ニンジンと共に和えてある。ラー油の風呂に浸かったような色をしているが、ピリ辛でありながら酸味が利いてサクサク食べられる。
 最後のデザートは冷やしで注文。味は文字どおり、ココナッツミルクと小豆と黒米のミックス。甘さ控えめのお汁粉で味わい深いので、これもぐいぐいイケる。もちろん温めて朝食にいただくのもアリだろうけど、日の照る中を半日歩いたので、これで正解だ。
 黙々と皿の上を片づけているうちに、街のやんちゃな子らが入ってきて騒々しくなった。店の者と大声で話し合っている(べつに喧嘩ではない)。私は全品二割ほど残して、記念に店内の写真を何枚か撮って梅江一路に出た。
 退店後は同じ道をさらに北へ。梅江に着く。川幅は約二百メートル。暮れなずむ空の下、川辺のムードは最高だったが、惜しいことに時間がない。急ぎ足で梅江橋を渡る。

センチメンタル騎楼街

 巨匠・侯孝賢(ホウシャオシェン)のファンならご記憶かもしれない。一九八五年の台湾映画「童年往時」で、主人公・阿孝少年の祖母がしきりに「梅江橋はどこ? 梅江橋を渡れば梅県に帰れる」と話していた、あの橋である。祖母は痴呆がすすみ、一家で梅県(梅州)から台湾に渡ってきたことも忘れて、近隣の人や阿孝にこのように訴えかけるのである。
 橋は全長三百メートル、幅一二メートル、一九三四年に完成した鉄筋コンクリート橋だ。梅県だけでなく、海外華僑からも建設資金を集めて建てられた。それ以前は元代から中華民国期にいたるまで、舟を使った浮橋が何度も架けられていたそうである。映画を観たときは、お婆さんの口ぶりから、きっと小川に架かる石橋か何かだろうなんて想像していたが、とんでもない。年代からいうと、お婆さんが渡りたかったのは浮き橋などではなく、まさに歴史的遺産ともいうべきこの橋だろう(おらが町にも立派な橋が出来たと当時大騒ぎだったに違いない)。
 最後に、私は梅江北側の旧市街をかすめるように凌風東路を歩いた。
 まるで昔の香港映画のセットみたいな、それは見事な騎楼(チーロウ)街だった。一見の価値があるとは思っていたが、巨大客家民居を見てきたばかりの私も、これにはたじろいだ。なにせ一階が店舗、二階が住居という形の大型建築が切れ目なく数百メートル続いているのだ。カラーは基本オフホワイト、時々クリーム色またはピンク色。そんなファンシーな街並みであるが、旧城らしく古老の飲食店・衣料品店・自転車修理店などが居並ぶ。しかも一階部分が歩道の幅だけ内へ引っ込み、また車道と歩道の間に白い柱(亭仔脚)がずうっと建ち並んでいる。どんな場所からどんな部分を観察しても、その陰影の格好良さにハートを撃ち抜かれる。きっと建築マニアや廃墟好きでなくとも、ここへ来れば夢中になって写真・動画撮影に明け暮れるだろう。そんな可愛くも渋すぎる、不思議な表情をした街である。
 一軒の正月用品を売る店がひときわ目立っていた。真っ赤なランタン、真っ赤なカレンダー、真っ赤な李憲章先生の日めくり(香港製)、真っ赤なお年玉袋が店頭を埋め、暗がりの中でオレンジや紫のネオンが妖しげな光を放っている。金運をよぶ神様や豚の人形もいた。私は最後に、胸の前で両手を合わせて拱手(ゴンショウ)の姿勢を作り(かつてイチローがMLBで本塁打を打った際、よくチームメイトに向けてとっていたあのポーズだ)、彼らに一礼して、梅州の町に別れを告げた。
 そういえば余談だが、客家や景観人類学の研究者・河合洋尚氏の著書に、このような記述がある。ご案内のように、当地の客家建築というと囲龍屋なのだが、福建省の円形土楼が国内外で有名になってしまったために、この「客家の原郷」たる梅県にも円形土楼を模した公共施設やマンションが建設されるようになったというのだ(短い滞在だったので私は確認できていない)。建物の形状とは当然宗族の歴史的記憶や儀礼、風水と繋がっているものであり、「客家らしい都市景観」を創出するという現代的課題が大規模な都市開発の中で生まれているという指摘だ。ナマの囲龍屋を見学した後でこのような文献を読むと、やはり近郊の代表的民居ですら注目度が低いという点が、ますます気になるところではある(実物はあんなに立派で、自然との共生の形が見える建物なのに)。

 さて、帰りは少々ヒヤヒヤさせられた。五分、十分と待ってみるが、空車どころかタクシーらしき車が見つからない。橋のたもとの、交通量が多いはずの交差点で待ちぼうけを食らうと、短時間でも絶望的な気分になる。高速鉄道の発車時刻までは一時間あまり。広東省の端っこの、こんな山がちな四級都市で歳を取りたくはない。
 不安をつのらせていると、そこへ路線バスがやって来た。ノロノロ近づいてくるうちに、急いで路線図を調べると、ありがたいことに梅州西駅行きだ。ルートがやや大回りなのが気になったが、これに乗るのが最善だろう。午後五時四八分、私は路線バスに乗り込んだ。
――公交2路。二元(現金払い)
 バスは夕暮れの梅州の街を、西南へ西南へとゆっくり走った。騎楼スタイルの旧市街にも灯りがともり、それはそれは情緒的な風景だった。梅州の夜景もまた見ごたえがありそうだ。今回は、五日間で五都市をめぐる、急ぎ足の旅。そのように割りきって企画したのだが、さすがにこの時は少々もったいないように感じた。再訪の機会があれば、今度は梅江北側の旧市街をじっくり徘徊してみたい。
 さて、発車直後はこれでひと安心と思ったが、よく区画整理された道幅の広い街区に出ると、逆に交通量が増えて渋滞にはまった。しかもバスは途中大きく迂回しながら、乗客を一人二人とごく少数拾いながら進んでいる(なぜか小中学生が多い)。ああ万事休すか。地図アプリ上の現在地を目で追いながら、半ば梅州泊を覚悟しながら私は目を閉じた。
 結局、梅州西駅に到着したのは午後六時四十分。列車時刻の三十分前だった。かろうじて、迂回コースの途中で渋滞が解けて以降、バスは猛スピードで終点まで快走した。後半は灯りが少なく物寂しい環境で、駅周辺は人気もなかった。
――ペットボトル飲料、チョコ菓子。三四元(現金払い)
 駅内売店を利用するが、ここでもワンタイムパスワードを求められ、決済失敗。自営業者相手でなくても、本当にランダムに成功・失敗と出会う。もはや運まかせだ。

魅惑の四級都市に別れを告げて

 ところで本稿の冒頭、第一財経による都市番付をご紹介した。それに基づけば、中国全土で四線都市というと、開封・景徳鎮・大同・許昌・大理・西寧・西双版納などが同列に挙げられる。見覚えのある地名はあるだろうか。
たとえば、みなさんが新聞やテレビ報道で見聞きする地名は、やはり北京・上海・広州・深センといった一線都市や省都クラスが多いはずだ。だいたい、中国の省名・都市名を二十も三十も挙げられる人は稀だろうと思う。だからこのランキングは、有名無名の中国都市をサクッと概観でき、さらに経済的重要度や優位性も知れるという優れものなのはもちろん、見方によっては、土地勘の薄い外国人にこそ有意な情報だともいえる。
 ただし、注意点が二つ。まず、最低ランクの五線都市に指定された場所が、なにも中国における超田舎というわけではないということだ。これは都市の経済的魅力を相対的に示したものにすぎない。当然、五線都市より発展が遅れた土地も無数にある。
 それともう一つ。逆説的だが、どの都市にも「超田舎」の風景は存在する。どういうことか。すでにご存じかもしれないが、中国の首都である北京市は日本の四国ほどの広さを有し、また内陸の三千万都市、重慶市にいたっては北海道と同等の面積である(中国の行政区分では一般に、市の下に区や県が存在するという事情も添えておこう)。
 だから、ひとたび人口密集地を離れれば、名うての大都市であっても、たいてい山あり谷ありのワイルドな大自然がひかえているのである。実際、北京市郊外では急峻な山々にあの万里の長城が連なり、年中おびただしい数の観光客を迎えているし、重慶は重慶で、世界遺産に指定された広大な奇岩カルスト地帯をかかえている。
 以上の全体像を、とりあえず頭に入れておいてほしい。
 で、私が今回の旅で訪れるのは、二日目の梅州を除くと、いたってカジュアルな都市中心部ばかりである。大自然観光スポットや完全オフロード系の景色は、鉄道の車窓から眺めるにとどめる。
 まあそうはいっても、多くの日本人にとって、梅州・梧州(当初訪問を予定したが断念)はあまり見聞きしない地名だろう。さらにいえば、中国の学生や社会人だって、よほどマニアックな旅行者でないと、柳州や貴陽なんて町には行かないものだ。
 むしろ近年、後半の両都市の名を高めているのは新興産業の話題である。もともと広西地区随一の工業都市であった柳州は、今や電気自動車(EV)の生産地として、また長らく貧困省の一つに数えられてきた貴州省の都、貴陽はIT産業の新集積地および実証実験都市として内外に知られるようになった。
 いささか先入観を裏切るギャップが、あなたの心に生じているかもしれない。中国という巨大なモンスターが日々姿かたちを変貌させているように、東西南北の各都市もそれぞれポジションを模索し、発展競争の道を爆走しているのである。
 広州に戻るまで、まだ時間がある。
 つづいて、一線都市から五線都市までの人口・所得以外の差について見ていこう。旅を続けながら、各都市ランクのギャップを眺めようというのが今回の旅の趣旨であるが、個人旅行の印象を綴るだけでは焦点がぼやけてしまいそうだ。かといって、素人が計量的な比較をおこなっても説得力に欠ける。そこで、旅に関連して私が調べたささやかな情報をご紹介しよう(二〇二四年四月調べ)。
 順に、各都市における全国的商業モール「万達広場」の店舗数、二ツ星ホテルの最安プラン宿泊料、地下鉄(または軌道交通)の開業年、タクシー初乗り運賃である。

  上海(一線都市)=一三店舗/八九八〇円/一九九五年/一六元
  広州(一線都市)= 九店舗/五六三三円/一九九七年/一二元
  貴陽(二線都市)= 四店舗/三五〇五円/二〇一七年/一〇元
  柳州(三線都市)= 二店舗/三三八六円/二〇二四年/ 八元
  梅州(四線都市)= 一店舗/三〇八九円/ なし  / 七元(注)
  梧州(五線都市)= 一店舗/三三三四円/ なし  / 七元(注)
 
 ホテル料金は、アプリ「携程旅行」の予約画面から各都市の宿泊料を調べたもの。漢庭酒店を多く含む「二ツ星以下」で、日程は今年五月十五日水曜日を条件に、まず検索上位(最安プランの実勢価格)の十二件をサンプルとして、次に最高値・最安値を省いた十件の平均価格を算出した。ざっくりとした比較ではあるが、これで見ると上海のホテル相場が突出し、貴陽以下が団子状態だと分かる。ちなみに春のビッグイベント・広州交易会のさなか、四月十七日水曜日を条件とすると、広州の宿泊料は九六九七円と跳ね上がった。
 次に、地下鉄についていえば、奇(く)しくも貴陽では3号線が昨年十二月に開業し、柳州では地下鉄1号線と3号線の工事が目下進展中である(二〇二四年末に開業予定)。東京五輪の前後に首都高速や新幹線が開業し、街のようすが一変したように、中国全土でそれに匹敵する大工事・大変貌が九〇年代、二〇〇〇年代から順繰りに展開されている。そんな目まぐるしさなのだ(かつて鄧小平が打ち出した先富論の続きのように)。
 さらにタクシーだが、梅州・梧州は「未乗車扱い」ながら、SNSには共に七元との書き込みや報道があるので、参考値として挙げておきたい(ただし本稿執筆現在ではファクトチェックできず)。まあ、たとえば一線都市・上海でも五年前の旅行時は一四元であったし、今後も全都市において変動の可能性は高い。
 このように、人口や所得といったメジャーな指標のほか、旅で多用するサービス料金等にも如実に差が出るということを、簡単にお示ししたいと思ったしだいである。
 補足しておくと、全国チェーンのホテルならばほぼ一律のサービスが受けられる(はずである)が、例えばタクシーはというと、梅州でのたった一件のケースが偶然の産物でもないことが、やはり中国SNS上の訴えからうかがえる。「梅州・的士(タクシー)」などのように検索すると、「メーターを倒さずに過大な料金を請求してきた」といったクレームが高確率で散見されるのである。実際、半日だけの滞在でも感じられたことだが、梅州ではタクシー自体がそれほど普及していない。昼間の梅州西駅には四、五台のタクシーが乗り場に停車していたものの、それ以降は市内で一台も見かけていないのだ。南口鎮からの帰り道でも路線バスを十五分ばかり待ったし、梅江橋付近の旧市街でも、交通量の多い交差点でありながら、日没前後の時間にタクシーらしき車は現れなかった。
 このように数字からは見えにくいが、ただし実態としては厳然たる都市間ギャップが、リアルな社会には潜んでいるものである。それは、早い話がどの国でも通じることだと思うのだけど、こと中国について言うならば、言語・民族・気候・食文化などを分かつエリア(直轄市・省・自治区の区分)ごとの特色に加え、件の「都市商業魅力度ランキング」が示唆する都市の発展や洗練の度合いが、また異なる次元でこの国に多様性・多面性をもたらしている。そんな側面もみなさんと共有しておきたいと思う。
 さて最後になるが、村山宏氏の面白い梅州ルポがある。
 新聞記者の著者が一九九六年に梅州を取材した時のこと。宿泊した華僑資本のホテルの裏手に、骨組みだけが残されて雨ざらしになった三十階建て高層ビルが観察されたという(しかも翌年同地を訪問した時も同じ状態)。土地の役人によれば、地元銀行が資金を投じて建て始めたが、途中で資金が続かず工事が中断されたのだと。著者は当時の香港・シンガポールの不動産ブームが、客家ネットワークを通じて地元銀行家を刺激したと説明するが、なんだか二〇〇〇年代以降の「鬼城(ゴーストタウン)」報道とリンクする話ではないか。手当たり次第に古本をひもとくと、案外こんな山奥の地方都市を舞台に、次代の経済問題を予感させるエピソードが記録されていたりするのである。

石牌で深夜食堂のはしご

 広州東駅への到着は午後十一時ちょうど。
パスポートを押し当て、改札を通過したのち、タクシーで石牌路へ。じつはこの通りの裏っ手は、きのう訪れた車陂同様に「城中村」として知られる。だが、今夜は精力的に徘徊するパワーも残っていない。深夜食堂二軒の食事処をはしごするに留めよう。
 運行距離が短いため良い顔はされないだろうと予想したが、行き先を告げると案の定、運転手は表情を曇らせた。
「ほら、石牌路だよ。レッツゴー」
 助手席から声を張って景気づけたが、面倒くささがありありと表情に出ている。
 下車時に小さなトラブルが起こった。タブレットでアリペイ支払いを試みたところ、エラーが発生したのだ。正確にいうと「スマホにワンタイムパスワードを送信した」との表示が出たのだが、手元のスマホは役立たずで無反応。それもそのはずだ。日本のSIMカードが挿しっぱなしで、メッセージが届くはずもない。私は白旗を揚げた。
「ああダメだ、アリペイは失敗したよ」
 すると、じゃ微信はないのかと訊かれたので、ないよと即答すると、
「微信(ウェイシン)もないのか、面倒くせえな」
 運転手が吐き捨てるように言った。まあまあ、そっちにも本音があろうが、こちらにも事情があるのだよ。私は鼻唄まじりに、ゆっくり現金を探した。結局、元紙幣と角硬貨を混ぜて(角は元の十分の一)、ピッタリ渡してやった。
 運転手も運転手で、呆れたように小銭をゆっくりゆっくり数え上げ、最後にコックリ頷いた。
――タクシー(広州東駅~石牌路)。二五元(現金払い)
「うん、いいだろう」
「いいだろう」
 いみじくも、お互いがおんなじことをつぶやいた。トラブルが解消したところで清く別れた。
 一軒目は「佳記」というローストチキン専門食堂。
――焼鵞三宝飯(鵞+鶏+鴨)。四八元(アリペイ支払い)
 チキンとダックとグース、そして青菜炒めがてんこ盛りの皿に、ご飯がついたセットだ。これは店もメニューも、あらかじめ口コミアプリで探し当てたもの。
 若者がひっきりなしに訪れ、店内飲食だ、テイクアウトだと次々にオーダーするところを見れば、やはり気軽に使える地元の人気ファストフード店のようだ。もちろん骨付きで、分量は申し分なく、肉々しさは満点。青菜の味付けもシンプルで良い。だが、私としては肉がぬるかったのが残念だった。まあ、そういうモノなのかもしれないが、となると家で温め直したうえで醤油なりカラシなり、一味七味なりで味変(あじへん)したらさぞかし美味かろう。
 二軒目は「大石牌酒楼」。佳記から南へすぐの場所にある広東レストランだ。
 こちらはホテルの一階で広々とした店内。海鮮の生け簀(す)に出迎えられ、二十ほどの円卓のひとつに着席。金曜日の深夜だが盛況とはいえず、店内には料理と鍋とグラスで卓を賑わせて、高らかに談笑する客が数組。だが局所的に熱気は充満していた。私も隅っこの円卓を占有し、大きなメニューと格闘した。あんまり一人で来るような店ではない。私は気になっていた二品を注文した。
――鉄板珍珠シ蝸蛋(シは虫へんに毛)、干炒牛河、廰普通茶。一一〇元(現金支払い)
 カキのオムレツは、塩加減が絶妙な卵クレープに、小ぶりの丸っこい牡蠣と細切りの玉ねぎがくるまったもの。弾力に富んだカキの食感とシンプルな味が病みつきになる。
 牛河はというと、これは広州や香港を中心に南方で食される米粉(ビーフン)で、だいたい味付けが日本人好みなので、私も何度か旅先で試したことがある。具材は牛肉とニラともやしと玉ねぎとキャベツ。自分好みのベーシックな醤油味だったが少し薄口、具材も少なめ。麺は箸が透けて見えるほど薄く、透過したように油をまとい、全体的にもちもち感が足りない。
 結局、ここでは大皿の分量が予想以上に多く、両方とも道なかばというところで料理を残してしまった。やはり一人旅で広東料理を楽しむというのは、ハードルが高いというか、店選びなり時間調整なり、かつまた料理分類のバランスを含め、それなりの緻密な作戦が必要なようだ。
 とはいえ、昼間さんざん歩き回ったぶん、夕方から深夜にかけて一軒二軒三軒と、お目当ての店と料理にありつけたのは悦楽至極。夜の石牌路で、私は一人しずかに広東省バンザイを唱え、ようやく帰路についた。二十四時半のことだった。
――タクシー(石牌路~天河)。一四元(アリペイ払い)
 二泊目の漢庭酒店に到着。時計はすでに午前一時近く。歩数計には二万五一五四歩と示されていた(明日も朝から高速鉄道の旅。おやすみなさい)。

第三章 暗転の花果園(貴陽)

路地裏の牛肉粉

 きのうの梅州遠足が身体に利いたのか、夜はぐっすり眠れた。
 朝五時半に起床し、漢庭酒店をチェックアウト。いったん広州を離れ、向かう先は貴州省の省都、貴陽である。
――タクシー(天河~広州南駅)。七五元(アリペイ払い)
――ホット豆乳。十元(現金払い)
 今日は駅構内の軽食スタンドを利用した。私の前後にも、客が途切れず現れては豆乳をテイクアウトしていく。本当に人気絶大だ。
 七時四二分発車。私が利用したのは「D二九四二次」、深セン北発の成都東行きで、停車駅は広州南、貴陽東、重慶西のわずか三駅という弾丸列車である。このうち私の乗車区間は二〇一四年開業の貴広線で、路線距離は八五二キロ。これをまさかのノンストップ、所要四時間弱でぶっ飛ばす。
 余談だが、僕が学生旅行で使用した一九九六年発売の時刻表によると、広州―貴陽間は、株洲経由の特快列車で最短二八時間もかかっていたのである(乗り換えなしの直通)。なんともお尻の痛そうな旅である。
 車窓の風景は真冬にもかかわらず、南方らしい緑の多い平地や、もこもこした常緑樹の小山が続いたが、昨日と同様にトンネル区間も多く、のんびり絶景を楽しめるという雰囲気ではない。ただ、さすがに桂林付近に差しかかると独特のカルスト地形に変化し、まるで初期の「ドラゴンボール」のごとき奇妙な風景が続いた。
 窓際座席の目線で描写するとこうだ。なんの変哲もない平らかな耕作地に、突如として不連続な地面の隆起が出現する。さて何物ぞと稜線を目で追うのだが、高く高く天を刺すように伸びていて、とても追跡しきれない。それで結局は、列車が山体を通過した後でようやく、その形状や高度が知れるのである。
 梅州の山は、どれも沼辺のワニのように寝そべっていたが、桂林の山は、みな神龍(シェンロン)かゴリラのように荒々しく立ち上がっている。そんな印象だ。
 さて、一一時二一分。列車は貴陽東駅に到着した。
貴陽市は標高約千メートルの高原都市である。広州と比べ、心なしか気温も低い(この日は最低気温七度、最高気温一一度だった)。
 駅改札を出て、さっそくタクシーで市街地に向かう。そこはまさに、山中だった。桂林あたりの「平地に無数の山が屹立した」風景でもない。地面全体がなだらかな斜面を構成し、気がつけばクルマの外に断崖絶壁がへばりついている。よもや、こんな場所に三百万都市が広がっているなんて。中国ではちょっと経験したことのない車窓風景だ。
 十キロほど走行し、中心部に入って確信を得た。そう、街全体がうねっているのだ。
 自転車やバイクが行き交う、ごく平坦な城市の多い中国だ。高低差の激しい3D都市というと同じく内陸の重慶が有名だが、じつに貴陽もまた知られざる山城であった。
――タクシー(貴陽東~威清路・吉慶巷)。?元(現金払い)
 運賃は約三〇元だったと記憶している。だがアリペイ決済に失敗し、現金をまさぐり始めたところ、運転手がしびれを切らしたようだ。なんと支払い途中で降ろされてしまった。まだ数元不足だったのに。まあ、こんなこともあるということで(笑)。
 貴陽最初の立ち寄りスポットは、中華アプリ「ビリビリ動画」で知った、路地裏の食堂である。恰幅(かっぷく)のよいスキンヘッドおじさんが、北方訛りで中国各地のグルメスポットを紹介する番組を偶然見つけたのだが、ここ貴陽の店が何軒か紹介されていたのだ。今日はそのうち三軒を訪れる予定だ。
 まず一軒目。吉慶巷の「深巷牛肉粉」である。
 店名に深巷なんて二字があるように、ロケーションに特徴がある。威清路という大通りから吉慶巷へ入り、坂を上り下りして、カーブと分かれ道をいくつか過ぎて、洗濯物や掃除道具や布団など生活用品もろもろの脇を通っていくと、深巷牛肉粉という看板が見えた。本当に迷路のような道のりだ。
 わずか幅三メートルほどの路地に屋根が掛けられ、右が厨房、左が客席という格好になっている。その先にも椅子とテーブルが見えるが、屋根は途中で途切れているため青空食堂である(さらに奥へ進むと行き止まりのようだ)。
 まあ、私みたいな海のかなたの動画視聴者までが、この店を目がけて飛び込んで来る時代である。女性三人で切り盛りしているが、狭い店内はてんてこ舞いだった。各々が地元民なのか旅行者なのかは判然としないが、来店者が引きも切らない状況だった。
 私はトタン屋根の途絶えた先の長椅子に、自分とバッグの置き場を確保。それから手短に、牛肉粉一杯に卵を追加してオーダーした(もちろん香菜抜きで)。
――牛肉粉。十二元
――加鶏蛋(トッピング玉子)。二元(共にアリペイ払い)
 店内のQRコードをスキャンして、金額を打ち込んでから確認ボタンを押す。今度は支払い成功だ。ほんの二、三分で着丼。おくれて別皿で卵がやって来た。
 言い忘れたが、これは「牛肉麺」とは異なり、米粉の麺を使用する料理だ(雲南省では米線と呼ばれることが多いようだ)。スープは清淡というべきか、あくまで澄んでいるが牛の出汁がコク深い。腹ペコなせいで、滑りやすい米粉を箸で一所懸命たぐり寄せながら食べた。
 そして丼なかばで、私は味変を試みた。日本から持参したキッコーマンの醤油を少量たらしたのだ。中国人好みの薄味の麺が、それで些(いささ)か和風になった。牛の出汁と醤油の風味が見事にミックスされ、私の食欲はさらに増進された。あっという間に一杯平らげた。ご馳走さまでした(そして動画をアップしてくれたおじさん、ありがとう)。
 食べ終わってみれば、まだ立ち客がいる。私は店周辺の写真を数枚撮ってから、さっさと荷物を片付けて席を立った。
さてその後、あろうことか私は一時迷子になった。分かれ道を誤ったか、いつしか吉慶路をはずれ、偶然にも、ひと昔ふた昔前と変わらぬであろう貴陽の下町風景と出会ったのである(通りの名は鯉魚街という)。
 食べかけの煎餅かなにかを片手に歩いている中年女性が、上下もこもこのパジャマ風衣服でひょいと現れたかと思うと、そこから二級都市の中心部とは思えぬ「魔境」に私は呑み込まれた。
 私が足を踏み入れたのは、喧騒の絶えぬ勾配、幅四メートル弱の商店街だった。建物は主に三、四階建て。衣料品を商うそのとなりに麺や饅頭の店、マッサージ屋が続いていたり、毛沢東時代から営業してそうな古めかしい文具店があるかと思えば、路地を占拠した野菜売りが次々に現れたり、がに股のお姉さんが果物を満載にした手押し車で突き進んできたりする。豚肉を豪快に吊るした精肉店が包丁をあつかい、トントントンと乾いた音を立ててもいる。
 明日にも取り壊されそうな、しんとした集合住宅地を歩くときは、ただ現状の物悲しさばかり感じられるものだが、一方で、商売っ気のある繁華な地区となると、似たような古さ・さびれ具合でも見え方が変わる。まるで、前時代の喧騒にまぎれ込んだ気分にさせられるので、おのずと過去の華やぎや賑わいを「想像」させられるのだ。
 通行人は五十代、六十代が中心である。途中からは、いよいよ平屋や二階建てのレンガ積み家屋が現れ、赤い窓枠や防犯用の鉄柵がますます時代を感じさせるのだが、それでも現役で商店として生き延びている。別に無理して繁華なすがたを保っているというより、ただその生命力によって生き長らえているといった感がある。そう、いわば不死身の商店街、貴陽の下町高齢者のバイタリティーを象徴する陋巷なのだ。
 よく見ると、建物の構造や築年数に関わらず、この通りの商店はみな高さ六十センチほどの木製看板を間口いっぱいに掲げていた。そればかりか軒下や柱も、同じく焦げ茶の木材で覆っている。たしかに統一の取れた設計・演出は洒落(しゃれ)ているのだが、日本の古き良き時代の建物がそうであったように、一階部分がやけに低く見えてしまうのが面白い(我々が巨人になった錯覚を起こすのだ)。そして色合いが究極に地味なために、かえって旧時代の遺物といった先入観を一見客に与えるのである。
 ディープな鯉魚街の坂を上ったり、下りたり。まごまごしているうちに北京路に出た。正面には貴陽の名勝、黔霊山がもっこりと姿をあらわす(山上に動物園・寺廟・洞窟を有す市民憩いの場である)。私は名山に一礼し、すぐさま空車を見つけた。
――タクシー(北京路~観水路)。一四元(アリペイ払い)
 つぎに向かったのは市街地の東の外れ、南明河に沿う観水路だ。所要二十分で到着。

