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ノスタルジックな街路をさがせ in 常州――「脱構築!」14歳からの中国街歩き練習帳 I


1992年(平成四)初めて訪れた北京の王府井。(下2枚)開店間もないマクドナルド店内。

プロローグ “中国の壁”を攻略せよ!

 二〇一九年九月下旬。全世界がコロナ禍に見舞われる、その少し前のこと――。
              ◇   ◇
 ぼくは、ふだん愛用している台湾エイスース社製、SIMフリーの平板電脳(タブレットパソコン)を片手に、五日間、中国の街を徘徊した。行き先は常州・荊州・武漢。いずれも初めて訪れる城市(まち)だ。現地ではいつものように、高速鉄道を使ってサクサク長距離移動を繰りかえし、夜はお手ごろ価格の清潔な商務旅館(ビジネスホテル)で睡眠。そうして、朝から晩まで観光スポットをめぐりながら、いまどきの街ナカ風景を気ままに観察。時間の許すかぎり、躍動するシン・中国を目いっぱい体感した。ぼくの平板(タブレット)端末には、当地で撮影した約三千枚の写真が保存されている。たとえば、桃田賢斗選手やタカマツペアが参加した、常州・羽毛球(バドミントン)中国公開賽(オープン)(=東京五輪出場権レースの一つ)の模様。さらに三国志で有名な荊州古城や、その路地裏風景。また、そんな旧市街に訪れた再開発の波や、大型ショッピングモールの賑わい。また逆に、以前と変わらぬ夜の広場舞(ダンス)の盛況、老百姓(ラオバイシン=庶民)たちの逞(たくま)しい商売風景。それから、百年前の洋館街が妖(あや)しげにライトアップされた武漢の漢口租界。あるいは同市の名門大キャンパス、古本屋、日本文学を激推しするオシャレ書店、おひとり様女子に人気の和食店、そして二〇一〇年代前半から旅先で目撃してきた漢服ブームのさらなる盛り上がりなど。他にも鉄道駅に地下鉄工事のようす、運河や市場や集合住宅、快餐(ファストフード)店のメニュー、便利店(コンビニ)のホットスナック、旅行社のチラシにいたるまで「気になるモノすべて」を撮りまくった。
              ◇   ◇
 かくいうぼくは、大学で少しばかり中国政治を勉強しただけの、平凡な社会人である(卒論のテーマは九〇年代中国の汚職事件とその摘発というもの)。研究者でもなければ記者でもない。中国語のレベルも中級の入口にとどまる。ただ十代の頃から、ぼくは新聞・テレビ・雑誌等の限定的な情報に飽き足らず、自分なりに「隣国理解の補助線」を引きたくて、このような街歩きを繰り返してきた。その原動力といえば、(ゲーム風にいうと)日本人の前に立ちはだかる種々の「中国の壁」を攻略してみたいという、一途な好奇心・冒険心だ(それも四半世紀のあいだに約二〇回、述べ四ヵ月程度の体験にすぎないのだが)。学生時代は、定番の『地球の歩き方』シリーズや、神保町の専門書店で入手した中国都市地図のお世話になりながら。また近頃は、新技術と新ビジネスの恩恵を受け、高速交通網をキント雲の如(ごと)く乗りまわしたり、便利なデジタルツールを如意棒のように使いたおしたりして、である。
 でも二〇二〇年以降は、コロナ禍の最中、自分の趣味を遠ざけて少しく俯瞰(ふかん)する時間をもった。ぼくは新型コロナ関連の報道に接しながら、武漢の旅の写真を何度も見返し、また羽毛球(バドミントン)大会の興奮を思い出しながら、東京五輪が延期されたことを知った。次なる中国街歩きプレイを実行できない残念な環境のもとで、ぼくは自然と、過去の旅行とそれに紐づく自分の感情・気づきと向き合うようになった。いったい中国はどこへ向かっているのだろう。ぼくはこれまで、中国をどのように歩き、どう眺めてきたのか。はたして、ぼくら日本人にとって「中国の壁」攻略のキーやマストアイテムとは何なのだろう。そんなことを自問自答しつつ、旅先での体験をゆるゆると書き起こすことにした。そうして出来上がったのが本稿である。中国という「規格外の他者」を正しく恐れ、賢くつき合うために、より実体に近接した中国イメージを獲得しようと脱線(寄り道)しつづける、そんな「新時代の知中エクササイズ」を提案したい。本稿内でも追々推奨するのだが、中華通販サイトで書籍・映画の人気作を知るのもいいし、地図アプリで最新ショッピングモールを覗くのも、一種のバーチャル旅行だといえよう。いや、快適な自宅で見知らぬ中国都市のストリートビューをぼんやり眺めるのも、あるいは有効な「脱構築」アクティビティかもしれない。中国と向き合うには結論や共感を急がずに、手広くクールに変化の差分を認識・記述することが現実的であり、重要だとも思うのだ。
              ◇   ◇
 では、取扱説明書(トリセツ)をお示ししよう。『「脱構築!」14歳からの中国街歩き練習帳』は、今回の旅先である3都市(プラス経由地である上海)の街路風景をランダムに素描(スケッチ)した、旅人目線のストリートビュー集である。本稿の特徴は次のとおりだ。
 A.マスコミがスルーしがちな中国の等身大リアルをほぼ一筆書きで記録している。
 B.14歳で初めて中国街歩き(一九九二年)を体験したぼく個人の、旅行者・消費者としての正直な感想や記憶がちりばめられており、その点で忖度(そんたく)とブレが一切ない。
 C.旅の「再現性」には十分留意し、実際の情報検索・渡航計画・現地行動のプロセスとアイデアを逐次共有しながら話を進めている(作者イコール読者の分身(アバター)という感覚)。
 みなさんには、変わりゆく中国を3D感覚で体感していただき、思い思いに愉快な時間を過ごしてもらいたいというのが作者の願いである。そうそう。本稿は、旅は億劫(おっくう)だという方や、「まあ現地情勢や街ナカの雰囲気・トレンドは気になるけどさ、やっぱり中国なんて絶対行きたくないよ」という方にもおすすめだ。快適なご自宅やカフェでお読みいただくぶんには、安心・安全百パーセント。これは請(う)け合える。さらに今回、旅先の発見やその場のムードを赤裸々に復元するにあたり、ぼくは所々で、
 D.かつてリアルな心情と風景を詠みまくった、中国詩人の口真似を試みた。
といっても、漢詩の高尚なパロディーではなく、駄洒落ともいうべき、冴(さ)えない替え歌だ。それは、言葉や文化の基礎を形作ってくれた偉人たちに捧(ささ)げるオマージュであると同時に、中国理解に資するものは何でも使ってみようという、ぼくの現代的かつ自己チューな発想による。そう、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知るのも悪くないだろう。だから何となれば、読者一人ひとりがゲームの主人公になったつもりで街角風景にツッコミを入れてもいいし、時には李白や白居易の心持ちになって、大げさに絶句・嘆息していただくのも一興である。                 
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 けれども、これからご案内するのは二〇一九年中国の旅。発生時期は諸説あれど、やはりコロナ流行以前のお話なので、みなさんと時間感覚を共有するのに若干の不安がある。できればいざ旅立ちにあたって、心の平仄(ひょうそく)を合わせておきたい。そこでぼくは、皆さんのごきげんな記憶の糸をたぐり寄せるという戦法によって、当時の感覚をいっしょに呼びさましてみたいと思う。さて、ここにいくつかの流行語を列挙する。すなわち、ワンチーム、ジャッカル、にわかファン、笑わない男、である。よもや忘れたとは言わせません。時を巻きもどそう。日本列島に熱狂と感動の渦(うず)をよび、数々の名場面・流行語を生んだラグビーワールドカップ二〇一九年大会。ぼくの旅のはじまりは、ちょうどその開幕日のことである。しずかに目を閉じて、そのころの思い出に暫時浸っていただいたところで、皆さまを東京羽田空港発のフライトにご案内します。どうか素朴な現場実況と正直なボヤきを聴いて下さい。

(左)同じく王府井。(右上)西城区の魯迅博物館付近。(右下)同館内のトイレ。

[ 凡例とご注意 ]
*中国人民元の換算レートは、旅行時の概算で1元16円を使用しています。
*文中のルビは、該当部分の文脈および読者の便宜を考慮・勘案し、日本語読み、標準中国語読み、その他の慣用表記、または当て字を適意使用しています。なお、標準中国語のカタカナ表記は、原則として平凡社「中国語音節表記ガイドライン」に準拠しました。
*中国渡航の際は、最新の情報を元に、くれぐれも健康および安全にご留意ください。 

常州・餃子(ギョーザ)篇

プレイヤーは勇者か愚者か

(01)日出(い)ずる国から勇者が一人、いま中国の旅に出る。

(02)と、こうのっけから勇者だなんて力む必要もないのだが、本稿をあの手この手で愉快なる冒険奇譚に仕立てたいという浅薄な思いが抑えきれず、ひとまずこう名乗ってみたのである。もちろん賢者でもよい。英雄、君子、大丈夫(だいじょうふ)の呼び名も悪くない。また旅人という意味の、遊子(ゆうし)なんて古めかしい言葉も乙である。しかし、どうだろう。かような一人称は主人公をカッコよく偶像化し、また作者当人の創作意欲を心地よく刺激するが、かえって彼を作為的設定のなかに溺れさせるものである。どういうことかといえば、冒頭から「吾輩は勇者である」とか「余は英雄なり」なんて書こうものなら、作者はきっと愚直な書き手ではいられずに、ところどころ旅先の事実をごまかして、冒険要素に満ちた妄想を作中ちりばめるに違いない。また君子と名乗れば、途端に完全無欠の大人物が誕生し、凡人たる作者の手に負えなくなる。もしぼくが旅先でやたらと忠義者を称えたり、十手や投げ銭で巨悪を懲らしめたりしたら、それは明快にバグである。思うに主人公の仕様ミスは物語全体に少なからぬ不整合を生み、のちのち作者自身に書き直しという遠大な苦役を課す危険性さえ孕(はら)むのである。よって本意ではないが、勇者うんぬんは取り下げよう。

(03)では逆転の発想で、自分を卑下・謙遜するのはどうだろう。作者の属性に照らすならば、むしろこちらのほうが本寸法かもしれぬ。勇者や賢者に代わる呼称として挙がるのは、たとえば、雑魚(ざこ)、匹夫(ひっぷ)、愚か者、鬼畜、社畜、カス、鼻くそ、単細胞である。はたまた、与太郎、阿瞞(あまん)、阿Q、なんてワードも浮かぶ。意外と選択肢が多くて目移りする。とはいえ、目下作者の心は平静そのもの、どれを選んでも執筆に支障はないように思えるが、かといって毎度ヘラヘラと与太郎を名乗っていては、この先いつか無謀な自虐ぶりに嫌気がさして、書きためた文章を全消去してしまう可能性も否定できぬ。そもそも阿瞞(三国志の曹操の幼名で嘘つきちゃんの意味)や阿Q(魯迅の小説作品の主人公で、最後は革命騒ぎの中で銃殺される)にいたっては全くの別人である。ここまで紙幅を費やしてきたが、やはり尖った呼び名にこだわるのはやめにしよう。

(04)そういうわけで、なんの面白みも毒もない呼称だが、ぼくは本文でも〈ぼく〉と称して旅に出る。やはり素の人格であればこそ、己の身体性と社会性を保ちながら、五日間の体験を正しく再現できるというものだ。これがヒーローめいた人物や何らかの職業人では、おのずと仮面越しの中国見聞録が出来上がってしまう。偉そうに言えたことではないが、ぼくは自分の小遣いの範囲内で、他ならぬ自分を愉(たの)しませるため、気ままに中国を歩いてきたのである。仕込みも演出もない。だから、ここは等身大のプレイヤー名を選び、リアルな旅をありのままに再構成してみたい。では、とりあえず設定の話題はここまでにしよう。出発時間が迫ってきたようだ。このあたりでさっさと中国へ飛んで行きたいと思う。日出ずる国のぼくが、いま中国の旅に出る。それっ、テイクオフ。

上海駅で高速鉄道を待ちながら

(05)真夜中に東京羽田を発ったぼくの乗機は、順風満翼ゴーウエスト、朝方には日没する処の魔都上海に着陸した。上陸後はいたってスムーズに入国をはたし、そのままタクシーに乗り込んで上海駅へと直行。いつだって異星人の気分にさせられる浦東(プードン)新区の落ち着かない眺めのなか、車は高速道路をすいすいと走行し、見込みどおり小一時間で到着した。さっそく駅窓口へ出向き、予約番号を伝えて切符四枚を受けとる。

 9月20日(金)G7002号 上海―常州 二等席(74.5元)
 9月21日(土)D352号 常州―荊州 二等席(330.0元)
 9月22日(日)D2224号 荊州―漢口 二等席(76.0元)
 9月24日(月)G600号 武漢―上海 二等席(336.0元)
  *視認性向上のため英数字を半角英数に統一して表記。

これが、今回の旅の全行程分である。それから別棟の巨大駅舎へと移動し、身分証提示とX線検査を済ませてから意気揚々と入場。エスカレーターを上がって中央通路を進み、所定の待合室にたどり着く。ここまで来れば安心である。売店でペットボトルの清涼飲料を調達し、とりあえず給水。よし、順調順調。

(06)待合室の広大な空間を埋める、これから各地方へと散っていく人の群れは、外見上ずいぶんと様変わりした。老若男女、たいていスマホを覗き込んで静かにベンチに座っている。荷物の分量は格段に減り、カバンはますます上等になり、垢ぬけて逆に隙がない。昔のゆるい雰囲気は、いったいどこへ行ってしまったのか。外地の者に文化的衝撃(カルチャーショック)を与え続けた、あの怒号ともいうべき物凄いボリュームの話し声も、今では仄(ほの)かに懐かしい。むかし敗軍の殿(しんがり)として橋上一騎立ちふさがり、敵を大音声(だいおんじょう)で一喝したというは三国志の英雄、張飛の逸話であるが、よもや全中国人民が彼の末裔ではあるまいなと、以前はそう疑うほどであった。

広大な待合室で改札を待つ乗客たち。

(07)改札が始まった。中国では到着見込みの列車ごとに一定時間、自動改札を稼働させ、該当する乗客を一束にしてホームへと送り込んでいく仕組みだ。放送を合図に人民のみなさんが大集合したので一瞬たじろぐが、みな効率的に入場せんと自然に列を成すところは、まさに今世紀初頭に起こった社会的革命の賜物である。もはやこれは、お上からの押しつけというよりも、個々の旅客の物質的・精神的余裕を感じとるべきであろう。おかげで、最近は旅行中のストレスもだいぶ軽減された。それはそうと、鉄道駅の自動改札といえば切符挿入が基本であったが、ここではなぜかIC身分証のタッチが求められるという、運用上の変更があった。そうした予期せぬ事態に乗客一同まごついているところ、天下御免の日本国パスポートしか持たぬぼくは、右端に有人改札が開いたのを見逃さず、ススッと移動し、真っ赤な表紙を見せただけで楽々これを通過した。

(08)早(つと)に上海を発した高速鉄道は、左右両岸、万重(ばんちょう)のビル群のふもとを呵々(かか)と駆けぬける。ゴーゴーウエスト。小籠包(ショーロンポー)の南翔古鎮、蟹たはむれる陽澄湖、夢の船唄水の蘇州、それから愛と涙の無錫へと、線路はつづく。しだいにぬくぬくした江南の田園が車窓に現れ、各地の都市景観と競演する。ぼくは二等車内にて、ご存じまい泉のヒレカツサンド、昨夕東京で購(あがな)いし折詰の六切れを食す。わが旅のお供は変わりなく美味であった。午前七時五四分、耳慣れた自動音声が、「常州(チャンジョウ)、到了(ダオロ)」と報(しら)せる。走行距離は一六五公里(キロ)、所要は一時間と六分。いにしえの詩仙詩聖なれば論をまたず、大正年間に訪中せし谷崎・芥川でさえも仰天必至の爆速ぶりである。記念すべき当地初上陸。ぼくは荷物両個(リャンコ)を帯びて、気分よくホームに降り立った。グッドモーニング、常州(チャンジョウ)!

