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こちら武漢大学凌波門前プール――「脱構築!」14歳からの中国街歩き練習帳 III


武漢・茘枝(ライチ)篇

わが武漢日記のまくら

(01)車内で確認した最高速度は、時速一九五公里(キロ)。当代のキント雲ともいうべき夢の超特急は、西方の客をのせて江漢平原をひた走った。うねうねと蛇行して流れる漢水(長江の支流)をいくたびか越える。ぼくは少し眠った。

(02)武漢は湖北省の省都である。長江と漢水の恵みに育まれた中国有数の大都市で、人口は一千百万人を超える。都市のあらましや歴史については、維基百科(ウィキペディア)または百度百科(バイドゥーバイコー)を参照していただくとしよう。夏季の高温多湿はつとに有名で、重慶・南京とともに「中国三大火炉(フオルー)」などと称される(火炉はかまど、ボイラーの意)。今回は九月下旬ということで恐る恐るコースに入れてみたのだが、来てみれば連日の三〇度超え。粗忽(そこつ)な夏の虫よろしく、ぼくは火炉(フオルー)の洗礼を受けた。ちなみに二〇一六年の中国気象局の見解によると、夏の暑さが厳しい中国都市ランキング(最高・平均気温、高温日数、湿度などから算定)は、①重慶、②福州、③杭州、④南昌、⑤長沙の順である。水域面積の広い武漢(第6位)は、他都市にくらべて近年の気温上昇が緩やかなのだそうだ。たしかに地図で見ると、武漢市は湖沼が多く、水びたしな印象ではある。まあ、それを言うなら上位の重慶や福州だって水が豊かな土地であるように思えるし、杭州なぞはビチャビチャな湿地帯に造られた都市なのだが。ところで、このごろは詳しい方もおいでだろう。そもそも武漢は、漢口・漢陽・武昌の3地区から成り、それぞれ趣(おもむき)の異なる街区が広がっている。つまり順番に、商業・工業・歴史の街、の顔を持つとされてきた。このうち漢陽へは日程上、足を延ばすことができなかった。漢陽といえば、帰元禅寺なる名刹(めいさつ)がある。荊州・章華寺とならぶ長江流域の仏教信仰のメッカであるが、さて機を改めて訪(おとな)うことができるだろうか。平穏な状況が戻ることを願うばかりである。さあ、武漢滞在は二泊三日。中国内陸を代表する、このメガロポリスの実況を短期日程でカバーすることは到底できないが、名所見物がてら、引きつづき歩行者目線でいまどきの都市風景を再現していく。

(03)列車は一六時二三分、漢口駅に到着した。二十世紀初頭の開業当時、アジア最大といわれた鉄道駅である。駅舎は近年再建されたものだが、百年前の欧風設計を踏襲しており、とっても素敵な外観だ。改札を出たぼくは、蒲鉾型ドームをもつ待合室と双子の時計塔がとくに映える、その優美な駅舎を飽きるまで写真におさめた。名城・武漢をめぐる第一歩の記念として。なお、新型コロナウイルスの集団感染発生地とされる華南海鮮批発(ホワナンハイシエンピーファー)批発は卸売の意)市場は、この駅から五百米(メートル)ほどの位置にある。駅周辺には、公園あり、博物館あり、病院あり、学校あり、ホテルあり。アパートにマンション、公安局や中共党校もあれば、商業ビル、オフィスビルも集中する。近代武漢(とくに漢口)の顔といえば、ここからおよそ四、五公里(キロ)南東、長江沿いの旧外国租界地であるが、漢口駅近辺も比較的早期に開かれた、繁華かつ多様な顔を保つ地区といえる。やはり場所柄というべきか、各種の卸売市場も散在している。商品ジャンルは多岐にわたり、あとで地図で確認しただけでも、果物、野菜、建材、鋼材、印刷用紙、インキ、図書などの市場の存在が知れた。

コロナ報道で繰り返し中継された漢口駅(荘厳な出発フロアは撮影できず)。

(04)駅からホテルまではタクシーを利用する。漢口駅から最寄りの江漢路までは、地下鉄2号線で一本。本当はこれに乗りたいところだが、一刻も早く背中の荷を下ろして街を徘徊したいので、できるだけラクをする。滞在中、いずれ地下鉄にはお世話になるだろう。ちなみに、この地下鉄は正式には武漢軌道交通と呼ばれ、全国6番目に開通した。もちろん中西部では最初である(二〇一九年当時は9路線が営業中だった)。結局、乗り込んだタクシーの空調の効きは期待ほどではなかったが、いったんクルマが走り出すと、荊州とは比べものにならない都会的な眺めに、ぼくはほっとした。そこらの道路や建物の質感は、東京や上海やソウルに見劣りしない。街路の清潔感や運転マナーにも、荊州には悪いが「文明」を感じた。余談だが、中国では礼儀正しさや洗練さを表すのにも、この文明という語をよく用いる。曰(いわ)く、文明用語で接客しましょう、列に並ばないのは非文明的です、私たち空港職員は文明の使者です、などと。ともかく、荊州と武漢の二都市は、完全に別の発展段階にプロットされる間柄であるということが直ちに実感できた。まるで、高速鉄道で二〇四公里(キロ)を走行するあいだに時空の歪(ゆが)みでも潜んでいたのかと錯覚するくらい、強烈な「文明的」断絶を感じた。そもそも漢宜線開通の二〇一二年以前、荊州には鉄道貨物の駅しかなかった。旅行客は実質上、長距離バスか客船でしか他都市と行き来できなかったのである。つまり、旅客鉄道開業の時期に関していうと、武漢と荊州ではじつに百年の開きがある。誰が見たって、この差はとてつもなく大きい。たぶん、ぼくは武漢の旅で、その厳然たるギャップをしかと見るだろう。だがそれを思うと、荊州のイケイケな追い上げもまた目を見張るものがあった。たとえば、二日間の滞在で目にしたショッピングモールとか長江大橋とか、荊州城以北の大開発など。あたかも、中国が先進国にキャッチアップしようとするのと同じように、荊州のような後発組も今世紀のインフラ投資の後押しを受けて、国内の発展競争に挑んでいるわけである。そして考えようによっては、その名もなきキーパーソンこそ、高速鉄道の旅客のみなさんであったりするのかもしれない(そう思って車内を見渡すと、周囲の乗客たちがいずれも才気あふれる英俊の群れにも見えてくる)。小さな町を飛び出して、武漢で学び、武漢で働き、武漢で稼ぐ。あるいは、当地でビジネスパートナーと出会ったり、商売のアイデアを得たりして、それを故郷に持ち帰って事業をスタートさせるとか。考えれば考えるほど、可能性は無限である。移動手段の進歩や拡充、そして都市間のネットワーク化によってもたらされる利益は計り知れない。しかも武漢は、中国でも有数の四通八達の地。ひとたび武漢と繋(つな)がれば、その先には上海・蘇州・南京・杭州があるし、北には北京・天津、南は広州・深圳・香港へと通ずる。いわずもがな、海外との距離もおのずと縮まるわけだ。はたまた、西の成都や重慶の料理人が荊州にやってきて、チャンスを見いだし、そこに最先端の四川料理を流行らせる可能性だってある。いや、すでにそれが現実となっているのかもしれない。

(05)閑話休題。前段をこのように書いたのは、当時湖北省を訪れていた自分に現地の実況を語らせていると、つい二〇二〇年以降の視点がそこに交錯して、都市間の連接と人の移動がもたらす「禍福」を考えてしまうからである。福を呼び込むはずの素晴らしい繋(つな)がりは、イコール、禍(わざわい)を拡散させるおっかない繋がりでもあった。思うに、人は福を語れば禍を忘れ、禍を語れば福を忘れる。ぼくらの社会が深刻な禍に犯された今だからこそ、あえて他方の福に光を当てることによって、この表裏一体の抜き差しならない関係が今後もぼくたちの前に横たわることを、ぼくは(武漢を通過した旅人として)記しておきたいと思うのである。とはいえ、いまは冷静に事態を見守るしかないし、このままディテールをおろそかに、力んで何かを論じていくことは避けたい。話を先に進めよう。

(06)途中、長江の支流、漢水に架かる晴川橋の下路式アーチが目に入り、その鮮やかな赤に目が釘付けになる。そこは長江と漢水の合流地点から、およそ五百米(メートル)の距離。昨日は荊州市内で長江と出会い、数時間前には高速鉄道の窓から漢水を見つめた。広い大地でこんなに早く、二筋の流れと再び相まみえるのも、なんだか不思議な感じがする。ただ冷静に考えてみれば、歴史的には荊州から武漢まで長江を下ってやってくるほうが断然主流であったわけで、だから水運によって開けた都市間を陸路で急行しても、また水と落ち合うように出来ているのは自明のことである。けれどもそこは、隙のない理屈よりも無邪気な情感を優先採択しがちな旅人の心情。異なる経路をたどりながら、思いがけず親しい人と再会したように心は弾んだ。

Retroticが止まらない!?

(07)今日のホテルは、錦江之星旅館(ジンジアンジーシンホテル)・武漢江灘歩行街店。このあたりは漢口地区の古い繁華街で、戦前はイギリス・ロシア・フランス・ドイツ・日本と五カ国の租界が開かれた場所である。当時の洋風高層建築が今でも数多く保存され、ザ・近代史の舞台といった雰囲気が色濃く感じられる。そう、上海随一の夜景スポット、外灘(バンド)周辺のようなエリアである。日本のテレビに取り上げられないのが不思議なくらい素敵な場所だ。まあ、彼らが大勢のクルーを擁して訪中するとなると、やっぱり北京の天安門、故宮、万里の長城、また上海なら外灘、豫園(ユーユエン)、浦東(プードン)のテレビ塔あたりの撮影で十分ということになり、そうだ武漢へ行こう、なんて発想は生まれないのかもしれない。

(08)クルマを降りたのは長江沿いの沿江大道(イエンジアンダーダオ)で、ちょうど江漢関大楼(ジアンハングワンダーロウ)という租界建築を仰ぎ見る地点。川岸は船着き場となっていて、その堂々たる建物も元は税関であった。広い歩道には、武漢市民があふれている。とくに二十歳くらいの若者が目立つ。そして、自撮りする者多数。やはりここでも、時代劇風の古装を着込んだ少女が幾人か闊歩(かっぽ)している。あたりはソーセージやおでんを売る露店、はたまた西瓜(すいか)を割って食わせる者が出ていたりと、まるで自然発生したお祭りのような雰囲気である。一方で歴史的建造物の背後には、そんな良い感じの風情と溶け合うでもなく、複数の超高層ビルが重なり建ち、なんともぐちゃぐちゃな奇観を生み出している。しかも、そのうち何棟かはまさに建設中で、遠方からカーン、カーンと建設資材のふれあう音がしきりに聞こえてくる。繰り返ししつこいようだが、上海で喩えるならば、未来的浦東と歴史的外灘(バンド)、両地区の混在である。

(09)もうすぐ日が暮れる。そこでホテルに入る前に、しばしその雑踏にまぎれることにした。江漢関大楼(ジアンハングワンダーロウ)の前は、結婚写真の撮影者でごった返していた。さすが中国といった感じで、みなさん派手めの衣装をお召しである。女性のほうは露出度が高く、いろいろとギリギリで、中には下着以外全身透けているドレスもあるが、だあれも気に留めていない。租界建築の名所ということもあって、演出アイテムは「レトロ」がお約束のようである。カップルのかたわらに花束とシャンパンボトルを載せたアンティーク・ワゴンが用意されたり、男性がモカ色のスーツ姿で英字新聞を広げれば、寄り添う女性が純白のカクテルハットをかぶって決めポーズをとる、といった具合である。みんな役に入り込んでしまっている。いうなれば、ジブリ映画「紅の豚」のマダム・ジーナ、あるいは上野耕路と戸川純が大正ロマンや昭和初期の装いに扮した音楽ユニット、ゲルニカなんかのイメージである。それぞれのカップルには一、二名のスタッフが付いていて、みな黒の半纏(はんてん)みたいなユニフォームを着ている。背中には「薇拉撮影(ウェイラーショーイン)」の文字。このあたりの記念写真を手広く引き受けているのだろう。端(はた)で見ているぶんには面白いが、こういうのはライバル会社との縄張り争いとかがややこしそうである。へんに邪魔をしないよう通り過ぎる。