紅岩浴室記

 ここで再度確認しておくが、貴陽は総人口三百六十万を数える貴州省の都だ。しかも、全国三十都市しかランキングされていない、二線都市の一つ。有名な沿海都市を挙げるならば、大連・無錫・温州・福州・厦門・珠海・中山と同格である。
 だが、旧城東門から一キロ余り東に位置する「現在地」は、まるで箱根か鬼怒川かといった谷あいの温泉街的風情だった。しかも、この地にも垂直な壁のごときワイルドな山が後方に控えている(この山中には仙人洞という道教の聖地もある)。
 また、南明河には水口寺大橋という上路式アーチ橋が掛かっている。これは一九九六年の洪水の際、旧橋梁(五穴の石のアーチ橋)が流されたために翌年再建された、比較的新しい橋である。ただ、前述のとおり周辺環境がちょいと鄙(ひな)びているのと、橋桁のすぐ下まで雑居ビルやら住宅が建てられているため、どこか古めかしいような懐かしいような、日本でいうところの「昭和な風景」を醸し出しているのである(まさか違法建築ではあるまいが、橋だけの写真も残っているので、それらが完全に後追いで「増築」されたと分かるのである)。なお、このエリアには五〇年代以降、化学工場(現存する)や金物・配管工場があったらしく、そのせいか町外れの工場感も漂う。
 そんな前置きをしたうえで、いまから銭湯に入る。
 中国の旅で、私はこれまで何度も銭湯を利用してきた。が、日本と同様に昔ながらのお風呂屋さんは数を減らしている。その代わり、日本のスーパー銭湯のような温浴施設が中国全土で流行しているのはご存じのとおりだ。セット料金を払うと入浴・食事・休憩・マッサージ・ジム・プール等の館内施設を利用し、長時間自由に過ごすことができる。
 ただやはり、風呂好きとしては一度くらい町の銭湯に入りたい。ということで、貴陽市内に残るいくつかのスポットを比較したうえで、この地にやって来たのである。
 名を「紅岩浴室」といい、たしかに工場地帯と住宅地の交わりともいうべき環境で営業していた。簡素な二階建ての入口に、真っ赤な筆文字で店名の四文字。戸口で麺をすすっていた女性に入浴料を渡し、ロッカーキーをもらって「男浴」ドアから入場する。
――入浴料。二〇元(現金払い)
 コスト高のため値上げした旨が書かれていたが、その時期は不明。
 脱衣場のロッカーは木製で十八個、上下二段。いかにも手作りといったしつらえだ。そこへ衣類とバッグを放り込み、サンダルを履いて、さっそく浴槽へ向かう。床は塗装の剥げかかったタイル敷きだ。ロッカーの反対側にはこれも木製のベッド五台が並んでいて、ピンクのタオルの上に先客が二人。一人は寝転がりながらスマホをいじっていて、もう一人は半裸で眠りに落ちていた(何やら寝言まで聞こえた)。
 浴室は無人だった。
天井までの高さ、3メートル弱。壁づたいに冷熱それぞれの水道パイプが取り回され、シャワーが七ヵ所。ただしお湯は出ず。パイプの先から、ぬるい水がボタボタ落ちてくるだけだ。
 浴槽は四メートル、二メートル強のサイズで、ふちは縦横ともに五十センチほどの幅がある。按摩用なのか、そこに長さ二メートルほどのベッドが載っている。温度は四十度弱と思われる。まるで温水プールだ。これなら何時間でも入っていられる。照明は囲い付きの白色電灯二つ。壁には、赤字で「小便したら罰金二十元」と認められていた。
 紅岩浴室はそんな何の変哲もない実用一辺倒の銭湯で、風呂上がりの高齢者が囲碁将棋やコオロギ自慢をするような、ひと昔ふた昔前のようなのどかな風景はなかった。
 とはいえ簡素で静かな空間は居心地がよく、結局四十分も長居してしまった。
 一人二十元。この価格と客入りで営業を続けられるのかは今一つ分からないが、夕方は工場帰りの利用者が多いのかもしれない。こんな銭湯が、どうやら貴陽市内には十軒以上残っている。
 ところで、私が初めて中国の銭湯にザブンと浸かったのは、十四歳の夏。初めての旅の六日目のことだった。北京の「清華園」という老舗で、今はもうない。それもそのはず、北京随一の繁華街である王府井大街に面して営業していたのである。九〇年代後半に沿道全域が大改装され、巨大商業施設ばかりに変貌する、その直前ということになる。以前は、首都の目抜き通りとはいえ、沿道の槐(えんじゅ)が美しいのんびりとした街路だった。もちろん、夏は腹を出した男性がそこら中を歩いていた。
 時は一九九二年。当時の作文が残っている。まずは脱衣所兼休憩室の光景だ。
「白いタオルを載せたベッドがずらっと並んでいて、裸の男たちがその上に寝転がっている。私もその一つに案内された。隣のベッドでは、三十くらいの男がタオル一つひっかけずに悠然とお茶を飲んでいる」と。浴室へ到れば、「ベッド一つ分くらいの浴槽が秩序よく並び、外に据えられたシャワーからは、湯が止め処なく降り、床を叩いている」とある。ぬるめのシャワーに打たれて、いよいよ湯船へ。「一人で占領することができた。熱くない。足を伸ばし、体を浮かすと、ペンキの剥げかかった白い天井が見えた」。帰りがけにジャスミンティーを一口。料金は一・五元(約三六円=当時)。父と行った初の中国旅行で味をしめた私は、その後も蘇州・紹興・長春・深センなどの旅先で「浴池」や「浴室」の看板を見つけては気安く立ち寄り、土地の風情を味わってきた。
 江蘇省の揚州で入った風呂は一風変わっていた。洗い場の扉を開けると、薄暗くて湯気いっぱいの部屋の中央に底深い浴槽が確認できる。だが、その内側には人影が見えない。客はみな浴槽のへりに胡座をかき、大声でおしゃべりをしているのである。浴槽は縦横各三メートル。四辺は若者と老人でぎっしり埋まっていた。私は勇気を出してそこへ割って入り、湯に手を突っ込んだ。そして反射的に引き抜いた。焼けるような熱さだったのだ。なるほど、そこは「浴槽付き蒸し風呂」というナリをした社交場であった。実際、うち三、四人の男たちは、威勢よく大音量で土地の方言を発しながら、延々ジャンケンのようなゲームに興じていた。
 天井の明かり窓を見上げながら、ぼんやり一五分。蒸し風呂を堪能して休憩室に戻ると、今度は個々にあてがわれたベッドで心ゆくまで寝そべる。遠慮しても始まらない。おすそ分けとばかり隣客が投げて寄越したリンゴをかじってみたり、あるいは互いの鞄やカメラなど気になる持ち物を指さし、暇つぶしに値を当ててみたりする。風流とも優雅ともいえないが、そんな考えようによっては贅沢な癒し時間を過ごした。これは二〇一六年のこと。料金は一〇元(約一五〇円=当時)だった。
 以上、私の中国体験フォルダから二、三の思い出を取り出してみた。

世にも奇妙な山体公園

 南明河および紅岩浴室から、水口寺大橋(蟠桃宮路)に沿い、北上すること十五分。東山山体公園にいたる。
 貴陽到着後、ただちに牛肉粉を味わい、食後に銭湯に入った。まるで順番がおかしいじゃないかと思われるだろうが、私はこのあと登山を楽しんだ。
 お財布にやさしい入場無料。片側四車線の宝山南路から、いきなり急勾配の階段が始まる。年相応に運動不足の身にはキツい苦行だったが、あいにくエレベーターやロープウェイ、リフトのような「ズルが可能な乗り物」は用意されていない。上(のぼ)っては休み、上っては休みを繰りかえしつつ、およそ二十分でゴールの五重の塔を正面に捉えた。
 山頂近くの景色は、期待どおりに格別だった。
 なにしろ麓(ふもと)付近では山すそにジグザグの石段が続くのだが、後半は長い長い直線の階段を上がっていくのである。世界遺産・泰山の山容と登山道をイメージしていただいてもよいが、この東山山頂付近の階段は、左右を遮(さえぎ)るものが何もないのが特徴だ。つまり、あたかも東京タワーの展望台にいるかのような市街の眺望が、街中の登山道から至近距離で望めるのである。
 黔霊山も、仙人洞を擁する銅鼓山も、南明河も水口寺大橋、それから後で訪れる文昌閣も花果園のツインタワーも一望できた。
 こうして見ると、まるで東京の山手線内のエリアに、箱根と新宿と高島平団地と川崎市の工業地帯が同居しているような、なんともいえぬ不思議な風景である。たしかに内陸部を代表する二線都市にはちがいないが、中国有数の異形の3D都市ともいえるだろう。
 気になる方は、いますぐ「東山山体公園」とでも検索してみてほしい。きっと、思わず「ナニコレ」と叫びたくなる珍景色に出会えるはずだ。

人民キッズと城壁広場

 下山後、朱姐便利店なる売店にてすぐに水分補給。
――可楽(コーラ)ペットボトル。三元(アリペイ払い)
 いよいよ貴陽市の中心部である旧城内を探索する。私がやって来たのは、旧老東門に位置する文昌閣と、その周辺の城壁を修復した公園である。
 大通りの交差点に面したその園内からは、小さな子供たちの歓声が聞こえてきた。しかもかなり大勢のようだ。まさか史跡見学に訪れたわけでもあるまい。そう訝(いぶか)しみながら入ってみると、思いもよらぬ面白い光景が広がっていた。
 一九二六年より取り壊された貴州城の城壁だが、現在も老東門ほか数ヵ所にその痕跡をとどめている。この城門が厚さ十メートル弱をほこり、階段中央に幅広の斜面があるのだが、数十名の子供がそれを滑り台がわりに遊んでいたのである。坂は磨き込まれた石である。段ボールを尻に敷いている子もいれば、当地で流行しているのかプラスチック製のソリをちゃっかり準備している子もいる。未就学児から小学校中学年までだろうか。みんなキャッキャ、キャッキャ、ツーッと単純な遊びを繰りかえしている。
 周囲には、それを見守る親や祖父母、それからソリ遊びにはまだ早い幼子(おさなご)たちがいた。彼らは、城壁を構成する石組みに寄りかかったり、ママ友らしき仲間と熱心に語らったり、老婆の腕のなかで中空を見つめたりと、みな思い思いの形で土曜午後の憩いの時を過ごしていた。中には、ひたすら腕立て伏せを繰りかえす日焼けマッチョな男性や、見返りポーズと流し目にやたらと凝(こ)っている自撮り女性の姿も見られた。だがそこには、おおむね騒がしい、ソリ遊びの子らを中心に世界がうごいていると、そう思わせるような雰囲気があった。
 急ぎ足の旅人も少しく、彼ら貴州の人民キッズの歓声に心を癒され、つかの間の充電時間を得た。
 最後に、この公園に鎮座する文昌閣を参観した。
 明の万暦年間の建立で、清の康熙帝の時代に改修された建物である。
 まるで見たことのない三層宝形造の楼だ。上の二層は不等辺九角形でだそうで、その檐(ひさし)はそっくり返り、さらに水平方向にも大きくたわんでいる。しかも、これが西向きで他の三方にも配殿を持つため、文昌閣一体としては北京の四合院のような外形をしている(縦横とも約一二メートル)。いまは工事のため通せんぼされて主塔には近づけないのだが、ともかく戸締まりのよい誰かの庭として見れば、この閉鎖感と奇抜なデザインはたまらない。琴の音色でも聴きながら、楼の上で月をながめたり酒を飲んだりしたら、さぞかし愉快だろう(街の喧騒とは別世界だ)。
 それはそうと、一件危ないシーンにも出くわした。この文昌閣前の石畳で、赤ん坊を乗せたベビーカーを後ろ向きに転がしてる、年若い父親がいた。おそらく一歳足らずだろう。これでは子供を遊ばせているというより、むしろ親が遊んでいるようなものだ。わずかに傾斜があるスペースなので、走り出せば自ずと加速していくのだが、親子の距離が開いたのを見て、私は危険を察知してベビーカーに駆け寄った。
 すると次の瞬間、石畳の小さな段差で車がひっくり返り、赤ん坊が投げ出されそうになった。結論をいうと、私はすんでのところで、その赤ん坊の後頭部を片手でランニングキャッチした。一応野球経験があるとはいえ、当然こんなプレーは初めてだ。当の父親はまじめな顔して「謝謝(シエシエ)、謝謝」と繰りかえしたが、もうあきれるしかない。
「看起来好玩児、但是有点危険的、啊?(楽しそうだけどさ、危ないじゃないか)」
 思いがけず安らぎを得た直後、意外なところでヒヤッとさせられた。

貴州名物ホルモン麺

 文昌閣から西へ徒歩五分。いうなれば、旧貴陽城の中心部へやってきた。
 さあ、このあたりで本日二食目。私がこれから頂くのは、ご当地の腸旺麺である。先ほどの牛肉粉と同じ、ビリビリ動画のグルメおじさんが美味そうに食していたのを、ふたたび真似てみるのである。
 中山東路から文明路へと曲がり、動画で見おぼえのある「金牌羅記腸旺麺」に到着。店内には八卓ほどのスペースがあるほか、屋外にもプラスチック製の椅子と長テーブルが用意されている。合わせて五十人ほど収容できる計算だが、歩道はおろか、となりの交番の壁ぎわまで借用しているのがなかなか強気でよい。まずは店先のレジで食券を求める。トッピングが多彩で二十元の豚の大腸、一七元の豚足、五元の鶏肝、二元の豆腐・玉子・麺追加などもあったが、とりあえず王道の一杯を。
――腸旺麺。一三元(アリペイ払い)
 ここでさっそく、トンデモ光景に出会う。
 レジのお姉さんは戸外の庇(ひさし)の下に立って仕事をしているのだが、なんとなんと、自分の丼を抱えながら片手でキーを打っていたのだ。客を一人片づけるとすぐさま視線を落とし、麺を掻(か)き込む。少時、客が途絶えたときにレジ係が交代したが、次の女性も豪快に麺を立ち食い。みな「もぐもぐタイム」の合間に接客するという塩梅だ。そんな極限のユルさが、もうたまらない。
 脇の厨房では、若い兄ちゃんとベテラン女性のコンビが、麺を茹(ゆ)でながら手際よく具材を放り込んでいく。私はカウンターで「微辣(ウェイラー)で」と告げ、小辛レベルの出来上がりを待った。食券を買ってから、ほんの数分で完成。歩道上の席にどっかと腰を下ろして、初対面の麺をリフトしてみた。
 ほのかな醤油の香りの半透明スープとちぢれ麺とが妙にマッチしているぞ。直ちにそう感じた。さっそくスタッフ達に負けじと、ステンレス製丼に立ち向かう。スープは注文どおりに微辣だ。そして小間切れの臓物、カリカリに焼かれた謎肉(これもホルモンか)、そして血を固めたと見られるヌルっとした物体、落花生、青ネギなどが、それぞれ良きアクセントとして多彩な食感を与えていた。
 戦前の予想がいい意味でハズレた。腸旺麺なる名前のインパクトほどは癖がなく、もりもり食べられる。私はほんの五、六分で完食してしまった(またも日本の醤油をかけつつ)。また、店内の一角には自由によそえる大根の漬物も用意されていて、それがまたおせちの定番のなますみたいな、シンプルな酸っぱさで美味かった。
 これまで中国の旅先で、あまりご当地麺類を好んで食べてこなかったのだが、これは少しずつ光が差してきたぞ。そんな思いにさせられる一杯だった。ありがとう、ビリビリ動画の麺おじさん!
 その後は引きつづき、グルメ街として有名な民生路をぶらついてみた。なるほど、行列のできる臭豆腐屋に牛肉粉食堂のほか、肉まんや北京ダック恋愛豆腐果などの屋台がひしめいている。恋愛豆腐果とは、焼き豆腐に唐辛子・ニンニク・生姜・醤油・木姜油・ドクダミ等をかけて食す、貴州のファストフードである。中には、吹きさらしで牛肉・麻辣・海苔・トマト・クミン・ニンニクなど、多彩な味付けのポテトチップスを商う者もいれば、長さ二メートル超のサトウキビを店先に立てかけ、豪快にぶった切ったり削いだりして客に提供している果物屋の女性もいる。片づけないもんだから、ささくれ立ったサトウキビのカスはうず高く堆積する一方だ。その山が歩道をほぼ埋めてしまう有り様だが、歩行者は気にもせず、それを踏み越えていく。
 B級C級メニューが目白押しの、風情ある裏通りだ。特段荒(すさ)んでいるわけでも、いわんや治安が悪いわけでもないが、ぜんたいに建物が古めかしく、色味がいちいち野暮ったい。また、ここも路面がやや傾斜している。人々の熱気やバラエティー豊かな美食の数々が当地の見どころだが、そこへ坂道特有の情緒的視覚効果がプラスされ、下町のグルメ散策をいっそうユニークで、味わい深いものにさせるのかもしれない。
 通りを行くのは老若男女さまざまで、本当に世代を問わず集客している印象だ。だが、目下封鎖されている工事区間もあり、だんだんと街の風貌が変わりつつある、そんな気運も感じられた。
 やや急ぎ足になるが、私はここから富水路・曹状元路・中華路を経て、ふたたび南明河のほとりに出た。次の目的地は、どんな貴陽ガイドでもいの一番に紹介される「甲秀楼」である。
 ウォーキングの途中、目を付けていたブックカフェが発見できなかったり(時節がら閉店したのかもしれない)、公園内で大音量で唄う高齢者集団(とくに二胡や横笛をかなでる男性奏者を数名したがえ気持ち良さそうに懐メロを熱唱しているお婆さんが印象的だった。楽曲は「我愛你中国」など)を観察していたために、名刹・黔明古寺の閉門時間に間に合わなかったりと、ところどころで小さなアクシデントはあったものの、ともかく日暮れの前に、貴州の名楼・甲秀楼に立ち寄ることができた。
 南明河の川面に、ぽつぽつと街灯りが映りはじめていた。地元民か観光客か、三々五々川沿いを歩く人々にまぎれて私も一歩一歩、当地のシンボルを目指した。
 甲秀楼は三層にして高さ約二十メートル。明の万暦年間に建てられ、その後再建と改修を繰りかえしてきたという。現在の楼は、清の康熙帝の時代に建てられたもの。
 文昌閣と同じく入場無料だった。楼内はちょっとした記念館になっており、私は絵画や書の展示物に目を当てていたのだが、ちょうど六時閉門。間もなく追い出されてしまった。
川沿いの遊歩道から、私はあらためて甲秀楼の威容を見た。金字の新しい扁額や重厚な色遣いとは対照的に、奥が透けて見えるほど上部二層は華奢で繊細な造りをしている。屋根の反りは小さくて、派手なようすを少しも見せない、いぶし銀な楼である。
 五年前にたずねた武漢の黄鶴楼(世界遺産)とは、そのサイズや華々しい歴史の点で比べるべくもないが、橋上における貫禄と渋すぎる立ち姿は、見れば見るほど、逆に可愛らしくも感じられる。たしかに地味ではあるが、これ以上の装飾が必要とも思えない。きっと、そんな不思議なバランスを具有した建築なのだ。
 この西南の高原都市へ来てから六時間あまり。私はひとまず、観光らしき観光を終えた。短い時間をさらに割いて、コスパ重視で細切れ体験をつないでみたわけだが、甲秀楼も民生路も東山も吉慶巷も、みな親しみやすく魅力満載の場所だった。各地点で味わった感慨をそっと持ち帰り、新旧の情緒入り交じるこの都市を、またいつか再訪してみたいと強く思った。
 私は南明河と甲秀路にサヨナラを告げ、本日の食事スポット三軒目へと急いだ。
――タクシー(甲秀楼~獅峰路)。二〇元