常州に初上陸!羽田発の深夜便から滑り出しは快調。

アプリ駆動! さあ歩き出そう

(09)天高くン馬(ま)も蟹も肥ゆる秋。傍(かたわ)らには真白きコーティングに青帯の装い、まさに東海道新幹線生き写しの車体が連なり、少時逗留している。彼は小休憩ののち、終着駅・南京をめざして江南デルタを疾走する。残り区間の安全走行を祈り、ぼくはこれに別れを告げた。イヤホンを外し、サントリー烏龍茶のアルバムを止めて歩き出す。しばし人波にもまれて、降車専用通路から改札を抜けると、そこは駅南広場。振り返りて仰ぐ駅舎はモダンなスケルトン構造、人口四五〇万都市を睥睨(へいげい)していかめしい。ただし、あたりは平凡な駅前風景で、かばん屋に格安旅館に、庶民的な軽食店がちらほら。それだけ。ぼくはここで台湾製の平板電脳(タブレットパソコン)を取り出し、愛用する地図アプリ「高徳地図(ガオドーディートゥー)」でホテルまでのルートを確認した。本日の宿は、漢庭酒店(ハンティンホテル)・常州火車站(駅)南広場店である。検索ののち導航(ナビ)を開始する。すぐさま、歩行四分と出た。なんのことはない、目と鼻の先だ。そのまま駅前の街路を西へと進む。見上ぐれば、街路樹は南国の密林のごとく緑をしげらせ、青空は数朶(すうだ)の綿雲を右へ左へ無造作にあそばせていた。途中、美宜佳(メイイージア)という便利店(コンビニ)で青島啤酒(チンタオビール)三元(約五〇円)とチョコ菓子を手に入れた。店番の青年は接客時ひどく眠そうな顔をしていたが、レジ操作を済ませると即行着席し、まるで仕事に取りかかるような精悍な顔つきでスマホゲームの世界へと戻っていった。余裕のワンオペである。

(10)ぼくが歩いている通りは関河中路(グワンホージョンルー)で、これは関河(グワンホー)なる水路に沿う。隋の煬帝(ようだい)の命によって開削され、今や世界遺産に登録された京杭(ジンハン)大運河、この水運の大動脈が市中で枝分かれして、永く常州城を潤(うるお)してきた。関河はのちの唐の時代に造られたものだが、ともかくそんな由緒ある掘割のひとつである。幅はおよそ二〇メートル。道すがら河は見えていた。だが、ぼくはこのとき関河の氏素性を知らず、やけに発色の良い抹茶色の淀みに向かって、ただ路上から無感動のまなざしを向けるだけであった。

(11)そも常州は二千五百年の歴史を有する城市(まち)である。全国一三五都市が指定を受ける国家歴史文化名城の一つ。だが哀しいかな、メジャーな都市が密集する長江下流域にあっては、どうしても地味な存在に映る。かたや東方には歌に聞こえし先の名城がならび、こなた西側は南京・揚州・鎮江といった天下の古城がそろう。そんな有名どころと比べては形なしである。いちおう人口やGDPといった今どきの物差しで比較すると、常州は江蘇省内でともに五位と揚州や鎮江を上回るが(二〇一九年)、それはそれ。歴史的インパクトや名産には乏しい。

(12)では、今次かような土地へ来たのはなぜか。何をか隠さん、それは羽毛球(バドミントン)がためである。じつは今週、東京五輪の出場権を賭けた国際大会の一つ、中国公開賽(オープン)がここ常州で開催中なのだ。冠スポンサーは羽毛球用具メーカーの台湾ビクター社。もちろん、あの桃田賢斗や髙橋礼華・松友美佐紀ペアをはじめ、世界の有力選手が出場している。それをぜひとも現地で観戦しようと、あらかじめチケットを入手し、ひとり旅の日程に組み込んだのである。今日は大会第四日目にあたる金曜日で、準々決勝が行われる。

(13)ホテル到着は午前八時一五分。鉄道きっぷとともに、大手旅行情報サイトの「携程旅行(通称トリップドットコム)」で事前予約した。フロント女性の迅速なる応対と現下の空室状況により、すぐに部屋が用意された。九階の小暗い廊下の先にある、北東の角部屋だった。小窓からは今しがた歩いてきた関河中路(グワンホージョンルー)がのぞめる。街路をこんもりと覆う巨木の陰から、行き交うクルマや自転車の一台一台が、図々しくも元気ハツラツと目的地へと突進していくのが見えた。もちろん、ぼくの知らないどこかに向かって。特別眺望が良いというわけではないけれど、初めて訪れた町を比較的高層から見おろす機会に恵まれると、やっぱり気分が上がる。今日は天候にも恵まれた。思いがけないアングルから、初見のビル群のぎこちない配列を目にし、動く中国人民の皆さんを俯瞰(ふかん)する。そして蒼天を仰ぐ。むなしい虚像ではなく、華々しい現場の実像を眼下に収めれば、未知なるダンジョンを探訪するぞという気持ちがこみ上げてくる。さあ、万巻の書物やネット空間にも未だ掲載されていない、ただいま絶賛沸騰中のカオスのなかへ飛び込もうというわけである。

漢庭酒店(ホテル)の窓から。抹茶色の関河と並行するのが関河中路。

(14)けれども、そんな張りつめた昂奮や賑々しい好奇心とは裏腹に、実質睡眠ゼロの哀しさで厄介な眠気がもたげてきたことも、ぼくの中ではぼんやりと知覚していた。しかたがないな、小一時間寝るとしよう。部屋のシャワーを浴びてから、ぼくは青島啤酒(チンタオビール)三三〇毫升(ミリリットル)缶一本をくいっと飲み干し、そのままベッドに突っ伏した。乾いたシーツが気持ちいい。案外ぐっすりと眠りこけてしまった。

閑話休題 旅のあらまし

(15)当人が朝寝をしているあいだ、旅のアウトラインをご紹介しておこう。

(16)今回の旅は全五日間の行程である。羽毛球(バドミントン)観戦に訪れた常州で一泊し、次いで内陸の湖北省荊州へ移動して一泊、さらに同省武漢に二泊して帰国する。行き帰りは東京羽田―上海浦東(プードン)の夜行便を利用し、宿泊は基本的に二つ星の商務旅館(ビジネスホテル)を選択(最高級は五つ星)、宿泊代は四泊で合計九千円ちょっとである。高速鉄道の利用は四回、合計一万四千円。あとは食費とタクシー代とその他の買い物で、今回は結局、総額約八万円を要した。三連休を含むシルバーウィークのため、航空券価格は四万円と平時のほぼ二倍、さらに中国国内で長距離を移動、そして各地でタクシーを使いたおしたので、ぼくの中では平年より割高である。仮に五日間、上海周辺に留まるならば、総額四、五万円で十分愉快な時間を過ごせる。とまあ、エコノミークラス感覚そのままの旅である。かといって安旅自慢のバックパッカーを気取る質(たち)ではないし、そのような年齢でもない。簡単にいえば、コスパ重視のせっかちな時短旅行である。地図や旅行グッズや観光情報など、必要アイテムをせっせと仕入れて現地に乗り込み、いくらか感覚優位な態(てい)で未知のダンジョンを冒険しようという、そんなロールプレイングゲームみたいな趣向だ。あらかじめ入念な準備をしてコースをさだめ、名勝旧跡から路地裏までサクサク周遊。そうして、できるだけ現地の等身大風景を目に焼きつける。これがぼくの旅のスタンスである。

(17)さて、野暮な持論はしばらく措(お)くとして、話を元に戻そう。

木漏れ日と人民キッズと

(18)ぼくはホテル到着早々、ベッドに倒れ込み、そのまま一時間半のあいだ仮眠した。身支度を整えて部屋を出ると、時刻は午前一〇時過ぎ。先ほど歩いてきた関河路(グワンホールー)と直交する太平橋路(タイピンチアオルー)、まずはこれを南下する。一階を店舗とする集合住宅が両側に建ちならぶ。広い歩道にはクルマやバイクが停まっており、それをいちいち避けながら歩く。歩行者はまばらだ。三百米(メートル)ほど歩くと、鶴園弄(ホーユエンロン)と通りの名が変わる。途中、大運河のいわば支流を渡る。しばし橋の上にたたずむ。

ホテルが位置する、関河中路と太平橋路の交差点(通勤時間帯)

(19)さらに進むと道路が減幅し、斜橋巷(ショーチアオルー)とまたもや名を変える。右側は小学校のアスファルト舗装された校庭で、子供たちの声がキャッキャと響く。見たところ、五クラスが同時に授業中である。種目は徒競走だったり、鬼ごっこだったり。指定の体操着がないのか、ナイトドレスみたいな派手な格好をした女の子もいる。そうかと思えば、髪を韓流スター並みに決めたお坊ちゃまもいる。ふてぶてしい態度でクラスメートに声をかける男の子は、ガキ大将というより英雄の相である。小皇帝なんて言葉が古くさく感じるほど、すでに自信みなぎる、裕福な子供と見える。教師のほうも、まるで有能なパーソナルトレーナーみたいな感じで新時代の子らを励ましている。しばしば、ピピーッと笛を鳴らし、おごそかに指示を出す。ちょっと口惜しいくらいに、大人の彼らも快活で自信満々に見えた。

(20)ぼくは小学校を離れ、ますますローカル感を増していく街路を歩いた。枝ぶりの良い樹木のあいだから差し込む陽光のやわらかさ、そしてせわしない外部と遮断されたような大らかな雰囲気は、まるで東京近郊の古い団地のようだった。三叉路の木陰では、地元のお婆さんたちが幾人か話に花を咲かせていた。一台のバイクがその脇(わき)を、ブーンと通りすぎていく。ぼくも知らず知らずのうちに、まるで旧友を訪ねていくような穏やかな気持ちにさせられる。時間が止まったような、懐かしき昭和風の光景だ。

空の旅も、今しがた乗ってきた高速鉄道さえも忘れる、のんびりとした情景。

(21)乗り物移動の時間から解放されて、地元民の日常の中にもぐり込む瞬間、その初っ端というのは、毎度こそばゆい感覚をおぼえるものである。スカして旅慣れたふうを装っても、結局は外地人としての自意識に直面して気恥ずかしくなる。それはたぶん、乗客というカテゴリーによって心地よい社会性を得ていた人間が、任意の時点から突然、不要不急の散歩を開始する、自分のその間抜けさに気づいてしまうからだろう。それと、もう一つ。中国の鉄道では、乗客・切符・身分証の三つが完全にそろわないと乗車はおろか駅に入ることもできない(それに、たとえば同時刻または前後の列車を再予約しようとしても、先に確保した分を取り消さないと新規に購入できないようになっている)。駅の入退場から列車の乗降まで、しっかり個人が特定されているのだ。元来はダフ屋取り締まりのため、二〇一一年に高速鉄道切符の実名制が導入された由(よし)だが、それこそ昨今の監視社会化の先駆けのようにも感ぜられる。だからその落差だろう、改札を出て外の空気を吸うと、どうやら娑婆(しゃば)に出たようだなんて安堵に包まれるのも自然な人情である。きびしい監視の目から離れたという実感が、遊子(ゆうし)の心をいくらか弛緩(しかん)させる(まあ最近は街中でも監視カメラが増えて緊張感があるのだけど)。いずれにせよ、日本と中国の間には、時差一時間を超越した、どうにも文章化しにくい心理的段差(別世界感)があるように思える。

まだお昼前、高齢男性が蟹を品定めする。こんな店もバーコード決済に対応。

ノスタルジックな街路をさがせ!

(22)それはそうと、ぼくがどこへ向かっているかというと、目的地は江南を代表する禅寺の一つ、天寧寺である。常州駅やホテルから、南方に約一公里(キロ)の地点にある。そこへ到るまでに、文廟、基督(キリスト)教会、さらに青果巷(チングオシアン)風景区といった名勝旧跡に立ち寄り、ついでに昼食も済ませようというプランである。ぼくは中国旅行を計画するときはいつも、先ほどからご紹介している「高徳(ガオドー)地図」という中華アプリと谷歌地球(グーグルアース)にたよる。まず手始めに、地図でめぼしい名所を洗い出し、優先順位をつける。高徳地図は「大衆点評(ダージョンディエンピン)」という口コミサイトと連動しているので、観光スポットのほか、飲食店や小売店の評価も参考にすることができる。ユーザーが投稿した写真も豊富なので、旅行中のガッカリを未然に防ぐのに大変役立つ。それからぼくは、谷歌地球(グーグルアース)で市内を俯瞰(ふかん)し、昔ながらの建物が残るエリアをしらみつぶしに探す。上空からはブツブツの砂利のように見える、瓦(かわら)屋根の密集が目印である。このようにして、今のところ開発を免(まぬが)れている、雰囲気の良い地区がなんとか判別できるというわけだ。ただし、都市によっては旧街区が根こそぎ破壊され、高層建築ばかりになっていたりもする。だだっ広い土地がすっかり更地になっていて、唖然とさせられることも多い。それはあたかも、巨大隕石の直撃を連想させるほどである。日本人によく知られた数千年の古都でも、残念だが軒並みそんな状況なのだ。

(23)ここ常州の場合も、古い街並みはほとんど残っていない。だからハナから期待薄、ダメ元の構えである。けれども、旅行前に一縷(いちる)の望みをつなぐところが見つかった。それが青果巷(チングオシアン)を含む、京杭(ジンハン)大運河にほど近い地区である。そして地味ながら、興味深い歴史的スポットも見出した。常州文廟と基督教会である。文廟とは、春秋時代の思想家、孔子さまが祀(まつ)られている儒教の霊廟である。孔廟(こうびょう)ともいう。古い町の一角に必ずあるが、この周辺にはたいてい、地元住民が行き交う、昔ながらの落ち着いた街並みが残っている。教会も同様だ。高徳地図でも百度(バイドゥー)地図でもいい。中国の地図アプリを開けば、今も数多くの基督教会が存在することがわかるだろう。新しい景観に見事に溶け込んでいる場合もあれば、しぶとく土地の歴史に密着し、情緒の継承に一役買っている場合もある。

孔子さまはどこへ消えた!?