(10)それから長江に背を向け、ぼくは江漢路の歩行者天国を歩くことにした。租界時代の個性的な西洋建築に、便利店(コンビニ)やスポーツ用品店、ドラッグストアなどが、ごく見慣れた店構えで営業している。時代を超越したあらゆるモードがギュッと集合し、いわば渾然(こんぜん)一体となって、魅惑のホコ天を形成していた。日曜の夕暮れどき。すれ違う人々の表情はどれも明るく、余裕を感じさせる。なるほど、最初の江漢関大楼(ジアンハングワンダーロウ)の地点からずっと、広場的賑わいが続いていることに気づかされる。実際、道の中央にも植え込みがあって、通行人が立ち止まって写真を撮ったり談笑できたりと、滞留ポイントのある歩行者天国なのだ。こうして宿周辺の雰囲気をつかむと、ぼくは熱気あふれる商業路を逸(そ)れて、裏通りものぞいてみた。レンガ造りの集合住宅地の路地に「江漢村」(ジアンハンツン)と書かれた石門があって、それがじつに格好良いので、つい惹かれてぶらりと中へ入っていった。役所や金融機関の建物ではなく、元は外国人居留民のアパートといったところか。道幅は三米(メートル)ちょっと。建物は三階建てまでに揃えられているのだが、もはや日は射さず薄暗い。途中、ぽつんぽつんと街路樹が植わり、景観的に良いアクセントになっている。どこも玄関前が三、四段ほどの階段になっていて、なんだか隠れ家っぽい匂いがぷんぷんする。こういう場所を改装すれば、おしゃれな店ができそうだなあ。そう思って進んでいくと、ほらやっぱり。センスの良い珈琲(コーヒー)店が何店か営業していて、オオッと興奮させられる。戸口や窓からのぞく店内空間は、いずれもシックな調度品の数々と、自然光が生み出す「光と影」の対称が印象的な、じつにヨーロピアンな風合いだ。到着早々、ぼくはレトロチックな漢口の街並みの虜(とりこ)になった。江漢村(ジアンハンツン)は、湖の名を冠した二条の道路(すなわち鄱陽街(ポーヤンジエ)と洞庭街(ドンティンジエ)に挟まれた、約一五〇米(メートル)の路地およびその一帯だった。それを抜けると、最後の宿である錦江之星旅館(ジンジアンジーシンホテル)に到着。とりあえず部屋で一服、温かい緑茶を飲む。フゥー。
 
  新たに宿す 漢口の狭巷
  時に徘徊す 漢口の大路
  江城は往古に非(あら)ずと雖(いえど)も
  喧噪(けんそう) 少年少女を酔わす
   *原詩「孟城坳」 結廬古城下 時登古城上 古城非疇昔 今人自来往

もとは『唐詩選』にみえる裴迪(はいてき。生没年不詳)の詩。さらに、彼とともに別荘・網川荘(もうせんそう)を結んだ王維の詩句から「新たに家す」を借り、また「揚州の夢」の故事で有名な、晩唐の杜牧の詩から「喧闐は年少を酔わしめ」をそれぞれ採って改めた。

江漢楼付近の撮影風景(左上)と…個性的な珈琲店が営業する江漢村。

税関ミュージアム観覧記

(11)ホテルで背包(バックパック)を下ろしたのが、午後六時一五分。周辺地理を確認してから外に出ると、あたりはもう暗くなっていた。徒歩五分で、ふたたび江漢関大楼(ジアンハングワンダーロウ)を訪れる。じつは、この歴史的建築はいま旧税関博物館となって租界時代の文物を常時展示している。口コミ評価が高く、入場無料。しかも夜二〇時まで開館というからありがたい(ただし二〇二〇年以降は一七時閉館)。せっかく漢口に泊まるのだから、まずは租界の歴史をお勉強しましょう、ということで、薄暗い横っ手の入口から、石造りの重厚な建物へと潜入する。

(12)この博物館が予想以上に良かった。現地を旅したり長期滞在している方ならよくご存じのことと思うけれど、中国の博物館や記念館というと、建物の立派さに対して展示品がショボい、がっかりさせられるというパターンが少なくない(コンセプト先行でパネル展示やお人形ばかりとか)。その点、ここはというと、初心者にもちゃんと歴史を学習させてくれる、充実した展示内容になっている。まず、漢口の古地図をカラフルなライトで色分けし、英国・俄魯斯(ロシア)・法国(フランス)・徳国(ドイツ)・日本と各国租界区の概要をしめす。その後は往事の貿易や占領政策に関する品々、たとえば英国の大砲、紙幣や銀錠(いわゆる馬蹄銀)、道路計画地図、英文の株式譲渡契約書や領収書、横浜正金銀行漢口支店の銭箱、欧米製タバコの絵柄付き缶箱、手回し式の電話機、民国期の税務専門学校の卒業証書などを陳列している。晩清期の商港切手は単色刷でおもちゃみたいに可愛らしいが、荷を振り分けにした辮髪(べんぱつ)の男が画(えが)かれていたり、美しい楼閣や洋館の絵柄であったりと、ユニークな作り込みで。次に、民国期の金錠、新聞、官報、港湾労働者の腕章、戦時下の臨時流通紙幣、蓄音機、競馬開催公告などの展示があり、国内資本の勃興による武漢の工業都市化の説明を経て、中国共産党の勝利へとつづく。旧時の税関オフィスを再現したコーナーもあり、なかなか凝(こ)った造りである。ぼくは、上海・外灘の代表的西洋建築で営業していた上海浦東(プードン)発展銀行や東風飯店(ドンフォンホテル)などを思い出しながら(どちらも一九九〇年代後半に利用)、目の前の展示どおりに生き生きと税関職員が職務に当たっているさまを想像した。館内は団体客もいれば、家族連れも学生グループもいる。拡声器を使用したガイドも登場したりして時おり騒々しくなるが、それはそれで楽しい参観光景である。

左上=チェス、右上=清末天秤ばかり、左下=民国金錠、右下=1911年鳥瞰図。

(13)最後は現代。領導関懐(リンダオグワンホワイ)、すなわち指導者の気づかいと題して、鄧小平・江沢民・胡錦濤・習近平の四氏による武漢視察のエピソードが紹介されている(お決まりの構成である)。まあ、それはそれとして。その一角でぼくが驚いたのは、改革開放後の武漢の急速な都市化ぶりである。各年代の四枚の地図によって、「建成区(市街地)」の範囲が赤く示されていた。
 一九四九年  三四・七平方千米(キロメートル)
 一九七八年  (記載なし)
 二〇〇〇年 二九五・七平方千米
 二〇一四年 五五二・六平方千米
明治以降の東京の発展を見ているようだ。地図では、とくに一九七八年以降、成長が爆速化しているようすがありありと分かる。それまでの時期はどうしていたんだかという話であるが、この図を見ると武漢は、旧租界地区など初期に開かれた繁華街を残しつつ、これからも郊外環境を急拡大させるのだろうなと想像させられる(たとえば、多数の地下鉄路線や高速道路網が市民の移動をうながし、住宅の郊外化を進め、沿線に現代的な市街地を形成してきたのは、上海・深圳その他の都市でぼくらが確認してきたことである)。このように、館内展示には当然ながら中国の政治的意思が底流に読めるものの、全体としては近代武漢の成立起源が租界時代にあったことを解説する内容になっている。商工業や貿易といった経済活動に光をあてた、分かりやすい歴史描出なのだ。むしろ、ぼくが政治的に忠実な現地職員ならば、展示の過半を抗日戦争や内戦・解放、そして歴代指導者の偉業にあてたいところだが、実際はそうなっていない。誰がどこに収蔵していたのか分からぬが、昔時の舶来のお宝そのものが、ガラスケースの中から雄弁に歴史を語っていた。

(14)この大楼(ビル)の二階には、中庭みたいな屋外テラスがある。ぼくは椅子に座って、建物中央の時計塔をしばし見上げた。漆黒(しっこく)の空に、白や黄色の光に照らされた塔が、くっきり浮かび上がる。一九二四年落成だそうだ。熟年の裕福そうな中国人夫婦が一組、塔を指さしたり、一眼レフを向けたりしていた。はたして、物心両面で豊かになった武漢市民たちは一体どんな心持ちで地元の激動の歴史を振りかえるのだろうか。いや、案外彼らも彼らで、個人の生活習慣や価値観を起点に、冷静に歴史を俯瞰(ふかん)しているのかもしれない。ぼくらが例えば、横浜の開港資料館でペリー来航や開港地の発展をぼんやりと追体験するように。そんなことを考えながら、ぼくはこの特殊な歴史の街をあと二日間散策できることに、改めて興奮をおぼえた。どうしてもっと早く、この都市に来なかったのだろうとさえ思った。退館して正面広場にまわってみると、そこは夕涼みの男女や風船を売る者たちでたいへんな賑わいだった。背後の高層ビルも、建設中のもの以外はもれなく電飾が煌(きら)めき、まさに中国の夜、夢の夜を演出していた。当の旧税関博物館の塔の上には、中国国旗である五星紅旗が威風堂々とはためいていたけれど。

まさに漢口のランドマーク。この博物館はおすすめです。

夜の江漢路Walkers

(15)ぼくは煌(きら)びやかな江漢路(ジアンハンルー)歩行街に舞い戻った。長江沿いの沿江大道(イエンジアンダーダオ)から中山大道(ジョンシャンダーダオ)に至る、長さ七百米(メートル)ほどの歩行者天国である。道幅は一五米(メートル)強で、まるで真昼のように明るい。歩行者はというと、ベビーカーを押す夫婦や一〇代、二〇代の若者が中心層である。幼い子たちもキャッキャ言いながら夜の街を通りすぎていく(そういえば日本と比べると、中国はまだ子供の姿が目立つ)。また、路上がすこぶる明るいのは、これは街灯というより歴史建築を彩るスポット照明のためである。威厳あるデザイン、とくに微細な凹凸(おうとつ)を美しく際立たせようと、なかなか凝(こ)った光の当て方をしている。そこにスポーツ衣料にシューズ、薬、子供服の専門店、そして雑貨のセレクトショップといった、しゃれた店舗のネオンサインが加わって、光と光がホコ天の上でまざり合い、からみ合う。またその光が、街路中央の樹木や歩行者の明るい色相の服に反射し、いっそう眩(まぶ)しさをきわめている。ぼくは、目に飛び込む店舗名を百度百科(バイドゥーバイコー)、すなわち中国版の維基百科(ウィキペディア)で検索してみた。すると、二〇〇〇年代に創業し、急拡大した中国系の小売チェーンが目白押し。荊州のショッピングモールでぼくは優衣庫(ユニクロ)の圧倒的存在感を紹介したが、ここを歩いていると、優衣庫的成功物語に追随せんと息巻く、地元商売人の旺盛な商魂を見ている気分になる。しかも、言い忘れていたが、周囲はなお半分近くが工事中なのである。近い将来、いったいどのような繁華街が完成するのか想像もできない。どの都市をどう観察しても、つい同じことを呟(つぶや)いてしまうのだが、歩けば歩くほど、いよいよこの国が分からなくなる。ところで、これは格好良いぞと思う建物にはたいてい「歴史優秀建築」なんて刻まれた石が、およそ目線の高さに嵌(は)め込まれている。洋館洋館したゴテゴテの歴史建築に、阿迪達斯(アディダス)、耐克(ナイキ)が入居しているのはまことに圧巻である。とくに阿迪達斯(アディダス)が営業する旧中南銀行ビルは、一九二〇年代に建てられた白亜の三階建てときてる。半円の窓や門、陽台(テラス)がなんともラブリーだった。