おひとり烙鍋体験記

 次におとずれたのは「花果園」という近年話題のエリアだ。
 貴陽市南明区の新興開発エリアで、これも知られざる現代中国の奇観といえるかもしれない。プロジェクトの総計画面積は十平方キロメートルにおよび、アジア最大の分譲住宅地ともいわれる。元々は中国語で「棚戸区」と称されるバラック街(城中村とも説明される)だった。四平方キロメートルにわたり二万戸、関係者十万人の住宅が取り壊され、現在は常住人口五十万人。そして一日の平均人流は百万人に達するという。四十階建て高層建築が三百棟を超えるというから驚きだ。
 できれば、一度「貴陽/花果園」などと検索して、関連動画をご覧いただくのが手っとり早い。高層住宅が広い区域に林立し、低層階には衣食住さまざまな店舗を擁する巨大商業モールを構成するさまが観察できる(自分が小人になったようだ)。オフィスや芸術関連施設、花果園購物中心というショッピングセンターが付設され、十六万平方メートルの湿地公園や高さ二六〇メートルの双塔(ツインタワー)も、花果園のシンボルとなっている。
 花果園最大のランドマークはもうひとつある。それは小高い山を背にして建つ、白亜の宮殿風巨大建造物で、その名を花果園芸術中心、通称「白宮(ホワイトハウス)」という。湖や噴水のある花果園湿地公園と隣接し、合わせて人気の自撮りスポットとして知られている。このほど開通した地下鉄3号線も、この花果園に新駅を開業させるなど、今後さらなる発展が見込まれる地区である。
 今夜は夜行快客列車に乗って、次の目的地である柳州へ移動するのだが、その出発時刻は夜十時三十六分。それまで三時間ほど、ここで過ごそうという計画だった。
 まずは、花果園のほど近くにある獅峰路という通りが、夜間にぎわう美食街だというのでやって来た。
 いきなり、グレーのコートを着た若い女性が路上で、試食用の焼肉を盆に載せて立っているのに面くらう。すでに屋台が出ているのだ。ここは東西約四百メートルの通りで、衣料品店・マッサージ店・時計修理店が並ぶほか、野菜や卵や果物を売る移動販売車が車道を埋めている。
 西へ進むと、しだいに椅子テーブルを路上へ出す飲食店が増えて、まるで夜市のような活況だ。といっても観光夜市とは趣がことなり、地元勢相手のほの暗さと無骨さがたまらない。
 お目当ての店は「貴城烙鍋」という名で、その存在を知ったのも、腸旺麺を紹介していたグルメおじさんのおかげだ。動画では、彼が獅峰路中央に設置されたテントの下で、風呂場の簡易椅子にどっかと座り、地元客と鍋料理をつついていた。だが当の貴城烙鍋は、一度は気づかずに通りすぎてしまうほど狭い間口で、ひかえめに営業していた。
 私は探し求めていた店をようやく視界にみとめ、奥の席へと飛び込んだ。店内には鍋を置いた卓が四つあり、周囲にはやはり座面の低いプラスチック椅子。簡素すぎて慣れないものだが、決して雰囲気は悪くない。他の二卓は親子連れと男性客二人が食事中だ。すると奥の厨房から、まるで寝巻きのような桃色のモフモフジャージに身を包んだ店のお姉さんが出てきて、メニューを渡してくれた。
 今ひとつ注文方法が分からないので、例の動画や口コミアプリの写真を彼女に見せた。烙鍋とは、日本のジンギスカン鍋をもう少し山高くした専用鍋で、肉や野菜を焼いて食べる料理のようである。中国語で「烙」とは、アイロンをかけたりパンを焼いたりなどに使う。『史記』の愛読者ならば、きっと古代中国の酷刑「炮烙(ほうらく)」を思い起こすだろう。
 さて、私はお姉さんのアドバイスを聞きながら、くだんの動画で見た牛肉と野菜の盛り合わせ、それに定番の付け合わせらしいジャガイモと玉子炒飯を注文した。そのうちに、子連れやカップルが次々と入店してきて、店内にわかに活況を呈してきた。それにしても、みんな初来店らしく、店のモフモフお姉さんとおずおず会話をしている。あの北方訛(なま)りのおっさんの動画に誘われて来たのだろうか。
 料理は七分ほどで席にはこばれた。卓上の温められた鍋に、肉と野菜類がじかに載せられる。野菜は、青菜・ピーマン(これが赤青黄の三種)・玉ねぎ・もやしだ。なるほど、普通の複数名客は、あたかも寄せ鍋をつつく感覚で、この凸型鍋から料理を皿にうつして食すのだ。酒を飲みながらゆっくり食事を進めても、たとえそれが野外であっても、各食材の冷める心配がいらない。目の前で特徴的な調理をするわけではないが、なるほどこれはこれで楽しい会食の仕掛けになっているわけだ。なお、炒飯は屋台風のふた付き容器とテイクアウト仕様でやって来た。
 気になるお味だが、これがまさしく日本人好みのほどよい醤油風味。中国では珍しく、麻(マー=山椒のしびれ)でも辣(ラー=唐辛子の辛み)でもない。卓の上には唐辛子風の調味料がポンと置かれているのだが、これは知らんぷりを決め込む。わがままを言うならば、白飯がほしかったくらいである。
 炒飯のほうは酸辣な(酸っぱ辛い)味で、最初はパクパク食べていたが、ご飯が小粒で味をよくまとっているせいか、食べるにつれて辛さが口に残るようになった。そこで、私はメインの鍋を優先的にやっつけようと、プラスチックトレイの中程まで平らげたところで残してしまった。
 このほかに、いかなる味覚のバリエーションが楽しめるのかは不明だが、たとえばここに何種かの海鮮やキノコ類が入ってきたら、そりゃもう愉快な宴会になること請け合いである。いや、このぶんだと、近隣の店から自慢の料理を届けてもらい、路上の卓でビールグラスを傾けながら、ワイワイいただくこともできそうだ。
 私はその後も調子にノッて、肉と野菜とをどんどん口へ放り込んでいった。味付けが自分好みというのは心強い。だが、胃袋は音を上げていた。食べすすめるうち、一口ごとに満腹感が増していく。そろそろ潮時だな。途中で切り上げて、最後に会計させてもらう。
――牛肉、三鮮、蛋炒飯。五五元(アリペイ払い)

ガマンだガマンだ花果園大街

 店を出て、獅峰路から花果園方面へ道なりに歩いていく。
 辺りはすっかり暗くなったが、車の荷台で物を売る人が絶えない。とぼしい光が妖しくもほのかに温かい。街路は夜の顔を見せはじめた。
 ただ、そんな雰囲気を味わう余裕もなく、私は腹いっぱいで一歩一歩、花果園のショッピングセンターを目指した。とりあえずトイレに寄って、動きやすい状態にしよう。
 貴陽烙鍋から次の花果園購物中心までは、およそ六百メートルの道のり。しかし結局、私は途中で胃のむかつきを抑えられずに、路上で二回嘔吐した。通行人の少ない、暗がりのゴミ捨て場の脇だった。飲料水の持ち合わせがあったので、ペットボトルの水をそこへかけたり、コーラで口をゆすいだりして、気分はなんとかおさまった。
 しかし、今度ははっきりと便意を知覚した。高徳地図で「厠所」と検索(旅の途中、これで何度も助けられた)。しかし、どうやら花果園購物中心内のトイレが最短距離のようだ。私は、目指す商業施設が「迷宮」でないことを祈り、前進した。ネオンの光の束がぼうっと前方を照らし、そこに歩道橋がそびえて私の前に立ちはだかった。
 せっかく最新の中国紀行をお楽しみのところ、急にトイレ談義を始めてしまって大変恐縮である。だが、これはこれで本稿の肝なのだ。孤独な便意との闘いに、ここは我慢してお付き合いいただきたい。
 私だって、物心ついてから大便を漏らした記憶もないが(おそらく)、いま胃袋に入っているのが異郷の料理だけに、自分の身体がどのような反応を示すのかが皆目わからない。さらに、この地の微妙な高低差が堪えた(自然と腹に力がはいってしまうのだ)。私は、道ゆく人の服装や持ち物、各店舗のあつかう品や看板などには目もくれず、視線を落として重心を低く維持し、極力すり足で移動した。あたかも地球と一体化するように。
 この起伏のはげしい貴州高原の省都を、ぜひともNHK「ブラタモリ」番外編で取り上げてほしい(多次元都市・重慶とともに)。私は常々そう思っていたが、ここ貴陽で、これほど坂道行程を恨むことになるとは思わなかった。
 が、私はなんとか気力をふりしぼって花果園購物中心にたどり着き、女性用ブティックが並ぶフロアの内周にトイレを発見。すぐ右手に、広めの個室トイレが空いていた。すでに限界を迎えていた私は、迷わずそこへ入った。嗚呼(ああ)、間に合ったのだ。
 便器の上で安堵した私は、用を足しながらすぐさま反省点を確認した。
 貴城烙鍋に入店し、店員の助けを借りて注文したまでは良かった。問題は明らかに、調子にノッて食べすぎたことだ。残りの二日間、少し自重して安全運転でいこう。そんなことをつらつら考えた。
 中国では水洗トイレであっても、通常は詰まり防止のため、使用済みトイレットペーパーは備え付けの屑(くず)カゴに入れることになっている。ひとしきり反省した私は、黒いビニール袋の大きなカゴに紙を捨て、トイレを出た。
 さて、本来の目的地は同施設内のおしゃれ書店であったが、いまいち場所が分からなかった。地図上では館内の一角に大きな売場が広がっているのだが、実際は敷地内にいくつもの建物が乱立し、まるで迷路のようなしつらえになっているのだ。
 私はエスカレーターで上階へ行き、デスクの女性に訊ねた。
「すみません、楽轉書店はどこですか?」
「ほら、優衣庫(ユニクロ)の角を曲がればあるわよ」
 と、言われたとおりに進んだのだが、そこは行き止まりだった(実際には一度屋外に出て、別のビルに移動する必要があったのだ)。
 そこで、はたと気がついた。タブレットがないのだ。
 一瞬立ち止まったが、トイレに置き忘れたに違いないと踵(きびす)を返して二階に駆けもどった。そうだ。つい個室内の洗面台そばの棚に置いたのだが、除菌シートを携行していたため、最後洗面台を使わなかった。用を足し、安堵のあまり大事な携帯端末を忘れてきてしまったのだ。
「どうかそのまま放置されていてくれ」
 そう願いながら、二階トイレに帰ってきた。だが、わが愛機は失くなっていた。
 心の中では九分九厘、すぐ見つかるだろうという気でいた。時間的には、ほんの四、五分しか経っていない。私は茫然とした。
 そういえば、個室トイレを使用した際、グレーの制服を着た清掃員が数名いた。男女両トイレを行き来したり、清掃道具を洗ったりする中高年の小集団がいたではないか。彼らのうち誰かが見つけて保管しているのではないか。そうにちがいない。まあ、無意識にゴミと思って廃棄してしまった可能性もある。
 当の個室のくず入れを覗いてみると、さっきうず高く積まれていた使用済みトイレットペーパーが全部消えている。誰かが清掃に入った証拠だ。こうなれば、片っ端から訊ねていくとするか。かたづけた当人でなくとも、仲間に知らせれば出てくるかもしれない。
 ところが、数分経ってあらわれた清掃員たちの中に見覚えのある顔はなく、しかも誰に話しかけてみても、あまり取り合ってくれないか、知らないと一言即答するばかりだ。五人目くらいでようやく「落とし物があればインフォメーションデスクに届ける」との言葉が得られた。あの三階の若い女性のところだ。
 だんだんと読めてきた。清掃員はみな、定められた場所を周回して掃除することしか頭になく(それは当然といえば当然だが)、ビルの管理業務には一切タッチしないどころか、客への応対や連絡・連係について基本的な訓練さえ受けていないのだ。
 それは何も清掃員だけではなかった。とあるブティック店の女性がモップを洗いに来たので、試しに彼女にも声を掛けたのだが、あろうことか「あなたのタブレットなんか知らないわよ」とキレだす始末。まったく話にならない。
 もちろん、これまで旅先で(なんら責任もないのに)親身に助けてくれた人は大勢いたし、今ここで一人一人のモラルや資質をどうこう言うつもりはない。ただ、当施設内の各人の仕事や役割分担・連絡体系は、どうやら客の落とし物の適切なる収集・保管には不向きなようだということが、この十数分間のやりとりで何となくつかめた。

タブレットパソコンを失くしたのね

 私はふたたび、上階の受付へ向かった。
 さっきと同じように、彼女は手元のパソコンと格闘していた。私は「ニイハオ!」と彼女に挨拶し、この間の出来事を説明した。事情はすぐに呑み込んでもらえたようだが、残念ながら届け出はなかった。
 私は問題解決の糸口になればと思い、トイレ利用時に数人の清掃員がいたことを試しに伝えてみた。彼らのうち、誰かが発見して保管してくれているかもしれないと。このとき私が期待したのは、彼女が「では聞いてみましょう」と、しかるべき部署に内線で訊ねてくれることだった(たとえば清掃員たちの詰め所など)。しかし、受付嬢は翻訳アプリを使って意外な提案をしてきた。
「あなたは監視を見たいですか」
「監視?」
つづきを聞いてみると、地下に当施設の防犯センターがあるので、そこへ行ってみろと言うのだ。まあ私としては、清掃員をうたがっているわけじゃない。だが、とにかく今ブツはない。それに、彼ら一味とはまるで話が通じないという苦い現実に直面したのは、先ほど説明したとおりだ。ここは目の前のスーツ姿の受付嬢に従うのがベターだろう。何か手がかりが得られるかもしれない。姿かたちは想像できないが、防犯センターの主は、きっと彼女寄りの「話の分かる御仁」だろう。
 私は礼を述べて、まだ見ぬ地下世界へと旅立った。
 と、ここまでタブレットパソコン紛失の経緯を説明してきたが、結論から述べると、私は端末をあきらめざるを得なかった。捜索に一時間強を費やしたが、有用な情報が得られないどころか、当の防犯センターすら見つけることができなかった。落とし物をした自分が悪い。そう片付けて、タブレットなしで旅を続ける決断をした。
 余談だが、中国での落とし物といえば、じつは私は出発前に興味深い動画を見ていた。それは、哲学者の東浩紀氏(ゲンロンカフェ創業者)が二〇一六年、浙江省の杭州市内でパスポートを失くしたが、なんと紛失翌日に訪れた派出所で偶然現物と出会い、無事に帰国できたという話だ。
――「中国の街中で落したパスポートを見つけ無事帰国した東浩紀が、勢いだけでゲンロン四を宣伝する放送」(ゲンロンカフェ、二〇一六年)より
 まさかそんな奇跡が起こらなくとも、問題は短時間で解決し、さっきまでの愉快な一人旅に戻れるだろうと高をくくっていた。ところが、この捜索作戦は、当ショッピングセンターの構造・体系そのものに妨害された(というのが私見である)。物理的構造とスタッフ間の連絡体系とによってだ。
 まず、受付嬢から示された地下階にたどり着くのに難儀した。花果園購物中心の広大な敷地には、ガラス張りの建物が複数、微妙に角度を変えて配置されており、各々がエキセントリックな広告に装飾されて、全体像や現在地をつかむのが非常に困難なのだ。日本の商業施設のように案内表示が適切に設置されているわけでもなく、地下へのルートすらはっきりしない。結局、私が発見したのは防災用・搬出入用の大型エレベーターで(階数ボタンが誤って印刷され、黒マジックで書き直されているような代物だ)、さらに到着した地下階は、薄暗く「強烈なドブの臭い」がする駐車場エリアだった。そして、防犯センターの存在は一向に確認できず、藁をもつかむ思いで駐車場ゲートの女性スタッフに訊ねてみても、そんな担当外のことは分からないと匙を投げられてしまったのだ。
 私はもう一度、半ば迷子になりながら「事故現場」のトイレに戻り、事情を知る清掃員が現れるのを待った。しかし、一体どれだけの人員が働いているのか分からぬが、次から次へと違う顔の中高年スタッフが出入りするだけ。また誰に訊ねても、自分には関係ないという態度で取りつくしまがない。手がかりが得られないまま、刻々と時間がすぎ、徒労感だけがつのるという有り様だった。
 うーん、こんなはずではなかったのに。
 私は、自分の食べすぎを反省した、ついさっきのトイレ内の時間を思い出した。今さらだが、より必要だったのは手回り品への注意力のほうだった。入れ子のようにまた反省を繰り返しても、しかたがない。いまは冷静な決断が求められる。すでに午後九時半をすぎている。閉館時間が迫っていた。土曜とはいえ、衣料品フロアが客であふれかえる時間ではない。館内スタッフが各自の持ち場でかたづけに精を出していたが、彼らに声をかける気力はもうなかった。
「あきらめるしかないのかな。でもタブレットがないと、このさき絶対に困るぞ」
ここまで捜索第一で行動していたが、気がつけばもう、柳州行きの夜行快客列車には間に合わない(午後十時三十六分発車)。そうかといって、貴陽滞在を延ばすのはどうか。明日の開館時間を待って捜索を再開しても、ブツが出てくる確率は読めない。しかも時間を無駄にしすぎる。いずれにせよ、ここは落ち着いて考える必要がありそうだ。
 私は、全面ガラス張りの星巴克(スターバックス)に力なく吸い込まれた。花果園湿地公園に面する店舗である。

スターバックスで一服

――ホットラテ大杯・トールサイズ。三三元(もちろん現金払い)
 店内の一番端っこの席に陣どり、拿鉄(ラテ)を一口すすった。途方にくれている時間はない。取り急ぎ、トラブルシューティングをおこなう。いま、問題は大きく分けて二つある。
 一つ目は、スケジュール変更とそれに伴う再予約である。
 つまり、タブレット捜索をあきらめた今となっては、私はこの貴陽で一泊するほかなく、さらに明日こそ柳州へ向かうべく、新たに移動手段を確保せねばならない。鉄道は明朝、しかるべき駅で窓口対応してもらえばよい。で、本来ならば手頃なホテルを自力で探さなければならないのだが、ここに一つ僥倖(ぎょうこう)がある。何をか隠さん。このたび中国観光ビザの申請、ただその目的一つのため、手配しなくてもいいはずの貴陽のホテルをわざわざ予約していたのだ。しかも悪運が強いことに、それが私のミスで「キャンセル不能」な予約内容だったため、どうすることもできず放置していた。つまり、自分の失態に救われた格好で、野宿せずに済んだのである。
 では、柳州以降の旅程をどうしたものか。私はしばらく思案したあげく、最終日の梧州行きをあきらめて、柳州から広州へ直帰することを決めた。梧州はたしかに魅力的だが、駅から市中心部までが約十六キロと遠い。短時間でサクサク観光しようと目論んでいたが、各種アプリが使えないとなると非常に心細い。滞在中、心から楽しめないのは目に見えている。だから、ここは態勢を立て直し、柳州でゆかいな時間を過ごそうと腹に決めた。
 二つ目は、アプリなしの旅でどんな苦労があるか、というシミュレーションだ。
 これについては、前年、ネット上に興味深いレポートが二本出ていた。
――浦上早苗「四年ぶりに渡航した中国は『デジタル・ガラパゴス』だった。オンライン化と実名制徹底、外国人旅行者は実質排除」(ビジネスインサイダー、七月一八日)
――山谷剛史「自販機でジュースも買えず…三年半で激変した『サイバー先進国・中国』の不便すぎる実態 外国人にとって、ますます肩身の狭い場所に…」(文春オンライン、十月三十日)
 両氏ともに、ひさびさに訪れたデジタル中国で、その「ガラパゴス」ぶりの進展を指摘していたのだ。
 二〇一九年まで毎年中国を旅していた私も、二〇二三年一月八日の患者・入国者の隔離措置撤廃(つまりゼロコロナ政策の実質的見直し)、および三月十五日の観光ビザ申請再開、その後の渡航前PCR検査撤廃(四月)や専用アプリ等による陰性証明提出終了(八月)と情勢変化をながめながら、近年加速する中国社会のキャッシュレス化が気になっていた。
 普段日本でぼんやり暮らしていても、二〇二〇年以降、非接触型決済が一気に普及したり、街中でレジの自動化が進んだことを実感する。また出前ビジネスが急拡大し、外食チェーンで(慢性的な人手不足も理由であろうが)タブレット型の注文機がまたたく間に浸透したのも顕著な変化だった。他にも配車サービスの利用が急増するなど、コロナ禍以前の中国で観察していたことが、いつの間にか身近な風景に入り込んできたのである。なんとも不思議な感覚だった。
 この経験や戸惑いを敷衍(ふえん)するならばだ。先端ITの実装化に走る中国が、一時期の深刻なコロナ禍を経て、いかなる進化を遂げたとしてもおかしくはない。日ごろ報道やSNSで積極的に情報収集している私も、実際旅先でどんな困難に遭うかは、なかなか想像できなかった。だから、次なる中国一人旅を計画していた折に両氏のレポートを読んで、いささか不穏な気配を感じたものだ。
 それでも大きな安心材料だったのは、コロナ禍以前から頼っている中華アプリが、引きつづき外国人旅行者にとって、便利で心強かったことである。航空券・ホテル・高速鉄道はすべてトリップドットコムで予約できたわけだし(しかもクレカ決済でOK)、各都市の買い物・グルメ・史跡スポットはほとんど高徳地図で探しだしたものだ。
 では、これから先二日間余の行程を考えるとどうだろう。そもそも虎の子のパスポートは失くしていないし、航空・鉄道およびホテルの予約票は持っている。早い話がタブレットとSIMカードの紛失により、主に地図や時刻表が見られないこと、それから三日間ゴキゲンに使い倒していたアリペイがもう使えないこと、この二点を甘受すればいいだけだ。
 それに幸いというべきか、自分のただならぬ準備の賜物というべきか、バッグの中には各都市の地図が紙ベースで忍ばせてある。行動範囲や散策ルートに合わせて複数の縮尺を用意し、さらに立ち寄り地点には蛍光マークがほどこしてある。もちろん、B4サイズのカラー旅程も健在だ。今まで使いたおしていた地図や検索ツールを失ったのは非常に痛いが、それでもなお「孤立無援」というわけでもない。
 希望と不安のあいだを行きつ戻りつ、そんなことをつらつらと考えた。タブレットとSIMカードをあきらめてみると、もう残された道はひとつ。新たに移動手段を確保し、旅程をリカバリーしながら、外国人旅行者なりの不便さを受け入れて二日間行動するのみだ。当然相手があることなので、時には支払いを拒否される場面もあろうが、むしろ時計を戻してコロナ禍以前の旅を楽しめばいい。言い換えれば、これから出会う商売人を一人一人、ニコニコ現金払いの時代に引きずり戻せばいいのだ。
 というわけで、腹は決まった。