(24)右折、左折ときて県学街(シエンシュエジエ)を南へ歩いていくと、やがて左側の壁に「縣学遺址」なる文字が現れた。県学とは明代以降の公立学校で、ここで行われる「県試」の合格が、官吏登用試験である科挙挑戦の第一歩であった。この地がつまり、文廟である。孔子を祀(まつ)って学問をおこなう(湯島の御学問所や日本各地の藩校も同様である)。まず目に飛び込んできたのは、円(まる)い池状のちいさな堀だった。これは泮池(パンチー)といって、いうなれば巷間(こうかん)と学問世界との境界である。池の奥に、黒い甍(いらか)をいただく石造りの門。壁は真白に塗られている。趣がある。いいぞいいぞ。ただし門は閉じている。人気(ひとけ)もない。はて、入口はどこだろうか。歩いてきた県学街(シエンシュエジエ)を左に折れ、またすぐ左に曲がる。右手には侘(わ)び寂(さ)びの雰囲気を壊すような、ごくのっぺりとしたビルが接近して建っている(なんだか邪魔くさいなあ)。それでも真っすぐ行くと、文廟のちいさな入口に行き当たった。脇(わき)に「江蘇省文物保護単位 常州文廟大成殿」の石碑。とにかく到着したようだ。つい、中国人風の深いため息をつく。ただ、現在は工人文化宮(先ほどのビルが本館)という施設の一部となり、そちらでは大成殿改め道徳講堂と呼称されているようだ。工人文化宮とは、日本流にいうならば公民館や市民センターのたぐいである。いかにも社会主義っぽい呼び名だが、こういうところは改革開放後もお国柄が残っている。おそるおそる、中へと入る。

常州文廟に到着。右側のビルがくだんの工人文化宮。

(25)大成殿がでんと建つ。青空の下で、くすんだ臙脂(えんじ)の壁と多色の瓦(かわら)が、なかなか渋い味を出している。なだらかな曲線をえがく屋根には、ところどころ雑草が伸び放題。いや、小さな木すら勝手に生えている。おごそかな空気とほのぼのした空気が、本当にいい塩梅(あんばい)に共存する。この大成殿は、南宋の咸淳元年(一二六五)の創建。その後たびたび戦火に遭い、現在の建物は清の同治六年(一八六七)に再建されたものだという。ちょうど徳川幕府による大政奉還の年。こちらでは東太后と西太后による垂簾聴政(すいれんちょうせい)の初期か。さあ、中はどんな具合だろうとさらに接近してみると、意外な光景に出くわした。なんと大成殿の中で、男女二十名ほどが集会の真っ最中であった。そう、ここもすでに公民館として利用されていたのだ。ぼくはてっきり、正面に孔子さまの像があるもんだと予想したが、そうではなかった。室内には木製の椅子がびっしりと並び、左手は舞台、天井にはスピーカーやライトがぶらさがっている。天井扇もビュンビュン高速回転している。嗚呼(おあ)、残念閔子騫(びんしけん)。これには正直がっかりした。

昔は科挙の地方試験会場。孔子さまが盛大にお祀りされているかと思いきや…

(26)で、その場を離れようとしたとき、室内から歌声が聞こえてきた。突然合唱がはじまったのだ。紅岩上紅梅開(ホンイエンシャンホンメイカイ)、千里冰霜脚下踩(チエンリービンシアンジアオシアツァイ)。舞台の上で、老年男性が指揮をふるう。曲は紅梅賛(ホンメイツァン)。革命歌劇「江姐(ジアンジエ)」の主題歌である。ぼくはイントロクイズよろしく、歌いだしで思い出した。昔、池袋の中華系書店で、中共の革命歌と建国期指導者の講話が収められたCDを購入したことがある。大学時代に中国政治を専攻した流れで、ふと往時の世相を押さえておきたいと思い、手を伸ばしたのだが、その中に紅梅賛(ホンメイツァン)も収録されていたのだ。三九嚴寒何所懼(サンジウイエンハンホースオジュー)、一片丹心向陽開向陽開(イーピエンダンシンシアンヤンカイシアンヤンカイ)。この曲はなんでも中国の民謡をベースに作られたというだけあって、中華色たっぷりで、なかなかクセが強い。動画サイトにも多く投稿されており、中には、かつて人民解放軍の明星(スター)歌手であった彭麗媛(ポンリーユエン)が唄うバージョンもある。そう、誰あろう、現国家主席夫人(ファーストレディー)その人である。紅梅花児開朵朵放光彩(ホンメイホワアルカイドゥオドゥオファングアンツァイ)、昂首怒放(アンショウヌーファン)花萬朵香飄雲天外(ホワワンドゥオシアンピアオユンティエンワイ)。ぼくは、鄧小平が改革解放をスタートさせ、日中平和友好条約が締結された、一九七八年(昭和五三)の生まれである。ぼくら世代の外国人にとってばかりでなく、きっと多くの中国の若者にとっても、これらの作品は絶望的に共感できない代物(しろもの)だろう。だが、懐メロや映画から昔の風俗や流行を知るというのは、案外興味が尽きないものである。人種や国籍を問わず、誰しも青少年期に身につけた習慣や思い出とともに、今この時代を生きている。二十一世紀だって同じことである。だから、こういう愛唱歌を通じて、一定の年齢層が共有する「時代の記憶」に思いを馳(は)せてみるというのも、今を生きる相手を慮(おもんぱか)るうえで、必ずしも無意味なことではないと思うのである。喚醒百花斎開放(ワンシンバイホワジーカイファン)、高歌歓慶新春(ガオゴーホワンチンシンチュン)来新春来(ライシンチュンライ)。ここで一節が終わるが、歌はまだつづく。

こちらが大成殿(道徳講堂)の内部、合唱活動の一コマ。

(27)そこへ。ちょっとあなた、何をしてるの? 世話役らしいメガネの女性に呼び止められた。じつは、講堂の戸口から合唱の様子をスマホ撮影している爺さんがいたので、ぼくもつられてカメラを向けていたのだが、爺さんのほうは「オラ知らねえ」とばかり後ずさりして、いつの間にかフェイドアウトしていた。おいおい。取り残されたぼくは、努めて平静を装い、次のように応答した。ああ同志(トンジー)、ぼくは遠路日本より来た游客(ヨウコー)です。いま文廟(ウェンミアオ)を楽しく見学しています。えーと、写真はダメですか? とまあ、不器用に答えていると、ああ、あなた游客なの、じゃあゆっくり見学しなさい、と彼女。中は活動中だから、外を見学しなさい。はーい。先方はこちらの目的が判明すればそれでよかったらしい。職務質問はこれで終了した。ホッと胸をなでおろす。ところでだ。はて、孔子さまはどこへ消えてしまったのだろう。しばらく木陰で佇んでいたぼくは、傍(かたわ)らに催事一覧の掲示をみつけ、それでやっと現・大成殿の具体的用途を知った。ずばり、ここは地元政府や共産党委員会による勉強会の場となっていたのだ。孔廟もいまや、置かれた場所で咲くことにしたのである。

(28)例えばこうである。今月の催し。九月六日、主題「退休不褪色(退職しても色あせない=ぼくの自由訳、以下同様)」。リタイア後の党員の身の処し方をレクチャーするのだろう。読書会、革命芸術鑑賞、地域間交流、聖地観光、ボランティアとまあ、そんなところか。ここは退休(トゥイシウ)と褪色(トゥイソー)をかけて、しゃれているのが遊び心である。九月二七日、「砥砺奮進七十載 初心共築市監夢(建国七〇年、我ら市監局の夢を築こう)」。これは習近平が推している、中国夢(ジョングオモン)なる惹句を意識したスローガンか。ここ数年、行政機関の標語でも企業広告でも、国家主席につづけとばかり、キャッチコピーに夢の字を挿入する大喜利合戦が、中国全土で展開されている。ここはひとつ、みなさんのご家庭や職場でもいかがか。九月二八日、「不忘初心牢記使命(初心を忘れず心に使命をきざむ)」。漢字八字は堅苦しいが、これは公務員研修にありがちなテーマだ。九月三〇日、「伝承紅色基因 争做時代新人(紅い遺伝子を伝承して次世代の人材となれ)」。あとで検索してみると、これも党の教育活動の標語だと判明した。まあ部外者が聴いてもチンプンカンプンな内容だろうけど。

(29)もうお気づきだろうが、おしなべて、ちょっと何言ってるか分からないところがミソだ。道徳は道徳でも、社会主義の道を学び、伝承する学習拠点である。諸子百家の思想や漢詩漢文を習いましょうなんて空気はまるでなく、かつての主、孔夫子(こうふうし)はもはやお呼びじゃないらしい。ぼくなどは、どうせなら何でもありの実情に合わせて、もれなく論語も算盤も革命も講義すればいいのに、などと勝手なことを思うが、先様には先様の都合があるのだろう。異議申し立てはできまい。まあどんな道であれ、彼らにとってみれば、理想を語る仲間がいる、というのが救いといえば救いなのかもしれない。子曰(いわ)く、徳は孤(こ)ならず、必ず隣有り(『論語』里仁第四)。孔子さまの言行録を思い出しながら、ぼくは自分をそう納得させて文廟を出た。

チョコレート色の尖塔

(30)次に立ち寄ったのは、先に述べた基督教会である。じつは文廟に入る前から、前方に教会のすがたは見えていた。工事現場を覆うコバルトブルーのフェンスの先に、ひときわ大きな異国風の建物がその身を現していたのだ。中層からは、鉛筆の先っぽような尖塔がにょきっと生えている。これがなかなか大きい。周囲は、再開発を待つ古い住宅群である。外壁も屋根瓦(がわら)も荒れ放題で、さらなる崩壊と建材の飛散を防ぐためだろう、工事用シートがぞんざいな格好で被(かぶ)せられていた。傾(かし)いだ電柱からは、無数の電線がたわんで垂れ下がり、一部は住宅に絡みついている。おいおい、危ないじゃないか。文廟を出たぼくは、変な事故に巻き込まれないよう、道の反対側から注意ぶかく教会に接近した。チョコレート色の尖塔がぐんぐん巨大化する。先端には、青空をバックに十字架がキラリ。これは見ごたえがありそうだ。ぼくは最後、次々と駆け抜けていくバイクをよけながら、道路を横断し、教会の麓に到着した。あんまり上にばかり気を取られているもんじゃない。危うく一台とぶつかりそうになった。

(31)さて、改めて常州の基督教会を見てみよう。構造上は四階建てと見える。アイボリーの壁に施されたクローバーの文様と、先の尖ったアーチ窓が様式に華を添えている。そして、二階部分の列柱とバルコニー、大きな尖塔、さらに屋根のいたるところに突き出したミニ尖塔が、この教会のメルヘン演出に大いに貢献している。大きな尖塔は、正面を含む四方の面が、やや広い八角錐の形。見事である。ただ、気になる部分もある。なにやら小さな尖塔の先には、ケーキにまぶす銀色の砂糖菓子みたいな装飾が載っている(しかもそのシルエットは団子3兄弟を彷彿とさせる形状なのだ)。教会建築にとんと疎(うと)いぼくも、思わず首をひねった。こんな感じだったっけ。

接近してみるとこんな感じ。とくとご覧あれ。

(32)下部はなお奇観である。なんと、教会の一階には、陝西風ラーメン店、時計屋、琥珀ジュエリー専門店、ネイルサロンなどが、ごちゃごちゃと入居しているのだ。なんなんだ、これは。ちょっと他所(よそ)ではお目にかかれない異業種コラボである。仮に、御茶ノ水のニコライ堂内にロシア料理のロゴスキーとか、あるいは碑文谷サレジオ教会の軒下にクレープ屋とか、そんな組み合わせなら見映えもしようが(あくまで個人的意見です)、これではもろに雑居ビルの態様である。ふとぼくは、六年前に寧夏回族自治区の銀川市を訪れたときのことを思い出した。エメラルドグリーンのドームが美しい、市内最大の伊斯蘭(イスラム)寺院に立ち寄ったのだが、その建物は、表通り側の一階に、伊斯蘭料理店やムスリム用衣料を売る商舗を連ねていた。二〇〇八年の自治区成立五十周年を記念して、現代的な街路が整備されたばかりの市中心部であった。でも、そんな伊斯蘭色の濃いモスク周辺の景観には、とくに不自然さを覚えることもなかった。当該地区の街並みそのものに、信者の祈りとベクトルを共にする、ある種の統一感や同一性が感じられたからだ。ところが、こちらはどうだろう。この斬新な商業主義も中国らしいといえばらしいが、文廟とはまた違う意味で、観覧の方向性を見失いそうである。厳粛なる宗教施設としての矜持(きょうじ)と気合いが、今一つ不足しているのではないか。テナント貸しという副業が、教会の将来の資金繰りを楽にさせるとしてもだ。ぼくは心中でそう悪態をついたが、そうはいいながらも、このユニークな教会の建物が気に入っていた。やっぱり、外観がどうにも可愛らしかったからだ。

ファサードはまた印象が異なる。天を衝くような大建築。

(33)下調べが不足していたので、あとで知った情報を補(おぎな)っておこう。一九一六年、美国(アメリカ)人宣教師がこの地にカトリック教会を開いた。その名は愷楽堂。教会の公式サイトには、創設当初の写真が掲載されている。石造りの堅牢な構えである。で、いまぼくの前に建っているのは、二〇〇四年竣工と比較的新しいものだそうだ(どうりで資本主義的なわけである)。ともかく、紆余曲折はあっただろうが、教会の存在は不変だった。隣接する住宅街にしても、ここまで奇跡的に開発の手が入らず、しぶとく持ちこたえてきたといえる。ぼくが訪れたのは、その変わりばなの時期だったというわけだ。もう少し早く来たかったな。それが正直な気持ちである。でも激動の中国を旅していると、こういうのには慣れっこになる。モザイク状というか、またはコラージュ的というべきか。とにかく、どこでも新旧混ぜこぜの景観が常態なのだ。

(34)それと余談だが、中国の口コミサイトには、この地の思い出、とくに工人文化宮に関する投稿が数多く寄せられていた。ネット上には、主に投稿者の父母の世代が娯楽の少なかりし頃、ここでダンスや映画を楽しんでいたという懐古エピソードが紹介されていた。ぼくが文廟のところで不満を表明した施設は、地元市民の思い出が詰まった、常州の古き良きランドマークだったのだ。