アディダスが入居する洋館。照明もどこかメルヘンチックな色相。

(16)若者の都会的な服装と身のこなしも見ものである。夕方は建物に視線をうばわれて見落としていたのだが、だんだん歩を進めるにつれ、他都市とは何か違うなという印象を受ける。浙江省杭州などと共通する、特異な洗練さが目につくのだ。季節がら、道ゆく男性はTシャツにサンダルの格好が多いのだが、着用するアイテムの一つ一つ、気の抜けた物があまり見受けられない(ただし、ぼくらの年代以上のおっさんを除いて)。そして、あとで写真を見て気づいたのだが、みな精悍な顔つきで前を向き、姿勢が良い。多くの人が、自然とモデル的なのである(ひるがえって、われわれ日本人はモデルに憧れたり、服を選んだりするよりも、まずは自分の姿勢を直した方がいいのかもしれない)。さらに言うと、無目的でたむろしてオラオラしている者や醜(みにく)い酔客もいない。まあたぶん、こんな場所で調子にノッて街の秩序を乱そうものなら、やさしい公安のお兄さんにお呼ばれするのが関の山だし、そもそもここへ遊びに来ているのが、リッチでモテ要素の多い男たちなのかもしれないとも思う。けれども、武漢に到着してから数時間、ぼくが目にした若者たちの印象は一貫してこんな感じである。また女性のほうも背が高く、ビシッと決まっている人が目立つ。比較的地味でモサッとしているなと思えば、それはいずれも子供と買い物に来ているお母さんたちである(オシャレの世代間格差はさすがに大きい)。外貌だけではない。所作も都会的な印象だ。女の子の二人連れでも、ガールズトークで大爆笑したり話に夢中で他人とぶつかったりしている子はおらず、みんなごく自然体でスマートに歩いている。不用心な歩きスマホはほとんどいない。やはり、真っすぐに前を見ている。そのあたりに注目すると、近頃なにかと視野を狭めて(危険回避におろそかにして)歩いている東京人よりも、彼らのほうが都市民としてずっと洗練されているとさえ思う。ぼくはこの江漢路(ジアンハンルー)の歩行者天国でそんなことを痛烈に感じた。べつに愛すべき地元を貶(おとし)めたいのではない。有体(ありてい)にいうと、武漢の若者たちは何も物質的に豊かになっただけでなく、自信満々、余裕綽々(しゃくしゃく)で時代を謳歌している。なにか悔しいよなあ、という気持ちになったのだ。

江漢路と中山大道の交差点。まだまだ人混みがつづく。

(17)左手に地下鉄・江漢路(ジアンハンルー)駅があらわれると、道は中山大道(ジョンシャンダーダオ)とぶつかる。ここに至って明らかに歩行者の密度が増した。周囲の顔を覗くと、心なしか年齢層が下がってきたようだ(二十代前半が中心と見える)。若いカップルや、腕をからませた女性二人連れが目立つ。加えて、買い物袋を手にする子の割合も徐々に高まってきた。ちなみに、中山大道(ジョンシャンダーダオ)には車両が通行するが、いま歩いてきた歩行者天国はこれを横断してもなお先がある。車道の向こうに視線を転じると、こんもりと枝葉を膨(ふく)らませている街路樹が見えた。それが黄色系の光でくまなくライトアップされて大変綺麗なのだが、幹(みき)の部分はというと、地元の青少年たちの群れに完全に隠れてしまっている。そうか、若者がお金を落とす、お手頃ゾーンはあちら側か。なんとなくそう理解した。だが、それと同時に忘れていた疲れがドッと出て、足が止まった。かれこれ、朝からかなり歩いている。この先の街区も見てみたいが、自重してそろそろ帰還しよう。ぼくは雑踏のなかを左折して中山大道(ジョンシャンダーダオ)に入った。もう一カ所だけ気になる場所があったのだ。

漢口の水塔夜景と屋台村

(18)中山大道(ジョンシャンダーダオ)と江漢路(ジアンハンルー)の交差点付近には、漢口水塔とよばれる貴重な近代建築が残っている。一九八〇年代初頭まで漢口の中心街に水を供給していたという、街のシンボルの一つである。清のラストエンペラーの時代、宣統元年(一九〇九)竣工のレンガ積みの建物で、八角六層の高さ四一米(メートル)。大正の震災で崩壊した浅草十二階こと凌雲閣(一八九〇年、高さ五二米(メートル))と同系統の形状であるが、こちらは触れると切れそうなほど角が張り、頑健で骨(ほね)っぽい外観である。各階の上部だけが黄色いライトに照らされて、それは幻想的な眺めだった。この水塔をはじめ、中山大道(ジョンシャンダーダオ)の洋館夜景は涙が出そうなくらい、豪華で煌(きら)びやかだった。こんな立派な洋風建築の密集は東京にはないから、正直うらやましい。なんとなれば、映える夜景スポットをお探しの方を、このキラキラした漢口の旧租界エリアへお連れしたいくらいである(むろんコロナ禍以前の当時の感想としてだ)。江漢路にしても中山大道にしても、戦前のウエスタンスタイルが単に継承されているだけでなく、歩行者の回遊のアテとして、旧建築が新商業街にしっかり組み込まれている。もちろん大々的な改装を経て、満を持して営業をスタートさせたのは確かだが、街区全体が眼福に富むばかりでなく、なおしたたかに商業価値を生み出している点には感服させられる。それから、先ほども多少触れたが、数奇な歴史の街を闊歩する若者の姿にも、彼らなりの誇りやカラッとした風格が滲(にじ)んでいる。それは、なぜか上海では感じない雰囲気だった。上海では、やはり外地人が多いために日本人だって大してアウェー感はないし、今や彼ら地元民に対して「上海っ子」という意識が湧かないのだ。

(19)さて、先述の水塔のわきに、やたらと飲食の小店がならんでいた。街灯は少ないが、しかし、なかなかの人出である。プラスチックの椅子や卓子(テーブル)が路上を占拠している。ざっと見わたすと、おチビさんたちを連れた家族連れもいるし、杖(つえ)をついたかなりのご年配もいる。いつの間にかワイドな年齢層で満ちあふれていたのだ。そんな地元客の賑わいが、ぼくを後押しした。よし、ここで夕食をとろうと。一店舗あたり二米(メートル)から四米の間口で、牛肉麺(ニウロウミエン)、かき氷、串焼き、生煎(ションジエン)、臭豆腐(チョウドウフ)など、いろんなものを食わせる。で、ぼくが選んだのは「老韓煽鶏(ラオハンビエンジー)」という人気店の骨無し香煽鶏(シアンビエンジー=ピリ辛の鶏肉揚げ)、量り売りで二五〇克(グラム)二三・八元。それと「神農架洋芋(シェンノンジアヤンユー)」という店のジャガイモ揚げである。これは、まず直径約二厘米(センチ)の小ぶりな芋(いも)を大量にサッと油で揚げて、あとは小型の鍋に適量を移し、客の好みに応じて味付けをするという、ごくシンプルな一品である。微辣(ウェイラー=中辛)、麻辣(マーラー=辛口)、酸辣(スアンラー=酸っぱ辛口)、孜然(クミン)、椒鹽(塩コショウ)、蕃茄(トマト味)と六種類ある。鍋の中にこれらの「魔法の粉」を投下して、味を調(ととの)えていくのである。大一二元、小七元。見た目からして美味しそうだし、看板を見れば武漢総店とある。こんな間借りの小店(こだな)が本店というのもよく分からないが、店名はメルヘンチックだし(神農架は湖北省を代表する自然保護区で、野人伝説でも有名である)、ちょっと試したくなった。頬っぺたの赤いジャガイモのキャラクターが、自信ありげに親指を突き立てている、そんなキュートなロゴにも惹かれた。ジャンクな夕食だが、道すがらビールでも買って旅館(ホテル)で頂くことにしよう。

(右上)老韓煽鶏、神農架洋芋(左下・右下)。現在の営業状態は不明…

(20)帰りは道を変えて、花楼街(ホワロウジエ)を歩いた。商業ビルの一階に、オシャレな大型飲食店が軒を連ねている。和風居酒屋あり、バルっぽい飲み屋あり、洋食屋あり。平仮名まじりで「らあめん鯖慕嵐」なんて謎な店もあるが、これが拉麺(ラーメン)屋ではない。豪勢な海鮮料理屋である。どこも武漢市民で溢(あふ)れかえっていた。気の置けない仲間と卓を囲んで、笑顔でお喋(しゃべ)りし、さかんに飲み食いする客たちを横目に、ぼくは一足早く酔いはじめ、旅館までフラフラと帰っていった。途中、店先にパラソルを出した個人商店で、啤酒(ビール)とスポーツ飲料とオレンジジュースを買って持ち帰った。店の前では、近所の住人だろうか、上半身裸のおっさんたちが闇の中で捕克(ポーカー)に熱中していた。結局部屋で食べたぶつ切りの鶏は、予想どおりホットで美味しいおつまみだった(ただ微辣(ウェイラー)と注文したのに、ぼくには少々辛さが堪えた)。やはり啤酒とともに、が美味しくいただく必要条件である。今度は店やメニューを変えて食べ比べしてみたいものだ。調べてみると、店名の韓の字は韓志剛(ハンジーガン)という創業者の姓で、これが地元武漢の連鎖(チェーン)店らしい。そして芋(いも)のほうは、素朴ながら間違いなく日本人に愛される逸品で、啤酒(ビール)がいっそう進んだ。シンプルではあるけれど、揚げ加減とパウダーの均等なノリが絶妙なのである。当時口にした味を思い出すと、よだれが出そうなくらいだ。いまコロナ禍にあって誠に不謹慎な話ではあるけれど、もし将来武漢を再訪できたとする。そうしたら、ぼくは真っ先に、庶民から愛されていた、あの屋台街を訪れたいと思う(今度は先に啤酒でも用意して)。さて、かように簡単な夕食だったが、ともかく腹も膨(ふく)れて確かな満足を得た。

(21)ほろ酔いになったぼくは、翌日のルートも予習せず、そのままグースカ寝入ってしまった。ちなみに、この日の歩数は2万5521歩。初めての武漢の夜がふけていく。

武昌へGO! 長江の渡しは24円

(22)明けていよいよ旅の四日目。早朝から動きまわるつもりが、八時一五分出発と出遅れた。日の出から日没まで、明るい時間を有効に使わなければ。というわけで、さっそく朝の武漢を歩いてみよう。

(23)はじめに長江をフェリーで渡る。これは漢口と武昌とをむすぶ、市民の通勤の足である。運賃は一・五元(約二四円=当時)。朝六時三〇分から夜二〇時まで、日に四一本の便がある。ちなみに江漢路(ジアンハンルー)そばのホテルを選んだのも、このフェリー乗り場に近いことが決め手である。沿江大道(イエンジアンダーダオ)を百米(メートル)ほど進むと、とある沿道の建物からラフな格好をした人たちがバイクや自転車で続々と飛び出してきた。咥(くわ)えタバコのおっさんも、愛車にまたがり登場だ。そう、ここが埠頭である。しばし下船集団をやり過ごしてから、ぼくもその建物をくぐり、船着き場へと向かう。水面がキラキラと光る雄大な長江と、向こう岸の高層ビル群のシルエットが前方にあらわれた。これは朝から気分が上がる。堤防の長い長い下り坂を真っすぐ進み、いよいよ乗船。フェリーは一階がバイク車両、そして二階が客席という区分で、やはり混雑しているのは一階である。商用のどでかい荷を積載する人も多い。中には建築資材であろう鉄パイプ、長さ三米(メートル)強のスゴいやつを数十本、バイクにくくりつけた猛者もいる。おっかないなあ。さっそく階段を上って避難する(二階はガラガラだ)。船はまもなく出航した。デッキに出ると、中年の男たちが数人、先客としてそこにいた。長江は、幅約一公里(キロ)。対岸の目的地、中華路碼頭(ジョンホワルーマートウ)は乗船地点より二・五公里(キロ)ほど上流なので、フェリーは遡航(そこう)して進む。後方には白波。空は抜けるように青く、長江はとことん濁(にご)っている。微細な泥を多量に含んだ、喩(たと)えようのない色味である。これが波の加減のせいか時おり空色をほのかに滲(にじ)ませて、さらにえげつなく見えたりする。嗚呼(ああ)、これが武漢をつらぬく長江か。これが古来より武漢人が眺めてきた、母なる長江なのか。リアルな光景はグロテスクだが、旅先でもたげる感慨はひとしおである。男たちは電話をしたりデッキの手すりにもたれたり、腕組みしながら東西のビル群を見つめていたりする。乗船した江漢路が遠ざかっていく。そのうちに、昨夕車内から目撃した晴川橋が右手にあらわれた。それから、付近の小高い山の上には漢陽のテレビ塔、そして船の進行方向には、彼(か)の名高き武漢長江大橋が見える。この橋は、東の武昌側は蛇山(ださん)、西の漢陽側は亀山(きざん)という両座の丘陵地にひょいと架けられている。一九五七年に旧ソ連の協力で完成した二層の桁橋で、全長一六七〇米(メートル)(水上部分は一一五六米)。車やバイクが上層を通行し、鉄道が下層を走る。自転車やバイクをよけながら、歩いて渡ることもできるという。それとここからはやや遠いが、橋の先に見える漢陽の長江沿岸にも、やはり高層ビルがニョキニョキと林立している。やはり大都会である。