白亜の宮殿と甲秀楼

 私は時間をかけてラテを飲み干し、屋外へ出た。
 そこは人工湖をかこう広場になっていて、電飾付きの逆バンジー遊具が数台営業していたり、風船売りが出ていたり、遊園地にあるような子供用電動カーが自由に走行していたりと、とても夜十時とは思えない賑わいぶりだった。じつに軽く千人を超えていそうな市民が、湖周辺で遊んでいた。
 正面には、プロジェクションマッピングで企業広告が展開されているツインビル(春節をひと月後に控えているからか、たまに二棟のビル全体が真っ赤になる)。湖の左には、漆黒の闇と断崖のような山をバックに、電飾で煌めく白い宮殿が建っている。これが、ホワイトハウスこと白宮。そして私の後ろでは、先ほどまで滞在していた花果園購物中心が、まだ煌々と多色のネオンを灯(とも)している。広い湖面は、それら欲望的な地上世界と同属であるかのように、けばけばしい光の渦をずっと湛(たた)えていた。頭上の空だけが、光も音も永久に吸い込んでしまったように黒く、底知れない奥行きを感じさせた。
 白宮の対岸へ行ってみると、そこは夜間の野外自撮りコーナーとなっていた。単独で、カップルで、あるいは集団で、めいめい時間をかけて撮影を楽しんでいる。カラオケ機材・撮影機材を持ち込んで、朗々と持ち歌を熱唱している子とも数メートルおきに出会う。そんな様子を、また大勢の若者が階段に座り込んでながめている(そういえば湖畔に来てから三十歳オーバーの人をなかなか見かけない)。
 かのホワイトハウスは、所有者が建築費二七億元(約五四〇億円)をかけた私邸であるとも、不動産会社のオフィスだともいわれている。実際一、二階にはギャラリーや会議場、不動産販売デスクがあるというから、その両方を兼ねているのだろう。
 ただ、一般非公開のこの「宮殿」が一定期間、アニメ・ゲーム関連のイベントで開放された動画を観たことがある。コスプレ姿の若者たちが建物内外に大集結して、プラモデルやイラストなどの展示物を観覧している図であった。初めて入館したであろう、白宮の内部装飾にもみんな興味津々で(そりゃ格好のコスプレ写真背景になる)、その貴重なひととき、キャッキャ言いながら館内を回遊していたのが印象的である。
 大理石のタイルにクリスタルシャンデリア、マーブル模様の石柱など、贅(ぜい)を尽くしたその造りは、現世感を消失した夢のお城といった感じだった。
 天下国家が煽(あお)りたてる「中国夢」とは別の位相にある、貴陽市民の夢をぼんやりと、でも確実に象徴する存在のようだった。彼ら老百姓(ラオバイシン=庶民)には、とてもじゃないが二七億元の金はないし、ホワイトハウスの家主への道ははるか遠い。ただ、ライブコマースだってアイドルユニットだって、自撮り動画の背景にするなら天安門よりも断然こちらだろう。みんなが他人の夢をちょっとずつ間借りしたり、踏み台にして、次代のささやかな夢を築こうとしている。そんな意思や空気が感じられるスポットだ。
 そして反対に考えると、当の成功者も、巨万の富をかかえて隠れ入るのではない。この浮世離れした城を建てることによって、貴陽市民にある種「夢の分け前」を与えている、あるいは「このように富を得てみろ」と焚(た)きつけているようにも感じられるのだ。我々の視点から一見すると、ちょっと意味が分からないとか、趣味が悪すぎるなどの印象を持たれる建物だとは思う。ところが、現地の等身大風景に身を置いてみると、粗忽な遊子もやはり地元民と同じように、この圧倒的な幸福感に暫時(ざんじ)酔えるのである。
 そう、ぶざまにもタブレットパソコンを紛失した直後、それでも根拠なき幸福感・万能感が頭をもたげる。そんな気分がアガる、貴州の新天地だった(そうだ、今度は昼間のようすも見てみたい)。
 午後十時四十五分。花果園・浜水広場散策を終えた私は、タクシーに乗車して甲秀楼をめざした。ホテルへ向かう前に、気になる夜景スポットをめぐろうと思った。
 多少緊張しながら「現金しかないが」とことわるも、「いいから乗れ乗れ」の一言で交渉終了。案外あっけないものだ。
――タクシー(花果園~甲秀楼)。一四元(現金払い)
 ここは大胆に五十元札を渡し、すんなり釣銭の小額人民元をゲットした。ここからは気が抜けないババ抜きゲーム。各種紙幣・硬貨の持ち分を確保するため、相手の懐や出方を見さだめつつ、慎重なやりとりが求められる(昔の旅に戻ったようだ)。
 さて深夜にも関わらず、甲秀楼はみごとにライトアップされ、一帯に少なからぬ観衆を集めていた。周囲は高層ビルが一、二棟あるばかりで、商店群は街路沿いの一階に集中している。全体として、見ようによってはうら寂しさが残る夜景ではある。ただそのぶん、景勝本体としての甲秀楼と、その土台であり対岸どうしをつなぐ浮玉橋、そして川面に映る逆さ甲秀楼の三点セットは、観覧者たちの貪欲な眼をたしかに独占し、かつ満足たらしめているようだった。
 家族連れと女性客ペアが多い印象だ。みな橋を渡りながら少しずつ楼に近づき、ポーズや構図を増やしながら写真を撮っていく。そして向こう岸に着くと、今度は後ろを振りかえりながら川面の甲秀楼の美しさに見とれ、思い思いの場所で柵にもたれかかるのだ。派手な演出がないだけ、ロマンチックな眺望に心が満たされる(ちょうどキャンプファイヤーの炎を見つめる時のように)。
 私も近景から遠景へと画角を変えながら楼周辺の写真を撮り、そしてだんだんと遠ざかり、最後は川沿いを離れて「青云市集」へと向かった。これを今日最後の目的地と定めて。そこも、近年流行の「映える飲食スポット」として知られる、貴陽の新名所である。
 ただ、到着時間がおそすぎた。無数の凹凸が特徴のネオン看板と、遊び心ある中庭構造は予想どおりだったが、店舗はあらかた営業終了しており、しかもギラギラとした派手な外ヅラほど、各テナントの魅力はないように感じた。巨大な焼肉屋や茅台酒アイスなどの店が営業中だったが、私はさらっと敷地内を一周して外へ出た。
 夜市も多様化の時代だ。伝統的屋台から新興の部類、地元民向け観光客向け、自然発生的な中小夜市からトータルコーディネートされた大規模なもの、飲食中心から衣料・雑貨・サービス系店舗併設まで、各地であらゆる形態が散見されるが、ここはどうやら「映え」先行の場所だ。繁華な時間をはずして短時間でどうこう言えるものではないが、目と舌の肥えた新時代の貴陽人を相手に、関心をつなぎ止めるのは大変なことと思う。
 カメラ代わりのスマホを片手に、初めて「来貴(ライグイ)」した私だって、昼間訪れた吉慶巷や民生路の古い商店街・飲食街の視覚的魅力に圧倒されたし、(今回は足を延ばせなかったが)これより北部に興味深い商業地や美食スポットがいくつもあるのは知っている。また、地下鉄1号線に乗って観山湖エリアに行けば、それこそ昔ながらの田舎町を再開発してできた新興ショッピングセンター群が、商業エリアの勢力図をいま大きく書き換えようとしているのを目の当たりするだろう(ビリビリ動画などで、そこを舞台にした地元バンドのライブ映像を観たことがある。若者文化の発信地も動いているのだ)。
 午後十一時五十五分、私はふたたびタクシーを利用。念のため聞いてみる。
「現金だけどいいかな?」
「いいからいいから、早く乗りなさい」
――タクシー(青雲市集~漢庭酒店)。一二元(現金払い)
予約してあるホテルへ向かった(広州につづき漢庭酒店に宿泊する)。
 このようにして今回の旅の後半戦、すなわち「現金決済しばり」のタームが静かに開始された。さあ、日出(いず)る国からやって来た粗忽(そこつ)の遊子。虎の子のタブレットパソコンを紛失した彼の旅は、これから一体どうなりますやら(中国の章回小説風に)。

捨てる神あれば世話好きな人々あり

 運転手は香港の俳優に似たイケメンだった。一つ質問してみた。
「さっきスマホを失くして調べられないんだ。明日の朝に柳州に向かうには、貴陽東駅と貴陽北駅だとどちらが列車が多いだろう」
 期待なかばで訊ねたところ、彼は早口で即答した。
「それなら北駅だろう。東駅よりずっと大きいし、列車も多い」
「お前は明日の朝、北駅に行くべきだ。何時の列車に乗るんだ。俺が乗せてやろう」
彼がそう断言するので、とりあえず北駅に行くべきかな、と私は考え始めた。ただ、自分から聞いておいてアレだが、いま時刻表すら確認できない我が身では、そう確信を持って行動することに一抹の不安があった。とりあえず明日は、宿から徒歩圏内の貴陽駅へ行き、そこですべて情報を得てからきっぷ入手に動くのが妥当だろうと思われた。北駅も東駅もそこそこ遠い。よけいな移動は避けたかった。
「ありがとう、それは助かるよ、明日私は北駅に行くべきだな」
「だけど出発時間は決まってないんだ。余裕があれば貴陽の街を少し観光したいし」
私は礼を言いながら、朝の行動はぼかした。それでも、地元ドライバーの意見が聞けてよかった。
 宿に着くと、二十歳そこそこといった若い女性従業員がフロントに立っていた。わずかな時間でチェックイン完了。部屋に入るなり、ベッドに突っ伏す。やれやれ。
 デスクにはワイファイの使用法が案内されていたが、パスワードを入れても認証されない。ホテルでは基本寝るだけだが、最低限のネット使用もできないとなると本当に困る。とその時、電話が鳴った。
 フロントの女性だ。何を言っているか聞き取れないので、二階から一階へ戻る。
「さっきチェックインしましたけど、何かありました?」
「お部屋は問題ありませんか?」
うん? お部屋は問題ありませんか?
「はい、部屋はまったく問題ありませんよ。私はとても気に入りました」
接客の会話集みたいなロボット的物言いに、自分でもおかしくなった。
何かヘルプできることはありませんか?」と言う。しかも彼女はずっと無表情だ。
「えーっとね、困ったことがあったら頼みますよ。今は大丈夫です」
私が帰ろうとすると、今度はスマホをちょこちょこ操作し、翻訳アプリの画面を私に見せてきた。
「旅行のあいだ、お客様は私たちホテルの助けを受けることができます」
と、そんなテキストだった。これじゃ、ますます接客の定型文だ。
「だから、もし部屋で問題が発生したら、その時は助けてもらいますよ」
そう答えながら、私は過去の中国旅行で遭遇した数々のトラブルを思い出した。たとえば、ありきたりだがお湯が出ないとか、洗面所やシャワーの水があふれ出したなどに始まり、ベッドに横たわってすぐにじんましんが出た診てほしいとか。あるいは、ポットのお湯がヘンな匂いがするとか、押金(デポジット)が高すぎるのではないか計算方法を教えてほしい、なぜ預けた荷物がどれか分からなくなってしまうのか、などなど。思い出しながら、不愉快な気分までもたげてきた。ともかく、問題が起きなければいいだけの話だ。いや、だからこそ今回、あなたがた漢庭酒店を選んだのだよ。
 いや、そうじゃない。大事なことを忘れていた。
 問題は、私の側にあったのだ。
「あっ、ごめんなさい、私には一件、訊ねたいことがあります」
「はい、なんですか?」
彼女は依然として無表情だった。ホテル関係の専門学校で習ったことを、そのまま実践しているのかもしれない(きっと外国人が泊まることも稀だろうし)。
「じつは市内でタブレットパソコンを一台失くしたんです。そのうえ、私にはスマホもありません。部屋のワイファイも使えなかったし、何も調べることができないんです。もしよければ、明朝の柳州行き高速鉄道の時刻表を検索してもらえませんか?」
 自分の切実な問題をゆっくり中国語訳してみた。
 親切な彼女は、アプリを切り替えて検索を始めてくれた。
「貴陽から広西柳州です。明日の朝」
「嗯(うん)」
さすがは現代のホテル服務員。ものの二、三十秒で私が欲する情報を出してくれた。そこに表示されていたのは、上から二件とも貴陽東駅発の列車だった。
D一七九三 貴陽東駅  九時四三分 三時間四九分
D一七九一 貴陽東駅 一二時四五分 三時間四六分
「アレレ? これだと、貴陽東駅がいいみたいですね」
「そうですね、あなたは貴陽東駅へ行くべきです」
となると計画変更だ。先ほどの運転手のアドバイスはさっぱり忘れてしまおう。
「何時に出発しますか? 車を手配しましょう」
 彼女はかさねて提案してくる。ありがたい申し出にはちがいないが、
「それなら出発までの時間、貴陽の街を少し歩きたいので、車は外でさがします」
 丁重にことわった。彼女は彼女で次なる支援を考えていそうだったが、今度は少し間が空いた。私は私でもうかなり疲れていて、なかなか次の質問が思い浮かばなかった。まあ実際、目下最大の問題は解決したようなものだった。
「ありがとう。君に助けてもらったおかげで、明日は安心して出発できます」
「はい、問題があればいつでも質問してください」
 私は、おやすみなさい、といって部屋に帰った(もしかして、と思ってバッグの中を全部空けてみたが、やっぱりタブレットは出てこなかった)。
 でも、三時間前の紛失直後のあせりは、もうずっと過去のことのように思えた。親切な運転手や服務員との出会いを順番に思い出すと、そうやって彼らに旅の推進力を分け与えてもらっているとさえ感じられた。
 今日は「三万四〇六〇歩」を歩いていた。

第四章 中国人は現金を受け取るのか?(柳州)

いきなり柳州駅で足止め

 痛恨のタブレット紛失事件から八時間後。三日目の朝を迎えた。
 ここは西南の貴州盆地。日の出時刻は、広州よりずっと遅い(この日は朝七時四三分)。
 私はまだ真っ暗な空の下を、貴陽駅までてくてく歩き、窓口で高速鉄道のきっぷを買った。柳州に一番早く到着する列車をたのみ、都合二枚のきっぷを手に入れた。
――高速鉄道(貴陽→貴陽東)。六元
――高速鉄道(貴陽東→柳州)。三〇三元(共に現金払い)
 意外にも窓口の女性が気を回して、前者の近距離きっぷも提案してくれたのだった。現在六時五八分。この貴陽駅でおよそ一時間、乗り換えの貴陽東駅でまた一時間の待ちぼうけを食うことになるが、それも仕方ない。ドタバタ市内を移動するより、彼女の提案をありがたく受け入れることにした。ちなみに貴陽市内の両駅間は十数キロ。首都圏でなぞらえるなら、一度大宮から新幹線で東京に出て、それから岡山へ向かうようなイメージだ。柳州到着は午後一時三二分で、これは当初の計画より約八時間遅い。
 それはともかく、列車移動や乗り換えは快適かつスムーズに進行した。貴州高原らしいワイルドな山並みを遠方に望みながら貴陽駅を出発し、私はふたたび桂林を経由、今度は東南の広州ではなく南南西に進路をとった。ちなみにこの列車は南寧行きだが、柳州までは湘桂線という在来線の高速新線を爆走する形だ。
 さらに余談だが、俳優の関口知宏氏もNHKBSの旅番組で中国を周遊した際に、この桂林―柳州間を移動している。途中駅の停車時間には、ホーム上で麻婆豆腐・鶏足の醤油煮などのお惣菜を販売していたという。今から十七年前。さぞかしのんびりした光景だったろう。
 到着までの間、私はたまに窓外の風景を見やりながら、主に地図やガイドの類を復習し、午後の街歩きにそなえた。天気はどん曇り。貴陽―桂林間では山霧が立ち込めて、まるで命ある山体が雲を吐いているような景色がつづいた。
 列車は定刻、柳州駅に到着した。さっそく絶壁のような小山がホームからチラとのぞいて興奮する。
 忘れもしない、一九九八年の春。桂林行きの寝台バスで立ち寄った柳州。広州と同じ、二十六年ぶりの再訪だ。とはいうものの、そのときは深夜三時頃に一時休憩し、正味夜食(牛河)を食べただけなので、いわば「夢の中で通りすぎた」といってもよい微小な思い出であった。そんなことで明るい柳州は初めてなので、このときは少々自意識過剰に、こっぱずかしい気持ちで有人改札をくぐった。
 これから大幅な遅れを取り戻すべく、荷物を置いてさっさと市内観光といきたいのだが、なに、ほかでもない。切符の買い換えという仕事が残っている。私はすぐさま出発階へと移動し、切符売り場に並んだ。財布の中には、まだ百元札がうなるほどある。変更手数料なり追加料金なり、必要とあらばこれで支払い、たんまり釣銭をもらっておこう。頭の中にはそんな算段があった。
 窓口はふたつ。ともに三、四人ずつ先客がいて、係員と侃々諤々(かんかんがくがく)のやりとりを続けていた。時間がかかりそうだ。
「しょうがないな、ここは焦らずに落ち着こう」
 さて、ここで私のきっぷ変更の希望を整理しておこう。
 つまり、まず明日早朝の「柳州発梧州行き」、および夕方の「梧州発広州行き」のきっぷをキャンセルし、それから新たに「柳州発広州行き」の券を一枚買いたい。なお、広州到着も事前予約より早めて十八時頃としたいと、そういうことだ。待つこと五分。
「請把這些両張票改到従柳州到広州的高鉄票、下午六点左右到達広州的車次最好」
 一応、変更内容を図示したメモと予約番号二件を添えて、そう申し出た。
「二等車でいいですよ。もし空席がなければ一等でも」
 ガラス板の向こうで、ベテラン女性職員がサクサク端末を操作している。ごく短時間で、代わりの列車が見つかった。空席もあるという。
「ありがとう、それでお願いします。これ、私の護照(フージャオ)です」
 板ガラスの内外を結ぶ、カウンター上の小穴へパスポート放り込む。職員は引きつづきキーボートを叩いて手続きを進め、それにつれ発券機からはどんどん紙片が出てきた。彼女の手元は、レシートやらきっぷやらでいっぱいになった。私は安堵した。よかった、これで帰れるぞ。
 言われたとおりの料金を現金で支払い、次はあべこべに返金の段となった。すると、彼女がモニターに目をやりながら、訊ねてきた。
「クレジットカードはある?」
「ありますけど、日本のクレカですよ。使えますかねえ、知らないですけど」
半信半疑で渡してみると、やはりエラーが出たらしい。それまでキビキビしていた彼女の動作が明らかにスローになった。次に、意外な質問が飛んできた。
「ウィーチャットかアリペイはない?」
「いえ、それがないんですよ、私は中国に住んでいないし、スマホも持っていません」
 彼女の視線がそこで初めて、モニターから私の方へ向けられた。ふしぎな生き物を見るような目だった(いいよいいよ、めずらしい外地人の顔をとくとご覧よ)。
「ウィーチャットもアリペイもないのね」
 彼女は頭をかいた。このとき、何となく周囲を見わたしてみると、背後にいる待ち人たちも事態を心配そうに見ていた(ごめんよ、これは誰のせいでもないんだ)。
 そもそも私は最低限、変更内容を伝えただけで、彼女がどんな手順で仕事をしてくれたのか、よく分からなかった。正確にいうと、ちゃんと説明してくれたはずなのだが、肝心な部分が聞き取れなかったのだ。とにかく、差額の返金だか追加徴収に現金が使えない、ということなのだ(さっき新しいきっぷの購入には使えたのに)。
 ここに一人の客人として、冷静に感想を言わせてもらうなら「だからなんで現金精算がダメなの?」という話なのだが、郷にしたがうしかない私は、中国鉄路きっぷ事情に精通した彼女が根気よく突破口を見つけてくれるのをひたすら待った。
 ここでご案内しておくと、たしかに中国鉄路のサイトを開けば、きっぷ変更に際しての手続き・注意事項は細かく記載されている。だがそれは当然、一般的ケースの説明にすぎず、どうやら私のような「例外人物」の存在と登場は、リアルな窓口業務には想定されていないようなのだ。
「どうにもならないなら返金はいらないですよ、私はただ広州に帰れればいいので」
とも言ってみたが、まあそうもいかないようだ。あまりしつこく言うと、スマホもないのに一人前の口を聞くなと怒られそうだし、そうなると返す言葉もない。
 となりの行列はすいすい業務を消化し、人波も前進していった。それに対し、こちらの行列は明らかに「スマホを持たない外国人問題」のせいで完全に停滞した。ただ、当事者としてできることが何もない私は、悪びれることなく深いため息を連発して、その時間をやり過ごした。
 解決には十分弱を要した。最終的には、差額を現金で精算することが許され、私は時間変更されたきっぷと領収書を手に、その列から解放されることになった。おそらくだが、(一)きっぷの時間変更、(二)旧予約分の発券およびキャンセル、(三)変更手数料と新旧きっぷの差額算出、(四)予約二件の一本化など、もろもろの作業手順から、現金のやりとりだけで済むパターンを執念で選び直してくれたのだろう。受け取ったきっぷは二枚だった。柳州―広州間は直通なのだが、券面を見くらべると、途中の梧州駅で車両と座席を移動することになっていた。ガラスの向こう側を覗くと、彼女の手元には、いつの間にか大量の紙くずが積まれていた。いや、ホントにお世話さまでした。

バイクタクシーで行こう

「不好意思(ブーハオイース)、不好意思」
 お相撲さんのように手刀を切りながら、私はもうしわけない、もうしわけないと周囲に声をかけて行列を離れた。ただ、怒気をはらんだ顔はどこにもなく、すでにみな厄介な外国人のことなど眼中にないようすだった。
 このように柳州到着早々、アプリ決済先進国の洗礼を受けたわけだが、ここでめげていても仕方ない。現金決済で突撃するのみだ。
 私は巨大駅舎を出て、大きく息を吸い込んだ。やってきたぞ、柳州。
 駅前広場は広大で、曇り空が重くのしかかる。あたりに古い建物は見当たらないが、建物の色かたちがバラバラで無造作に配置されているせいか、若干田舎の表情をしている。で、そう考え始めると、人々の装いも五年十年と時代遅れに見えてくる。さあ、中心街中どうだろうか。
 視界には、タクシーもバスも見えなかった。その代わり、ニヤケ顔で近づいてきた一人の色黒の男がいた。バイクタクシーだった。頼りないけど、まあこれでもいいか。
 最初に現金しかないことを伝えて了解を得る。ホテル名を告げると二十元だというので、十五元にまけさせて座面後部に乗り込んだ。相場はもっと安いだろうが、情けない時間を過ごした直後なので、気持ち上客ぶりたかったのだ。背中にはバックパック、小脇に電子機器を詰め込んだショルダーバッグ。安定感のかけらもないが、ごく近距離だ。運転手の腹にしがみついて発車させた(なお、ヘルメットはない)。
 久々に乗るバイクタクシーは、率直にいうとおっかなかった。こちらは鞄込みで重量があるし、運転手の男は細くて軽そうだった。駅から東へ一本道なのだが、乗用車や他のバイクや自転車がすぐそばを走るし、途中左右に振られるたびに、遠心力で運転手ごと振り落とすんではないかとヒヤヒヤさせられた。
 しかし、広州と同じく一九九八年以来の広西チワン族自治区。近代的な景色の中をジェットコースターのように飛ばして進むにつれ、だんだんと浦島太郎の興奮が高まってきた。きっぷ変更手続きに手こずったことなど、はや忘却し、柳州滞在時間の延長叶いし喜びが遊子の心を満たした。
 四角い覆いをかぶせた、昔懐かしき三輪タクシーもさっそく顔を出す。さすがに一線都市・広州では見かけなかったが、昨日貴陽の鯉魚街で一台、そして柳州では到着早々に一台目を発見した。と思えば、交差点でひょいと曲がって来たのは、小型の電気自動車。これぞまさしく、地元柳州・上汽通用五菱汽車の主力たる宏光だ。いま何でもありの中国を体感したいなら、S級B級の商品・サービス・風景がダイナミックに混在するであろう三線都市に行くのが一番だ。今回はそう踏んで柳州にやって来た。街に出てまだ数分だが、バイクタクシーの不安定な後部座席で強風に吹かれながら、その予感が確信に変わりつつあった。
――バイクタクシー。一五元(現金払い)
 所要七分ほどでホテル前に到着。思わずピッタリ札を出して別れたが、しまった釣銭をもらう策に出ればよかった。ちょっぴり後悔しながら、下層階に百貨店が入居する「怡程酒店」に入館、チェックインを完了した。
 なお、周辺景観こそローカルな雑味があるが、この百貨店にはマックもスタバもユニクロもある。今日明日と、この一等地が私の根城になるわけだ。ただ一ヶ月後にひかえた春節の路面オブジェには、まだ雪をかぶったクリスマスツリーがちょこんと寄り添い、ひそかに季節はずれの祝祭感を倍増していた。ちなみに今日は一月七日だ。