いずれザワつく!? 青果巷

(35)さらに南へと歩いていく。文化路(ウェンホワルー)を行き、延陵西路(イエンリンシールー)を横断、それから正素巷(ジョンスーシアン)に入る。飲食店も目に入るが、客の姿はほとんどない。まっすぐ青果巷(チングオシアン)風景区に向かう。ところでこの風景区とは何ぞや。夫(そ)れいうなれば景勝地のことなりき。有名どころでは黄山とか桂林とか、絶景自慢の景観保護地区に使われる言葉だが、わりと汎用性が高く、町並みの美観を保存している指定地区にもこの語が使用される。さて、青果巷(チングオシアン)は明の万暦年間からその名が残る街路である。今から十年ほど前、地元・常州市によって一帯の保護計画が示され、七年の修復期間を経て、二〇一九年四月に新たに開放された由(よし)である。ただ、それは素晴らしい場所じゃないかと乗り気になるのは早計で、この修復が曲者(くせもの)なのだ。このような場合、古民家がそのまま残されることは稀(まれ)で、もちろん安全上の問題もあるが、新素材によって完全リフォームされてしまうことが多い。それどころか内装にも俄然力が入り、場違いにおしゃれなカフェやぴかぴかのギャラリー等に大改造されることもしばしばである。だから渋好みの客にとっては、期待が大きければ大きいほど興醒めなのである。

(36)やがて雰囲気のある四つ角にぶつかり、右側の民家の壁に丸ゴシックで「青果巷歴史文化街区正素巷出入口」の看板。さあ到着したようだ。で、その民家なのだが、屋根裏付き平屋といった寸法の、こじんまりとした切妻の瓦(かわら)屋根である。道路に面した植え込みと庭の常緑樹は荒れ放題で、なかなかいい味を出している。そして隣の民居はというと、こちらは三階建ての大きな古建築で、白壁に縦横の木柱が張りめぐらせてあるところなどは、遥かかなた四川省福宝(フーバオ)鎮の古民居群のようである。小綺麗に修復されたものより、ぼくはこういうのを見たいんだが。しかし、非情なるかな。これらの建物は高さ三米(メートル)くらいの緑のシートに覆い隠され、部外者によるそれ以上の観察を阻んでいた。オーイ(涙)

(37)いよいよ敷地内に入る。そこへ花柄の日傘を差した女性が颯爽(さっそう)と現れ、風景区の中へ消えていった。白のレース地のワンピースを着て、子犬なんかを抱えちゃっている。コツ、コツ、コツと靴音が遠ざかる。またしばらくすると、今度は上下黒のスポーティーな格好をしたおっさんが手ぶらで入っていく。はて、成功者に人気のお散歩コースなのか。ぼくも続いて進んでいくと、建物を覆う緑のシートがいつのまにか消えて、いよいよ両側に漆喰(しっくい)の壁が現れた。その壁に、山水画と詩詞の描かれた木製の灯籠が掛かっていたりする。ぽつりぽつりと、人もまばらに歩いてはいる。観光客のほか、ゆっくりゆっくりと歩行器を押す老年男性がいるかと思えば、背後からは山吹色のヘルメットに同色の半袖シャツを着用した若者が、大きなストライドで石畳の上を駆けていったりもする(彼の背中には、美団外売(メイトワンワイマイ)の文字とカンガルーのマーク。これは中国で急成長しているフードデリバリーの会社だ)。

(38)けっきょく青果巷(チングオシアン)にいた時間は、わずか十分ほど。ツゥーッと通り抜けただけの観光だった。なぜかというと、メインの小路(こみち)がまるで映画のセットのように作り物感たっぷりで、それと工事自体も未完のため、とてもゆったりと過ごせる風情ではなかったからである。とはいえ、これもリアルな現況ではある。途中からぼくは、「いまは未完の工事現場を目に焼きつけよう。完成後に地元民たちを大勢集客できればいいんだ」なんて悟った気分に自分を誘導し、現時点の景色を写真に撮って歩いた。でも、すれ違う人はみな、実際いい表情をしていた。家族連れはぺちゃくちゃ喋(しゃべ)りながら古建築の茶店をひやかして歩き、老夫婦は昔を懐かしむようすで、橋の上から舟を眺めていた。舟の上では、根気よく運河のごみや落ち葉をかき寄せる作業員のおじさんがいた。それはそれで、見ていて飽きない風景だった。中国の旅先で舟を見つけたりすると、反射的に屈原の詩「漁父辞」のイメージが意識にのぼって、その舟を操るのが人生を達観した名もなき哲人に思えてくる。ざわついた街中にあっても、水上には別の時間が流れている、ふだん自分を取り巻く世界とは異なる、時の流れがある、などと考えてみたりする。そこにたゆたう舟と人を見ていると、思い詰める気持ちがふっと和らぐ。だから、歩みを止めてぼんやりと、運河や舟を眺めたくなるのだ。ぼくも、そしてたぶん彼らも。近い将来、この新スポットが完成して、大勢の観光客が食べ歩きしたり、自撮りしたり、談笑したり、諍(いさか)いをしたり、将来を語ったり、そんなふうに思い思いの時間を過ごすようすを想像し、ぼくはひとり莞爾(かんじ)と笑ひてこの風景区から退出した。

抜け感が良く、たしかに見映えはするのだけど・・・
どうか安全第一でお願いします。いつかまた来るよ。

水餃子に告ぐ

(39)ここまで来ると、天寧寺までの道のりはあと少し。だが、時間は早いがこのへんで最初のチャイナ飯をいただく。というのも、午後の羽毛球(バドミントン)会場は再開発区域にあり、ほぼ陸の孤島。まともな食事がとれない可能性が高い。このため昼食は天寧寺付近で、と散策の前にアタリをつけておいたのだ。連鎖(チェーン)店よりも庶民的な人気店、変わりダネより食べ慣れたもの。そんな願望を満たすべく浮かび上がった店が、麻巷(マーシアン)のという通りにある李記鍋貼(リージーグオティエ)だった。鍋貼は焼き餃子のことで、もともと水餃子や蒸し餃子の食べ残しを焼いて食べたことからそう呼ばれている。戦後日本で広まったのは焼き餃子のほうだが、大陸では断然、水餃子万歳。だいぶ様相が異なる。青果巷(チングオシアン)を出て和平北路(ホーピンベイルー)を横断。運河にかかる新坊橋をわたり、いよいよ麻巷(マーシアン)に立ち入る。そうそう、このアーチ型の石橋がなかなか重厚なフォルムで良かった。一九八七年再建とのことだが、もとは梁の大同元年(五三五)創建で由緒あるものである。ぼくは一目で気に入り、用もないのに上り下り二往復した。

工事中の歩道を行けばいいのだが、ここは敢えて石橋のほうへ。

(40)この麻巷(マーシアン)は、運河を背にして庶民的アパートが建ちならぶ、東西四〇〇米(メートル)強のなんでもない裏通りである。病院があるせいか、お年寄りが多い。麺など食べさせる軽食店やジューススタンドが目につく。ほどなく、お目当ての李記鍋貼に到(いた)る。開いててよかった。間口は約二間、正面突き当たりがレジと厨房入口になっていて、左右に客席。街の小さな食堂、定番のレイアウトである。テーブル六席、定員は二四名。席はほぼ埋まっているが、ぼくは最後の空席をみとめてこれを確保し、注文を思案した。一皿六個の鍋貼(グオティエ)が五元、他にも、オーソドックスな粉絲湯(フェンスータン)、牛肉面(ニウロウミエン)、砂鍋米線(シャーグオミーシエン)といった定番の品が一〇元から二八元の値で並ぶ。ぼくはわりと奮発して、焼き餃子と砂鍋牛肉粉絲湯(シャーグオニウロウフェンスータン)、すなわち牛肉と春雨の土鍋スープの二品と決めた。しめて二五元。レジ横の席で男性が食べているのが美味そうだったので、同じ物を注文したのである。ちなみに粉絲(フェンスー)とは春雨のことで、米線(ミーシエン)はいわゆるライスヌードルの一種である。今日は餃子で白飯を食うという、身体に染み込んだ日本式を通す。しかも大きな声では言えないが、日本の醤油を少量バッグに忍ばせてきたのだ。郷(ごう)に入ればなんとやらで本場の黒酢がけも悪くない。だがせっかくなので、好みの味で頂いてみたいというわけである。

賑わいを見せる店内。たたずまいは地味だが期待できる。

(41)待つこと数分で料理がやってきた。餃子は小ぶりだが、皮がカラッともっちり、いい感じである。さっそく頬張る。うむ、やっぱりご飯に合う。これこれ、カンペキだ。ぼくだって、今まで中国の安食堂の暖簾(のれん)をくぐれば定番の水餃子を注文するのが常だった。旅のさなか、体調を崩したときでも安心して食べられる一品だ。腹をくだし、養生の末にようやく街中の食卓についたとする。そうすると迷わず水餃子をたのむ。大碗着(ちゃく)して口に運べば、温かい茹(ゆ)で汁がたちまち優しい感触で喉(のど)を通過し、大地の洗礼を浴びたわが胃と出会う。そしてホロホロになった餃子の具材が遅れて到達し、滋養をたっぷりと届けてくれる。数日のあいだ、外部から進入する食料を何も受け付けなかった己の臓腑が、かくして調子と活力を取り戻したなんてことを、かつて何度となく経験した。水の良くない中国を旅していると、水餃子のような温かく食べやすい物を自然と欲するようになる。とくにミネラルウォーターが普及しておらず誰もが湯冷ましを携帯していたような時分は、そうやって自分なりの「避難先」を見つけるしかなかった)。そして実際、現地で食べた水餃子はたしかにみな美味かった。また各都市の食堂でよく見かける光景だが、たとえば塾帰りの子供と迎えの親とが二人、卓を挟んで水餃子をつついてる場面なんてのも、なかなか現代的で微笑ましい画(え)なのだ。水餃子は大陸に根ざした食べ物である。そんな印象が強い。しかれども。話は脱線したが、本旨はこちらである。日本の老百姓(ラオバイシン=庶民)から言わせてもらうと、水餃子は所詮、焼き餃子に敵(かな)うご飯の友ではない。華人は餃子を主食とみなすから、これをおかずに主食を食べたりはしないが、焼き餃子とご飯の組み合わせは、やっぱり何と言われようと「鉄板」なのである。そんなに力説することはないが、事ここにいたり、ぼくは中国・常州の当食堂において、今後は大陸でも焼き餃子を贔屓(ひいき)にすることを宣した。愛すべき水餃子は、やはり「非常食」として頂くことにしよう。

鍋貼と砂鍋牛肉粉絲湯。日本の食堂にも、こんな鍋系メニューが欲しい!

(42)一方の春雨鍋はというと、牛肉、白菜、長葱、えのき、木耳(きくらげ)と具だくさんで、これまた体にやさしい一品である。苦手な香菜(シアンツァイ)は取り除かせてもらったが、水餃子諸共(もろとも)、これもちょいちょい醤油を付けて美味しくいただいた(欲を言わば、ポン酢でも食べてみたかった)。栄養バランスが良くて、お手ごろサイズ。こんな素朴な鍋料理が、中国一人旅にはちょうどいい。砂鍋(シャーグオ)の美味しい店に出会うと、旅行中の食事がぐっと楽しくなる。以前、ずっと内陸の甘粛省天水市(言わずと知れた蜀漢の姜維将軍の出身地)を訪れたときには、宿近くの砂鍋(シャーグオ)専門店が気に入ったため、立てつづけに昼夜通ったことがある。安パイの鍋をつつきながら、卵と西紅柿(トマト)の炒め物、蒸し鶏といった小皿料理をつまみ、常温の啤酒(ビール)を飲むというのが、ぼくは中国っぽくて好きだ。さてと、こうしてぼくは裏町の美味と出会い、調子よくパクついていたのだが、途半(みちなか)ばで早くも満腹感をおぼえ、まもなく箸が止まってしまった。メインの餃子を完食し、鍋の中の野菜をかきこんだところで、あえなく札止め。食べ残しに一礼し、箸を置いた。いや、ハズレも覚悟の個人旅行の食事にしては上首尾であった。これで夜まで腹はもつだろう。

(43)時刻は一一時半。平板電脳(タブレットパソコン)で地図を眺めながら一息ついていると、ジャージ姿の女子中学生グループがどやどやと入店してきた。やはり人気店のようである。席にはまだ余裕があったが、ぼくはどっこいしょと立ち上がるタイミングを得て、入れ替わりに店を出た。皿を片づけに来たおばちゃんにお礼を言いながら。学校帰りに立ち寄れる普通さがいいじゃないか。常州に再訪することがあれば、またここに来るだろう。そうそう、意外だったのが、この店ではデリバリーサービスも利用できるということだ。各テーブルには、それを示すステッカーが貼ってあった。アプリ名は、飢了麼(オーロマ=お腹がすいたかいの意味)という。「本店已(すで)ニ加盟セリ」とあり、二次元QRコードも印刷されている。あとで調べてみると、これは二〇〇九年にサービスを開始した業界古参である。今では阿里巴巴集団(アリババグループ)の傘下。巷(ちまた)のサービスもお客も、そして素朴な食堂もみな急ピッチで進化しているのかもしれない。

(44)腹ごしらえが済むといい塩梅(あんばい)に緊張がほぐれ、ようやく自分の体が中国になじんできたように感じる。さあ、もう目と鼻の先だ。天寧寺を拝みに行こう。阿弥陀佛(オーミートゥオフォー)!