船上風景。さだまさしが旅した1980年頃はジャンクが行き来していた。

(24)漢口、武昌、そして漢陽。これを合わせて武漢三鎮と呼ぶ(鎮とは町の意)。長江と漢水によって分かたれた三地区は、まるで生来の好敵手であるかのように激しい拡張合戦をくりひろげている。武漢は膨張している。昨晩は博物館の展示でそのことを歴史的に確認したわけだが、ぼくはこの時、船上の大パノラマからもそう感じ取った。何でも見てやろうとは思っていたが、今回はあまり散策エリアを広げることなく、気になる場所を絞(しぼ)って歩いたほうが良さそうだ。そして、今回の旅では予定していた漢陽散歩をパスすることにした。

  武昌 朝(あした)に望めば厳(おごそ)かに
  日は出(い)ず 正に東湖の上
  超黄濁(こうだく) 長江は浄(きよ)からず
  㠝岏(さんがん)として 大厦(たいか)重なる
  *原詩「望秦川」 秦川朝望迥 日出正東峰 遠近山河浄 逶迤城闕重

元ネタは盛唐の李頎(りき。六九〇─七五一)の詩で、『唐詩選』『三体詩』所収。

(25)さて、誠に余談であるが、新型コロナによる武漢封鎖時(二〇二〇年)に大々的に報じられた火神山医院、すなわち市政府の号令で急遽建設されたあの専門病院の地は、その漢陽の郊外にある(現在地からは二〇公里(キロ)の隔たりがある)。ついでにマニアックなスポットを紹介すると、その病院から数百米(メートル)の距離にあるのが、『列子』や『呂氏春秋』に登場する鐘子期(しょうしき)の墓である。春秋時代の故事だが、晋の大夫で琴の名人、伯牙(はくが)という男がいた。彼が弾く琴の音(ね)を聴き、ただちにその真意を当てて意気投合したのが、楚の鐘子期その人である。鐘子期が亡くなると、伯牙は理解者を失ったと嘆き、そのあと琴を弾くことがなかったという。これがすなわち「断琴の交わり」と「知音(ジーイン)」(=親友)の語源である。覚えておいでの方も多いだろうが、二〇〇八年の映画「赤壁(レッドクリフ)」で、金城武扮(ふん)する諸葛亮と、梁朝偉(トニー・レオン)扮する周喩、この主役級の二人が突如古琴のセッションを始め、合戦前の心中を明かし合うなんて場面があった。よくよく漫画的で突飛なあのシーンも、きっと伯牙と鐘子期の逸話を踏まえた演出なのだろう。さて、現在の武漢市蔡甸区五賢路に、その鐘子期の墓はある。地下鉄4号線の駅から二・四公里(キロ)という立地だから、最寄り駅というにはやや遠い気もするが、この駅名も故事から採ったものとみえる。その名も知音(ジーイン)駅という。こんなにも渋くて味わい深い、超古典的なネーミングが他にあるだろうか。

中華路碼頭。No lying down, No Fishing, No swimming の注意書きも。

恋とコーンとほっとテーション

(26)遡航(そこう)一五分ほどで、対岸の武昌・中華路碼頭に接岸。船を下りると、黄鶴楼(こうかくろう)に向かって東へ歩く。通りの名を中華路(ジョンホワルー)という。そしておよそ百米(メートル)進んだ地点で、われらが羅森(ローソン)を発見。おっとイートイン席がある、ならば朝食を摂(と)ろうと迷わず入店。レジ横のホットスナックが充実しており、さっそく良い感じである。焼き鳥にチキンカツ、熱狗棒(ホットドッグ)、魷魚(いか)の串焼きのほか、陝西風ハンバーガーとして知られる肉夾饃(ロウジアモー)もある。これは煮込んだ豚や羊をパンの一種に挟んで食べる、西北のソウルフードである。国際色豊かに見える半面、すっかり現地化が進んでいるなとも気づかされる。さらに隣の中華まん什器に目を向けると、なんと一五種類以上のラインナップ。ケース内の饅頭(マントウ)類は色とりどりで、洋菓子のマカロンを想起させるほど(ただ少量多品種のため、仕込み作業が大変そうだ)。ぼくはさっそくこれを試したくなり、鮮肉大包(シエンロウダーバオ)、蝦仁包(シアレンバオ)、香菇蔬菜包(シアングーシューツァイバオ)の三種を一個ずつ買う。合計九・八元(約一五六円=当時)。さっそく着席して食べてみる。まずは蝦仁包(シアレンバオ)だが、湯葉にくるまれたエビが、なぜか豚肉という最強助っ人とともに放り込まれている。両種の肉汁が贅沢に溶けあう画期的な味である。これは美味い。さすが四・八元(約七六円)もするだけのことはある。次なる香菇蔬菜包(シアングーシューツァイバオ)は、賽(さい)の目になった椎茸と菜が入ったシンプルなもので、中身は白い皮生地をもほんのり染める緑一色(リューイーソー)。主食の地位にありながら、あえて脇役(わきやく)を買って出る、いぶし銀な奴といったところか。パンチの利いた定番の中華まんを好む日本人には物足りないかもしれないが、中国人には確実にウケそうな一品だ。最後に食した鮮肉大包(シエンロウダーバオ)は、豚肉にタケノコを加えて濃いめに味付けしたもので、ごくオーソドックスな肉まん。もちろん満足度は高い。やはり日系便利店(コンビニ)の安定感は捨てたものじゃない。陳列棚を見渡したところ欠品も少ないようだし、卓子(テーブル)は清潔である。武漢羅森(ローソン)、なかなかいいね。そう独りご機嫌でいると、そこへおとなしめな若者が一人、手ぶらで店に入ってきた。レジの前で、ぼそぼそ声で店員と話している。彼は何か言いつけられて、ぼくのそばに座り、渡された書式に何やら記入し始めた。そのうち、経理(マネージャー)らしき女性もやって来て、そのまま向かい合って着席した。そう、イートイン席でスタッフ候補者の面接が始まったのだ。まず、男の子がおずおずと希望時間帯を申告した。それならと、一日百何十元で(これが果たして何元だったか、ここはぼくのメモが抜けている)、月で幾ら幾ら稼げるから、それでいいわね? と女性が早口でどんどん話を進めていく。おとなしい彼は、ほぼ頷(うなず)くのみだ。相席のぼくは鮮肉大包(シエンロウダーバオ)をモグモグやりながら、彼の顔をのぞいてみた。歳は二十歳手前かな。朴訥(ぼくとつ)とした、真面目そうな横顔だった。どこかの誰かさんみたいに、ゲームに熱中して仕事をサボるようには見えなかった。さあ、そのうちにぼくも中華まん三個を平らげ、出発の準備が整(ととの)った。どうかな、この子で決まりかな。頑張ってどんどん稼ごうぜ。そう心のなかでエールを送り、ふたたび中華路(ジョンホワルー)に出た。

(右下)上から蝦仁包、香菇蔬菜包、鮮肉大包。人気の順も気になる。

(27)続けて歩道を進んでいくと、妙齢の女子が一人、トウモロコシにかぶりつきながら向こうから歩いてきた。小ぎれいな格好をした、ロングヘアの美人である。彼女は真顔で獲物をアグアグしながら、天下の往来を闊歩(かっぽ)している。街中のドッキリ企画ではないが、軽く衝撃的な図にビビりながら思う。ちょっとワイルドすぎやしませんか、お嬢さん。そこはせめて食パンにしましょう。よもや、トウモロコシ片手に「行ってきまーす」と家を飛び出してきたのではあるまい。出勤途中で買い求めたのだろう。しかし、縁日でもビーチでもない。そう繁華でもないが、ここはれっきとした大都会の一角だ(埠頭付近だから東京なら新橋・浜松町といったあたりか)。たとえば、食パンを口にしたまま少女が通学路を駆け出し、運命の男の子とぶつかったあげく恋に落ちるというのが、わが国の少女漫画のよくある形らしいが、もしかしたら中国・武漢でこれに代わる恋の小道具は、他ならぬ玉米(ユーミー=トウモロコシ)なのかもしれない。まあそんな連想はともかく、二十一世紀になっても中国各地で遭遇する、かようにシュールな小景には、なにかこう旅人の心をして鳥山明の「ドクタースランプ的」異世界へと誘う、一種の魔力が潜んでいるように思う(誤解を恐れずにいうと純粋にギャグっぽいのだ)。もとより中国を旅すると、思わず絶句したりツッコみたくなる出来事・光景にたびたび出会うのだけど、実際にはその時の気分や都合、または自分の経験値(慣れや飽き)とマイブームに応じて、我々は時々刻々と日中間ギャップを受け流したり、嬉々として拾い上げたりしながら先を急ぐわけである。その点で、いまスタイリッシュな武漢美女(メイニュー)の朝の立ち食い姿が、思いのほかイレギュラーで鮮烈な印象をぼくに与えたのである(まあ、閉鎖的な住宅地ならば椀を掻(か)き込みながら出歩く人を頻繁に見かけるのだが)。しかし、このような情景にウケていながら自分で梯子(はしご)を外すようであるが、帰国後にその日の写真をふりかえったぼくは、なんと先の羅森(ローソン)の中華まん什器でトウモロコシが販売されていたのに気がついた。ということは、あそこでは初めから食べ歩きが想定された快餐(クワイツァン=ファストフード)だったのだ。迂闊(うかつ)にも、店内では完全に見落としていた。しかも、これは現地化に邁進(まいしん)する日系企業の推奨商品である。アレレッとなったのは言うまでもない。トウモロコシ女子に遭遇したときの驚愕と、その後の思索・妄想は百パーセント本物である(よって隠しも撤回もしない)。ところが新情報によって、どうもそれが特殊な状況ではなく、ありふれた日常風景なのかもしれないとなると、笑いの質が変わってくる。仮に、ぼくが複数人で武漢を旅していたら、このトウモロコシ現場をおおいに笑って、身内で語り継いだり土産話に仕立てたりしただろう。今でもその平和な街路における珍景を思い出すと、彼女の真顔と行動とのギャップに笑いがこみ上げてくる。しかし、現在のぼくの関心は、そんな笑いの先の共感可能性のほうにある。そう、もし今度中国の羅森に入ったら、である。ぼくは迷わず、トウモロコシを一切れ買って、道端でアグアグやってみたいと思っている。もちろん中華路(ジョンホワルー)の彼女のように、何食わぬ真顔で。