あやしい音楽美食街

 すでに、この町の虜(とりこ)になっていた。
 ここは新旧の建築物が地面を覆う中心部である。だが、山の存在感がまた大きいのだ。ビルを尺度に目算すると、地面からの高さはおそらく五十メートルから二百メートル(ちなみに東京の愛宕山は標高二五メートル)。あるものはラクダのこぶのようであり、あるものは東京ディズニーランドの火山の形。そんな山々が濃い緑に覆われて、またところどころ岩肌をむき出しにして、雲のかなたまで折り重なっている。ホテルの上階から南方向を見下ろすと、まるで「風の谷のナウシカ」に登場するオームが、行進を止めて眠り込んでしまったようなフォルムに見えてくる。壮観だ。絶景だ。山と町が混じりあう町、リアルとファンタジーが交錯する町。これが柳州の第一印象である。
 さあ、いよいよ学生時代から憧れつづけた、その柳州の街中を歩く。
 広西チワン族自治区有数の工業都市で、物の本には自動車などの機械・紡績・食品といった産業が挙げられているが、先にご案内のとおり最近では電気自動車の生産地としても名を上げている。
 あと柳州といえば、棺桶(かんおけ)の名産地である。広州が「食在広州(食は広州にあり)」と称えられるように、当地のキャッチフレーズは「死在柳州」である。落語の真田小僧のまくらに出てくる「お寺のそばのお弔いごっこ」だって、この柳州では冗談に聞こえない。
 もう一つ付け加えると、ここはチワン族の歌姫・劉三姐(リウサンジエ)伝説の地でもある。日本での知名度は絶望的に低いと思われるが、私は一九六〇年の映画「劉三姐」を以前都内の上映会で観たことがある。広西の美しい山河を背景にほぼ全編、歌曲で話が進行する作品で、なかなか愉快な勧善懲悪物語である。まあ、ディズニー映画の題材となった花木蘭(ムーラン)が武のイメージなら、こちらは頓知頓才に長けた歌姫が主役だ。いま、柳州郊外の山深いところには劉三姐故里という観光スポットができて、カルスト地形の絶景と船遊びアトラクション、民族衣裳のショーなどで自治区内外の客を集めているという。
 また余談だが、同自治区内の桂林でも、川下りで有名な漓江を舞台に野外水上劇「印象・劉三姐」が上演されている。あの張芸謀がプロデュース、初演は二〇〇四年。カルスト奇岩の背景、光と音の演出がみごとだそうで、ここには地元の農民・漁民が大量に出演しているのだという。劉三姐は、現代の広西観光業界のヒロインでもあるのだ。

 さあ、まずはホテルの対面に鎮座する「谷埠街国際商場」という建物に入る。
 ここは、地元民の暮らしに密着した小売店や休閑・娯楽施設がぎゅうぎゅうに詰め込まれた、すこしばかり時代遅れの商業施設である。まずもって観光地ではない。とはいえ、館内画像やテナント情報を調べれば調べるほど、そのディープすぎる「魔界または迷宮っぽさ」が気になってしまい、どうしても立ち寄りたいと目をつけていたのである。
 ただ、そうそう時間は取れない。まず一階の飲食店を物色するが、ごく一般的ないまどきの軽食店が並ぶだけ。さあ、人民生活風味が濃厚でクセの強い区域はどこか。鼻をひくつかせていると、あったあった。
 前方に地下へと誘う階段が現れ、薄汚れた看板には「音楽美食街」の文字。言葉の意味はよく分からんが、とにかく誰が見ても怪しすぎる。看板周辺のワードを拾い集めると、寿司・焼肉・ナイトバー・児童楽園・ゲームセンター・卓球・ネイル・眉毛タトゥー。対象顧客層がまったく分からない。
階下のダンジョンから、音楽は聴こえてこない。しかし、この階段の下から立ち上ってくる期待感。胸を高鳴らせ一段、また一段と下っていった。
 地下街は暗かった。とても暗かった。でも明かりが差していた。そう、たしかに明るかった(はてどっちだ?)。しだいに目が慣れて、ようやく判明した。天井の電灯は一つとしてついていない。だが地上と地下とをつなぐ吹き抜け部分が、ここまで太陽光をはこんでいたのだ。
 そして、階段を下りた私の眼前に現れたのは、意外にもビリヤード場だった。配管丸出しの天井の下で、四、五十代の男たちが日曜の午後、かようなアンダーグラウンドで嬉々として玉突きに興じていたのだ。そのまた奥には飲食店ゾーンがどこまでも広がっていた。
 私は暗い暗い、だが時たま日の光が差し込んで明るい、魅惑の地下街を探検した。
 営業している店は半分くらいだろうか、ベンチに座り込んで談笑している男女もいれば、夕方前から酒食をかっくらってゴキゲンな集団もいた。一人旅の外地人が気安く交われる雰囲気ではない。そう感じながらさらにフロアをすすんでいくと、しだいにナイトクラブ風の店が左右に現れてきた。
 火辣辣、銀頂圏演芸バー(バーは口へんに巴)、云尚演芸バーといった店名のそばに、どこも「女歌手三〇名、舞踏芸員一〇名、男歌手兼司会一名」といった案内書きがあり、半開きの扉からは、学校の教室を三倍四倍にもしたような店内が見えた。たいてい正面または左右片側にステージがあり、歌手や客がカラオケを披露している。客がおらず、店の女性がソファーやチェアでタバコを吸っているところもある。女性たちも衣装などは着ていない。さすがにジャージはいないが、ニットであったりダウンジャケットであったりと、格好はまちまちだ。どこかダラけた、そして淀んだ、しかし見方によっては健全な空気がただよっていた。テーブル予約の連絡先がすべて個人名・携帯電話なのも中国っぽいところだ。
 星飛揚演芸という店からはチャルメラの間奏が入る調子のよい歌声がデュエットで、また魅力四射音楽茶バーという店からは莫文蔚(カレン・モク)の「盛夏的果実」が少々調子っ外れな女性の歌で聞こえてきた。ドアが開けっ放しなので、正確には漏れるというよりダイレクトに聴けるのだが。
 不慣れな旅先でこうした騒々しい場所を散策していても、王菲(フェイ・ウォン)とかカレン・モクなんかの馴染みある曲を耳にすると、あべこべに安心感とも親近感ともいえぬほっこりした感情が、なにか勝手に胸のうちから込み上げてくるものだ。おそらくは、脳裏にこびりついた旋律が知らず知らずのうちに、旅におけるアウェー感と緊張をほどいてくれるのだろう。
 左右の店舗をのぞき見しながら、私は通路をS字風に歩いていた。天井や地面はごく殺風景だが、ところどころ青・紫・オレンジの照明が鬼火のように灯る、ともするとお化け屋敷のような空間。同じくその奇妙な空間を歩いているのは、ライトダウンなどカジュアルな服装に身を包んだ地元の高齢紳士たちだ。
 そのうち一人が、後ろ手で私に近づき、ニヤけながら声をかけてきた小柄な老人がいた。だが呂律が回らず、しかも広西訛り全開なのかまったく聞き取れない。残念だが私の手に負えない。「すいません、分からないよ」の一言で老同志は私から離れ、また上機嫌で別の通行人に絡んでいった(次はぜひとも日テレ系「月曜から夜ふかし」の柳州編に登場してもらいたいものである)。
 谷埠街国際商城の「音楽美食街」は、広西の鉄拐(てっかい)・陶淵明みたいな酒飲みが昼から集う、超ゴキゲンなスポットだった。私は、館内各所にたたずむ、人間の手足や恐竜や相撲取りなどのあやしいオブジェ群に見送られ、懐かしき地上世界に戻った。

姿なき役人さま屋台を走らす

 魚峰路と屏山大道(高速道路の建設中)の交差点へ出ると、突然バイクの洪水と遭遇した。他の都市ではちょっと見られない光景である。
 私はひょいと「東野・岡村の旅猿」ベトナム編冒頭の迷シーンを思い出した。二人を乗せたホーチミンの空港バスが、歩道・車道かまわず疾走する無数のバイクに取り囲まれる、そんな衝撃映像だ。あとで上海のとなりの蘇州出身者にこれを話したところ、
「そう、広西やベトナムといえば、やっぱりバイクを連想します」
と、西南へのエキゾチックな印象をしみじみ語ってくれた(どうも国は違えども共通するイメージがあるらしい)。
 この魚峰路に面した魚峰公園が、第二の目的地だ。ものの二、三分で到着。
 では入場前に、柳州一発目の腹ごしらえといこう。
――焼き芋。三元(現金支払い)
 これが公園入口に陣取る小柄なおじいさんの移動販売で、来る人来る人みんなドラム缶の上を覗いていく。私も誘惑に負けて一つ購入。
ビニール袋に入れたままシワシワの皮を剥いてみると、中身はみごとなオレンジ色。食感はしっとり粘度が高く、そして何より甘い甘い。これはいい買い物をした。
 そして、いざ公園内へと歩き出した時、にわかに周囲が騒がしくなった。焼きいも屋ともう一台のリヤカーが、あれよあれよという間に園外へ走り去っていった。
 正確には聞き取れなかったが、違法営業を取り締まる「城管」、つまり都市管理局の職員が見回りに来たらしい。城管というと、今も昔もその横暴ぶりがたまに日本でも報道されるので、ご存じの方も多いだろうが、やはり旅先でも彼らの仕事を目撃することがままある。
 これは二〇一三年の四川省成都市での出来事だ。私が諸葛孔明をまつる武侯祠や杜甫草堂にほど近い、浣河渓沿いの遊歩道を歩いていたとき、初老の男が一方的にだれかを怒鳴りつける声が聞こえた。そうかと思うと、次の瞬間、何やら黒い物体が大きな放物線をえがいて私の頭上をしばらく飛行し、そのまま数メートル先に落下した。私の前を歩いていた観光客の足元で、ガチャーンという派手な音が響いた。いたって平和な四川の青空のもと、飛行曲線をえがいたのは、なんと大型の中華鍋だった。
 なにごとかと思って後ろを振りかえると、そこで露店商主人と城管による一対一の、筆舌に尽くしがたい大音声の言い争いが始まったのである(鍋を放り投げたのはもちろん城管である)。その喧嘩現場から五十メートル、百メートルと遠ざかっても、なお双方の声が聞こえるというド迫力ぶりだった。
 いや、その城管先生のファイティングスピリットたるや、それだけに留まらなかった。私が同エリアの錦里という名所を小一時間ほど見学して出てきた時にも、露店で焼餅を商う女性、およびその同業人数名を向こうに回し、またもや罵り合い劇場を繰り広げていたのである。よもやと思ったが、同じ職員に二度遭遇したのだ。それが間の悪い特別な日というより、彼の日常業務なのだろうと考えると、その熱量・闘魂・使命感がどこから来るのか、私にはまったく理解できない。傍観者からしても、見ていて気持ちのいいものではない。営業する方にも取り締まる方にも、一定の節度を求めたいというのが正直な感想だ。ただ、怒号飛び交うバトル風景というのが、中国らしいありふれた都市風景と(私の脳に)刷り込まれているのも事実だ。というわけで、消えたら消えたで懐かしく思い出すに違いない、そんな「中国的特色を持った小景」を旅の思い出をまじえてご紹介してみた。

歌って踊ってナンパする柳州のシニアたち

 魚峰公園は面積三ヘクタール超、高さ八〇メートル余りの魚峰山を中心とした、市民憩いの場で、劉三姐伝説の舞台とされる庭園である。入場無料。八〇年代の『地球の歩き方』に「あずま家で若者が時間をつぶしていたりする」と書かれるように落ち着いた時間を過ごせると思ってやって来た。
 だが、ひとたび中へ入って、しかと理解した。ここは中国内陸の三級都市を象徴する、斬新なディスコでありクラブである。青春の楽園と名付けてもよい。
 日曜日の午後。おそらく数千人にのぼるであろう柳州市民が、嬉々としてここへ参集し、どんな過激フェスもお手上げの同時多発的歌謡ショーを勝手に繰り広げているのだった。主役はここでも、パワフルすぎるお年寄りたちであった。
 古典的な庭園らしく、園内には池に奇岩にあずまやに石刻と、風雅な趣(おもむき)を演出するアイテム・ギミックが目白押しである。本来ならば、私も心しずかに散策通路をめぐり、屹立するユニークな岩山を見上げたり、池の魚をとっくり眺めたいところだ。石造りの腰かけでしばし休息し、囲碁将棋に夢中な「仙人風」老人グループのそばで、定番の揚げパンを豆乳に浸しながら食べるのもいいだろう。
 ところが、である。はたして毎日こんな状況なのかは知らないが、明らかに来園者のボルテージがおかしい。
 自前の音響機器を持ち込み、めいめい十八番を熱唱する歌い手(おもに五、六十代の女性だ)と十メートルごとに遭遇する。みんな本当に気持ちよさそうに歌っている。手慣れたものと見えて、振り付けも堂に入っている。そして、この歌手どうし近すぎる環境のせいか、それとも生まれ持ったアピール精神の賜物か。理由を考えるのも馬鹿らしいのだが(多分どちらも正解だろう)、全員が全員あたりかまわず、けたたましい爆音を放出しているのである。音楽に合わせて踊る、男女ペアのすがたも散見される。
 中国を旅していると、日に何度も広場ダンスの集団に出くわす。なんなら、各都市の日常そのものである。若年層を中心に、うるさい、邪魔だなどの批判的な声を聞くこともあるが、今でも広場・名勝旧跡・商業施設・住宅区域、または橋のたもとや幅広の歩道など、じつに街中がダンス(歌声)教室のような状態だ。リアルな等身大世界がこれだから、SNS上の「踊ってみた」動画もべつに奇を衒(てら)ったようには見えないのだ。いや、現実がバーチャルを軽く凌駕していると言ってもいい。
 それを前提としても、ここ魚峰公園の老人たちの弾(はじ)けっぷりは異常だった。チワン族のヒロイン・劉三姐(リウサンジエ)もびっくりの、やりたい放題の歌唱大会だ。うむ、目の前の現実を受け入れるしかない。この「みんなでジャイアン・リサイタル」状態に圧倒され、足が止まっていた私は、とりあえず「狂騒の杜(もり)」を一周してみることにした。
 たいてい、くだんの爆音の歌い手たちを大勢の高齢男性が十重二十重に取りかこみ、やいのやいの歓声を送っている。また石の椅子テーブルでは老人たちがポーカーや中国将棋に興じており、これまた後ろ手の観客が取り巻いている。それから、全国の公園で見かける書道おじさんも大量出没していて、ある者は路上に水で達筆を披露し、またある者は背丈ほどあろうかという赤い紙十数枚ほどを地面にならべ、大作に挑んでいる。一人の書を数十人が見つめている状況はなかなか壮観なのだが、これも園内渋滞の元でもある。盛唐の李白さん風にいえば、ホトホト行路難(かた)し。ただ人混みをかき分け、息継ぎスペースを見つけて進むだけだ。
 園内の人間観察をつづけよう。自分で歌い出しに失敗しておきながら烈火のごとくブチ切れ、相方に再生やり直しを命じている女性もいる。周囲のギャラリーにも殺気をかくさず、準備の最中もガンを飛ばす始末だ。彼女はなんと六、七〇インチはあろうかという超大型モニターを使用している。メンツがつぶれたと思っているのか、一人で感情を爆発させて手が付けられない。
 池のほとりで一番の観客を集めていたのは、少数民族風ラメ入り衣裳を着た女性たちの、歌と踊りのパフォーマンスだった。
 中心歌手は艶(あで)やかな花柄のスカートを穿(は)いた女性で、甲高い声でハイテンポの「茉莉花(モーリーホワ)」を歌っている。後方には四、五人の踊り手が控え、その周囲には花を生けたバケツが並んでいた。二胡やキーボードを弾くサポートメンバーもいた。その場所は南国らしい樹木と石段にかこまれ、自然と野外小劇場みたいな造りになっていた。笑みを浮かべながら拍手を送るお爺さんもいれば、歌と踊りに合わせて手のひらをクルクル返すお婆さんもいる。そうかと思えば、そんなロケーションにおかまいなく、おしゃべりを続けたり、ポーカーに熱中しているグループもある。ただ、各自の姿勢やお楽しみの対象は違えど、その場にいる百名あまりの高齢者たちが、なんとなく演者と池のほうを向いて日曜の午後を愉快に過ごしているさまは、幸福感に満ちた絵になる光景だった。私もどっかと腰を下ろし、そんな手作り公演をしばらく鑑賞していたかったのだが、やはり旅程の遅れが気になっていた。アイヤ無念、後ろ髪を引かれる思いで青空芝居を後にした。
 池や奇岩から離れてみると、曇り空とはいえ、多少明るさを増した、平坦な広場があった。アップテンポな音楽に合わせ、エアロビクスを楽しむ中高年の一大集団がいる。しかし、本格的衣裳の人は一部の比較的若い参加者のみ。男女とも、ただ普段着としか書けないこだわりのなさで、思い思いの演技を見せている。集団の端っこでは、初心者らしい若手が先輩からレッスンを受けている様子も見られた。
 かと思えば、いかにも芸術家といった趣の伊達男がバイオリンを弾いているコーナーもある。民族楽器風のドラムを叩くミニスカート女子をしたがえ、そばにはスマホ四台を設置している。さらに「歓迎点歌」および「招収学生」と印刷された紙も見える。つまり曲目リクエストありの、生徒募集を兼ねた実演なのだ。
 さすがにZ世代は発見できないが、当園のパフォーマーは意外と年齢層が幅広い。
 私が柳州の高齢住民ならば(入園無料でもあるし)週一回はここへ来て、気楽に遊んでそうな気がする。初めは耳をつんざく騒音と人込みに面食らったが、こういう場所は慣れてみると、意外に「自分の居場所(仮)」が見つかるものだ。
 出入口へもどる途中、印象的な別の舞踊集団に出会った。こちらは全員リタイア組と見られる。頭に油を塗りたくった中年男がキメキメのポーズで合図を出すと、キーボード担当者がイントロ演奏を開始。予想どおり歌謡ショーが始まった。すると、周囲の老人たちが一斉にパートナーと踊りはじめ、園内の通路をみっちりと埋めた。先のダンディーな男性に気を取られて気づかなかったが、フォークダンスの一団が控えていたのだ。私は衝突をおそれてジグザクに歩いたが、ちょうど花束を片手にふらふら歩いている一人のお爺さんとすれ違った。振りかえると彼は、激しく踊っている意中の女性に花を差し出していた。まあ、端から見てお互い同年齢くらいに見える。お婆さんは意表を突かれて笑いだし、アラ嫌だあ、なんて反応を見せているが、まんざらでもなさそうだ。
 通りすがりの私にとって、なによりお爺さんがニコニコ顔で底抜けに明るいのが非常にまぶしく感じた。予期せぬ光景に、思わずこちらが心を奪われてしまった。

牛河とおばちゃん

 さて退園前にもう一食。おやつに選んだのは、牛河という中国南方の焼ききしめん。
 広州石牌路でも食したのを覚えておいでだろうが、柳州に来たらこれを食べないと始まらない。そんな因縁が私にはあった(ごく個人的な思い出にお付き合いください)。
 今から二十年以上前の旅のこと。広西・南寧から寝台バスで桂林に向かう途中だ。真夜中、バスが街道沿いのとある小屋の前で停車した。乗客みな下車させられて、運転手ともども、その半野外の食堂で牛河を食ったのである。醤油ベースの甘辛味で、ぼくは貪るように麺をすすり一皿を平らげた。大学時代、ベトナムと中国華南を横断する三週間旅行の中盤だった。それまで中越両国で、腹をくだしたり路上で倒れ込んで動けなくなったりという、よくあるトラブルを何度か経て、ちょうど身体が大陸に馴染んだ頃だったのだろう。油まみれの黄金色した米粉と肉野菜の具が、ソレとばかりわが臓腑に飛び込み、みなぎるパワーを与えてくれた。
 そこは決して街中というわけでもなく、あたりは真っ暗、街道はガタガタ。賊や虎が出ても驚かない僻地(へきち)に思えた。そもそも、ここが柳州市だという確かな情報があるわけでもなかった。ただ乗客の誰かがぶっきらぼうにリウジョウだ、リウジョウだと言うので、そうか柳州かと思って曖昧な記憶フォルダにそう仕舞い込んでいるのである。屋外の調理場で大鍋をふるう男の姿と、ありえないほど豪快に吹き出す炎の影とが、今もぼくの脳裏に焼きついている。たよりない位置情報とともに、おぼろげな夢のような出来事として。
 広西やベトナムの名物卵にも出会った。アヒルの卵を孵化寸前まで温めて調理した、見た目グロテスクな当地のソウルフードだ(閲覧注意の品です!)。牛河を食べ終わり、ふたたびバス車内でうたた寝しながら、私たちは出発を待っていた。すると、地元のおばちゃんが突如、メロディアスな売り声を発しながら、車内をずんずん進入してきた。そうして、ほぼ水平姿勢で寝そべる無防備な乗客たちがそれを迎えるという形である(非常にせま苦しい、縦三列の鉄パイプ製寝台バスだ)。
 寝ぼけた頭にパンチの利いた売り声がガンガン響いた。いいからもう寝かせてくれ。ぼくたちは海の向こうからやって来たひ弱な学生だ。そんな卵はムリムリ、食べられないよ。疲れと眠気のため拒絶するパワーもなく、頭上で飛び交う丁々発止の売り言葉買い言葉をやり過ごしながら、ただ為すすべなく、ひたすら耳を塞(ふさ)いで彼女の退出を待ったのを覚えている。これは柳州の悪夢として記憶される、九八年春休みの思い出である。
 というわけで、(グロテスクな卵の話はさておき)柳州といえばまず牛河を食べなくてはならない。そう期待していたところ、意外と早く出会ったのである。
――炒牛河。四元(現金支払い)
 はじめ、リヤカー上の調理風景とそれを取り巻くお年寄り数人を写真に撮っていたら、よく日焼けした女主人が血相を変えて怒りだした。それは無理もない。私が悪いのだ。さっき城管らしき者がやって来て、一度退散した直後でもある。向こうにしてみればデリカシーがなさすぎる。すみません、すみませんと謝った。
 それからリヤカーの前面に進み出て、ひとしきり調理風景を観察した後、一皿注文した。その頃には、おばちゃんの顔から怒りは消えていた。それも道理だ。「平和な時間」に少しでも多く売りさばきたいのだ。一皿一皿が戦いなのだ。客としては邪魔をしない、無駄なおしゃべりもしない、言ってみればそれがマナーだ。
 ふた付きのプラスチックトレーに盛られた炒牛河は、食欲をそそる正統な甘辛味。脇を固めるネギ、白菜、カリカリの豚肉ら具材の食感もよく、唐辛子の欠片を避ければ一口ごとに箸を動かす手が加速し、あっという間に平らげてしまった。大いにくつろぐ柳州市民に囲まれ、奇岩の麓(ふもと)で立ち食いする牛河は美味かった。広州で食べた麺は薄くて油をまといすぎ、すぐ飽きが来てしまったが、こちらはややコシ弱めのうどんのようである。これなら毎日でもいけそうだ。しかも早くて安い。最高の一皿だった。
 結局、魚峰公園には約五十分滞在した。