爆詠みしてみた! 一五三米の高層仏塔

(45)わが食道街にして胃袋の新朋友、麻巷(マーシアン)を過ぎて延陵中路(イエンリンジョンルー)を横断したところに、その境内は広がる。唐代に開山、のちに北宋のとき現在の寺号となった。現存する大寶雄殿・普賢殿・金剛殿・羅漢堂などは清代のものだが、やはり文革のときに破壊、のちに修復されたという。ちなみに、江南地方が大のお気に入りだった清の乾隆帝は、北京からわざわざ三度もこの天寧寺を訪れている。さて、現時点で読者諸兄の大部分はご案内がないと思うが、この禅寺にはなんと高さ一五三米(メートル)の仏塔が鎮座する。二〇〇七年に完成した、ピッカピカの十三重の塔である。名を天寧宝塔という。ぼくは、数年前に上海の書店で求めた『尋找中国最美古建築・江南』というガイドブックによってその存在を知った。精緻(せいち)なカラーイラストが豊富で取っつきやすく、おまけに手ざわりの良い、なかなか実用的な観光攻略本だ。日本人にもなじみ深い江南エリアを対象に、有名な歴史的建築スポットが二十カ所ほど紹介されている(ただし再建ものも含まれる)。たとえば、世界遺産に登録されている蘇州の拙政園や留園、あるいは無錫の錫恵公園、南京の秦淮河風景区とまあ、そんなラインナップである。そのなかで見つけた驚愕の「超高層」仏塔が、この天寧宝塔であった。他の由緒(ゆいしょ)正しきスポットとはなんだか毛色が違う気がしたが、これもご縁である。近くに泊まっておいて素通りする法はない。

高さ153mの仏塔がこのアングルで見えるほど、境内全体も別格のサイズ。

(46)中国の禅寺らしく、鮮やかなイエローの壁に出迎えられる。この色がほんとうに眩(まぶ)しい。思えば揚州大明寺(西暦七五四年に渡日した鑑真和上ゆかりの寺)の山門も、蘇州寒山寺(蘇州夜曲の詞のなかで鐘が鳴る寺)の照壁(しょうへき)もそうであった。鎮江金山寺にいたっては、大小さまざまな様式の伽藍(がらん)によって、山がまるごと真っ黄色に染められていた。あれは壮観だった。售票処(ショウピアオチュー)(切符売り場)で二〇元を払って入場する。チケットには大仰(おおぎょう)にも、「香花券二〇元、千年古禅寺・神州大佛塔、国家4A級旅游風景区」などと書かれている。国家4A級とは中国国家旅游局による名勝旧跡の格付けで、最高が5Aである。緑濃き境内を進む。大寶雄殿には赤銅(しゃくどう)の仏像が何体もならんでいて、それは豪勢なものだった。殿内を移動して裏にまわると、天井まで届く極彩色レリーフが垂直に屹立(きつりつ)している。おもに青、緑、茶に塗られた壁には、太陽や雲や象をかたどった物のほか、おびただしい数のちっちゃな神様たちがじつにファニーな表情をして、それぞれの持ち場(くぼみ)に納まっていた。境内では、ほかに金ピカの五百羅漢や日時計の役を果たした石板を参観した。羅漢さんはみな服装、髪型、顔つき、表情、姿勢、動作すべてが異なり、じつに個性的で(たいていはヘラヘラ顔である)、彼らが階段状に四段構えで回廊のガラスケースにならぶさまは圧巻だった。東京の街ナカ駅ナカにこんな多幸感に満ちた、のんきな像があふれていれば、重苦しい日本人の顔にも笑顔が増えるのではないか。ふと、そんなことを考えてしまう。

ノリノリな表情の羅漢像。

(47)境内の北端。いよいよ巨大な仏塔モニュメントの登場である。

画角いっぱいの高さにただ圧倒される。基壇の右下が塔内部への入口。

(48)平日の真っ昼間でもあり、人はまばらだ。数棟の高層ビルがはるか遠くに望める。目に入るものは、あと青空と雲だけ。塔も高いが、基壇の大きさにも圧倒される。高さ六米(メートル)を超えるだろうその壇には白亜の欄干がめぐらされ、そこかしこに有り難い文言が金色でしたためられている。仏や象や四大天王の巨像も、豪華スター勢ぞろいとばかり脇(わき)を固めて建つ。地上近辺の観察だけで、すでに現世感がぶっ飛んでいる。その上の塔については、もはや何も言うことがない。なにせ一五三米(メートル)の高さである。さて、先述した事典で塔の存在を知ったとき、ぼくは一瞥(いちべつ)して、これを古建築と呼んでいいものかな、と首を捻(ひね)ったものだ。そしてここに到って、よけいにその思いを強くする。なぜといって、塔は誰が見ても新作であるし(建立わずか十三年といえば若造中の若造にちがいない)、またその異次元な寸法がことさら生々しい現代性を「観客」に突きつけてくるからだ。かつて全中国を代表する観光スポット、杭州六和塔、西安大雁塔、あるいは蘇州虎丘の斜塔(霊岩寺塔)を訪れて目前に仰いだときは、決してそのようなことはなかった。それらの建造物には、まさに背中の瑕(きず)で歴史を語るような、重厚で有無をいわせない説得力があった。だが、ここの見学者たちは観光というよりも、まるで新築マンションの見学に訪れたような、さぐりさぐりの顔で塔を見上げている。ぼくにしても、この塔は現代の機械がこさえた工業製品だという事実に押され、そこに込められた慈愛の精神とか、崇高な魂に心が及ばないのである。しかも、いろいろ構図を変えて写真を撮ろうとするが、うまくやらないと画角に収まらない。そのために、小さな参観者たちがみな遠巻きなのである。ふしぎな光景だ。けれども、ぼくがこの常州の天寧宝塔にガッカリしたかというと、そんなこともない。共感されるかどうかはさておき、こういうコメントや表現のしがたい、シュールでちぐはぐな光景こそ、誰かさん経由でなく自分の足で訪れて実見・嘆息する値打ちがある、中国の実景だと思うからである。途方もなくビッグなものを外連味(けれんみ)なく建ててしまう、その豪快さと空気の読まなさを、自分なりに正しく体感したいのだ。さて、この感興をどのように表現しよう。ぼくは、詩仙とよばれた唐代の大詩人にならい、一首詠(よ)むことにした。

  茫然 仏塔を看(み)る
  疑うらくは是(こ)れ 天空の城かと
  頭(こうべ)を挙(あ)げて 御利益を望み
  頭(こうべ)を低(た)れて スペックを尋ぬ
   *原詩「静夜思」 牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷

『唐詩選』にも収録された、盛唐の李白(七〇一―七六二)の代表作。これを現代風に改めてみた。いま頭を低れて為すことといえばスマホ操作である。中華圏では歩きスマホの人を「低頭族(ディートウズー)」と呼ぶらしい。大きすぎる仏塔を前にして手を合わせつつ、気になることがあるとつい検索に走る習慣が出てしまう(ちなみに建設費を調べてみると三億元と出た)。おいおい、そんな野暮な詩があるかという読者は、このマヌケな「替え歌」を読んでから元ネタの名詩を音読してみてほしい。一見取っつきにくい書き下しの構文が頭に入ったせいで、おそらく唐代セレブのつぶやきがより身近に感じられるようになったはずだ。寝床に差しこむ月光を看て、李白先生は故郷に思いを馳(は)せた。さあ、どうか愚か者の駄ポエムを踏み台にして、豊かな漢詩の世界を旅してみてください。

間近で見ると、仏や象(奥)も迫力のサイズ。

過激にアバンギャルドな!? 常州仏閣図鑑

(49)近年中国では、うなる人民元を投じて、お釈迦さまも達磨大師もビックリの宗教建築が全国各地に出没している。雨後の笋(たけのこ)のごとく、覇を競うがごとく。そう、試みに無錫霊山大仏、宝鶏法門寺、南京牛首山と検索してみてほしい。出てきた画像のその破格のスケールと奇抜な外観に、我邦の善男善女ことごとく喫驚するだろう。山を削り、地を開き、金ピカ御殿を建ててしまう。どうしたらこのような資金が調達できるのか不思議でならない。最初はぼくも、本当にこの世の景観かと目を疑ったものである。二十一世紀の中国ではごく普通に、ぼくらの常識を超えたものによく出会う。我々日本人のユルい理解や共感にはとても収まりきらない、中国的特色をもった社会と風景。それは、真新しい高層ビルヂングや、資本主義に突き進む人民の皆さんの姿ばかりに留まらない。寺廟もまた時代の半歩先をめざして、とんでもない方向に疾走しているのだ。

(50)ところで、宝塔そばの一角に、大きなカラーパネルがずらりと設置されている。これは近年、他の寺廟が潤沢な資金でいかに整備・再建されたかを示す、青空プレゼンコーナー。みな圧倒される豪華さである。まず武進大林禅寺の七層の楼閣に驚いていたら、上には上がいた。淹城寶林寺の観音閣は巨大化した蜂の巣みたいなビックリ造形だし、慈山寺の伽藍(がらん)は外観・内観ともすべて東南アジア風で、方丈(ほうじょう)の屋根にはそれぞれ金の小塔が屹立(きつりつ)する。泰(タイ)式だと説明してあるが、本当にその宗派なのだろうか。また三聖禅寺は、地平線が望めるのどかな環境なのに、その敷地だけ大小殿宇(でんう)が密集して、いかついかぎりである。まるで武闘派豪族の砦(とりで)みたいだ。そして、この寺の境内には、共産党の精神を学習する陳列室まで内蔵されている。むむむ、外側も内側もまったく理解不能だ。しかも、これらは同系宗派の他省の例だろうと思っていたら、どれも常州市内の寺だという。パネルの片隅には小さく「常州佛教撮影図片展」と題してあった。これらのトンデモ物件は、江南の一都市の事例にすぎなかったのだ。一枚一枚写真を見るだけでも胸やけがする。しかし、これもリアルな時勢には違いあるまい。どえらいものである。ぼくは、以前観た「空山霊雨」(一九七九年)という香港映画を思い出した。ある政府高官と江南の富豪が、山奥の名刹(めいさつ)の有力な檀家として登場し、寺の後継者問題と秘蔵の経典争いにからんで工作・対決するという筋書きである。彼らは表向き友好的だが、ともに忍びの者を雇い、裏で派手にやり合う。明朝時代を舞台にした、ツッコミどころ満載のアクションものだ。しかし、いまこのようにして中国仏教界のマネーの力を見せつけられると、あの作品を荒唐無稽な物語だと決めつけていた気持ちが、すっと失(う)せていく。さらに余談だが、いま作者の手元に、一九八〇年代中国の新聞・雑誌向け投書記事を集めた、辻康吾『中華曼荼羅―「10憶人の近代化」特急』なる本がある。ここに、いみじくも江蘇省武進県(現・常州市の一部)の自宅建設エピソードが紹介されている。曰(いわ)く「建設費半分、飲み食い半分」と。すなわち、農村で家を建てたら、材料費や工賃に一六〇〇元(当時のレート換算で約三二万円)、職人の飲食費や酒タバコに一六〇〇元を要した、これでは「家は建てられるが食わせ切れない」というのである。四十年前の話とはいえ、そんな土地柄であり、お国柄である。ぼくは一五三米(メートル)の塔にお辞儀をして、そっと踵(きびす)を返した。滞在時間は約四十分。ぼくは天寧寺を退出した。ふたたび拝もう。阿弥陀佛(オーミートゥオフォー)!

淹城寶林寺。奇抜すぎる造形、謎のコンセプト…どうしてこうなった!?

ダフ屋がいっぱい

(51)いやはや、正午をゆうに回っている。急ごう。天寧寺の門前で運よく出租汽車(タクシー)をキャッチし、羽毛球(バドミントン)会場である常州体育館に向かう。初乗りは六元と、上海の一四元(当時)と比べてかなり安い。クルマは北上して常州駅前へ、それから西進して関河中路(グワンホージョンルー)、さらに晋陵中路(ジンリンジョンルー)を北へ。整然とした街路を進むこと五分余、なだらかな卵型フォルムの巨大建造物が右手に現れた。鈍い銀色に覆われ、平和な青空に流線型の「稜線」がまぶしい。半身は豊かな植栽にその身を隠している。欧州のサッカースタジアムにありそうな、すぐれて未来的なデザインである。まるでドーナツ型の宇宙船があえなく不時着し、地中に埋没したようにも見える。どうやら到着したようだ。そこは多目的競技場と体育館のほかに、游泳館(プール)、健身倶楽部(フィットネスクラブ)、そして体育専門病院を併置した公立複合施設である。クルマを降りて、さあ会場へと向かう。走行距離五・五公里(キロ)、運賃は一一・五元(約一八〇円)だった。

オリンピックセンターに到着。目の前の施設は屋外競技場。

(52)体育館入口に到着すると、そこには意外な光景が広がっていた。観客にも大会関係者にも見えぬ、短髪の中年男たちの場違いな密集。彼らはあたりを見まわしながら、落ち着かないようすでうごめいている。その数三〇名ほど。中には「収售(ショウショウ)」と印刷した紙を堂々と掲げた者もいる。(チケット)買います、売ります。なるほど。そういうご職業の方々か。しかし、白のポロシャツに黒ズボン姿に統一されているのは、なにか内輪の取り決めなのだろうか。別に笑うところではないが、まるで近所のゴルフ好きおじさんが湧いて出てきたような、ある種のコントっぽさを醸(かも)し出している。ただ、こう言っては語弊があろうが、ひと昔前に日本の野球場などにたむろしていたダフ屋よりも、ずっとこざっぱりとした印象を受ける。そして、荒っぽい威圧感でなく、むしろ口八丁手八丁で「取り引きしてやる」といった了見が見え隠れする。とはいえ、当然彼らに用はない。一見(いちげん)の遊子、危うきに近寄らずだ。ぼくは澄まし顔で、彼らのあいだを縫うように入場口へと向かった。調子に乗って、ここでも爆詠(ばくよ)みしておこう。

  黄牛(ホンニウ)三十人
  需(もと)めに縁(よ)りて 箇(かく)の似(ごと)く多し
  知らず 大会期間内に
  如何(いか)ばかりの 口銭を得たる
  *原詩「秋浦歌 其十五」 白髪三千丈 縁愁似箇長 不知明鏡裏 何処得秋霜

同じく李白の「白髪三千丈」のパロディー。黄牛はダフ屋のこと。あるいは、彼らの圧が物凄かったので、悪ノリして三千人と誇張してもよろしい。これも今一度、原詩を味読されたし。さて、入口には門の役割をはたす、青と黄色のそれっぽいモニュメントが設置され、威克多中国羽毛球公開賽(ビクター・バドミントンオープン)、中国・常州とあった。それはいいのだが、幼顔(おさながお)の男女、チケットのもぎり役が二人、鉄柵に寄りかかり突っ立っているのがどうにも頼りない。ともにダボっとした私服姿だからなおさらだ。外のダフ屋たちの方が、よっぽど良い仕事をしそうである。ぼくが彼らの鼻先にチケットをかざすと、二人はまるで初めてそれを見るようなキラキラした瞳で覗き込み(しかも二人がかりで)、それから入口を指さして、行けという。こういう自然体なところが、いかにも中国らしい。でも、憎めない笑顔だった。

いよいよ試合会場の体育館へ。右の学生風の男女がもぎり。どう見てもユルい。

羽毛球! 羽毛球! 羽毛球!

(53)会場内は、平日昼間とあってスカスカだった。正面・向正面・左右とも、客席のごく前方に人間が集中し、二面のコートに静かに視線を当てていた。とはいえ、この体育館は収容人数六千人超。本邦になぞらえば、代々木体育館以上、東京体育館未満といったサイズ感である。さて、賞金総額百万美元(ドル)の中国公開賽(オープン)、準々決勝。今日は午前一一時からのスタートなのだが、ぼくは入場時点で、女子単打(シングルス)の高橋沙也加選手が第6シードのインタノン(印度尼西亜=インドネシア)選手を破って準決勝進出という快挙を知る。また混合双打(ダブルス)の渡辺勇大・東野有紗ペア(東京五輪で銅メダルを獲得)は韓国ペアに破れていた。やれやれ。これは微妙に出遅れてしまった。主に朝寝と下町めぐりのせいだが、試合展開も意外に早かったようだ。こうなれば仕方ない。

優勝トロフィーは龍をかたどった意匠。常州に「龍城」の異名があるためか?