廉政文化公園の朝

(28)路上にはもう一人豪傑がいた。彼はまだ幼少の身で、身長や容貌(ようぼう)から察するにおそらく三歳未満と思われる。頭は丸坊主で、開襠褲(カイダンクー=排泄用に股の部分がぱっくり開いているズボン)を穿(は)いている。旅行中ひさびさに、この開襠褲の幼児に出会った。歩道の後ろを行くぼくの目には、当然彼のお尻がチラチラ見える。そして、この子は歩いているのではない。三輪のキックボードに両の足をのせ、両手はしっかりとハンドルをつかんで、お婆さんに引いてもらっている。カッコいい愛車だね、でも君にはまだ早いんじゃないかな。まずは坊や、そのズボンを卒業しようか。そんな風に思って、彼らを足早に追い抜いていった。このとき、ぼくは用を足したくて近くの公園に向かっていた。そこは毛沢東の旧宅や中国共産党第5回党大会(一九二七年)の建物と隣り合うロケーションで、その名も武昌廉政文化公園という。省外の党員たちと見られる旅行団が、白シャツ黒ズボンで揃いのバッヂを胸に、大勢どやどやと歩いている。外国人旅行者にとっては、そんなアウェー感みなぎる界隈(かいわい)である。さて、無事園内の厠所(トイレ)を使用し、やれやれといった感じで表へ出てみると、ぼくは再びその開襠褲のおチビさんと鉢合わせした。おっ、坊やお先に。意外な再会に、ぼくはちょっと微笑(ほほえ)ましい気持ちになったのだが、彼の目つきが数分前とは変わっていることに気づいた。さっき外の歩道で見たときは、あどけない乳幼児といった印象だったのに、今はあたかもスタート間近の短距離走選手のように、キッと前をのみ見つめていた。そして、お婆さんが手を離すやいなや、彼は園内の植え込みのあいだを縫うように、キックボードを駆って単騎、猛スピードでぶっ飛ばしていった。ぼくは唖然とした。お婆さんが声を掛けるが、まったく聞かない。大人のちょっとしたランニングの速度である。キックボードのガーッ、ガーッという音が遠ざかる。あっという間に緑地の陰に消えた。よく整備された、平坦な散策路である。このお気に入りのコースに到着するまで、彼はずっと体力を温存していたのだろうか。「まんが日本昔ばなし」のエンディング曲ではないが、まさに、お尻を出した子一等賞である。お婆さんはあきらめて、ゆっくりゆっくり後を追った。道はしだいにカーブしていく。お婆さんの姿もやがて見えなくなり、しばらくしてから彼らの話し声が微(かす)かに聞こえてきた。どうやら無事に合流したようだ。ぼくはひと安心して、園内散策を再開した。

当のキックボード幼児(行動では体力温存モード!?)。

(29)このエリア一帯は、中共愛国教育のちょっとした宣伝拠点となっている。廉政文化公園には、かつて第5回党大会で選出された中央紀律監察委員会(思想・党紀の徹底や腐敗摘発を指導する機関)のリーダー一〇人の像が立つ。汚職を絶って清廉政治を行う、というコンセプトなのだ。ただ、中共色にしっかり染まったこの場所で、ぼくは完全に政治と近代史の話題を忘れ、(先述のとおり)あどけない暴走幼児を観察するなど、まったりとした時間を送っていた。園内では、割と幅広い世代の地元民たちが、朝の清新な空気のなかでマイペースに過ごしている。とりわけ乳幼児を連れた高齢者の姿が目立つ。あるいは、イベントごとの稽古だろうか、五米(メートル)はありそうな長い長い吹き流し、それも背ヒレのついた龍を模したやつをクルクルと器用に操(あやつ)るおばちゃんもいて、その身のこなしは、さしずめシニア新体操といった感じだった。また幾人かで輪になって、羽子板の羽根を蹴り合う遊びに興じるサークルもある(これは毽子(ジエンズ)という競技らしい)。だいたい五十がらみの男女で、みなさん集中力が高く、そのうえ確かな技術をお持ちである。返球が逸(そ)れても、それはそれは上手に蹴り返して、ラリーをつづける。頭上背後に飛んできた羽根を、エイヤッと踵(かかと)で蹴り上げて返す妙技もたびたび披露される。なんだ、この華麗なプレーを連発する人たちは。スポーツウェアの着こなしも、なかなか決まっている。まるで、映画「少林サッカー」に登場する達人らの引退後を見ているかのようである。そんな名もなき裏街のファンタジスタの面々を眺めながら、ぼくは一路黄鶴楼へと向かった。

次々繰り出される秘技につい見入ってしまう。後方には腹出しおじさんの姿も…

甲殻類を食べて黄鶴楼へ行こう!

(30)次にゆくは戸部巷(フーブーシアン)。ここは老朽化した横町を明清風の建物に造り変えた、現代の食べ歩きゾーンである。真っ赤に茹(ゆ)でられた名物の小龍蝦(シアオロンシア=ザリガニ)をはじめ、おぼろ豆腐風の豆腐脳(ドウフナオ。豆腐花ともいう)、田螺(たにし)料理、定番の臭豆腐(チョウドウフ)の店、それからジューススタンドといった小店がずらりと並ぶ。みやげ用の菓子折なんかも売られている。観光スポットらしい、ある種のあざとさは感じるものの、このご時世、遊び慣れた中国人のニーズを当て込んだ商売である。写真を撮ったりしながら、キョロキョロ眺(なが)めてるといけない。知らぬ間に食欲をそそられる。結局ぼくは、羅森(ローソン)で腹におさめた中華まんのことを忘れ、地元武漢の名店、蔡林記(ツァイリンジー)で熱干麺(ローガンミエン)一二元を、さらに路傍の小店で蟹を食べた。蟹は半斤(きん=二五〇公克(グラム)で三〇元。プラスチックの盆に載ったぶつ切りの脚に、ほぼラー油といった見てくれの赤いタレが染みている。重さを量(はか)って二六元(約四〇〇円)と相成った。指先と口のまわりを汚しながら、むしゃむしゃといく。とんと相場が分からぬが、ぷりぷりとして美味い。食べ過ぎかもしれないと感じながら、明日帰国の身なので好きな物を食べることにする。腹を壊さなければいい。ぼくは鞄のなかをまさぐり、日本から多めに持参した胃腸薬の所在を確かめて、ふたたび黄鶴楼(こうかくろう)へと歩き出した。そうそう、名物の熱干麺はタレがどうも口に合わず、半分ほど残してしまった(ゴメンなさい)。

エビ、カニ、ザリガニ… 朝っぱらから甲殻類の山が築かれる。

(31)ぼくは賑々しい戸部巷(フーブーシアン)を抜けて、蛇山(ださん)のふもとに到着。橋のたもとの階段を一気に上り(ここから武昌駅へとつながる鉄道線路が見下ろせる)、やっと黄鶴楼前にたどり着いた。時刻は一〇時半、今日もカンカン照りである。名勝・黄鶴楼が建つこの蛇山は、ほかにも長春観、龍華寺、城隍廟などの歴史建築が散在し、多くの詩人・賢者の逸話が残される一大景勝地である。古くから要害の地で、三国志の呉・孫権はこの地に夏口城を築いた。入場料七〇元を払って牌楼(はいろう)をくぐると、どこから湧(わ)いたのかというほどに、すでに中国人観光客が大集合している。お尻の大きな欧米系旅行客も目立つ。なんだか、どこへ行っても明るい人間だらけである。みなキレッキレの明るい表情で眼下の街を指さしたり、自撮りに夢中だったりする。自信満々というべきか、素が表れているというべきか。

(32)さあ、ぼくらの目の前には、すでに真打、黄鶴楼(こうかくろう)がお出ましである。滕王閣(とうおうかく。江西省)、岳陽楼(湖南省)とならぶ江南三大名楼の一つで、世界遺産にも指定された五層の楼閣である。高さは五一米(メートル)(ただし戦前の絵葉書を見るとこれが三層で、高さは現在の半分にも満たないように思われる)。もともとは三国志の呉の時代の建立、のち破壊と修復を繰り返したという。現存するのは一九八五年の再建、つまり三十四年ものだ。長江水面からの高度は、都合九〇米(メートル)におよぶ。伝説がある。今は昔、酒代が払えぬ文無しの道士が店の壁に黄鶴を描いて去ったところ、酒客が手を打つたび鶴が舞い、酒屋が大繁盛したという。十年後に道士が戻って笛を吹くと、鶴が壁から抜け出し、道士を乗せて飛び去った。これを記念して、酒屋の主が楼閣を建てたと。なんだか落語の抜け雀(すずめ)みたいな噺(はなし)である(あるいは元ネタの一つか)。それはそうと。山上にそびえる天下の名楼は、見れば見るほど壮観である。各層に橙(だいだい)色の重櫓が反り返り、いかにも運気を呼びそうなフォルム。いや、大小無数の檐(ひさし)を翼に、今にも参観客を乗せてドピューッと飛んで行ってしまわないかと。そんなマンガ的空想さえ掻(か)き立てられる、なかなかファンタジックな立ち姿である。古来より、文人墨客がここを天上界または仙界への入口とみなして遊び、「いいねボタン」のかわりに雄大な詩を残していった。唐の崔顥は「黄鶴楼」を、同じく李白は「黄鶴楼送孟浩然之広陵」、王維は「送康大守」を詠み、それぞれ現在に伝わる。さて、楼内の階段をひたすら上ること数分、ぼくは最上層におどり出た。回廊をめぐり、正面すなわち西方を望む。眼下には長江と大橋が直交し、武漢三鎮が一望できた。周囲は大自然一辺倒でもないし、雲衝(つ)く摩天楼が集まる都心でもない。橋あり、電視(テレビ)塔あり、鉄道あり、学校あり、オフィスビルあり、集合住宅あり。とにかく雑多な構造物がごちゃごちゃと混ざり合っている。まさに、三国志の孫権による築城以来二千年におよぶ、武漢三鎮の「上書きの歴史」が望めるのである(しかもいわば町の原点ともいえる場所から)。回廊は三六〇度、内外の客でいっぱいである。老若男女の溌剌(はつらつ)とした中国語が飛び交い、各人の自撮り棒が右に左に振られる。すごい熱気だ。欄干付近では揉(も)みくちゃにされて苦しいので、ぼくは浅瀬で息継ぎする江豚(イルカ)のように、時おり楼内の壁画(先の伝説を古風なタッチで絵画化したもの)やそれを見つめる人たち(屋外よりは総じておとなしめな印象)なんかを観察して、それに飽きると、また外を眺めに回廊の人混みに飛び込む、そんなことを繰りかえした。ぼくもグッドボタンを押すかわりに、はんなりと呟いておこう。

  九月 蛇山(ださん)の頂(いただき)
  黄鶴(こうかく) 游人に微笑(ほほえ)む
  登りては看(み)る 老若の楼内に満つるを
  下りては愛す 俗伝の人心に留まるを
  *原詩「九日龍山飲」 九日龍山飲 黄花笑逐臣 酔看風落帽 舞愛月留人

これも李白さんの詩から。現代の観光客が、みな古(いにしえ)の伝承や先人の宴(うたげ)に感化され、ハイになっているように感ぜられたので、そのあたりの感興を爆詠みしてみた。

(左上)長江大橋の先が漢陽・亀山のテレビ塔。楼内外とも活気があふれる。

(33)ぼくは楼より出でて、さっき入場口付近で入手した黄鶴楼(こうかくろう)公園の絵地図(無料)を広げた。上質紙で、イラストは歴史絵巻みたいに立派な出来である。ここは蛇山の端(はし)っこで、山の奥にはまだまだ名所がある。だが、ここで時計は正午を示す。予定を大幅に過ぎている。それに、山歩きで体力を削(そ)がれては堪(たま)らない。おとなしく退却することにした。そう決断したとき、板東英二似のおっさんが陽気に近づいてきて、その地図はどこで買ったのかと訊ねてきた。ああ、これは免費(ミエンフェイ)ですよ、とぼく。なんだ免費(ただ)なのか、どこで貰ったんだ。ぼくは下手な中国語を駆使して教えてあげようとしたが、配布場所は少々説明しづらい地点にあった。それに、連れを待たせていそうな彼が数分のあいだ、この場を離れるのも面倒な仕儀だろうと思われた。そこでぼくは、カバンから同じ地図を一部取り出して、彼に差し出した。旅行中の習慣で、保存用に一つ取っておいたのだ。コレをあげますよ。彼はとても喜んでくれた。いいのかい、哈哈哈(ハハハ)、これはいい地図だなあ。そうでしょう、どうぞどうぞ、とぼく。謝謝(シエシエ)、謝謝、哈哈哈。彼は手を合わせて礼を言い、そうして上機嫌で人混みに消えていった。こちらも良い気分である。ぼくは、請慢走(チンマンゾウ=お気をつけて)と声をかけて彼を見送り、左様ならと武昌の名楼をあとにした。