眼下に広がるザ・龍城

 柳州ならではの絶景を楽しむため、魚峰公園と隣接する馬鞍山へ。山上での水分補給に備えて売店に寄る。
――ペットボトル飲料二本。十元(現金払い)
 あっさり現金OK。しかも二十元札を出して、地味に釣銭をもらっておく。
 馬鞍山にはエレベーターがあり、二〇元で頂上まで上(のぼ)れると聞いていた。ところが、現地に到着すると、これが故障中だという。復旧は未定。しかも明日は休業日。
 うーん。馬鞍山からの眺望は、私にとっては柳州最大の見どころといってもいい。柳江がU字を描いて悠然と流れ、その壺型の内外にみっちりと市街が形成されている図。これを断崖絶壁の頂上から、なんとしても見たいのだ。
 私は登山道のとば口で暫時逡巡したが、先ほど購(あがな)いしキウイ果汁を一口、二口すすると、意を決して石段を上り始めた。こうなれば、二日連チャンの山登りも没問題(メイウェンティー)だ。
 だが、さすがに骨が折れた。海抜二七〇メートル(市街は同一〇〇メートル程度)、所要時間は通常三十分と言われている。私は急傾斜の階段を三分上っては二分休み、喉が渇けば清涼飲料をゴクゴク飲み、後ろに健脚の人いれば請先走(チンシエンゾウ)(どうぞどうぞ)と先を譲り、途中に洞窟・石窟あれば興味ありげに日陰で涼み、時には絶景と感じなくても記念写真を撮り、そうして終始インナーマッスルへの負荷を制御しつつ、徐々に徐々に位置エネルギーを獲得していった。
 不退転の決意をひどく後悔しながら石段を上りつづけ、とうとう午後五時十分ごろ、私は頂上の展望台にたどり着いた。
 頂上付近ではドローンを操作する若者なぞもいる。上空風も強いだろうにピタッと安定した飛行を続けていたところは、はたして機体性能が良いのか彼が上手なのか。どちらにせよ、一昨日の自分のドタバタぶりとは雲泥の差である。いや、たとえ練習慣れしたからといって、高価格のドローンを切り立った山頂で操縦しようという、その勇気と外連味のなさがスゴいと思うのだ。だいたい彼が立っているのも細い階段の途中で(およそ一人ぶんの幅)、安全に着陸させる場所があるのかどうかさえ私には分からない。もし私がこんな場所で操縦したら、そりゃ山中に墜落させて見失ってしまうか、登山客の頭にコツンと衝突させるかのどちらかだ。
 さて、山水画を地でゆく黄山・武陵源・桂林など、世界的景勝地は中国国内いくらもあるが、柳州は中国カルストの名所の中でも奇抜な特徴をもっている。馬鞍山から北を見下ろせば、西南の注目株、三級都市・柳州の発展ぶりを、土地の象徴たる柳江の力強い蛇行ぶりとともに一望できる。眼下の南岸には低層の住宅地、商業地が這っているが、いずれは再開発されて両岸競うがごとく、発展を遂げることになるのだろう。そう、柳州の異名「龍城」にふさわしく。
 ところが、先にご紹介のとおり南を望むと、これが見渡すかぎり山、山、山。一体どこまで続いているか分からない。かといって、馬鞍山を境に街が途絶えているのではない、百ないし二百メートル級の地面の隆起の間に、これまた低層住宅や高層ビルがにょきにょき地べたを覆っているのである。
 山、谷、ビル、山、山、谷、高層ビル。この不規則な連なりを三次元でイメージしていただければよいかと思う。先に山と町が混じりあい、リアルとファンタジーが交錯すると書いたが、この絶景を俯瞰していると、もはや喩える言葉さえ失う。もはや「柳州的」としか言いようのない、まったくユニークな3D都市なのだ。上空は雲が立ち込めている。でも、それがかえって柳州という町の神秘や底知れないパワーにマッチしているようにも感じられた。 私は、登山を終えたあともエネルギッシュに動き回り、盛んにしゃべりたおす周囲の観光客に囲まれていた。広東や貴州よりも方言話が多いことにも、今さらながら気づく。
 相変わらずドローンは、いつまでも山頂上空を遊覧していた。操縦している彼の心も、それを見上げている女の子たちの心も、きっと空を飛んでいるのだろう。
  ひとしきり天空に遊ぶ若者たちを残して、私は地べたの世界にもどることにした。下山後は柳江方面へ歩きだす。沿江公園でダンスや釣りに興じる市民や、歌を愛する少数民族の像を眺め、それから暮れなずむ柳北地区を目指した。柳江大橋を渡っていると、南岸には遠く柳州文廟、蟠龍山公園の夜景がぼうっと見え、対する北岸では、奇異な形をしたビル群が多彩な電飾を浴びて顔色を変えながら、前方にでんとそびえていた。
 ただ個人的にどこへ行ってもそう感じるのだが、中国のド派手な夜景というのは文化・商業施設や名勝旧跡が「映え一辺倒」で自身を照らすために、ひとたび視界全体を意識すると逆に夜空の暗さに気づかされ、一抹の物寂しさとか哀しさを浮かび上がらせるのである。まあこれは、歓楽街やコンビニなどの明るすぎる照明、あるいは暗さを忌避するような万遍なきイルミネーションに慣れてしまった、東京人のしがない感想にすぎないのかもしれないが。

静粛な会員制書店とざわめく地下街

 午後六時二十分頃、U字をえがく柳江の北、つまり壺形市街の内側へとやって来た。
 EV車が大量に停車する小南路をすすみ、それから中山中路を歩いて柳州商場へ入る。ここは一九八七年開業の低層ショッピングビルだ。星形にハート形、さらにクリスマスツリー形の電飾が壁を埋めつくし、なんだか街路に置かれた巨大な宝石みたいな外観だ。ここでのお目当ては、最上階にある会員制書店である。これも地図と口コミアプリで探し当てた店で、その名も「第三空間書バー(バーは口へんに巴)」という。
 館内は隙のないデパートという趣で、一階には宝飾店や外国ブランドが入り、上階は主に女性ファッション売場。五階はその書店と中華料理店と飲茶カフェ、そして写真館が営業していた。
 当の書店はガラス張りで、さりげなくヘッセ、カフカ、ドストエフスキーの肖像画が貼られていた。入店すると、超低音量のピアノ曲。三、四名の女子がしずかに本を読んでいる。だが、店員がいない。これは残念な状況だ。
 そもそも私には現金しか持ち合わせがなく、またきっと会員にもなれないだろうから、少しく見学できればそれでオーケーなのだが、なんとか椅子に座ってラテでも飲めないだろうかなどと、ここまで来れば欲が張るのである(カウンターには一六元から三九元までのドリンクメニューがあった)。
 私は店内を探検しながらスタッフの戻りを待った。入口側には、一面のガラスに沿ってテーブルとソファーが一列にならび、一人客とおぼしき女性がめいめい着席している。無垢の木の書棚が二面を覆い、レジ周辺ではトートバッグやゆるキャラグッズなどが陳列されている。向い合わせのカウンター席もあって、中央の仕切りには金の角を生やした鹿のオブジェが三頭、澄まし顔でたたずんでいる。
 科学・歴史・文学など、本のジャンルはさまざまだが、やはり日本の書籍が目立つ。川端康成・太宰治・三島由紀夫・村上春樹・東野圭吾らにいたっては、専用の仕切り板があるほどだ。
 また中央のおすすめコーナーには、上野千鶴子、石黒一雄(カズオ・イシグロ)の作品がディスプレイされていた。イシグロ作品はくりぬきが施されたおしゃれな表紙で、とくに目を引いた。ちなみに五年前、上海の言几又という書店では英中併記のカズオ・イシグロ作品も何冊か目にしたが、こんなところも中国らしい気がする。日本で日英併記のイシグロ本はまだ見たことがない。それから、『中国妖怪』、『中国詩人』、『中国畸人』と色違いのおしゃれなシリーズがあるなと思えば、これは陳舜臣氏の著作の翻訳。中国では初めて出会った。
 特価本には「買三送一」のポップも見られ、つまり三冊買うと一冊プレゼントなんてことをやっている。市街には安売り店もあるし、わりと柔軟な売り方があるもんだ。それと、先ほどの海外文豪たちの肖像は、当店の朗読会イベントと連動した装飾らしいことも、店内掲示板から知れた。講演会や朗読会など読者を呼び込む工夫は、中国各地の新鋭書店でも旺盛に試みられているようだ(七年前に蘇州の人気書店をのぞいたところ、当時話題となっていた『我不』の著者がゲリラ的に公開講演をおこなっていて、偶然居合わせた客たちの熱気を目の当たりにしたことがある)。
 結局店員とは出会えず、内部見学のみでラテにはありつけなかった。
 今回は行きそびれたのだが、広州の宿泊ホテルそ付近にも同様の店があったし、じつは四級都市・梅州の新市街の横丁にも、私は二十四時間営業ブックカフェを一軒見つけていた(残念ながら後者は前年閉店してしまった)。口コミによると、やはり自習室の用途で利用されることが多いようだ。話題の大型おしゃれ書店もいいが、今後も機会があれば様々な形態のブックカフェを訪れ、地元客の利用シーンを観察してみたいと思っている(そのためにも諸中華アプリを準備しておく必要がありそうだ)。
 なお、柳州商場には一階にスターバックスの臻選店(高価格路線の店舗)が出店していて、このようなところにも、大手チェーンの「内陸部三線都市への熱視線」を感じるのだった。
さて、デパートを退館し、歩道へ出ると、早くも次なるダンジョンへの入口を発見した。地下鉄入口のような階段に、極太明朝体で「龍城地下商場」の赤きネオンが光を放っている。
 今日はなにか「地下」に縁がある。ここも地底のローカルな「魔界」にちがいないと、私はそう踏んだ。なんといっても、旅先で偶然見つけた地下空間ほど、探検気分を煽られる場所はない。ディープな収穫を期待して、喜び勇んで階段を下りた。
 地下階の透明の分厚いビニールカーテンをくぐると、各店舗が気ままに流しまくる、アップテンポのBGM群に取り巻かれた。しかし、その内部はごくすっきりした印象の、いたって健全な地下街だった。婦人服、靴、帽子、ジーンズ、スポーツウェア、薬局とありふれたラインナップが左右に連なり、しかも同じ名の靴屋が三度四度と繰りかえし現れるなど、意外性や面白みには欠ける。そもそも、それら店舗に目下急用があるわけでもない。
 けれども、現代的な商業空間が、先のデパートから地下にまで継続・延伸されているような情景は、「魔界」への期待と裏腹に、大きなギャップとして楽しめた。この地下街、さして高級感はないのだが、全体の造りも各商舗も小ぎれいな印象である。また、すれ違う柳州市民のほうも、ごく普段着ながら、みな垢抜けていて自然体なのだ。それは私には、万達広場や万象広場のような全国規模の商業モールの出店と定着ぶり、あるいはマクドナルドやケンタッキー、それから中国各地から日本へも広がりを見せるデザートドリンク店の浸透ぶりと無関係ともいえぬ、すべて地続きの現象のように感じられた(なぜかというに、それは短時間ながら一筆書きで、このような洗練具合をまさに三級都市で発見・体感しているからに他ならない)。
 この地下街に立ち入るときも、前述のとおり「魔界」を想像していたが、よりディープな世界を当地に期待するなら、はるか前に来るべきだったのかも知れない。あるいは、いま三線都市がこのような開発・発展状況だというなら、それこそ今後は四線都市・五線都市に目を向けるべきだともいえそうだ。
 帰国後に検索すると、この地下街は二〇二〇年に開業したばかり。広西チワン族自治区創立五〇周年記念のプロジェクトのひとつで、長さ五一二メートル、総敷地面積二・八万平方メートル。省都・南寧を差しおいて、自治区内最大規模を誇るという。
 ちなみに、テナント物件紹介サイトを覗くと、一軒の服飾系店舗が二四平米、八五万元(一七〇〇万円)で売られていた(五八同城、二〇二四年三月)。柳州でのビジネスにご興味のある方は、問い合わせてみるといいかもしれない。 

荊州のショッピングモールで考えたこと

 五年前に同等級の三線都市・荊州を旅したときにも、私は『三国志』で名高い古城の昔ながらの街並みと、少し離れた現代的な商業モール「万達広場」を同日におとずれ、頭の中がこんがらがった覚えがある。とても同時代に共存するとは思えない光景が、荊州城の内外に見られたのである。
 ちなみに、万達広場は全四百にもおよぶ店舗網を誇り、近年は地方都市への出店も加速している。荊州店は、口コミサイトでは二〇一六年以降の投稿が確認できるので、それと近い時期にオープンしたと推測できる。寸法はざっと南北二〇〇メートル、東西二四〇メートルほどだ。
 熱気ある屋外ライブ会場を横目に入店すると、内部は定番の中空吹き抜け構造。エスカレーターで移動しながら、館内をぐるぐる歩かされる仕掛けになっている。マクドナルド、ケンタッキー、スターバックス、必勝客(ピザハット)とおなじみの顔ぶれに、ユニクロ、カルバン・クライン、ラコステ、リーバイス、そのほか台湾系スーパーの大潤発、香港系ドラッグストアの屈臣氏(ワトソンズ)が入居し、カラオケ店もシネコンも併設されていた。
 店内の照明や広告看板はごく洗練されており、フロアを周遊する客のほうもこざっぱりとして活力が感じられた。広い通路をめぐらせてスッキリとした店内は、バックヤードの存在を感じさせず、また吹きだまりっぽい地帯がない。視覚的・空間的によくできたテーマパークであった(垢ぬけた江南都市と何ら変わらない)。昼間に散策した古城とその城外の雰囲気からはとても想像できない、完全に異質なキラキラ空間がそこにあった。もとより地元市民にとっても、待ちに待ったランドマーク到来といえるだろう。これなら、どの都市にもひけを取らない。しみじみとそう思ったものだ。
 日本人からしてみても、まず荊州といえば長江中流域の港湾都市、そして楚国遺跡と関羽と城壁といった輪郭やイメージがあるだろう。だが、今や高速鉄道が停車するようになり、さらには全国ブランドのショッピングモールが来襲して地元に落ち着いたとなると、この内陸の町もいよいよ怒涛の均一化の波に乗ったといえるのかもしれない。そう感じた。ぼくは地元民でもないし、彼らの内なる消費欲や社会心理についてはよく分からない。とはいえ、旅先の地方都市でこんな親しみやすく、心躍る商業施設に出会うと、いよいよ中国人の消費行動が新しい型に収斂(しゅうれん)され、全国的にスピードを上げて研ぎ澄まされていくんだなあと予感して、そこに淡い興奮をおぼえるのである。
 かつて、艾敬(アイジン)という中国・東北部出身の女性歌手が「私の一九九七」という曲で、返還が待たれる香港へのあこがれを歌っていた(彼女が広州に住み、彼氏が香港にいるという設定だ)。ヤオハンってどんな服が売ってるの? 私を香港コロシアムで歌わせて! 素朴な旋律と歌詞が中国・台湾で人気になり、日本でも彼女のアルバムが売られた。ぼくは高校生のときにそれを買った(一九九四年のことだ)。
 香港のようすを知らない当時のぼくは、ふーん、大陸と香港ではそんなに違うのかあ、いつか自由に行き来できるといいよねえ、などと十代なりの雑駁な感想を抱いたものだが、のちに香港でおしゃれな巨大モールの存在に驚かされたり、また中国の旅先で次々に香港風または日本発の商業施設を発見・体験したりするうちに、なんだか以前艾敬の訴えていた夢を早くも現実が超えてきたぞ、と激しく狼狽(ろうばい)させらされるにいたった。
 ぼくは子供時代から、現地の風景の一片一片しか見ていないとは承知しているけれども、最初はトコトン地味で控えめ一辺倒に映った中国が、九〇年代半ばから貪欲に日本や香港の空気やセンスを取り込んで変身してきたことに、今度はすっかり呆然とさせられたのであった。今ではスタバや無印良品やユニクロが各都市に定着し、そればかりでなく、各社の推す企業理念や生活スタイルみたいなものまで、瞬く間に中国社会に浸透しているとさえ感じられる。まるで日本のマクドナルドが日常風景に溶け込み、今やぼくたち自身の一部だとも感じられるように。あるいは、まるで我々が苹果(アップル)や谷歌(グーグル)や微軟(マイクロソフト)から与えられた価値観・世界観をごく当たり前のように共有し、毎日を生きているように。
 実際のところ、現代人はかような商業モールで日常的に、大量のメッセージを受信したりマッサージを施されたりしている。(一)五感を大胆に刺激し、(二)個性をほめそやし、(三)豊かさを確信させてくれる。そんな施設の存在は忘れがたく、離れがたい。誰だって心地よいマッサージを受ければ、きっとそこへ再来したいと願うだろうし、その場にふさわしい作法を身につけたいと考えることだろう。家族で来ようとなれば夫婦・親子で一定のマナーを共有するはずだし、逆にもし外出先で粗暴な人間と出会ったなら、今まで以上に疎(うと)んじたり軽んじたりするに違いない。
 そこに、おそらくは中級都市の市民が大都市人民にキャッチアップしたいと望む気持ちも重なり、彼らはいっそう自分たちを「洗練された消費者」へ仕立ててゆくのではないかと想像するのである。
 つまり、北京や上海にいても荊州や柳州にいても、変わらず享受・観察できる商業上の仕掛けや雰囲気を、いま旅の途中でぼくも「普通に」味わっている。そうした実体験を通して、彼ら中国人の生活全般にわたる時間的・空間的な変化の厚みというものを、まざまざと見せつけられた気がするのである。

トレンディな本場のタニシ麺食堂

 地上に帰還すると、そこは五星商業歩行街だった。どこかで、聞き覚えのある音楽、ジャッキー・チェン主演映画「MYTH 神話」の主題歌が流れている。
 歩行街とは、つまり歩行者天国をウリにする商業エリアである。北京の王府井、上海の南京路、瀋陽の中街、武漢の江漢路、重慶の解放路あたりが有名か。二〇〇〇年代から中国各地の目抜き通りが、そのような繁華街に生まれ変わっている。旅行者が周遊すれば、必ず歩行街にぶつかる。本当に雨後の筍のような増殖ぶりなのだ。
 さあ、いよいよ夕飯である。これから「新月螺(ルオ)シー粉(フェン)」という人気店で、例の柳州名物をいただく。東京都内での「予習」、および広州での「試食」を経て、本旅行のメイン行事の一つといっても過言ではない。
 歩行者天国の一本裏道、電気自動車ばかりが往来している緩い坂道の途中に、その店はあった。雑居ビルの二階に「新月螺シー粉」に「喜嵐螺シー粉」と二軒の同業者が店を構えていた。さて、不動産オーナーは無類の異臭好きか。それとも滅法臭うからこそ、いっそ複数店入居させてしまえ、という心意気(または諦念)なのか。
――二両螺シー粉。一〇元(現金払い)
 スマホがないことを伝えても、「大丈夫だ、気にするな」と快くOKしてくれた。
 店内は天井なしのスタジオ風。床はコンクリートむき出しだ。テーブルは黄色とスカイブルーの二色が基本、椅子はといえば背もたれ付きはわずかで、大半は踏み台のような黄色のプラスチック製(なんだかお風呂場感覚だ)。さらに壁面には路上アートのごとき、手付きのイラスト。口コミ上の若者人気から、もともと清潔かつクセのない店内環境を思いえがいていたが、ポップでカジュアルな雰囲気は想像の上をいっていた。いまは八割ほどの客入りだが、最大八十人くらいは収容できそうだ(なお客入りは八割ほど)。厨房部分はガラス張りで全部丸見え。四十代とおぼしき小柄な男性がレジ――彼が老板(ラオバン)=経営者か――、あとは揃いの茶系の帽子に黒シャツ着用の女性従業員、五、六人が立ち働く。
 客層はここも二十代が中心。そして、撮影に夢中なユーチューバー、インスタグラマーのような者もおらず、みながみな、上品に麺をすすっている。もちろん会話も小声だ。
 ほんの数分で私の麺が出来上がった。ステンレスの丼に盛られた螺シー粉とカウンターで対面する。なかなか「香る」一杯だが、もう慣れっこだ。
 さっそく端っこのテーブルで実食。具材は本寸法で、豆腐干、酸笋、青菜、キクラゲ、そしてネギにピーナッツだ。ここでも微辣(ウェイラー)と注文したが、私にとってはそこそこ辛かった(スープは辣油(らーゆ)を濁らせたような色をしている)。とはいえ、私はもうこの味のバランスに慣れつつあった。
 今回は初手から酸笋にかぶりつき、スープと共に流し込んでから、至高の一杯に取りかかった(確認しておくが、たった二百円である)。豆腐干は揚げた乾燥湯葉と思っていただければよい。スープを吸ってもしなびず、主張を怠らない。キクラゲは言うにおよばず。青菜とネギは食感のアクセントとしてはもちろん、周囲になじんでスープに優しい風味をもたらす。そして時々顔を出す、変わり種のピーナッツが箸休めにちょうどいい。私としては、やはり米製の柔らかい麺だけが浮いた存在のような気がするのだが、どこまでもつるつるで喉(のど)越(ご)しがよいので、そこは無理に他の具材と合わせないのが吉かもしれない。なので別建てで、スープのお伴という位置づけでいただいた。
 余談だが、螺シー粉ブームと、ご当地グルメをめぐる中国人の個人旅行については、こんな日本語記事も出ている。
――「『タニシ麺』が柳州市の観光人気の火付け役に 「逆張り旅行」楽しむ中国のZ世代(人民網日本語版、二〇二三年三月七日)
 なにやら不思議な現象だが、今やその感性がまったく分からないともいえない。
 螺シー粉は、酸っぱさと辛さとタニシの出汁が溶け合い、食材の多彩な味や食感が楽しめる。そう、共感されるかどうかは未知数だが、タイ料理のトムヤムクンと同系統の食べ物と私は認識している。たしかに初めて食べるにはハードルが高い料理だ。凶暴な変わり種である。だが見方を変えれば、味・うま味・食感といった総合力を兼ねそなえた逸品だと思えるのだ。デメリットを上回る旨さに気づけば、だれしも手放せなくなるに違いない。それどころか、この盛況ぶりを見ていると、そのうち老舗やニューカマーがしのぎを削(けず)る、螺シー粉博物館なり螺シー粉横丁といった施設がお目見えしそうな勢いである。
 そしてまた暴論かもしれないが、意外と日本人の舌に合うのではないか、とも心の中では思っている。過去の中国旅行で食事にまつわる無数の失敗を経験した身からして、螺シー粉は比較的安パイなのだ。
 まあ、あとはブームの行く末を温かく見守るとしよう。

紅茶とマックと新華書店

 さて、ここまでガチ中華を礼賛しておきながら、読者を豪快にズッコケさせてしまうかもしれないが、私はこの後、五星路沿いのマクドナルドに入店、コーヒー一杯のつもりが、ついついバーガーセットを注文して長居してしまった。
――安格斯培根堡、麦香鶏、薯条、可楽。六三・五元(現金払い)
 アンガスベーコンバーガー、ナゲット、ポテト、コーラ。ちなみに、メニュー上では五〇元だったこのセット。ところが、これはスマホ決済の場合の「通常価格」で、現金払いだと二割以上も割増になるのだった。誠におそるべきキャッシュレス社会である。
 店内はというと、強気の高価格設定にもかかわらず意外と賑わっている。しかも、みなさん脱力感たっぷりで、柳江南岸・北岸で感じた空気そのまま、つまり特別リッチな感じというわけでもないのだ。マックといえば、二〇〇〇年以前はピザハット同様に少し高級な外食チェーンという位置づけだったが、それもずっと昔の話だ。
 コーヒーをすするおじさん一人客、お年寄りと孫、おしゃべり好きな少女グループも散見されるが、主たる客層は卓上にポテトやバーガー類を積み上げながら、それらを放置してゲームに明け暮れる若者である。長い足を投げ出したり、テーブルに突っ伏したりして無言でスマホを操作しているところなんざは、もはや日中共通の光景である。
 つづいて、ミルクティー専門店にも立ち寄った。
 看板から店内まで白を基調とし、そこへビビッドな青のロゴや文字を差した、スタイリッシュな構えだ。隅々にまで「映え」が強調され、これは場違いなところへ来たかなと、ちょっぴり気後れしながら入店。しかし、店員さんはみな、ごく物腰柔らかな好青年風で、現金払いも快く了解してくれた。よしよし、スムーズな展開だ。
――老紅糖珍珠ない茶(ないは女へんに乃)、一三元。(現金払い)
 柳州に来てから七、八時間が経つが、現金を拒絶されるシーンがほとんどない。それどころか、地元・柳州っ子の人懐っこさや融通の利く対応に、だいぶ助けられているなという印象だ。
 一度便利なアリペイ払いを覚えてしまうと、今度はファーストコンタクトで「現金でもいいか」と問うのが面倒だし、何となく痛々しく感じてしまう。ところが慣れてくると、どんな場面でも自然とフランクに話しかけていた、以前の中国旅行に戻るだけだ。柳州へ来てから自然と会話が増え、ますます楽しい一人旅になってきた。
 そう、昔はホテルでも鉄道駅でも食堂でも、何事も大声を出して自己主張しなければ、なかなか意思疎通のスタートラインにも立てず、旅を進められなかったものだ。最近はよけいなエネルギーを消費する必要がない(その代わり対人関係も淡白になりがち)。
 最後に五星歩行街でもう二軒、立ち寄った。
 まずは七階建ての新華書店。閉店間際に滑り込み、二種類の柳州地図を購入。
――柳州経貿交通旅游図。一一元
――柳州螺(ルオ)シー粉(フェン)手絵図。一二元(共に現金払い)
 普通の折りたたみ交通地図と、市内の螺シー粉店が紹介されているイラストマップである。ここ十年来だろうか。観光需要の高まりのためか、かわいらしい名勝旧跡地図を各地で見かけるようになったが、ご当地グルメがここまで推されている例はまだ少ないと思われる。
 次に、全世界に三千店舗を展開する(日本進出は二〇一七年)、台湾発ドリンクスタンド「CoCo都可」で、一品テイクアウト。
――ホット鮮芋青カ(カはのぎへんに果)牛奶(ないは女へんに乃)。一五元(現金払い)
 要するに淡い紫色をした芋シェイクである。タピオカミルクティーと合わせ都合二本、ビニール袋でぶら下げて柳州一の繁華街を後にする。車中から夜景をながめながら、柳江南岸の宿に到着。
――タクシー(五星歩行街~怡程酒店)。八・八元(現金払い)
 四日目の街歩きはここで終了。歩数は「二七〇八四歩」とカウントされていた。
 私は柳州の夜景を見ながら、二種類のドリンクを贅沢な気分で飲んだ。紫芋のほうは、ストローの位置によってサクサクした芋の食感が楽しめたり、繊維質が強く味わい深いシェイクをごくごくイケたりと、なかなか満足度が高かった。タピオカは特大サイズだった。甘さひかえめの口当たり良きミルクティーで、結果としては存分に現地のトレンドを満喫した。