(54)ちょうど片側のコートでは、女子双打(ダブルス)、地元中国選手どうしの戦いが繰り広げられていた。別のコートでは、男子単打(シングルス)のベテラン・周天成(台湾)と22歳のアントンセン(丹麦=デンマーク)との試合。目の前の座席には親子二人連れがいて、父親が「小天加油!(シアオティエンジアヨウ)」と叫んで台湾選手を応援。幼い男の子もこれを真似する。しかし、アントンセンが長い手足を活かしてトリッキーな守備を連発、試合をリード。そのたびに場内の声援も大きくなる。さすがは平日昼間の観戦客。根っからの羽毛球迷(バドミントンファン)なのだろう。選手の一挙手一投足、そして攻守ともども一流プレーを楽しんでいるようだ。アントンセンには、一度自分のラケットをかすめた球に対し、反射的にさらに後方へ追いかけるような動きもあった。結局周の得点になったが、その執念と運動神経やみごと。いま会場で唯一の西洋人ながら、なんだか東洋のアクションスターの如(ごと)き佇(たたず)まいである(そりゃ地元客も応援したくなるだろう)。コートに這(は)いつくばるダイブも幾たびか見せる。試合は2─1でアントンセンが勝利した。

(55)だんだん、観戦スタイルの勝手が分かってきた。応援方法はごくシンプルで、加油(ジアヨウ)を連呼。たとえば、ペアだと「選手名A加油(ジアヨウ)! 選手名B加油! 中国隊(ジョングオドゥイ)加油!」の大合唱となる。これを小さな子供が始めると、後を受けて「唱和」する観客も自然と多くなる。長いラリーになると、客席にうめき声、笑い、呟(つぶや)きがあふれる。あとたとえば、相手選手の苦しまぎれの甘い返球があってチャンスと見るや、「来了(ライロ=来たぞ)!」などと声がかかり、みごと中国選手がそこで得点を挙げると、場内大歓声に包まれる。バルーンを打つ音も連動して大きくなり、人数が少ないながらも閉鎖的な空間にドスンドスンと響きわたる。それと賈一凡(ジアイーファン)・陳清晨(チェンチンチェン)ペアだったと思うが、混合双打(ダブルス)の中国女子選手が17対20から、まるでリオ五輪決勝の松友選手のようにネット前に詰めて連続ポイントを挙げ、さらにデュースとしたときは、場内沸(わ)きに沸いた。と同時に「アイー、ヤー」なんて深いため息も各所から聞こえてくる。こういう地元民だらけの観戦風景というのは、各家庭のテレビ桟敷にお邪魔しているような感覚になれて、結構楽しいものである。ほんとうに余談だが、日本でも大相撲の大阪場所を観戦したりなどすると、マス席、イス席とも体育館全体が関西風お茶の間空間と化して、東京の人間からするとなかなかユニークな異文化体験ができるのだ。関西弁が染みついた面白留学生とからんだり、こなれた夫婦(めおと)漫才を間近で聴けたりすると、もう多幸感満載。けだし言葉の壁があろうと、中国でのスポーツ観戦もまた、旅行者にとって「穴場中の穴場」といえるのではないだろうか。

(56)ここでお断りするまでもないけれど、ぼくはもともと熱烈なる羽毛球迷(バドミントンファン)というわけではない。中には、一般人がなにゆえ中国まで来てスポーツ観戦してるのか、いぶかしく思う人があるかもしれぬ。いま内村鑑三ばりに、余は如何(いか)にして羽毛球迷となりし乎(か)、とわざわざ因縁を語るものではないが、その経緯と観戦履歴を少し書いておこうと思う。

(57)答えはかんたんである。二〇一六年奥運会(オリンピック)の羽毛球女子双打(ダブルス)決勝を、ぼくは深夜中継で観ていた。高橋礼華・松友美佐紀ペアがめでたく金メダルを獲得した、最終ゲーム大逆転劇のあの試合である。ご記憶の方も多いだろう。一進一退の攻防はみごとだったし、じつに感動的だった。あとで、最終5連続ポイントの映像がくりかえし放送されたせいで、記憶がすっかり上書きされてしまったが、最終ゲームはほんとうに激しいデッドヒートだった。ぼくはこのとき、生まれて初めてこの競技をじっくりと見た。今思うとラッキーだった。それで、翌々日の男子単打(シングルス)決勝もテレビ観戦した。そうして何試合か見ているうちに、世界ランキングを賑わすトップ選手たちのオバケすぎる運動能力や技のキレ、クレバーな戦術、そしてペアごとに異なる(ように見える)ダブルスのコンビネーションスタイルに、じわじわと魅了されていった。また、アジアの国々に強豪国が多いけれど中国一強というわけでもない、羽毛球ならではの勢力図にも惹かれた。そうなると今度は、各種サイトや雑誌などをたよりに、国内外の試合日程や目下の世界ランキングなどを確認、都内の体育館でいくつかの大会を観戦するなどして、ホンモノの興奮を味わった。これで、にわかファンの出来上がりである。これまで中国旅行のあいだも、街角や公園で羽毛球に興じる人たちを数多く見てきた。卓球とならんで国民的人気を誇る、いわば国技というイメージがある。そこで、チャンスがあれば是非、本場で観戦してみたいと目論むようになった。そんななりゆきで、今回は常州に乗り込んできたのである。もちろん海外ツアーで日本選手が活躍する様子も見たかった。金曜日の準々決勝に合わせて来たのも、タカマツペアや桃田賢斗選手ら各種目の代表が大勢出場すると見込んでのことである。

(58)さて、一四時ごろ、混合双打(ダブルス)の金子祐樹・松友美佐紀ペアが登場したが、これは第1シードの中国ペアに15点、15点で敗れてしまった。以降は韓国、中国、印度尼西亜(インドネシア)、印度(インド)と外国選手の試合がつづくので、いったん客席から退出する。なお館内では、即席の弁当売場に羽毛球用具販売コーナーが営業中、中央には大会トロフィーが展示されていた。それとおかしかったのが、兵馬俑の人形が馬上で体操競技をしている、青銅器風モニュメントである。馬の背に手をつき、無表情で上体を仰(の)け反らせている姿には笑ってしまう(ギャクと本気の境がつかめないのだ)。常州にお出かけの際には、ぜひお立ち寄りを。

見上げてごらん市政府ビルを

(59)ぼくはいったん観戦を切り上げ、夜の試合まで外へ出ることにした。まずは、常州博物館へ。場所は体育館の区画の西隣だが、歩けば少なくとも十分はかかる。

(60)公道に出て周囲を見まわすと、そこは都市建設シミュレーションゲーム「シムシティ」で造り上げたような新都心的空間だった。これに似たるは上海・浦東(プードン)新区か、千葉・幕張新都心かという、絵に描いたような人工的ストリートビューである。数時間前にのどかなひとときを過ごした、潤(うるお)い豊かなオールドタウンとは正反対。とりあえず清潔感は申し分ないし、なんなら緑にも富んでいる。だから殺風景というわけではない。でもまるで都市計画模型のなかに放り込まれたようで、いささか心細い。

体育館から退出したところ。大通りの向かいに市民広場が広がる。

(61)そんなことを言うと、でもねえ、日本を脱して異国に来れば、そんな眺めは幾らもあるんだよ、という至極真っ当なご指摘が脇(わき)から聞こえてきそうだが、これはなにも街区の規模感や特殊な景観のせいだけではない。今回の訪中前から気づいていたのだが、体育館の周辺地にならび建つのは、たとえば常州市人民政府、市公安局、はたまた税関、海事局など、畏(おそ)れ多くもかしこくも、ちょっぴり硬派な行政機関のお歴々なのだ。付近には他にも、現代伝媒中心(メディアセンター)(これは媒体集団(メディアグループ)である常州広播電視台が所有するビル)、さらに実験中学に実験小学といった、およそ漂泊者や風来坊を寄せつけない感じの、ザ・中華ファーストな施設が大集合している。誰しも数歩ゆけば、ゆるい街場とは完全異質な空気を感じ取ることだろう。頭上の監視カメラの数も、心なしか多い気がする。べつに旅行者ふぜいが、わざわざ紅い印籠(いんろう)の前に出(い)でて三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)する義務はないけれど、なんたってここは中国である。この手のマッチョな新都心ゾーンに足を踏み入れると、どうしても模範的公民の行動を暗に要求されているような、そんな名状しがたいストレスと違和感をおぼえる。さあ、ここも唐の詩人に助けを求めよう。

  門を出(い)でて食う所無し
  秋風 無人の新都心を掃(はら)う
  畏(おそ)るべし 監視器多きを
  酒徒はいずこ 虚心の行人(こうじん)
  *原詩「田家春望」 出門何所見 春色満平蕪 可歎無知己 高陽一酒徒

李白と同時代、盛唐の高適(こうせき)の作。原詩の結句は、儒者嫌いの漢の劉邦(高祖)に自分を売り込もうとやってきた酈食其(れきいき)が、自分は儒者なんかじゃない、高陽の酒飲みだと名乗った故事による。いま整然とした街区を見渡しても酒徒などいない。監視カメラに腹の中を見透かされないよう、通行人は心を空(から)にして何も考えない。そんなシュールな状況(シチュエーション)。

(62)いまぼくが歩いている街路は、広場大道(グワンチャンダーダオ)という。右手に常州市政府、左手に市民広場というロケーションである。市民広場は東西にシンメトリーな構造で、東に常州大戯院、西に常州博物館、そして中央に遊歩道をめぐらせた緑地を配(はい)す。大戯院のほうは伝統劇に現代劇、音楽会のためのホール、それにシネマ・コンプレックスを併設している。市政府ビルはツインタワーで、高層階に渡り廊下をもつ構造である。外壁の感じや色合いなどは、どことなく我らが東京都庁を彷彿(ほうふつ)とさせる。現代的でシュッとしているのだ。進んでいって二棟の隙間が覗ける位置まで来ると、アラ不思議、あの上海有数の高層ビル、金茂大厦(ジンモーダーシア)みたいなバブリーな高層建築が、ツインタワーを特大の額縁としてニーハオと現れる。これこそ万豪酒店(マリオットホテル)も入居する、常州現代伝媒中心(メディアセンター)である。二〇一三年完工の五八階建て。市内随一の高さ三三三米(メートル)を誇り、常州第一高楼と称される。おおよそのシルエットは紐育(ニューヨーク)の帝国大厦(エンパイアステートビル)とドコモ代代木大厦(よよぎビル)にも似て、仔細に見れば雲南の石林(カルスト地形の奇岩景勝地)の如(ごと)き特徴をもつ。ブラタモリ風にジオっぽくいえば、まさに柱状節理。いざ親の仇(かたき)とばかり、刀で何度も垂直に斬りつけられたような外観。斬新な建築である。中華ビルヂングの形体は、どうしてかくも前衛的なのか。興味と驚きは尽きない。高さにしても、現代伝媒中心は大阪のあべのハルカスを超えているのだが、中国国内の序列ではこれが上位二〇位にも入らないという。しかも超高層建築の計画の名乗りは、他にもまだまだ伝え聞こえてくる。いやはや、中国各地の投資家・権力者がプレイする、リアルな新世紀シムシティ、おそるべしである。

市人民政府ビルのツインタワーとメディアセンタービルが重なる新都心の風景。

(63)ようやく人民政府の正面に到る。天子ハ南面ス、の思想どおり南向きである。地元政府や共産党委員会の古い建物だと、たいてい前庭を持つ白亜の中層建築で、高い鉄柵と樹木で目隠しをされているのが常だ。門には必ず、なんとか局、なんとか委員会といった内在する各種機関の表札が出ていて、脇(わき)に見張りの者が配置されている。そして彼らは例外なく、峻厳(しゅんげん)な歩哨(ほしょう)のたたずまいである。街中のゆるい風景と同化した、いわゆる警備員さんの姿はもちろんそこにはない。対して、目の前の建物は少し趣が異なる。やはりどこまでも近未来的なのである。正面エントランスには巨大な覆いをもつ車寄せがしつらえてあって、その奥はインテリジェンスビル然とした風体の二棟がそびえる。車寄せの屋根のふちには、中国の国章、すなわち五つの星と天安門をあしらった赤と金のエンブレムが光り、俗なる下界に向けてバチバチの存在感を放っていた。これは建物の新旧によらず、不変の仕様である。

博物館で会いましょう

(64)そうこうするうち、前方に博物館の偉容が見えだした。入場無料。だが、博物館はちょうど常設展が改装中。ぼくは「中国龍文化特典」という特別展のみを見学した。展示室には新石器時代の玉、西周の青銅器、戦国時代の銅鏡、五代の木彫、唐の三彩俑など、龍をかたどった、あるいは龍の紋様を取り入れた、さまざまな出土品がならんでいた。唐三彩は顔面が龍で、体がなんと人間の姿をしている。袖(そで)の幅広い伝統服、長袍(チャンパオ)を着て膝立ち姿勢になった龍は、撫(な)で肩でなよっとした外形なのに、顔の表情だけが妙に厳(いか)つくて、見れば見るほどユーモラスであった。墓の副葬品として多数出土しているらしい。これらの品は、主に天津・淮安・揚州の博物館の収蔵で、龍城(ロンチョン)の異名をもつ当地・常州からは、龍紋の入った瓦(かわら)や青銅鏡が展示されていた。ところで、館内にはおそろいのTシャツを着た高校生数十名が参観に来ていて、卒業記念のためだろうか、三脚付きのビデオカメラを抱えた撮影隊がずっと彼らの見学風景を追っていた。クルーのボスがワンシーンごと綿密に指示を出すのだが、被写体の学生は人数が多いし、けっこう自由に動きまわる。何度も撮り直しがなされ、そのたびに助手があたふたしているのがちょっと面白かった。いや、かくいうぼくも、間に映り込まぬよう彼らをヒョイヒョイとかわしながら、注意ぶかく参観を続けた。良き思い出になるといいね。

木彫りの紋(左)と三彩俑(右)

(65)夜の試合は午後六時から。ぼくは着替えと充電池交換のために、いったん酒店(ホテル)へと引き返した。途中、体育館付近では、とびきり近未来形状の図書館(建設中)をぼーっと眺め、それから地下鉄駅工事の一環で低木を運んだり植えつけたりしている、お爺さんお婆さんのグループに出会った。みなさん七〇代に見えたが、普段着で和気あいあいと作業している姿は眩(まぶ)しかった。さて、酒店(ホテル)を出発してからは、事前にマークしておいた三明治(サンドウィッチ)店がいくら探しても見つからず、どこか煤(すす)けた印象のマンション街で危うく迷子になりかけもした。そんなドタバタな散策タイムを経て、夕方五時半ごろ、ぼくは19路(ルー)の公交車(バス)で体育館へと戻った(路は路線番号を示す)。運賃は二元だった。

こちらはオープンしたばかりの常州市図書館(場所は体育館付近)。
開業前の地下鉄・市民広場駅。周囲の植栽も完成に近づいていた。

B級観光客のたくらみ

(66)さあ、いよいよ男子単打(シングルス)の桃田賢斗、さらに女子双打(ダブルス)の高橋礼華・松友美佐紀ペア、福島由紀・廣田彩花ペアらの登場する夜間の部が始まるのだが、この移動の時間を利用して、旅の準備過程について少しご紹介しておこうと思う。