(34)なお余談だが、黄鶴楼(こうかくろう)の南(つまり蛇山の麓)には、辛亥革命の発端となった武昌起義の記念館がある。もとは一九一〇年に建てられた清朝政府の役所で、のちに国民政府の地方軍司令部として使用された、赤レンガの立派な建物である。本来なら避けて通れない、武漢有数の観光スポット(中国語でいうなら必游景点、必到之処)なのだが、今回の旅ではさすがに参観しきれない。言い訳をしておくと、今回の旅はとにかく常州・羽毛球(バドミントン)観戦の日程を優先した。湖北省周遊は完全に後付けなので、中国史のおさらいもしていない。それでおのずと、この辺の革命関係史跡には積極的にのめり込めないよなあ、という感覚だったのだ。もし武漢を再訪するとしたら、次回は熱烈にこの麓エリアを見学するとしよう。

武昌のトラベルビューローから

(35)地上に天下り、解放路(ジエファンルー)。すぐ右折して民主路(ミンジュールー)を五〇〇米(メートル)。ふたたび左折し、衣料品店の多い胭脂路(インジールー)を行く。赤い石畳の歩道と豊かな街路樹が特徴的な、どこかモダンな感じのする道である。店舗の並び、一階部分がくぼんで屋根付きアーケードになっている。こんな南国風建物、すなわち騎楼(チーロウ)が連なる景観にも、なんとなく穏やかな気風を感じる。胭脂とは物凄い字面だが、これは口紅の意味。一九七九年に中島みゆき(中国語では美雪と表記)が唄った「ルージュ」が、中華圏で王菲(フェイウォン)らによってカバーされ、「容易受傷的女人」という大人気バラードになったが、この原曲名がやはり中国語訳で「胭脂」だ。

路上変圧器(?) にも、李白さんの詩をモチーフにしたイラストが。民主路。
胭脂路。大ぶりな枝葉と、モダンな意匠を呈する両脇の建物が印象的。

(36)さて、ここで初見の有家(ヨウジア)という便利店(コンビニ)に入り、橙汁(オレンジジュース)と椰汁(ココナッツジュース)とウエットティッシュを購入(一九・七元、うちレジ袋〇・二元)。これからまだまだ歩くので、積極的に身体を潤(うるお)す。ついでに調べてみると、これがなんと二〇一四年創業の超後発組で、となりの江西省発祥の便利店だそうだ。地元・南昌を皮切りに、現在は武漢・長沙・広州・深圳など他省の大都市に連鎖(チェーン)展開しているという。羅森(ローソン)以上に充実したホットスナックとカラフルな配色のレジ周りは、どこか未来都市的で日系店とは趣(おもむき)が異なる(かつてのampmっぽい印象)。セルフレジが導入されているわけでもないし、オペレーション的に目立つ点はないが、とくにあげつらう部分もない。むしろ先行する競合のいいとこ取りが進行している模様だ。実際のところ、中国には、日本の各連鎖(チェーン)店を渡り歩いた便利店経験者だってごまんといるだろうし、それどころか最近は、日本の大手でも本部の店舗指導スタッフ(スーパーバイザー)として働く外国人が急増していると聞く。だから、本場ニッポンの店舗運営・出店計画・商品開発を知り尽くしたYOU人材が、地味な江西省からビジネスをスタートさせたとしても何も不思議なことはない。あとで武漢市内の地図で検索してみると、この有家(ヨウジア)便利店は漢口・武昌・漢陽の各市街地で集中的に出店されていて、まさに絵に描いたようなドミナント戦略が実践されていた。これから強くなりそうだ。

コンビニで買った飲料2点。ココナッツジュースは定番ブランドの紙パック版^^

(37)便利店(コンビニ)のある角を左折、胭脂路(インジールー)から糧道街(リアンダオジエ)に入る。古い商店街で、その昔、ここから糧草(兵馬の食料)が運び込まれたのだという。元々は狭い通りで、現在のように三〇米(メートル)ほどに拡幅されたのは一九九八年のこと。洗練さや現代的な活気には欠けるが、いまも食堂や旅館などが並ぶ、どこか旧街道の趣(おもむき)である。途中、一軒の地味な旅行代理店を覗いた。中国人が国内外くまなく闊歩(かっぽ)する大旅行時代、はたして武漢発着のツアーはどんな具合かと気になったのである。歩道に面して、チラシが十数枚掲示されている。「東京・北海道・桜・温泉七日游」にはじまり、「英国+愛爾蘭(アイルランド)一二天」(天は日数の単位)、「徳法瑞意」、「泰国曼谷(バンコク)・芭提雅(パタヤ)」、「柬埔寨(カンボジア)」、「俄羅斯(ロシア)双首都+小鎮」、「澳州(オーストラリア)九日游」とつづく。世界の旅先、よりどりみどりだ。徳法瑞意とはドイツ・フランス・スイス・イタリア周遊旅行である。中国国内のツアーも充実している。北京、山西、泰寧大金湖(福建省)、青島(山東省)、恩施(湖北省)、麗江(雲南省)、西蔵(チベット)、海南島、敦煌(甘粛省)と行き先は多岐にわたる。俄然(がぜん)興味が湧いて、ぼくは店内のチラシも何枚か拝借して読んでみた。目についたのは、同じ湖北省内の宜昌市・三峡人家風景区(夷陵区)および清江画廊風景区(土家族自治県)をめぐる大自然周遊コースと、同じく湖北の緑林山、あるいは河南・山西両省の五日間コース(王屋山・珏山・少林寺・雲台山・龍門石窟・晋城の皇城相府など)、福建省五─六日間(厦門(アモイ)鼓浪嶼・永定客家土楼・武夷山・泰寧古城など)、そして王道の世界遺産ともいえる江西省・廬山二─三日間の旅である。省内省外を問わず、ずいぶん豪勢に各所をまわるんだなあ。これらのチラシを眺めていると、鉄道網とハイウェイの充実、そして観光にまつわる各種サービスの相互接続が進み、真に中国国内をネットワーク化させているということに改めて気づかされる(ハードとソフトともにだ)。ぼくの学生時代、つまり二十年前の交通・旅行事情で同様のツアーを企画したならば、まずはざっと二、三倍の日数を要したはずだ。それが個人旅行なら尚のこと、行く先々で必ず口論やトラブルに見舞われ、途中で一日二日は足止めを食らい、現地で信用できそうな者を自力で(すなわち金銭の力で)探さねばならず、基本的になりゆきは運まかせ、結局ヘトヘトになって大地を這(は)いずりまわることになっただろう。こんな販促チラシを眺めているだけでも、時代は変わったなあ、なんて感慨がしみじみと湧(わ)き起こる。以前の観光客感覚ではとても考えられない、夢の弾丸旅行が可能になっているのだ。また、各ツアーが主要な観光地を押さえながらも、近年まで未開発だった絶景スポットをちょいちょい組み込んでいるのも気になるところである。とくに珍奇な自然景観がウケているのか、旅程のなかに地質公園の名前をよく見かける(まさか、ブラタモリの影響ではあるまいな)。おそらく、まだ行った人が少ないので周囲に自慢できるとか、確実にSNS映えするなどの「鉄板(テッパン)」要素が中国人の旅欲を誘うのだろう。ともかく、交通の高速化と積極果敢な観光地開発が、羽振りのよい武漢市民の他省遠征の動きに拍車をかけているのは確かなようである。日本人全体の中国旅行熱は約二十年冷めたままだが、他方でぼくのようなマイペースな遊客は、今まさにこの恩恵にあずかっているわけだ(以前は外国人の立ち入りが制限された「未開放地区」が数多く指定されるなど移動以前の障害もあった)。ご興味のある方は、大手旅行サイトのトリップアドバイザーや携程旅行(シエチョンリューシン。トリップドットコム)などから現地のトレンドをお確かめください。

武昌の台所通りをガン見して歩く

(38)ええ、実況中継にまかせて説明を省いてきたが、次なる目的地は県華林(シエンホワリン)という、旧武昌城内に残る民国建築の集合地である。昔ながらの区画や街路を歩きながら洋館めぐりが楽しめるということで、外国勢力の租借地とはまた違った趣(おもむき)が味わえようと旅程に組み込んだのである。それと、出発前に谷歌地球(グーグルアース)で「予習」したところ、ぼくは黄鶴楼と県華林の中間に、再開発の遅れた庶民的住宅地を発見していた。ほほう、いまどき珍しいじゃないかと期待大でマークしていたのだが、これからその区域に入る。