胃に優しい夜明け前のかぼちゃ粥

 さあ、中国街歩きの最終日。
 なんだか連日無茶をしているようでいて、ふしぎと体調は万全だ。
フロントで荷物を預け、昨日の谷埠商業城と魚峰公園のあいだを歩くこと五分。ここに、朝市で知られる谷埠街小吃街がある。日の出の遅さを考慮し、今日の散策はここからスタートさせる。
 といっても、まだほの暗い市場通りは、どの店も朝の支度の真っ最中だった。しかも飲食店は少なく、豚や鶏をさばく食料品店がメインだった。まさか、活きのよい鶏をその場で絞めてもらったり、豚の頭やら、脚やらを担いだりして旅をつづけるわけにはいかない。だが道幅の狭い通りには、トントントンと鳥獣の肉や骨を叩く音が、間断なく響いていた。話し声は少ない。そして時たま、バイクやリヤカーが静かに私を追い越していく。靄(もや)の中、朝っぱらから飲食店をさがす旅が続いた。
 結局、支度途中と見えた一軒の軽食屋が開いて、めでたく私は朝食にありつくことができた。「壹壹看溢糖糖水輔」という店名だった。
――南瓜小米粥(小)。三・五元(現金払い)
 皮蛋痩肉粥、豆花、さらに螺(ルオ)シー粉(フェン)まで料理名が並んでいたが、無難な選択をした。早い話が、カボチャスープのお粥だ。これが温かくて甘くてサラッとしていて、意外にもデザート感覚でいける朝食だった。時間帯や腹具合からして二杯目やビッグサイズには手が出せなかったが、日を改めて数種類試したいくらいだ。老夫婦のなんともいえず素朴で優しいたたずまいもまた印象的だった。食事したのは厨房脇のステンレステーブル。椅子はプラスチック製で上が曲面、つまりお風呂用だった(妙にアットホームに感じたのはそのせいかもしれない)。暗くて寒くて、靄のかかった朝が、少しく和らいだ。
 小吃(シャオチー)街には二十分ほど滞在した。どの店も、陳列台兼まな板上の品が充実してきた。道を引き返すと、鶏や豚の各部位がきれいに並べられたり、バーナーで炙られたりと、着々と下準備工程がすすめられていた。包子(パオズ)店では、中学生女子が数名たむろして中華まん(〇・五元から二元)を選んでいた。
 次にここから、柳州有数の名勝・龍潭公園をめざす。
 谷埠路で一台の空車をゲット。いや、前面には「有客」の文字が表示されていたが、運よく停まってくれた。中国では先客がいようとも、相席・同乗かまわずとなれば気前よく乗せてくれることが多い。つまり、状況と交渉しだいなのだ。例のごとく先に確認しておこう。
「現金しかないけどいい? 龍潭公園までね」
 おとなしそうな中学生女子が一人、後部座席に乗っていた。私が助手席に乗りこみ再発車すると、二ブロックくらい進んだところでその子が、
「師傅(運転手さん)、わたしここで降りる」
そう言って、料金も払わずに駆け出していった。なんだか状況がよく呑み込めない。私が訊ねようとすると、一瞬早く運転手が問うてきた。
「お前さんはリーヤオだろう」
「リーヤオ?」
 はて、誰のことだろう。リーが「李」の発音と声調だったため、てっきり人名だと思った私は、リーヤオ的音韻の漢字を思い浮かべた。李瑶、それとも李姚? なんだか女性っぽい名だけど、そんな有名人がいるのだろうかと。しかも私に似てるのか?
「お前さんはリーヤオ的だろう」
 運転手は繰りかえした。
「あっ、旅游(リューヨウ)ってこと?」
「そうだろ、リーヤオだろう?」
 なんだ。つまらぬ勘違いだ。声調はかろうじて同じだが、彼の話す(おそらく広西方言)は普通話とはだいぶ別モノらしい。その後も気さくに話しかけてくれるのだが、ほとんど何も聞き取れない。
「さっきの女の子は乗せたばかりだったんだ」
 それだけなんとか耳に入ってきた(がんばって普通話で話してくれたのかもしれない)。その時、運転手はおもむろにメーターを倒した。まさか二人ぶんの料金を払わされては敵わないと思っていたが、このタクシー、のろのろ運転といえど、実際は途中まで料金なしで進んでいたのだ。なんともユルい営業をしているものだ。
 クルマは古そうな市街地を縫うように走った。途中たびたび、家々のすき間からせり上がった見事な絶壁が、突如ありえない画角で視界に現れてはすぐに消えていった。私は窓に接するぐらい顔を近づけて、そんなワイルドな地形を目に焼きつけた。
 運転手は終始ごきげんな表情でハンドルを握り、ときどき聞き取れないおしゃべりを続けた。会話はまるで通じないが、彼も私も笑顔が絶えなかった。
 七時四五分、クルマは龍潭公園の北門に到着した。
――タクシー(谷埠路~龍潭公園)。一五・二元(現金払い)

奇岩と聖なる行進者たち

 龍潭公園は、噂にたがわぬ大絶景だった。
 湖をとりまく奇岩・石刻・風雨橋(トン族風味の屋根付き橋)など、見どころが満載。つい「カルスト地形、万歳!」を謳いたくなる公園だ。きっと「ブラタモリ」好きにはたまらないロケーションだと思う。しかも、なんと無料だ。
 ふたたび東京で喩えるならば、いわば山手線の外側へ出るとすぐに、霧深い仙人の棲みかがひょっこり現れると。大体そのような感覚である。柳州はあたかも、人間界と仙界がとなり合っているがごとき町なのだ。桂林の世界的人気の陰にかくれ、黙々と工業都市として役割を演じてきた当地。だが、地元グルメの流行に加えて風光明媚な山水の景色も格別となれば、SNSの拡散力と旅行スタイルの多様化で、今後はさらに知名度をランクアップさせてきそうだ。
 公園はおよそ二キロ四方の広さがある。私は中央の湖を一周して、名所をさらう最短コースを選んだ。観光客のおしゃべりやハイカーの息づかいを聞き、たびたび出現する奇景を楽しみながら歩いていたのだが、途中けたたましい音楽とともに私を追い抜いていく三十名ばかりの集団がいた。曲名は「解放軍進行曲」。一列になって前進するのは、揃いのジャージを着た中高年の女性たちだった。ヘッドセットを装着した女性が一人だけ様になるフォームをしていたが、あとの方々はそれぞれ、年齢なりの歩き方だった。
 市内イベントの準備か、それとも健康増進サークルか。ただ、そういう光景をふしぎともなんとも思わなくなるのが、中国独特の「空気」かもしれない。あたかも、京は清水の舞台、上高地の河童橋、安芸の宮島など、名だたる観光地の記念撮影ポイントで、大音量を流して集団ラジオ体操をしてしまう(しかもそれを日課にしてしまう)。うまく言えないが、なぜかそんなズッコケ行動が許容されている感じなのだ。
 私は園内の景色やすがすがしい空気を堪能し、名物の橋をわたり、付設の遊園地やプールをながめ、小一時間で出入口近くの一本道に出た。すると、今度は前方からカーキ色の隊列がやって来るではないか。こちらは十五名くらいで、後方には男性も混じっている。上が迷彩柄で下がスカートなんておばちゃんもいて、服装規定がさっきよりは自由な印象の一方、こちらも歩き方をチェックする者が左右に付いているのが奇妙なところだ。
 空は厚い雲に覆われ、常にどんよりしている。しかし、湖面はみごとに山の稜線や木々の色を映し出していた。とても市街地のとなりにあるとは思えない自然環境だ。入園無料の癒しの別世界と、そこを「あたしんち」的な遠慮のなさで闊歩するシニア市民たち。両者の組み合わせをごく平常心で観察し、自然とその共存を受け入れること。
 以上が、ひょっとすると当園散策の秘訣なり、醍醐味なのかもしれない。

青云路市場で会いましょう

 大自然を満喫し、名残惜しい名園から退場したところで、幸運にも一台のタクシーが眼前で停車した。ここでも「現金しかないよ宣言」を済ませ、次の目的地、柳侯公園へと走らせる。
――タクシー(龍潭公園~柳侯公園)。九・九元(現金払い)
 というわけで、唐代の政治家で自然詩でも名高い、柳宗元を記念した公園へとやって来たのだが、ここで痛恨のつまずきがあった。園自体は日比谷公園・上野公園のような市民憩いの場で基本無休なのだが、園内の名所・柳公祠が定休日だったのだ。現地でよかれと思い予定変更に踏みきると、えてしてかような事態に陥る。
 私は計画をカットして、ふたたびタクシーを拾い、窯埠古鎮へ向かった。
――タクシー(柳侯公園~窯埠古鎮)。八元(現金払い)
 しかし、窯埠古鎮も十分足らずで引き返す。古建築の街が保存もしくはリノベーションされた場所かと思いきや、まるっきり新しい建物ばかりで興ざめだったのだ(これは準備不足だった)。
――タクシー(窯埠古鎮~西来古寺)。一三・三元(現金払い)
 結局私はこのあと、柳江に面した西来古寺という仏教寺院をたずねた。
 時刻は午前十時。柳州滞在もあと二時間ほどで終了だ。
さっそく門をくぐると、そこは四重の塔の基壇だった。象や神獣の石像や関羽や財神の絵、仏像、書などが三十メートル四方ほどの広い広い空間にぽつぽつと配置されていた。財神像の足元には、舟形の金塊もどきが積まれている。これら中国式「祈りの金ぴかアイテム」を見ていると、欲を隠さないところにご利益(りやく)がある。そんなふうに思う。
 塔を出て、脇の階段をのぼる。小さな境内では、線香を上げたり、本殿でお辞儀を繰り返している二人の参拝者がいた。多少距離を隔(へだ)ててはいたが、連れであることは明白だった。ともに髪の色がブルーハワイだったからだ。マイ水筒でお茶を飲んでいる土産物屋や、ただ境内をぶらぶらしている関係者の姿もあった。仕事らしい仕事をしているのは、竹ぼうきを操る掃除の女性と、「大悲殿」という小さな殿宇の壁画を描いている兄ちゃんだけだった。
 そうは言いながらも、省コストの一環か、本堂の賽銭箱にはQRコードが堂々掲げられていた。決済に対応する金融機関は、アリペイ、ウィーチャットペイ、銀聯(ユニオンペイ)のほか、地元の柳州銀行のロゴが確認できた。
 じつは到着後に知ったのだが、当寺には世界最大の吊り鐘が安置されている。高さ九メートル、重さ一〇九トン(メイドイン武漢とのこと)。それが観音閣、つまり最初に参観した塔にあったので、最後はその鐘に一礼。参拝終了。

 紅光大橋へとつながる、高架沿いの坂の途中。私はひょいと横道にもぐり込み、柳州最後の立ち寄りスポットをめざした。狙いどおりに古びた住宅街へ出て、そこから数分で青云路に到着。
 入口には、青い道路標識風に「青云民生市場で待ってます」の看板が掛かっている(これは全国の自撮りスポットに設置された定番アイテムだ)。観光客が大集合している。
 この商店街が特異なのは、旧市街の迷路のような通りに、衣食住さまざまな商舗が間を空けず営業している、というところだ。道幅がせまく、売り買いする人が密集しているのが特徴で、最近は若者による柳州散策動画にもよく登場する。
 売り物はじつにバラエティーに富んでいる。定番の朝食である揚げパン、ちまき、トウモロコシ汁を売る店、地べたで白菜やミカンやイチゴや栗をならべている人もいれば、美しい刺繍の入った生地を注文に応じてカットしている人もいる。肉屋の屋台も多く、各部位の鶏肉が無造作に陳列されているかと思うと、台の下は木製の檻になっていて、まだ命をつないでいる鶏たちが、せわしなく首を出したり引っ込めたりしている。客もほうでも、素手で肉塊を持ち上げては品定めをし、また台の上にもどすといった動作を繰りかえしている。さらに、包丁や乾物、魚にカエル、牛肉丸・蝦丸、焼餅、ワンタン、唐辛子や山椒、 扣肉(豚バラ蒸し)もあれば、効能書きの付いたお茶や箱入り螺(ルオ)シー粉(フェン)セットまで売られている。
――糯糯油堆(含餡)、豆乳。各二元(現金)
 まずは、食べ歩き用のおやつを購入。屋台はアリペイとウィーチャットの二種類のQRコードを掲げていたが、現金でも問題ないか訊ねてみると、「没事(メイスー)、没事」と即答してくれた。油堆は小豆餡入りの、いわゆる胡麻団子だ。手軽な菓子を手に入れて喜んだが、どこも客や店の者やバイクでごった返し、ゆっくり食べられる環境ではない。自動音声の売り声や、店と客とのやりとり、クラクションなど、耳にもたいそう賑やかである。さすがは、中国人インフルエンサーにたびたび紹介される青空市場だ。

劉姐の牛肉拌粉

 胡麻団子を口にするタイミングもなく、精力的に市場を歩いていると、いっそう空腹を覚えてきた。だが、意外に物販ばかりで飯屋がない。まさか饅頭類では物足りず、どこか手頃な柳州ご飯はないかしらと、自転車やリヤカーにぶつかったり擦(こす)られたりしながら市場を徘徊。半分あきらめかけたところ、ようやく一軒見つかった。市場通りの曲がり角、八畳くらいのスペースで営業する牛肉拌粉の店だった。入れ替わり立ち替わり、二十歳前後の男女でにぎわっている。
 店は四十代と見える、ひっつめ髪の女性が一人で切り盛りしていた。小顔で色が浅黒く、昨日の炒牛河売りのおばさんを彷彿とさせた。動きはキビキビ、言葉はオラオラ。常に気合いが入っているところも似ている。
――牛肉拌粉、一三元。(現金払い)
 拌とは混ぜるの意味。つまり米粉を使った混ぜそばである。
 小盛り(九元)と大盛りの二種類を提示されたが、量の違いとは分からずに、うっかり後者を注文してしまった。お姉さんが大盛りの器を指しながら「美味しいわよ」というので、勢いで「ならば」と即答したまでである。
 例によってステンレス製のボウルに盛られてきた。さらに、黄金色したスープも付いている(これが牛の出汁(だし)が強烈に利いた絶品で、さりげなく牛肉丸入りなのも心憎い)。
 メインの牛肉粉は、素朴な醤油味で辛さ控えめ。ネギとピーナッツと胡麻が良きアクセントになっている。肉もたっぷりで、タレとの相性がよく、脂身部分が煮こごりのようで食感がユニークだ。野性味ある外観に似合わず、あまりクセがなく食べやすい。これもセルフ式に酸笋を控えめに加えて味変。底が浅い器でついがっついて食べていたが、さすがに量が多くて三割がた残してしまった。
「やっぱり、あなた残したわね」
 やはり、帰り際にお姉さんにツッコまれてしまった。
「ああ、もうお腹いっぱいだよ。それじゃあ、また来ます」
 作業中はずっと厳しそうに見えた女主人だが、最後は屈託のない笑顔で送り出してくれた。おそらく昼の稼ぎ時を回転よくさばいた後で、一瞬手が空いたからだろう。なにも気質だけの問題ではない。お互いの間がピタリと合ってこそ、運よく出会える笑顔もある。
 食後は軽く迷子になりながら空車を見つけ、宿で荷物をピックアップして柳州駅へ。
――タクシー(青云路民生市場~怡程酒店)、?元。(現金払い)
――タクシー(怡程酒店~柳州駅)、?元。(現金払い)(共に料金忘れ)
 おとといの重大トラブルのせいもあり、コスパ・タイパを重んじる私の旅を象徴するような、大変せせこましい、落ち着きのない一日半だった。結局、工業博物館や柳州書市、それに市北部の勝利城烤肉城など、予定を飛ばしたスポットもいくつかある(あと休業日を忘れて訪れた柳侯祠など)。だが、
 一三時四七分、私は再訪を約して柳州を離れた。広州南行きのD三七五七次列車に乗って。

キャッシュ払いの若干の諸問題

 旅はまだ続くけれども、広州に帰りさえすればこっちのものだ。タクシーに乗って、レストランで食事をし、コンビニや書店で買い物。そしてホテルに宿泊し、明朝白雲空港まで移動すればゲーム終了だ(そうなれば、もはや人民幣を片づけるまで)。
 というわけで、広州帰還までの時間、ここらで反省会といこう。ネット不通および非キャッシュレスな状況に追い込まれたときの、行動や支払い環境をおさらいしてみたい。
 では、時系列にしたがって支払い関係を振り返ろう。
 まず貴陽だ。土曜夜は、いまわしい紛失事件の後で、タクシーに乗車すること二回。翌日曜の朝は高速鉄道きっぷを二枚購入。すべて現金支払いで拒否されることはなかった。つづいて柳州だが、日曜午後から月曜昼にかけて、バイクタクシーに始まり、タクシー乗車七回、食事六回、そのほか飲料購入が三回。これも現金が断られたことはなかった。鉄道駅のきっぷ変更手続きで一度トラブルがあっただけだ(これは恥ずかしながら事態を正確に説明できないので評価を保留)。すると、およそ二十回の決済手続きで、ほぼ百パーセント「キャッシュレスでも通用した」というのが一応の記録である。
 問題は、これを数字どおり楽観的にとらえるか、ひかえめに評価すべきかだが、これは難しいところだ。絶対数が少ないし、たとえばもう一日柳州の街で過ごしたとすれば、現金支払いを嫌がるタクシーや商店に、立てつづけに出会っていたかもしれない。
 だが今回、広州を皮切りに四都市を旅した経験と印象を加えても、現金が使えない場面はほとんどなかった。それに、コロナ前にも毎年五、六日間ほど、現金オンリーで江南や湖北を周遊したが、さほど困った記憶もない。実際は、出費の大部分を占めるホテルと高速鉄道は事前に日本から予約し、クレカ払いで手続きしたが、さすがに現地でもキャッシュが使えないとは思えない。
 というわけで二〇二四年時点、ライトな都市周遊者が数日間の個人旅行を楽しむ程度なら、さほど大きな困難に直面することはないと、ひとまず結論づけておこう。もちろん、端末を失くして発生するリスク(アカウントやデータの悪用など)は、別に見積もる必要がある。しかし、なにぶん私が失くしたのは旅行直前に入手した中古品だったので、さいわい損害や危険性は軽微だった。
 あとで考えてみると、紛失した中古タブレットをハナからあきらめて、当初の旅程をつらぬく選択もあったと思う。だが中古とはいえ貴重品には違いないし、彼は今回の一人旅における「最強の相棒」でもあった。失くしたタイミングも悪かったが、小一時間とどまって捜索を試みたのは、無難な判断だったといえるだろう。逆にリスク回避そのものに話を絞るなら、SIMフリー端末を複数携行するとか、ストラップを付けるなど初歩的なトラブル防止策を講じることになるが、そうなるとより一般論に近づいて本稿の趣意から離れていくので、ここまでにとどめよう。
 とはいえ、これで話を終わらせるのは不十分だ。いささか補足が必要だろう。
 一つ目は、状況は常に動いているということだ。私が経験したことは、中国における超微細な現実の、そのまた一面にすぎない。旅先の支払い内容はおおむね記録しているし、再現性の高さには自信があると言いたいところだが、予言者ではないので来年再来年もこの状況が変わらないとは断言できない。結局私ができることは、各都市で得られた確かなディテールをなぞって、二〇二四年一月における「現実の一端」として一筆書きにお伝えすることだけ。あとは、成功・失敗の各エピソードのどれか一つでも、皆さんの参考にしていただければ幸いである。
 二つ目は、私が言及していない便利なサービスも当然無数にあるし、それが使えない不便さとなると、結局は人それぞれの評価になるということ。たとえば、中国の主要アプリとしても有名な「滴滴」などの配車サービス、あるいは各都市の地下鉄乗降車アプリ、さらに日本でも大々的に紹介されたシェアサイクル。このような、支払いアプリと連動したデジタルサービスを試したいと考えるならば、当該サービス内容とリスク範囲を熟知したうえで渡航にのぞむ必要がある。ちなみに今回、私が広州地下鉄に乗ったのは、初日のアリペイ使用開始前だった(すなわち第一章の書き出し以前の出来事)。だから、以前の旅で残していた一元硬貨をバンバン投じて乗りきったのだけど、やはり今どき自動販売機できっぷを購入している人は稀だった(そんな旅行者の私にきっぷの買い方を訊ねるおばちゃんもいたりして、それはそれで気の毒に思うのだった)。次回は先人の体験談を参照するなどして、ぜひアプリ乗車にチャレンジしてみたいと思っている。裏返せば、こうしてスマホアプリに依拠・依存すればするほど、端末紛失のリスクをかかえてしまうのだが。
 三つ目は、観光目的の渡航者はとくに要注意な件。それは、五ツ星レベルの国家的景勝地や省博物院など大型観光スポットでは、あらかじめウィーチャット系アプリで事前申し込み・チケット購入しなければ入場できないケースがあるということだ。初日に訪れた広州・陳家祠のように、パスポートを提示して別窓口を案内されることもあるが、これも「現地でいきなり試す」のは少々リスキーだといえよう。今回私が訪れたのは、基本的に街ナカの商店やごくローカルな観光地中心。下調べ段階でも、入場制限の心配はしていなかった。ただ、今後も精力的に中国各地を旅し、手当たりしだいに有名無名の観光スポットをめぐるとすれば、やはり事前の情報収集が必須だろう。
 そして最後に四つ目。正直な話、私も今後の中国旅行について半ば楽しみに、半ば不安に思っている。スマホ事情は世につれ、世はスマホ事情につれ、これからも大きく様変わりするはずだ。しかも、外国人旅行者の立場はじつに弱い。だから話は前段とかぶるが、より安全・安心に中国を旅しようと考えるなら最新情報を正しく入手すること、これに尽きる。だがしかし。肩ひじ張らない、まったく別の感想も持っている。それは、私自身が子供時代からトンデモ中国に関心を持ち、自分の成長と並行して積み重ねてきたアナログ旅行の経験値が、今回のトラブル対応に大いに活きたという実感だ。
 たしかに、短くも目まぐるしい旅程の突如変更を迫られるなど、多少のゴタゴタや立ち寄り予定地の素通りはあった。だが、なんとか無事に旅を進行・完結させることができたのも、やはり新世紀の便利な道具が生まれる前から、旅の基礎体力を培っていたからに他ならない。具体的にいうと、(一)各都市の地理や交通手段やスポット情報をできるだけ頭に入れ、(二)自分のカタコト中国語を実践へ最大限引き出せるよう準備する。それから、(三)自分の諸能力と旅行計画と現場状況をシビアに照らし合わせ、先々の行動を慎重にシミュレーションする、などである。
 簡単に整理すると、まず旅の計画・予約・手配段階では、今回もデジタル技術の進歩に助けられた。さらに現地でも、スマホ決済・高速鉄道・快適なビジネスホテルなど、ますます進化するテクノロジーや新時代のサービスを享受できた。たしかに学生時代の旅に比べれば、ずっとずっと楽をさせてもらっているし、コスパとタイパが大幅に向上した。だが、なにもキント雲や如意棒のみで一〇〇%旅が成立するわけではない。道具をテコに自分の諸能力を拡張させ、そうして満足度向上をもくろむのもいいが、旅のさなか道具が失われたときに助けになるのは、やはり自分のスキルや経験値、そして現地フィールドへの理解(そして変化への興味)に他ならないのだ。
 また、今回のように思いがけず「デジタルとアナログのあわい」に身を置いたことで、旅先で出会った人々の親切や心遣いにあらためて気づかされた。
 翻訳アプリを使って、積極的に意思疎通を図ってくれた人がいた。貴陽のホテル従業員以外にも何人か。道具がすばらしいのは当然のことだが、私の反応を見てすぐさま道具を使ってくれた相手の機転には感謝しかない。梅州で唯一乗車したタクシーの運転手も、前述のとおり高めの料金を請求してきたが、マイナー観光地への道のりに根気よく付き合ってくれた。
 ネット環境を得て、ひとりでガンガン端末を操作して上手くいくこともあれば、他人の協力を得て初めて目的が達成されることもある。あべこべに、ひとたび快適なモバイル環境を失えば、たしかに苦戦は強いられる。でも、ゲームオーバーとあきらめずに済む、オフライン時の周到な準備も心がけたい。そして、ありがたくも旅先の人々の親切・配慮・機転に接したことで、道中デジタル端末に注がれがちだった私の注意・視界が、ずいぶんと補正されたようにも思う。新しい機器・システムを使いこなせない人を気の毒に思う気持ちも初めて芽生えた。以前は外国人である自分がつまはじきにされていたので、そんなことを思いやる余裕もなかったのである(笑)。
 次回は、いつどんな場所へ旅ができるか。今のところ予定はないのだが、新たな経験(失敗)をすれば、また異なる解像度で現地社会の一端が見えてくるに違いない。知中の旅は終わらない。