(67)そもそも今回の常州行きは、翌年の東京五輪(当時は二〇二〇年開催予定)のチケットが全部抽選に外れたので、ならばいっそのこと羽毛球(バドミントン)大国・中国で熱き前哨戦を見とどけたいと、こう呑気(のんき)に思案して決めたのである。当初は一一月の福州大会(福建省)も候補に入れて両日程で計画していた。福建省というと、ぼくは以前、この福州に加え、泉州(いわゆる海のシルクロードの起点)、厦門(アモイ。言わずと知れた一九七八年設置の対外開放都市の一つ)、そしてのちに世界遺産登録された客家(はっか)土楼(ドーナツ型などさまざまな形をした巨大集合住宅)を訪れた。いずれも二十年も前のこと。各地の変貌ぶりも気になっていた。だが、そこまで説明しておいてなんだけど、九月の羽毛球大会のチケットがあっさり入手できたことにより、旅先は常州に即決めとなった。これが七月上旬のことである。そんなわけで、ぼくは東京羽田・上海浦東(プードン)往復の航空券を押さえ、それから数日のあいだ、ああでもないこうでもない、と旅のコースを熟考した。最大の問題は、常州とどの都市を繋(つな)いで周遊するかだ。本来なら上海周辺の長江下流域、つまり江南の街が至極便利なのだが、ぼくはここ数年の「安・近・短」旅行で、興味のある場所へはあらかた行ってしまっていた。そこで思いきって、未踏の地である山東省か河南省へ足を延ばそうかとも構想したが、羽毛球(バドミントン)観戦の日程を入れると尺が厳しい。それならと近隣の安徽省、江西省、浙江省の都市や大自然も俎上(そじょう)にあがったが、いまいちパンチに欠けたり交通の連絡が悪かったりで、決定に至らず。そうして最後に出た案が、湖北省の二都市であった。

(68)すなわち荊州と武漢である。理由は二つある。一つ目はもちろん、観光的要素である。ともに全国に名を轟(とどろ)かす古都だから見どころが豊富で、旅客満足度が高そうだということ。とくに両都市の組み合わせは魅力的に思えた。荊州が昔ながらの城壁を今に残す、かわいい古城であるのに対し、武漢というのは中国でも一線級のメガロポリスで、名勝旧跡もきりがない。ぼくはこれがために旅程が編みやすいと考えた。どういうことかというと、常州滞在をのぞく四日間のうち、荊州に二日間、武漢に二日間をあてがえば、ぼくにとって荊州はおそらくクリアできる。つまり、気になる名所はほぼ周遊可能だろう。あべこべに武漢では、名だたるスポットを一挙にコンプリートすることはできない。そのかわり、今回の旅である程度は街の概要をつかめるはずだ。ご存じのように武漢は、国内東西南北の、そして陸海空の交通の要衝である。きっと再訪の機会もあるはずだから、優先順位にしたがい割り切って散策できようというわけである。焦(あせ)りもせず消化不良もない、そんな「自分満足度」の高い旅になるだろうと予感した。二つ目は交通の問題である。両都市は長江中流域に位置するので、一見すると遠いように思える。だが、上海・常州方面からわりと直線的にアクセスできて、かつ高速鉄道の本数が多い。そのため、全行程を考えるとフレキシブルに動きやすいのだ。しかも、荊州―武漢間も移動が容易で、時間のロスが少ない、とこういうわけだ。

(69)ここまでくると話は早い。ぼくはさっそく適当な中国地図をプリントアウトして、上海・常州・荊州・武漢の四都市をプロット。蛍光ペンでコースをなぞり、配色をほどこした。眺めれば眺めるほど、良きアイデアに思えてきた。あとはエクセルで作った旅程シート(中身はブランク)に、移動・観光・宿泊・食事などのイベントをフリーハンドで書き込んでいき、ときに所要時間や訪問順を調整しながら、旅の大まかな流れを作っていった。参考にしたのは、日本と中国の観光案内書や古本、口コミサイト、ブログ、動画サイト、その他もろもろだ。最近ではやはり、地図アプリと谷歌地球(グーグルアース)が便利な街歩きガイドとして重宝しているが、新しい情報をキャッチするだけではつまらないので、ぼくは昔のガイドブックや雑本を拾い集め、参考にしたりもしている(この手の情報収集もまた楽しいのである)。こうして自作旅程を組み立て、鉄道とホテルを手配し、携行品をそろえて旅に備えた。

(70)そうそう、羽毛球(バドミントン)のチケットは、インターネットで中国国内の代行業者を見つけて入手した。ぼくが購入したのは二等票というグレードで、これは下から二番目のランク。価格は準々決勝までは三八〇元だが、準決勝が五八〇元、決勝が八八〇元と高騰する。毎度経済的な旅を志向している身としては、わりと贅沢な出費だ。コートそばのアリーナ席にいたっては、なんと決勝二八八〇元(約四万六千円)とかなり高額である。ここまでくると、いわば御大尽(おだいじん)向けの席といえる。ちなみに、注文時には入場者氏名と身分証番号がしっかり照会された(ぼくの場合はパスポート番号を提出)。

(71)というふうに、旅の素材選びから組み立て方までを簡単にご紹介した。これは別に『地球の歩き方』みたいなノリで、みなさんに中国行きを強くお勧めするものではない。むしろ本書の取説(トリセツ)として、ぼくの旅が誰にでも代替可能だという性質を端的にお示したいのである。僭越(せんえつ)ながら申し上げると、本稿の目論見はこうだ。

(72)ぼくは一人でも多くの方がもっと気軽に、実体と近接したシン中国のイメージを獲得ないし共有できるよう新しい補助線を描いてみたい、そんな思いでこの文章を書いている。テレビや新聞がスルーしがちな取るに足らない風景を、ランダムに実況するという趣向によってだ。政治・経済・社会問題に偏りがちな中国情報のスキマを、みんなが等身大目線で埋めていき、その上で専門家・解説者の声に耳を傾ければ、となりの大地の輪郭や内実をより正しく捉(とら)えられるのではないだろうか。そう、大衆(マス)に向けた、およそ最大公約数的な報道からは漏れてしまう路上の「端っこリアル」にも、もっと目を向けてみませんかというのがぼくの提案である。ここでは、便利な諸アイテムを手にした〈ぼく〉という旅行者が、ほぼ等速度で「冒険を実況」していく。だから中国語学習者であろうとなかろうと、駐在(帯同)経験があろうとなかろうと、誰もがご自分の性格や経験値に応じて、隅から隅までずずずいっとこれをなぞりながら、気軽にツッコミを入れられる設定なのだ。この企みが成功するか否か、それはみなさんのご判断に委(ゆだ)ねるとして、作者としてはそうしたコンセプトに沿うよう、内容の再現可能性についても積極的に言及しておこうと考えるのである。こうした観点から、旅の企画から手配のあれこれを、食品の成分表示のようなものとして共有させていただいた。みなさんもぜひ、谷歌地球(グーグルアース)の人形(アバター)になったつもりで、リアルな街歩きを味わってみてほしい。

(73)さて、今日は羽毛球(バドミントン)中国公開賽(オープン)の準々決勝。5種目二〇試合が行われている。これが二部構成で、一二時開始の前半と一九時開始の後半に分かれている(チケットも別々)。あらかじめドロー(トーナメントの組み合わせと試合予定)が発表されているとはいえ、2ゲーム先取で勝敗が決するまで次の試合が始まらないので、終了時刻はまったく読めない。試合間のインターバルを含めると観戦が深夜まで及ぶ可能性がある。ぼくの場合、見るものを見たら夜行でもいいから早く次の都市へ移動したいのだが、かような事情が初日の常州泊を決定づけた。今回、駅近の酒店(ホテル)を選んだのも、そんなせっかちな性分のためである。

(74)まあ趣旨としては、みなさんに空調の利いた快適な環境下で中国の街を疑似体験していただきたいというのが先決なので、「旅のレシピ」と「本稿のトリセツ」の話はこれまでにして、話を進めます。

桃田タカマツ観戦記

(75)後半最初の試合。コートに立つのは、リオ五輪決勝でリー・チョンウェイ(馬来西亜=マレーシア)を破り、男子単打(シングルス)王者に輝いた地元中国の諶龍(チェンロン)だ。上下黒のウェアに身を包み、色鮮やかなオレンジのシューズが遠目にも映える。相手は香港の伍家朗(ン・カロン)。じつは諶龍は湖北省荊州の出身。行きがかり上、やはり彼を応援する。さて、試合が始まってみると、二人の力関係がそうさせるのか、諶龍は敢えて強打に出ることが少ない。コート後ろからやや長い球を打っても、あるいはネット付近で軽く返しても、彼はじつに軽快な足さばきで自陣中央に戻ってくる。まるでメトロノームのように、コートの対角線上を運動しつづけている。ウォームアップにも見える、力の抜けた動き。それでいて、いつの間にか優勢なラリーを引きよせ、相手のミスを誘って得点を重ねていく。それがあまりに見事なので、つい球筋よりも彼のオレンジ色の足元に見とれてしまう。なお隣のコートは、女子単打(シングルス)の陳雨菲(チェンユーフェイ)とタイ選手の試合。こちらは似たタイプなのか、それとも様子見なのか、序盤はたがいに何となく対角線を狙って攻める静かなラリーがつづいた。だが次第に攻守ともに陳が上回り、相手がミスを重ねる。両試合開始38分で二セット目、諶龍15対9、陳雨菲14対9と同ペースで試合が進む。中国が誇る男女両エースの戦いに、満場熱気ムンムンだ。とくに好守備の直後、意外性のあるプレーで得点が決まると、その逆転劇にオォと会場中がどよめく。バルーンも打ち鳴らされる。会場の隅々まで緊張感が張りつめ、観客が試合に集中しているのがわかる。私設公設の応援団もなければ、旗振り役を買って出るお調子者もいない。しかも二ゲーム並行で進行している状況を考えると、やはり目の肥えた観客たち、試合をよく見ているのである。結果は諶と陳のストレート勝ち、それぞれ45分、44分の試合時間だった。

(左上)桃田・常山両選手の入場。(右下)兵馬俑ならぬ跳馬俑のオブジェ!?

(76)さあ、お待ちかねの時間。いよいよ世界ランキング1位、桃田賢斗の登場だ。とはいえ、準々決勝の相手は若い常山幹太。ここは地元客の観戦風景を見やりつつ、両者にエールを送るとしよう。中央コートでは、中国選手が奮戦躍動する状況下。桃田と常山の試合はいわば裏番組なのだが、意外にもこの日本人対決の一番にも熱視線が送られていた。試合開始から前半、桃田がミスをすると、コートそばで子供のアァーと残念がる声が聞かれ、またコート隅に決まろうかという渾身(こんしん)のスマッシュが常山に拾われたときは、プレー中に大きなため息の渦(うず)が起こった。いや、注目対象は桃田だけではない。常山がネット際の攻防で7点目を取ったときは、ちょうど隣の試合が中断していて、とりわけ大きな歓声が上がった。また桃田13点目では女性の嬌声が響きわたり、直後にバルーンを打ち鳴らす音が広がった。完璧なスマッシュで15点目を取ると、あまりの華麗さに会場内は静まりかえった。終盤は桃田の右角へのスマッシュが何度も決まり、21対11と実力差を見せつけて第一ゲームを先取した。第二ゲームは、序盤から見どころが多かった。とくに桃田の5点目はお互いに攻撃的で、両選手の技が光った長いラリー。常山の4点目は、ふたたび好ラリーが続いたあとの、完璧な左奥スマッシュ、桃田が追えないくらい低くて速い弾道に、オォーという大歓声と甲高い声が交じる。そうかと思えば、桃田が甘いロブ返球からのイージーなスマッシュで得点。これにはほとんど歓声がない。常州の羽毛球迷(バドミントンファン)たちの冷静な観戦ぶりには恐れ入る。会場中央では、中国と馬来西亜(マレーシア)の男子双打(ダブルス)が行われていた。こちらも、背面打ちなどトリッキーなプレーが連発されたり、また試合終盤に微妙な判定へのチャレンジがあったりで、両者返球のたびに歓声が上がり、以降会場はずっと大熱狂に包まれた。そんななか、常山はネット際の攻防で粘るも及ばず、最後は桃田がコート中央付近にスマッシュを決めて、試合終了。21対8。軽快な音楽がかかる中、桃田は客席に手をふってクールに会場を後にした。中国・常州での日本人対決。観戦の興奮をここに保存しよう。

  両雄対決すれば 歓呼の花開く
  一本!一本!もう一本!
  我 明日早発す 敗者能(よ)く休め
  勝者は弦(ガット)を調え 眦(まなじり)決して再来せよ
   *原詩「山中輿幽人対酌」 両人対酌山花開 一杯一杯復一杯 我酔欲眠卿且去 明朝有意抱琴来

酒飲み李白さんの「上から目線」にならい、激戦後の選手を慰労・激励する(ポエムのほうは後付けだが)。なお、この有名な詩は江守徹氏の朗読を聞いて中学の頃に覚えて以来、ぼくの一番好きな詩。そう、番組はNHK「漢詩紀行」だ。

(77)つづいて園田啓悟・嘉村健士(ソノカムペア)の試合が始まると、都合男性選手八人がコート二面で躍動する。あと、それまで気づかなかったが、振り向くと二階席の後方には即席の放送席も出来上がっていた(中国・欧州・東南アジア方面の中継と見え、国際色豊かな顔が並んでいた)。ただ付近に客はおらず閑散として、見た目はじつにのんびりした実況風景だ。さて、片や中央コートでは大柄な両選手による高さを生かした攻撃が展開されて、片や右のコートではサーブレシーブから低空戦が繰り広げられ、ソノカムペアが前へ前へと推進力ある得意のラリーを仕掛ける。コート後方のコーチから時おりアドバイスが入る。途中、日本が股抜きレシーブを見せたところで大きな歓声が上がる。それからソノカムペアの、ラリーの合間の気合いの入ったかけ声が、野太い声色で特徴的なうえに、これがバリエーション豊かなためか、客席からたびたび笑いが起きる。中には真似する客もいる。遠くで聞いていると、ワイ!ハッ!ヨッ!アイ!ホォー!いろんなパターンがある。ソノカムも近年、男子双打(ダブルス)の上位をうかがうペアだ。中国の羽毛球迷(バドミントンファン)にとってもお馴染みな存在であろうし、そんな選手が生観戦の際、かように入れ込んで(パフォーマンスを披露して)くれれば自然と注目するだろう。羽毛球大国・中国といえど、世界一線級の選手が出場する大会といえば、アジア選手権や年末のワールドツアーファイナルズ(各年各種目の上位8人またはペアが出場する特別大会)を除けば、この常州と福州の大会に限られる。平日で空席が目立つとはいえ、今大会はなんといっても、羽毛球の貴重な祭典なのだ。さあ、試合は一進一退。相手・印度尼西亜(インドネシア)側に、コートに手をついての三連続レシーブポイントがあり、大盛り上がりとなる。結局ソノカムペアは、第一ゲームを21対23で落とした。相手方の応援団が盛り上がる。もはや、爆発的に盛り上がっている。コート側面の客席では、紅白の国旗が小刻みに振られていた。この歓喜の瞬間、まるで心の震えを直接表現するかのように、全身で旗を揺らしていた。インドーネーシア! チャチャッチャ、チャッチャ。インドーネーシア! チャチャッチャ、チャッチャ。たいへんなものである。局地的だが、周囲の客にも興奮が伝染して、これに和す者も現れる。小休止を入れて挽回を狙ったソノカムだが、第二ゲームはミスが重なり得意の低空戦で得点できない。最後はレシーブが右にはずれ、悔しい敗戦。22対20と僅差だったが、伸び盛りの相手の勢いに押され、最後まで流れを引き寄せられなかった印象だ。試合の最終盤は、印度尼西亜応援団の「あと一点コール」(たぶん)が、ずっと会場にこだましていた。そして二戦連続で、日本対印度尼西亜の男子単打(シングルス)の試合。遠藤大由・渡辺勇大がコートに上がるが、相手は第2シード。残念ながらこちらもストレートで敗れた。