(39)糧道街(リアンダオジエ)から右折で、糧道大巷(リアンダオダーシアン)という横丁に入ると、眼前に家庭の洗濯物があふれだす。歩道の日陰では、地面にじかに胡座(あぐら)をかいて、スマホゲームに熱中している子供らもあらわれた。このようにして、ぼくは突然、裏町の庶民的雰囲気に取り巻かれた。左折して候補街(ホウブージエ)。車の往来は途絶え、パジャマ姿の地元民が歩いていたり、戸を開け放った平屋の雀荘で、大勢の高齢者が卓を囲んでいたりする。昼間から良い雰囲気だね。さらに右折で、得勝橋(ドーションチアオ)という名の通りに入る。まさにこれが、思いがけない最高の散策スポットだった。六百年の歴史があるという得勝橋は、かつて武昌城の北門に通じていた繁華街で、有事の際には軍隊もここから出征したという。だが道幅は狭(せま)い。なんとおよそ五米(メートル)。今では、みんなの台所といった風情の市場通りである。魚屋、水果(くだもの)屋、乾物屋、靴屋、按摩鍼灸(しんきゅう)店に、理髪店や肉屋も混じる。広場っぽい開放的なマルシェではなく、地元客のみが行き交うのであろう、一本道の市場。よそ者のぼくは買い物の邪魔にならぬよう、ササッと歩を進めるが、昼どきの少なからぬ通行量に、急(せ)く足がたびたび止まる。しかも、各々が敷地内に住宅兼店舗を構えながら、商いの勝負は路傍で決まるとばかり、どこも遠慮なく往来にせり出している。正直、歩きづらい。ただ見方を変えれば、だからこそ見物のしがいがあるともいえる。下町のごちゃごちゃ感が画(え)になるし、また首を突っ込まなくても、扱う品がおのずと知れるからだ。それで結局は散策ペースを落として、のそのそ歩くことになった。商舗によっては、棒とシートを組み合わせて即席の屋根を作り、なんとか自前の日陰を確保している。ほんの数秒間だが、たびたびそんな「避暑ゾーン」を通過する。やあ、かたじけないな。だが、そうした工夫は一軒一軒の個別な創意によるもので、一致団結して屋根を設けようという方向にはならないらしい。そんなわけで、ぼくはひたすら、各店自慢の出物・売り物の姿や色彩に涼をもとめて進んだ。通りに響きわたる売り声は、ほとんどない。店先で足を止めた見込み客に、さあ、どれを買うんだと声が掛かる程度で、総じて静かなのである。涼面(リアンミエン)、涼皮(リアンピー)、煎包(ジエンバオ)、腸粉(チャンフェン)、水餃(シュイジアオ)を食わせる店もあれば(値は五元程度)、五香粉を使用した豆腐干(ドウフガン)をブロックで各種一斤(きん)三・五元から五元で売る店もある。豆腐干(ドウフガン)は照りの入った干し肉のような色で、ステンレスのバットに山積みされている。見た目は少しグロテスクだ。また魚屋には、蟹(かに)、牛蛙、青蛙、甲魚(すっぽん)、土泥鰍(どじょう)、鱸魚(スズキ)、そんな品々が雑然と並んでいる。蛙(かえる)は魚と同様、トロ箱に入っている場合もあれば、ただ緑色のネットに何十匹と詰め込まれていたりもする。で、路上に放置。こちらは間近で発見するたび、不意を衝(つ)かれてギョッと驚く。肉屋は薄暗い小店が一軒、軒先の竿(さお)から鉤(かぎ)を垂らし、そこに肉を吊(つる)している。肉の種類・部位・価格に関する表示は一切ない。それで商売になるのが不可解だが、そこは地元民どうしの売り買いのこと、あまり不思議がっていても仕方がない。どこの店主も大概、ガレージのような建屋でご飯を食べたり、スマホを覗いたり、往来を睨(にら)みつけたりしている。肉屋以外は、同業もいるためか、わりと明朗な価格表示がされている(だいたいは段ボールの切れ端に重量あたりの単価が書かれているだけだが、それでも多少は安心感がある)。情報開示に積極的なのは、競合の多い八百屋だ。黄陂・孝感・東北・蘭州・雲南・房県なんて生産地名がおどるのを見て、野菜各品の遥かなる旅に思いを馳(は)せてみたりする。さらに進んでいくと、広い歩道にミカン箱大のケース数十個を積み、勝手に自分の城を築いてしまっている八百屋も登場する。野菜果物の山越しに奥を見れば、幼児を含む三世代が卓を囲んで歓談中。なんのことはない。オープンなお茶の間風景がそこにある。職と住のあいだに垣根がないようだ。いや、それどころか外見上は、商売より子守りに軸足が置かれている。はたまた、道の片側に壁が続いていたりすると、そこへまた商売道具一式を並べる者が出てくる。土泥鰍(どじょう)屋などは、まず水槽四つを車道に置いて、それから壁ぎわ幅一米(メートル)のスペースを堂々占拠し、店を広げている。配置された道具はといえば、ビニール袋の束(たば)、血の付いたバケツ、茶色に錆(さ)びたまな板がわりの缶箱(そこに軍手と包丁が載っている)、秤(はかり)、ハサミ、あとは雑巾と、いくつかのザルに長椅子である。その逞(たくま)しい商魂に、もうどこからツッコめばよいのか分からない。そうかと思えば、買い物客もさるもので、上半身裸のよく日焼けした爺さんが、ひどく険しい顔で果物を物色していたり、パジャマ姿のおばさんが、自転車に発砲ケースを積んで魚を求めに来ていたりと、こちらもなかなかワイルドな風情なのである。まあ、こういう場所にたゆたう時間は完全に彼らのもので、外地の者は、たとえ時間と空間を同じゅうしていても、からきし存在感がない。地元住民の正義の人間臭さに対して、ぼくなどは、いわば白旗を揚げて歩かざるをえないのである。でも一方で、かようにアウェーな土地に踏み込んで頼りない歩行者を自覚するとき、ぼくの冒険気分は心なしか高揚して、内心そぞろ歩きがますます愉快に感じてくる。

頭上に所々ネットが据え付けられている。これでも幾らか微涼が得られる。
広い歩道をめいっぱい利用して野菜を売る。幼い子供は店番見習いか!?
このあたりは日除けが徹底されている。開店前の肉屋だろうか。
かつて武昌城の旧武勝門があったエリア。両脇は空き地。

(40)武昌の古い絵葉書などを見ていると、人力車や通行人が狭い舗道にひしめいて往来していた、かつての街の風景が知れる。建物は高くても三階までで、旅館や食べ物屋、小商いの店が並んでいる。ここ得勝橋(ドーションチアオ)も、昔はそのように賑わっていたのかな、などと空想しながら歩くのもいとをかし。ここ旧武昌城のように、街並みの細かな部分や売り物が変わっても、街区・道路のスケール感が不変であると、歴史に寄り添う余裕が出てきて想像が楽しいものである。ぼくは途中で公衆厠所(トイレ)に立ち寄り(地図アプリで探せるありがたい時代だ)、それからまた北上を再開し、一三時五四分に県華林(シエンホワリン)のメインストリート西端へたどり着いた。だが得勝橋のつづきが気になり、もう少し直進する。すると、まもなく道は鉤(かぎ)型に折れて、青色のフェンスが左右を覆うようになった。通行が途絶えないので、道は旧武勝門(現在地のさらに北)へと繋(つな)がっているはずだが、壁の向こうはどうやら瓦礫(がれき)まじりの草むらといった様子であった。彼方(かなた)に高層ビルが連なる。嗚呼(ああ)、ここも再開発地区か。仕方なく引き返し、県華林の一本北側の路地を歩く。これを三義村(サンイーツン)という。副食品の店や理髪店とならんで石瑛旧居という歴史建築と出会う。そして、いつのまにか商いはやみ、左右両側に魔改造っぽいレンガ住宅が居並ぶ、静かな区画に入った。路傍には、櫻桃小丸子(インタオシアオワンズ=ちびまる子ちゃん)のイラストが描かれたピンク色の布団が全開で干してあったりする。この裏通りで目に入るのは、老人と洗濯物ばかりである。三義村も面白い通りだ。通り抜けは可能だが、外部の人間がまるで入ってこない。それで公道が各戸の庭と化している。長閑(のどか)な雰囲気。二百米(メートル)ほどで右折して道なりに行くと、急に服飾ブランドの横文字が増える。三義村地区はここで終点。ぼくは、新・観光スポットである県華林通りの中程へ出てきたのだ。そういえば、荊州では民主街・得勝街・三義街を散策し、今日は武漢で民主路・得勝橋・三義村と歩いてきた。ちょうど荊州城内外でたどったルートと同一の街路名に出会うというのも、なにか縁を感じるところである。両都市のあいだで申し合わせでもしたように、これらの通りに渋い街並みを残しているわけである。はたして、この奇跡がいつまで続くか。

三義村の東端。レンガ建築にトタン屋根の小屋を併設…という魔改造ぶり。

超甘美! ライチドリンク吸飲記

(41)いま県華林(シエンホワリン)は、キレイな石畳の両側に改装された洋館が整然と並んでいる。一部はまだ改造中で、背の高いクレーンとたくさんの作業員を動員して大工事がおこなわれていた。すでに改装相成った灰色やレンガ色の各建屋には、ギャラリー、洋食屋、カフェ、どら焼き屋、中華スイーツ店、土産物屋といった店が開業。こんな観光客向けの商売、はたして交通の便が良いとはいえないのに成り立つのかな。あっ、そうか。今度ここにも地下鉄が通るんだっけ。曖昧な記憶をたどるも答えを得ず、青空のもと検索せんと平板電脳(タブレットパソコン)に手をかけるが、喉(のど)の渇きにたまらず近くの台湾系ドリンク店に入る。

(42)WOW!TEA小気茶(シアオチーチャー)という、テイクアウト専門店である(江蘇省南京発の連鎖(チェーン)店らしい)。店内は白とベージュを基調とした、簡素ながらオシャレな内装である。無表情の少女のイラストが、店のロゴになっている。カウンターでは、ベリーショートの女の子が一人で切り盛りしていた。商品は五〇種類以上もあって、しかもネーミングがみな凝(こ)っている。そこで、ぼくは表に出ていた写真付きの看板商品、妃子笑芝芝(フェイズシアオジージー)一八元(二七〇円)を指差してオーダーした。見た目はザクロみたいな赤紫のドリンクで、上層部はビールの泡みたいに白濁している。この妃子笑(フェイズシアオ)とは茘枝(ライチ)の品種で、むかし楊貴妃がこれを食して微笑(ほほえ)んだというところからその名が付いている。芝(ジー)は芝士(チーズ)のことで、他にも芒果(マンゴー)、桃、籃苺(ブルーベリー)の各ドリンクと組み合わせた芝芝(ジージー)シリーズが展開されている。ワンオペのその子が鮮(あざ)やかな手さばきで各素材を準備し、ジューサーを回して、ハイ出来上がり。ドリンクはわりと硬質な透明容器で提供された。店先の日陰のベンチに腰を下ろし、さっそく吸管(ストロー)で吸い込むと、先(ま)ずは甘ったるい氷結茘枝汁(ライチジュース)が口内を満たし、喉(のど)まわりをガツンと冷却する。すぐさまぼくは回復した。そして暫(しばら)くチューチューやってると、しだいに芝士(チーズ)の塩味が利きはじめ、今度はクリーミーな口当たりに転(てん)じた。旅人の身体が欲する甘味、涼味、塩味がきっちりと詰め込まれている。勝手が分かってきたぼくは吸管(ストロー)を上げ下げして希望の味をさぐりながら、休みなく吸いつづけた。なるほど、これは味の変調するシェイクである。ところで小気茶(シアオチーチャー)の網站(ウェブサイト)を見ると、歴代のトレンドを汲(く)み取って茶飲新時代を開く、みたいなコンセプチュアルな言葉がやたらと踊っている。曰(いわ)く、「1・0奶茶(ミルクティー)、2・0珍珠(タピオカ)奶茶、3・〇港(ホンコン)式奶茶、4・0新中式奶茶、5・0果飲茶(フルーツティー)、6・0小気茶(シアオチーチャー)」であると。それにしても、Web2・0どころではない。あれこれスッ飛ばして6・0だと自称してしまうところ、言葉の意味はよく分からんが、とにかくすごい自信である(概念ばかりで具体的な説明が省かれているところは、ご愛嬌と受け取るべきか、それとも考えるな、ハートで感じろということか)。いや、そうは言っても、過去のトレンドを明快に分析・整理して新コンセプトを提示するこの豪胆さ、うまく利用すれば意外と説得力ある表現手法かも知れぬ。

武漢の暑気に負け、吸い込まれるように「WOW! 小気茶」に入店。

(43)さて、お手ごろ価格なのに異様な満足度のこの妃子笑芝芝(フェイズシアオジージー)、最後は酸味を加えたバニラシェイクといった味わいになって、ぼくは呆(ほう)けた幼帝の心持ちでこれを飲み干した。ぼくは翼をさずかった。酷暑の日本でも飲みたいと強烈に思った。だが、この種の商品は、食べ歩き飲み歩きが日常シーンとされる中国・台湾市場でこそ受け入れられる商品なのかもしれない。たとえば、暑い盛りに涼しい店内に逃げ込み、一定時間スマホやパソコンを使うといったリアルなシチュエーションを想定すると、逆に手を伸ばしにくい品である。かくいうぼくも、普段は自販機や便利店(コンビニ)を多用し、また国内の珈琲連鎖(チェーン)店では思考停止的にアイスコーヒーばかり飲んでいる。そんな習慣に照らすと、やっぱり中華系デザートドリンクを飲むシーンはあまり見つからない。最近は東京でも珍珠奶茶(タピオカミルクティー)の店が乱立するが、有名店以外はさほどウケていないように感じるのも、味覚・嗜好とともに日ごろの活動シーンの違いというのが影響していそうだ。だが逆にいえば、単なる流行とは片づけられないほど、こちらではドリンク市場が充実・成熟している。その確かな浸透ぶりは、ぼくなりの高評価を添えて正しく記憶しておきたいと思う。お茶も水果(くだもの)も乳製品も漢方も、兎に角いいとこ取りをして、実験的に新味を生み出している。それが意外にも一見(いちげん)の日本人の心を捉(とら)え、彼をしてひとしきりハシャがせたりもするというわけだ。そう考えて周囲を見渡すと、いよいよ中国の街じたいが気宇壮大な実験場に思えてくるのだ。

  茘枝(ライチ)の一種 妃子笑(フェイズシアオ)
  芝士(チーズ)を注げば 啤酒鶏尾酒(ビアカクテル)の看
  午後歩き回り 喉(のど)はカラカラ
  飲み来たれば 寒き真珠の如(ごと)し
  *原詩「甘瓜」 甘瓜別種碧団圝 錯作花門小笠看 午夢初回微渇後 嚼来真似水
晶寒