第五章  きらめく一級都市への帰還 (広州)

量産型ブックストアを探索せよ

 かつて唐代の高僧・鑑真は、日本渡航に失敗して海南島まで流されたあと、雷州半島や桂州(桂林)などで現地有力者の援助を受けながら、梧州・端州(肇慶)・広州などを経由して江南へ帰着。さらに三年後、公式の遣唐使船でようやく念願の渡日をはたす。
 中学一年の春、私はこの鑑真と日本人留学僧の苦難を描いた小説、井上靖『天平の甍』を読んだ。九〇年代の三国志ブームにふれる前のことで、中国地理というと、私の頭には、この物語に出てくる崖州(三亜)・廬山・揚州・明州(寧波)などの地名が先にインプットされた。初めに挙げたとおり、日本人にあまり顧みられることがない五線都市・梧州に興味を持ったのも、これが理由の一つだ。
 車窓からの景色は、中華アプリのドライブ動画で以前見たとおりだった。常緑の小山がこぶのように折り重なるなか、時たま西江(デルタ地帯で知られる珠江の最大の支流)と出会い頭のように交差しながら、列車は一路、広東省内を東へ駆けた。
 五日間で六回も、中国南部を行ったり来たり。この旅はすっかり、冬の高速鉄道「乗り鉄」旅になってしまった。ただそうはいいながら、列車が梧州付近を通りかかり、西江と再会した時は胸が高鳴った。そもそも西江は、長江・黄河に次ぐ中国第三の河川である。梧州あたりでも川幅はゆうに一キロを超える。
 曇天と溶けあうような、ごく薄い黄土色の平らかな水面が、砂利運搬船などの航行によって小さな波を立てている。そんな物資運搬の行程や埠頭周辺のようすが望めるだけの、ただただ素朴で色気のない風景だ。けれども、これこそ自分が見たかった、千三百年前に「鑑真一行が旅した土地」の景色なのだ(旅の者はかつて主に船で移動していたのだ)。「その後に」どんな本も、テレビ番組も新聞報道も見せてくれなかった、本物の景色がここにある。窓ぎわの席で、私は若干興奮ぎみにそう思った。
 一七時三一分、高速鉄道は広州南駅に到着した。
――タクシー(広州南駅~天河漢庭酒店)。八六元(現金払い)
 残された時間は少ない。ホテルから徒歩二十分。まずは、万菱匯という商業ビルに入居する「西西弗書店」を探索する。一九九三年創業、貴州省遵義を皮切りに今や八十都市三六〇店舗を展開する全国チェーンの人気書店である(私は初めて足を踏み入れる)。
 緑と赤のクリスマスカラーのロゴが目印だ。外観は舶来の雑貨か香水を売る店のようで、言い方を変えればズバリ「欧米風」なのである(幼き日のマコーレー・カルキン君が隠れていそうな雰囲気だ)。しかも通路に面したショーケースの中はというと、ウルトラマン・鉄腕アトム・竈門炭次郎の人形に、サボテン、宇宙船模型、ワンピースやコナンの漫画セット。そして、我々から見れば「季節はずれの」クリスマスツリーである(今日は一月八日だ)。
 店内は一見して「映え」重視と分かる内装と品揃えだ。色の濃い木目調の本棚に、黒い床と天井、カラフルなソファ、赤と緑を基調にした中吊りポップの数々。こうしてみると、本当に年中クリスマスのような店舗設計だ。従業員も緑のエプロン、カフェ店員の出で立ち。併設するカフェコーナーにしても、ここでは一度欧風カフェもどきの小部屋に入り、そこでコーヒーを注文してから、ガラス扉を抜けてウッディーな書架コーナー内の座席に着くと、こういう案配になっている。
 いったいぜんたい、この「欧米推し」な演出はどこから来るのだろう。もちろん行き当たりばったりに正答を出せるものではないが、私はこう思う。ここは、ジブリ映画や名探偵コナン、ディズニーやトムとジェリー、はたまたハリー・ポッターなどの外国作品にどっぷり浸かり、同時に留学生・華僑経由で海外文化を大量吸収している現代の若者にさずけられた、親しみやすくて心地いい、最高の秘密基地(彼らの書院)なのだと。かつて中国の文人が人里離れた庵に隠遁したり、城内に庭園や楼閣を築いたりしたように、同時代の彼らもまた、週末に山中の閑静なログハウス風ブックカフェを訪れたり、当店舗のような都市型の洗練されたブックストアに滞在するなどして、自分たちの「理想郷ごっこ」を楽しんでいるとも考えられる(なんと四級都市・梅州の郊外にも、そんな隠れスポットがあった)。特に窓際の商品などから窺えるように、彼ら彼女らは別に海外のどこかの国を推したいのではなく、ただ外の喧騒を忘れ、好きなモノに囲まれて、優雅な時を過ごしたいのだ。そして、当書店の出しだ最大公約数的な「一応の答え」が、クリスマスカラーの欧米風演出というところに落ち着いたのではと思うのだ。
 これは、おひとり様女子で賑わう武漢の和食店でも似たようなことを感じたもので、入口に菅原文太の大判ポスター(ビール広告)を飾ったその店は、日本の飲み屋を忠実に再現した感じだった。しかも手探りでアイテムを配置しました風ではなく、完成度も高かった。天井からは提灯型の間接照明、柱にはそこかしこに千社札風のシールが貼られ、満員御礼、出世開運、千客萬来、朝市、七転八起等々、ほっとけない日本語が堂々各所に踊っていた。さらに錦絵風の天狗や富士山、大漁旗が壁に掛かり、達磨に招き猫もいるという本気度。スタッフは揃いの黒Tシャツを着用し、その背中には、日本語で「先んずれば夢を制す」の文字(ここまで日本をコピーするのかと感心させられた)。愚直なこだわりによって細部が構築されているのは、とりもなおさず武漢の消費者の側、特に二〇代女性たちに隣国日本に対するピュアな本物志向が芽生えているからだと推測した。一人客のおとなしめな女の子たちが、昼間から居酒屋のカウンターに横一線に並び、頭を垂れて黙々スマホの注文画面と格闘している光景はなかなか面白かった。
 話はもどるが、この「映え」先行の書店も、私には少々テーマパーク的すぎると感じられる。だが、ここは個人的なセンスで良し悪しを評価せず、中国書店業界における一成功例として観察し続けたいと思う。次回は気取ってデザートドリンクでも飲みながら、旅の計画を練りなおすなど、ここでゆっくり過ごすのも良いかもしれない。
 最近は中国の本屋もいわゆる「映え」を競っている感があるけれど、個人的なイチオシは、最近日本でも紹介されるようになった蘇州・誠品書店と南京・先鋒書店だ。おしゃれ演出一辺倒に流されず、本好き人間の視点を押さえた良店も続々と生まれている、そんな実感がある。
 余談だが、五年前の伊藤忠総研『中国経済情報』二〇一九年九月号では、中国における新型書店ブームが簡単に紹介されていた。その説明によると、近年のユニークな書店の台頭には、(一)店側の企業努力とともに、(二)補助金支給や増値税(日本の消費税に相当)免除といった政府の支援施策、(三)一部ショッピングモールによるテナント代の減免や改装費負担、といった背景・裏側があるのだという。政府が文化振興と消費拡大を狙う一方、ショッピングモール側も特色ある書店を誘致して差別化を図っていると。
 それと話は変わるが、近年は中国書籍の装丁にも惹かれることが多くなった。やはり見慣れない系統のデザインだと視覚的にほっとけないわけで、もちろん物珍しさによる贔屓目が作用している可能性も否定できない。ただ、とくに文芸書を中心に総じてアート寄りで、それぞれ独創的だなあと感じる。とくに、いま中国でも映画興行が好調の、吉野源三郎『你想活出怎様的人生(君たちはどう生きるか)』。この本も美しく印象的な装丁で、五年前に上海の大型書店で平積みされていた(洋書的な装いで一目惚れするほど格好いい!)。なお、当作品は豆瓣読書というサイトでの評価も異様に高く、なんと一万八千を超える短評が寄せられている。しかもコメント内で引用される日本作品がじつに多様で、本稿がこなれた日本通に愛されていることがよく分かる。
 もちろん、以前はまったく状況が違った。ぼくが中学生のころ、つまり今から三十年前、中国の並製本はしわくちゃで綴じ口が波打ち、それはひどいものだった。紙もわら半紙みたいな質感で、粗雑なものが多かった。いわずもがな、デザインなど二の次三の次。ついでに言うと、当時の本屋事情も今とはまるで比較にならない。
 たとえば、北京の王府井書店(新華書店グループ)もお役所風で、客は本を買うにもたらい回しにされた。そう言うと語弊があるが、実際そのような業務フローだったのだ。一九九二年当時、書棚はまだ開架式ではなく、担当店員にたのまないと試し読みができない。それを買うとなると、まず本を返して伝票を切ってもらい、会計係でお金を支払う。そうしてレシートを片手に売場へ戻ってきて、やっと本が手に入るという仕組みであった(まるで落語のぜんざい公社の世界だ)。
 まあ、そんな九〇年代の記憶もまた、今となってはシン中国探訪の良きスパイスになっているのは間違いない(本当に何もかもギャップだらけなのだ)。

拝啓タクシードライバー殿

 本屋の次は、万菱匯一階の人気ヨーグルト店「阿秋拉朶酸ない(ないは女へんに乃)」でテイクアウト。
――生椰モカヨーグルト。三九元(現金払い)
 万菱匯から天河路の北側へ出て、西へ向かう空車をゲットする(中国は右側通行)。
「現金しかないよ、大丈夫?」
「じゃあ、龍津路へお願い。栄華楼ね」
 そう言って助手席に座り、しばらくぼーっと移動時間を過ごしていた。が、道のりのなかばで、メーターが倒れていないことに気づいた。
「あれっ運転手さん、メーター動いてないよね。ハハッ」
 私は横目で彼の反応を見たが、わざとらしい表情や動作は確認できなかった。やっちゃった、どうしようという感じで、私の言葉を待っているような様子だった。
 仕方がないので提案してみた。ちょっとじらしながら。
「うーん、体育中心から龍津路だとさ、十元、二十元、いや三十元かな?」
それぐらいなら、まあ高くも安くもないだろうと思われた。相手もホッとしたように言った。
「三十元、三十元でいい。でもいいのか? 我的錯誤(おれのミス)だ」
「いいよ。よくあることだよ。だいたい分かってるから」
「謝謝(シエシエ=ありがとう)、謝謝」
 そうして車は午後八時四十分、目的地である栄華楼へと到着した。
――タクシー(天河路~龍津路栄華楼)。三〇元(現金払い)
 流しのタクシーを通常利用するかぎり、なにかとスムーズに事が進むことが増えた。
 前回、武漢で出会った五十がらみの運転手も、失礼ながら運転マナーが良くて目を疑ったくらいだ。とある交差点では、軽くクラクションを鳴らして日傘を差した若い女性たちに横断をうながし、さらに遅れてやって来た若い男二人にも先をゆずり(彼らはおしゃべりに夢中で、ぼくがドライバーなら絶対に待たないタイミングだった)、最後に老婆一人のため、さらに数秒待ってからアクセルを踏んだ。
 近年の厳重な監視のせいもあってか、中国人の運転マナーが格段に向上しているのは報道やSNS投稿でも知るところだが、かような変身ぶりを目の当たりにすると本当にたまげてしまう。
 いっそバカなふりして、幾つか彼らに問いただしたくもなってくる。
「あのー、あなたたちねえ。以前は走行中、息をするようにクラクションを鳴らしまくってたじゃありませんか。それから、隙あらばと車線を跨いだまま追い越しを狙ったり、対向車のドライバーとはしょっちゅう罵倒し合い、そのくせ困ったときはお互いさまとばかり、ズケズケと道を訊ね、そして意外と親切に教え合っていたり。だけど客が油断してると遠回りしたり。また、事故ればすぐさま車外に飛び出し、車道中央で大喧嘩を始めたり、外国人旅行客と見ると都合も聞かずに気心の知れたホテルへ連れて行こうとしたり。それだけじゃないよ。女性ドライバーで運転ぶりは普通なのに、のべつ大声でキレていて話にならなかったり、また信号停止中、そういう人が急に静かになったと思ったら、次の瞬間カーッと豪快に痰を吐いたり。ちゃんと覚えてますよ。ついこの間まで、そんなのばっかりだったじゃないですか。いったい、あなたたちに何があったというんですか」と。

老舗で飲茶タイム

 じつに四日ぶりに、龍津路へ戻ってきた。何もそんなにリピートすることもないのだが、市内に夜間営業が確認できる飲茶レストランは少なかった。満を持して、一八七六年創業の「栄華楼」に入店する。
 意外にも、店内は二、三の円卓が埋まっているだけだった。月曜の夜とはいえ少し寂しい(広州下町も人流が変わってしまったか)。
 そして、注文は難航した。どうやら、飲茶のラストオーダー時間に来てしまったようだ。卓上には飲茶専用の注文票が置かれ、初めそれに記入するよう服務員の女性に命ぜられたのだが、わずか一、二分後に「もう終わりだよ」と取り上げられてしまった。
 そ、そ、そんなご無体な。
 無事広州に帰還して、せっかく車を飛ばして来たのだ。これで引き下がるのはくやしい。なるほど、先方にも厨房とのやりとりが面倒だという事情が透けて見えたが、ここは泣きを入れて注文票を取り戻し、短時間で四品を選んでオーダーを済ませた。
 すぐ近くの円卓では、中高年のビジネスマン六人が会食中だった。
 商談を済ませた後だろうか。卓には豪勢に大皿数枚の料理が並んでいるが、あまり手が付いていない。上役か客人と思われる三人が終始上機嫌で、めいめい隣席の者と談笑している。若手もほどよく酔ったと見えて頬は赤いのだが、中国式接待の能力検定でも受けているのか、反対にずっと真顔でいた。
 たまに誰かの景気づけの一言をきっかけに、めいめい立ち上がり、小さなグラスに注いだ白酒か何かを飲み干している。中には全部飲まない人もいるが、それでも、たがいに平仄(ひょうそく)の合った、一連の動作や表情が私の目には新鮮だった。とくに「ほら飲み干したぞ」、「俺はここまで飲んだぞ」などと、相手に確認を求めるような目付きには各々個性があり、そこはいかにも人間的でかわいくもあった(逆に相手を品定めしているようにも感じられたが)。
 さあ、料理が次々に運ばれてきた。服務員のおばさんは表面的には無愛想だが、こうして華々しい食卓を楽しめるのは、まちがいなく彼女のおかげである。
 料理、対面すれば賛・快・楽。私はベルトをゆるめ、一皿また一皿と箸をつけた。蒸籠(せいろ)の上の三品も、椀のスープも熱々だ。
エビ餃子は、主役たる豪儀なエビの周りに、貝形状の皮がヘイヘイと付きしたがっているような格好である。さすが「水晶」と喩(たと)えられるスケルトンぶりだ。ミカン入り杏仁豆腐のように、エビの赤みが透けて、しどけなく漏れ出ている。姿かたちは見目うるわしく、浮き粉由来のモチモチぷりぷりの上品な食感ながら、凝縮されたエビの旨味がガツンと暴力的な(塩味ながら豚の脂が投入されたか)逸品である。
 小籠包(ショウロンポー)は各々、銀紙皿の上に大福のような存在感を示し、天は薄皮が幾重にも折りたたまれている。皮は薄く、こちらもネギの青が透けて見えるほどである。一口いけば、黄金色の肉汁が現れ断面をテカテカにするが、肉汁が勝手にあふれ出すという造作ではない。箸から客の口に運ばれるまで、その肉々しいエキスをしっかり己の懐に湛(たた)えているのである。客は肉感と汁感、そして皮の「激しいうねりの食感」を短時間のうちに凝縮して楽しめる。
 排骨(スペアリブ)も、四日前に食べた拉腸のそれでなく、本寸法の塩加減でいただく(ニンニク風味か)。脂身は多いが全くしつこくない。バッグの中がギトギトになってもいいから、日本までお持ち帰りしたいくらいである。肉と見ると日本人は主役のおかずを連想してしまうが、こうした骨付き蒸し肉を茶請けのデザート感覚で食す広東人、肉食の年季が我々とはまるで違うというところだろう。
 スープは火傷するほど煮立てており、光り輝く濃厚コンソメといった外観だが、これは烏骨鶏の薬膳スープ。滋味ぶかく、生姜などが効いているせいか、疲れた身体がポカポカしてくる(そうだ、その調子で我が胃腸をとくと癒してほしい)。
 来店からおよそ五十分で、本日最後の食事を終えた。もう思い残すことはない。
――小籠包、蝦餃、排骨、とん竹絲鶏湯(とんは火へんに屯)。一一一元(現金払い)

 食事を終えると、私は外国人居留地であった沙面島をめざして歩いた。
 暗くなった光復路と解放路を南下して、珠江沿いの広場に出ると、スケボーに興じる女子や、リュックを背負った一人旅らしき外国人などが河畔に集まっていた。周囲の洋館はひかえめにライトアップされている。広場全体が一変して小ぎれいになっていたが、周囲には二十六年前を彷彿とさせる、しみじみとした景色があった。
戦前中国通として知られ、現地文化・風俗にかかわる著作の多い言語学者・後藤朝太郎は、『最新支那旅行案内』でこのように紹介している。
「外國租界の沙面(シャアメン)の緑陰を左に見て珠江の濁流を航する時の氣持、また廣東特有の支那船紫洞船(チイトンシャ)と呼ばれ遊覧船の去来を見るなどローカルカラーが著しく感ぜられる。又珠江にかけられた鐵橋や水上生活を専門に営んでゐる蛋民(タンミン)の部落の状態など廣東でなくては見られない趣がある。(略)日本の總領事館は三井、正金、大阪商船、日本郵船、日清汽船の建物などと共に居留地沙面にあり、廣東に遊ぶ日本人客は先づこれらの方面を訪れる。沙面には又日本人宿がある。」と。
 歴史ある広州城の、ここは城外西方だ。新しい天河エリアは、城外のかなた東ということになる。以前の旅で、私は二度、沙面に建つユースホステルに投宿した。実質的な旅行最終日の深夜、長らくご無沙汰だったその地を、これから歩いてみようと思うのだ。
 ただ、めざす「出島」は灯りが少なかった。
「あんなに暗かったかな」と、思わす言葉が漏れた。
 とびきり明るい一級都市に、どこか似つかわしくないと思われるほど、龍津路以南のダウンタウン地区が、そもそも全体的に暗かった。さては光という光を、電気という電気を、成長いちじるしい東の天河区へ完全に奪われたか。とはいえ、歴史ある洋館街で肝だめしも悪くない。かつて友人と泊まった、なつかしい宿がすぐそこにあるのだ。
 浦島太郎は沙面島の方へ向かって、ふたたび歩き出した。

参考資料

林浩『アジアの世紀の鍵を握る客家の原像:その源流・文化・人物』(中公新書、一九九六年)
岡田健太郎『客家円楼:一週間で円楼を見に行く』(旅行人、二〇〇〇年)
村山宏『異色ルポ 中国・繁栄の裏側 内陸から見た「中華世界」の真実』(日経ビジネス人文庫、二〇〇二年)
関口知宏『関口知宏の中国鉄道大紀行二 最長片道ルート三六、〇〇〇kmをゆく【春の旅】桂林~西安』(徳間書店、二〇〇七年)
茂木計一郎・片山和俊・木寺安彦『客家民居の世界:孫文、トウ小平のルーツここにあり』(風土社、二〇〇八年)
武内房司・塚田誠之編『中国の民族文化資源 南部地域の分析から』(風響社、二〇一四年)
飯島典子・河合洋尚・小林宏至『客家:歴史・文化・イメージ』(現代書館、二〇一九年)
河合洋尚『〈客家空間〉の生産―梅県における「原郷」創出の民族誌』(風響社、二〇二〇年)
地球の歩き方編集室『世界の中華料理図鑑』(学研プラス、二〇二二年)
中村正人・碓井正人・東京ディープチャイナ研究会『新版 攻略! 東京ディープチャイナ 海外旅行に行かなくても食べられる本場の中華全一五四品』(産学社、二〇二二年)
楊小渓(ヤンチャン)『三三地域の暮らしと文化が丸わかり! 中国大陸大全』(KADOKAWA、二〇二二年)

「中国のフードデリバリー売上が一日二〇億元に 消費者の5割は若い世代」(人民網日本語版、二〇一九年十月一八日)
「中国経済新聞に学ぶ~街角グルメのタニシ麺が日増しに人気」(アジア通信社、二〇二一年十月二十五日)
「『タニシ麺』が柳州市の観光人気の火付け役に 「逆張り旅行」楽しむ中国のZ世代」(人民網日本語版、二〇二三年三月七日)
「グルメを求めて人気スポットへ旅行する中国の若者」(人民網日本語版、二〇二三年五月四日)
浦上早苗「四年ぶりに渡航した中国は『デジタル・ガラパゴス』だった。オンライン化と実名制徹底、外国人旅行者は実質排除」(ビジネスインサイダー、二〇二三年七月一八日)
山谷剛史「自販機でジュースも買えず…三年半で激変した「サイバー先進国・中国」の不便すぎる実態――外国人にとって、ますます肩身の狭い場所に…」(文春オンライン、二〇二三年一〇月三〇日)

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?