(78)そして、東京五輪の出場権を争う女子双打(ダブルス)の福島由紀・廣田彩花(フクヒロペア)、高橋礼華・松友美佐紀(タカマツペア)の試合へと移るのだが、試合展開の詳細は省略しよう。先に登場したフクヒロペアは、前衛・後衛ポジションを変えながら積極的に打ち込み、終始落ち着いた展開で韓国ペアを48分ストレートで打ち破り、タカマツペアは一時間一二分の大熱戦の末、印度尼西亜(インドネシア)ペアに勝利した(隣の男子双打では印度尼西亜が馬来西亜(マレーシア)にストレート勝ち)。じつは今日の準々決勝、夜の部は最初の二試合しか中国選手は登場しない。だが多くの観客は家路につくことなく、外国人どうしの試合に熱い視線を送っている。タカマツペアのゲームは、じつに我慢くらべのようだった。印度尼西亜はほぼノーミスの守備で、タカマツの攻撃を防ぎ続ける。パワフルなだけでなく、カバー範囲が広いのが特徴だ。チャンスの芽がたびたび摘(つ)まれる。第1ゲームをタカマツペアが取るが、第2ゲームは取り返される。最終も11対11と膠着(こうちゃく)。そんななか、緩急をつけたフェイント、相手コート四隅への攻撃、好レシーブなどで流れをつかみ後半に三連続ポイント、17対14。このとき客席の隅から「ガンバレー!」という応援。声の主はどうやら、日本代表の朴(パク)ヘッドコーチのようである。僕もつられて「もういっぽーん」と声を飛ばしたが、これはコートに届いただろうか。息詰まる攻防に場内も盛り上がった。そういえば知らぬ間に、選手の国籍を問わず、スマッシュの瞬間になると印度尼西亜応援団を真似して「ヤー」の掛け声が場内にこだまするようになった。どちらのペアに肩入れするのでもなく、今日最終の好試合をトコトン盛り上げて観戦したいと、客席が一つになった感じだ(こんな雰囲気になるとは思わなかった)。そして、相手前衛がネットにかけマッチポイント、最後は高橋強打のあと松友が決めて試合終了。印度尼西亜隊(インドネシアチーム)に一矢報いた。これで本日準々決勝、全試合が無事終了。最後は館内にカクテル光線が照らされ、観戦疲れしたぼくはしばらく呆然と立つしかなかった。

全試合終了後の館内。カクテル光線を使用したノリの良い演出。

静かなる服務台

(79)退館後はタクシーを走らせ、関河西路(グワンホーシールー)の肯徳基(ケンタッキー)で遅い夕食。すでに午後一一時に近い。深夜に店を探すのは面倒なので、あらかじめ二十四時間営業のここと決めていた。ぼくは夜宵精選餐(夜のセレクトセット)から、冬菇滑鶏粥套(きのこと鶏の粥セット)三九元をオーダー。鶏とキノコのお粥に、香辣鶏腿堡(スパイスチキンバーガー)と香辣鶏翅(スパイシーてばさき)が2個、熱豆漿(ホット豆乳)が付いている。ジャンクながらも中国らしい安定の組み合わせ。今日はこれで大満足だった。いささか慌ただしい食事を済ませて外へ出ると、空には仲秋から六日後の月が鮮やかな輪郭で顔を出していた。月はとっても綺麗だが、もう遠回りする気力はない。すっかり交通量の減った関河中路(グワンホージョンルー)を東へ一公里(キロ)、ぼくは宿へ直帰した。

弾丸旅行では深夜営業の店が重宝する。今晩はあえて決め打ちで。
お腹にやさしい夜のセット39元(約620円=当時)。写真では中央上。
中国旅だからこそ、安心・安全のチョイス。いただきます!

(80)近年中国で泊まるホテルは、たいていこの漢庭酒店(ハンティンホテル)か錦江之星旅館(ジンジアンジーシンホテル)と決めてある。主要都市ではだいたい、鉄道駅周辺や繁華区域、あるいは道路交通の要衝(ようしょう)のそこかしこに、これら経済的連鎖酒店(チェーンホテル)が何軒も店を構えている。大手集団(グループ)らしく服務(サービス)水準にばらつきがなく、室内備品もひと通りそろっている。そこそこ快適な寝床にありつければそれでよしという客であれば、これで申し分ない。宿泊料は二、三千円が中心価格といったところだが、上海は別格でおよそ二倍。もちろん、物件の新旧や間取り、シャワーの圧力や排水のぐあいが若干異なる場合があるけれど、今のところ目立ったトラブルとは無縁である。入住・退房(チェックイン・アウト)の事務作業もじつに手早く、ストレスがない。作り笑顔もないかわりに、高圧的な物言いや睨みもない。フン、泊めてやるといった感じの昔の服務員の無愛想さに、逆に懐かしささえ感じるほどである。みな年若く、職務に忠実で献身的。日本と同様、そのように管理されているわけだが、控えめな彼らホテルマンのたたずまいや忠実な仕事ぶりが、近ごろの中国の空気をある意味で象徴しているようでもある。日本人と中国人は外見上、多くの点で似た環境を受け入れて生活するようになった、というのも一面動かしがたい事実である。マイペースな歩行者となって現地人の生活範囲をなぞれば、我々が異様なまでに消費者として均質化している場面が多々発見できる。逆にいえば、あやしげな宿屋を訪ね歩いて話のタネにするなんてことは、もはや外国人旅行者の間でも廃(すた)れた趣味といっていいだろう。やれお湯が出ないとか、流しやトイレが詰まるとか、デポジットがどうのとか、ベッドに横になると体がかゆくなるとか、種々のトラブルに見舞われて部屋と服務台(フロント)を行き来することもない。今は人民のみなさんも予算に合わせて快適なホテルライフを送っているのだと理解して、夜はただ泥のように休むことにしている。ただ、ネットニュースでも報道されたように、漢庭酒店には個人情報流出騒ぎがあった(二〇一八年)。その点は、みなさんの用心のため附記しておきたい。

午後11時46分、本日のお宿に帰還(右は運河にかかる太平橋)。

(81)部屋に戻ったぼくは、初日から撮りに撮りまくった写真五百枚余をさっと見返すと、今度は紙に打ち出した高徳(ガオドー)地図、明日おとずれる湖北省荊州の分をうち眺めて、丹念にシミュレーションした。歩行ルート、見学・食事スポット、交通手段、ホテルなどを一つ一つ確認した。そうそう、東京・羽田空港内からの測定になるが、初日の歩数は2万6236歩だった。明日はもっと歩きたい。

龍城の超級巨星(スーパースター)

(82)さっさと休めばいいものを、それからぼくは先ほどの印象的な月明かりを思い出し、つい動画サイトで月にまつわる中華歌曲を立てつづけに再生した。半個月亮、但願人長久、そして月圓花好。「アド街」風にいえば選曲の三曲である。「但願人長久」という曲は、有名な北宋の蘇軾(そしょく。一〇三七―一一〇一)による「水頭歌調」の詩句を、一九八三年に鄧麗君(テレサテン)が唄い、のちに王菲(フェイウォン)らがカバーしたことで知られる。さらに金嗓子(ゴールデンボイス)といわれた周璇(しゅうせん)の「月圓花好」では、サムネイル内のその美貌に見とれ、つい維基百科(ウィキペディア)にて彼女の簡歴を確認する。日本国内の知名度が測(はか)りかねるので書いておくと、周璇は一九三〇年代、四〇年代の映画女優でありトップ歌手である。天涯歌女、四季歌、夜上海などの名曲が残る。日本に寄せて言うなら、鄧麗君(テレサテン)の「何日君再来(いつの日君帰る)」のオリジナルを唄った元祖歌姫である。一九五七年に没しているので、中華圏ではもはや伝説的明星(スター)の位置づけだ。関連図書や写真集は今でも街中の書店で見かける。

(83)そもそも周璇には、上海と香港という二大都市で華やかに活躍したというイメージが強い。だが、なんとなく開いた維基百科(ウィキペディア)の記述に驚いた。彼女はここ江蘇省常州の生まれだったのだ。しかも父親は牧師だったようだ。こうなると、ついのつもりが無限連鎖(エンドレス)、検索の手がしばらく止まらず、なんと昼間おとずれた工人文化宮の数百米(メートル)西に、十年ほど前まで彼女の生家が建っていたという情報に行き着いた(完全な裏取りはできていないのだけれど、いずれにせよ常州城内であればさほど遠くでもあるまい)。ということは、今朝ぼくがまじまじと観察した県学街(シエンシュエジエ)の教会も、周璇の父と多少の縁があったのだろうか。周璇は六歳で親元を離れ、上海の周家の養女となるわけだが、幼い時分は両親とあの県学街を歩いたり、カトリック教会に出入りしたりしていたのかもしれない。時には橋の上から、あるいは船着き場から、静かな運河を眺めていたとも考えられる。独りそのように夢想つつ、明の高啓「胡隠君を尋ぬ」をば真似て、ここに詠(えい)ず。

  運河をわたり また運河をわたり
  樹々(きぎ)をくぐり また樹々をくぐる
  秋日 龍城の小路(こみち)をゆけば
  知らずうち 君が膝元に到る
  *原詩「尋胡隠君」 渡水復渡水 看花還看花 春風江上路 不覚到君家

高啓(こうけい。一三三六―一三七四年)は蘇州の人。原詩は花開く春に友人を訪ねる内容で、明るい江南の景色と足取り軽やかな散歩のようすが目に浮かぶ。これに今日の散歩を重ねてみた。つい、脱線トリビアを差し挟んでしまったが、お手元にスマホなどあれば、ぜひ一曲聴いてみてください。独特の高音がクセになります。あの李香蘭(山口淑子)などと並んで五大歌后と括(くく)られる伝説の歌い手で(あとの三人は白光、姚莉、呉鶯音)、この五人のうち、周璇だけが若くして亡くなった。李香蘭逝去の報は二〇一四年と記憶に新しいし、姚莉(ヤオリー)にいたってはこの旅の二カ月前、二〇一九年七月に亡くなったばかりだ(享年九六歳)。年上の周璇が存命ならば、このとき九九歳のはずである。

今日の散策ルートから。これは関河の支流にあたる水路。

(84)そんな調べものをしながら、ぼくはいつしか眠りに落ちた。

グッバイ常州!

(85)第一ステージの江蘇省常州を後にして、次の湖北省・荊州へと、慌ただしい旅をつづける。

(86)明けて土曜日の早朝。常州駅の待合室では、小綺麗なパン屋が営業中で、ぼくはウインナーロールをもとめて食べた。レジ隣のショーケースには、美味しそうなジェラートも売られていた。朗姆(ラム)、抹茶、草苺(ストロベリー)、巧克力(チョコレート)、紅豆栗子(あずきマロン)、芒果(マンゴー)と六種類、カラフルな光彩を放っている。一カップ三二元と値は張る。品名には英字名が添えられていて、抹茶冰淇淋(アイス)には、Green tea ではなく、Matcha ice creamとしてある。普通話(プートンホワ=標準中国語)読みならMocha となるところだが、ここは外来語の含みが利いている。中国人が愛飲する緑茶ともニュアンスが異なる、デザートの味覚としての日本風「抹茶(マッチャ)味」の名が、ここ大陸でも浸透しているようである。ただ、朝っぱらから身体を冷やして、腹を壊したらいけない。朝アイスは遠慮して、午前七時二八分のD352号で荊州へと発った。そういえば改札は上海と異なり、きっぷ挿入方式だった(あれれ、昨日の謎ルールはいったい)。

おかずパンにケーキにジェラードと早朝から豊富な品ぞろえ。
駅ナカ価格で1カップ32元(約500円=2019年9月)

(87)あと蛇足になるが、帰国後に高徳(ガオドー)地図を開いて気づいたことがある。ぼくが常州を発った九月二一日土曜日、それは記念すべき当地の地下鉄1号線開業日だったのである。地図上では、常州北站・奥体中心・常州火車站・文化宮など、見覚えのある地名が、かつて存在しなかった赤いラインによってみごとに連結されていた。その運行距離は三〇余公里(キロ)にわたっている。これには驚いた。あわてて中国版維基百科(ウィキペディア)、百度百科(バイドゥーバイコー)で検索すると、まさにその事実が掲載されていたのである。地下鉄が営業開始した都市としては、中国で36番目だという。正味半日の街歩きにすぎないが、常州はぼくが赴(おもむ)くところ、どこもかしこも改造中であった。率直に言って、所かまわずという印象である。とくに常州体育館近くの新駅予定地では、高齢者集団による牧歌的な作業風景に出会ったから、よもや旅のさなかに開業を迎えるとは思わなかった。もう少し調べてみると、常州市地下鉄は七路線以上計画されている(執筆現在。二〇二〇年には2号線が営業開始)。一見(いちげん)の遊子には想像もおよばぬ大変化である。ここでは、本当にバラエティーに富んだ新風景が同時進行で誕生し、そのかわり地元の人々が見つめてきた平凡な景色がひそやかに消滅している。旅人は、新時代のピカピカな街路や便利な新交通網に慨嘆しては、そのかたわらに散在する旧時代の痕跡を目にすることになる。短時間の散歩で出会ったり、すれ違ったりする人民のみなさんの戸惑いと幸福感をちょっぴり想像しながら。思うに、その繰り返しが一歩ごと、一瞬ごと、中国の旅の醍醐味である。ぼくは自分勝手な旅のあわただしさの中で街のすがたを記憶に留め、土地の方たちは生活の慌ただしさの中で日々変化を受け入れている。もちろん二つはまったく異質なものだ。しかし、止めようのない、その慌ただしさがあるからこそ、ぼくは彼らと同じ時間を生きている、同じ世界に共存しているという確かな実感を現地でおぼえることができるのだ(ぼくらが同じ教室、同じオフィス、または同じスレッドで日々過ごすうちに、周囲の者を仲間だと意識していくように)。各地の風物や時代の変化を認めながら、ほんのひととき、その実感に浸りたいがため、ぼくは中国を旅している。

(つづく)

荊州・漢堡(バーガー)篇

武漢・茘枝(ライチ)篇

上海・薄荷(ミント)篇

参考資料一覧


第二部 https://note.com/lihaku_man/n/n7d445789beec
第三部 https://note.com/lihaku_man/n/nf43b758a3954

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