清代の紀昀(きいん。一七二四─一八〇五)の作。彼は『四庫全書』の編纂統括者として知られるが、罪を得てウルムチに流されたことがあり、その期間に現地の風物を詠んだことでも有名である。さらに白居易の詞「種茘枝」に「紅顆珍珠誠可愛」とした句があったので、これを借りて水晶から改めた。

拝啓タクシードライバー殿

(44)ちなみに二〇二〇年以降、得勝橋(ドーションチアオ)は一時、全面通行止めとなったが、二〇二一年一二月、めでたく地下鉄5号線が市内初の無人運転路線として開業、当地には県華林武勝門という駅が完成した(ただし周辺地区の道路工事は現在も続いているようだ)。あの超庶民的な賑わいがどうなっているか、今では知る由(よし)もない。ただ、燃えるような暑さのなかを汗だくで歩いたはずなのに、得勝橋の風景の一コマ一コマは、ぼくの中でじつに心地よい、特別涼感に満ちた記憶として留まっている。中国三大火炉(フオルー)などとよばれる武漢の歴史的街並みに、工夫を凝(こ)らした市民の生活風景を垣間(かいま)見ることができて、それは幸せな時間だったと思う。有名なイザベラ・バード『中国奥地紀行』には、十九世紀末の長江流域を旅した英国人女性旅行家の観察が事細(ことこま)かに描かれている。以下は対岸の漢口についての記述だが、氏曰(いわ)く「夏には、向かいの家の屋根との間に筵や青色の綿布が張り渡されて、暑さとまぶしい光を和らげ、商いはこの一風変わった色合いの薄暗がりの下で行われる。店の縦長の看板の朱や金色の上には光線がきらめき、斑紋ができている。光は揺らめいたり、まぶしくなったりする。絵を見ているようなまことに不思議な光景である」と。往事を思い、今を楽しみ、また未来を夢みる。県華林(シエンホワリン)も近い将来には、あらかた建設も完了、弱小店は淘汰されて、特色あるオシャレ商業地として活況を呈することだろう。武昌城内の新天地をそんなふうに視察したつもりになって、それからぼくは景勝地・東湖へ向かった。計画よりも時間が押していた。そこで次なる散策予定地、宝通禅寺を取りやめ、翌日の行き先としていた東湖をめざしたのである。

県華林。瀟洒な三階建て民国建築も大がかりな改装工事中。

(45)タクシー運転手は五〇歳くらいで、同学(クラスメート)が二人日本で働いていることや、彼らが日本人と結婚したことを話し、終始友好的である。東京とはどんな所だ、と訊くので月並みな答えをし、最近は中国人旅行客でいっぱいだよ、もし訪ねてきたらぼくがガイドするよと言うと、それはいいなあとご満悦な表情を見せた。ぼくが驚いたのは、彼の運転マナーだった。とある交差点では、クラクションを軽く鳴らして日傘を差した若い女性たちに横断をうながし、さらに遅れてやって来た若い男二人にも先をゆずり(彼らはおしゃべりに夢中で、ぼくがドライバーなら絶対に待たないタイミングだった)、最後に老婆一人のため、さらに数秒待ってからアクセルを踏んだ。近年の厳重な監視のせいもあってか、中国人の運転マナーが格段に向上しているのは報道やSNS投稿で知るところだが、かような変身ぶりを目の当たりにすると本当にたまげてしまう。いっそバカなふりして、幾つか彼らに問いただしたくもなってくる。あのー、あなたたちねえ。以前は走行中、息をするようにクラクションを鳴らしまくってたじゃありませんか。それから、隙(すき)あらばと車線を跨いだまま追い越しを狙ったり、対向車のドライバーとはしょっちゅう罵倒(ばとう)し合い、そのくせ困ったときはお互いさまとばかり、ズケズケと道を訊ね、そして意外と親切に教え合っていたり。しかし客が油断してると遠回りしたり。また、事故ればすぐさま車外に飛び出し、車道中央で大喧嘩を始めたり、外国人旅行客と見ると都合も聞かずに気心の知れたホテルへ連れて行こうとしたり。それだけじゃないよ。女性ドライバーで運転ぶりは普通なのに、のべつ大声でキレていて話にならなかったり、また信号停止中、そういう人が急に静かになったと思ったら、次の瞬間カーッと豪快に痰を吐いたり。ちゃんと覚えてますよ。ついこの間まで、そんなのばっかりだったじゃないですか。一体、あなたたちに何があったというんですか、と。

武漢少女行

*本章は「note創作大賞2023」エッセイ部門への投稿内容と一部重複しているため、選考期間終了までのあいだ当該箇所の掲載を見合わせていただきます。

(46)午後三時五分、東湖に到着。走行一〇公里(キロ)で運賃二五元。下車地点についても、その後の散策にほどよき場所を選定してもらった。余談だが、中国の観光地というのは所によってはあまりに広大なため、手元に地図があったとしても上手に周遊できないことがままある。車で正門にたどり着いても、じつは切符売り場が数百米(メートル)も離れていて、ムダに移動を余儀なくされたりするのだ。さて、お互いに手をふって笑顔で別れる。彼のおかげで、東湖西門からスムーズに園内に入る。ここは武漢有数の景勝地で、市民の憩いの場である。湖は三三平方公里(キロ)。『中国名勝旧跡事典』(ぺりかん社、一九八六年)によれば、かつて「北岸は萩や葦(あし)に覆われ、漁師の家がたたず」んでいたというが、いまは湿地公園やアミューズメントパークなど現代的な保養地として開発が進んでいる。一方で西側の湖畔には、数々の歴史的亭台・楼閣が点在して人々の目を楽しませている(急ぎ足のぼくが散策するのは、そのごく一部である)。木立のトンネルのなか、さながら内海といった趣(おもむき)の水辺を右手に眺めながら歩く。静謐(せいひつ)な湖面が、青空と樹々(きぎ)を完璧に映して清々(すがすが)しい。おっ、遠くに亭楼も見えるぞ。そうかと思えば今度は左側に、教会風の小屋や玩具(おもちゃ)の灯台、帆船が浮かぶ池などが登場し、そのアンバランスな中洋折衷ぶりに内心狼狽)する(おやおや、これではまるで旧ユネスコ村だ)。しかし、気を取り直して右へ右へと湖畔を進む。そして十分ほどで、曲がりくねった橋が湖畔と亭台をむすぶ、碧潭観魚と呼ばれる景勝スポットに到着する。緑色の瓦(かわら)を戴(いただ)く亭台と、欄干(らんかん)にさまざまな形の小孔(こあな)を穿(うが)たれた石橋が、湖面を這(は)うように設(しつら)えられている。嗚呼(ああ)、ここなどは古装スタイルの撮影にぴったりだなあと考えていると、ちょうど橋から上がってきたのが、純白の唐服の上に桃色レースの羽織りを着た少女だった。古風な円形の団扇(うちわ)を手にしている。ふちと柄(え)がシャンパンゴールドで、団扇の面は半透明。格好良いねえ、それ。いったい幾らなんだろう。よく中国の街中では、見ず知らずの人に持ち物の値を訊(たず)ねるおじちゃん、おばちゃんがいるけど、そんな勇気はぼくにはなかった。

ドラマ撮影にもってこいのロケーション…確かに古装気分を煽られる。

(一部省略)

東湖のほとりで出会った漢服ダンス集団。音楽と踊りが始まるところ…

(48)しばらく湖上の堤を歩いていくと、楚の詩人・屈原(前三四〇?―前二七八?)の像と出会う。これが妙に写実的で目力がある。屈原といえば、悲憤慷慨のため汨羅江(べきらこう。湖南省)に身を投げたくらいだから、どうしても悲劇的なイメージがつきまとう。また、ぼくとしては横山大観の日本画「屈原」の鬼気迫る顔が先入観としてあるので、初めはピンと来なかったが、よくよく見れば、こちらの若々しい表情と優雅な立ち姿もいいなと思う。高い台座の上に立ち、真っすぐ遠くに視線を当てている。むろん、数千年前の『楚辞』のなかの「離騒」、「漁夫之辞」といった詩と、眼前の東湖の情景が重なるわけでもない。ぼくがいま立っているのは、ごく平和な憩いの場だ。でもここにいると、武漢市民が屈原その人を敬愛してきたこと、そして、屈原ゆかりの東湖を見つめながら心を癒してきたであろう、その歴史が見えてくる。ぼくは樹々(きぎ)の葉擦れの音を聞きながら、屈原先生を仰いで黙礼し、散策を再開した。

(49)その後、東湖始発の14路(ルー)バス(二元)で二公里(キロ)半ほど南下して、李白の像が建つ放鷹台を見学。この地で李白が鷹を放ったという伝説がある。高さ一三米(メートル)におよぶ巨大な詩聖・李白像が、西日で煌(きら)めく東湖に向いて建っていた。まさに空を見上げて鷹(たか)を飛ばす体勢で。当地が整備されたのは今世紀に入ってからのことで、別にどうという場所でもない。が、なんといっても、神さま仏さま李白さまである。素通りするのも忍びないと参詣気分で立ち寄ったのだ。なぜだか駆け足で中国詩人を訪ねまわる、午後のひととき。さあ、パワースポットで充電完了だ。つつがなく挨拶を済ませると、ぼくはそのまま白鷺街(バイルージエ)を歩いて西進し、約一五分で楚河漢街へと到る。

湖北のセレブと小豆豆

(50)楚河漢街は、中華民国時代の洋館をイメージして出来た人気商業区で、東西一・五公里(キロ)におよぶ一本道。通りを挟んだ東隣には、荊州でも訪れたショッピングモール、万達(ワンダー)広場の漢街店が建っており、この楚河漢街も同じく万達集団が五百億元を投じて開発した(なお武漢では万達広場が他にもう2店舗営業している)。百度百科(バイドゥーバイコー)によると、わずか八ヵ月の工期で二〇一一年九月に開業したという。さて足を踏み入れてみると、建物外観は一様に西洋風であるのに、なぜか敷地内には屈原、王昭君ら古代セレブリティの像が建っており(ともに湖北の長江流域出身)、正直なところ演出コンセプトに致命的なブレを感ずる。なにか、古(いにしえ)の威光にあやかろうとするも、ゆるキャラのように手ごろな媒体がないので表現が直接的にならざるを得ない。それで非常にぎこちない。そんな事情が見え隠れする。ツッコミだしたらキリがないが、像の人物がそろって悲劇のヒーロー(ヒロイン)であることも間違いなく違和感の元だ。まあ、一歩行者としては「湖北省万歳(バンザイ)!」的なモチーフを汲(く)み取っておけば十分だろうか。そう、日本の首都圏なら横浜の赤レンガ倉庫、上海ならば新天地あたりを想像していただくとしよう。ああいう街並みが、東湖と沙湖という二つの湖を繋(つな)ぐ楚河なる人工河川沿いにつづいている。そんな大規模ショッピングゾーンである。飲食店は焼肉、火鍋、創作中華、東南アジア料理店、ステーキハウス、洋中混合カフェテリアと他ジャンルにわたり、客単価百─二百元もする高級店が目白押し。麦当労(マクドナルド)、肯徳基(ケンタッキー)などの快餐(ファストフード)店は稀(まれ)である。その中で、「赤熊・咖喱(カレー)VS天丼」という謎なネーミングの日本料理店が、同五〇元程度で独自性を貫いていた。カレーと寿司と焼肉丼と天ぷらとたこ焼きがいただける店である(入口に堂々と明治四〇年創業と書いてあるのが面白い)。他にも、おなじみの哈根達斯(ハーゲンダッツ)とか星巴克(スタバ)とか、H&M、GAP、優衣庫(ユニクロ)、ZARA、阿迪達斯(アディダス)、耐克(ナイキ)、コンバースもある。画一的なモールではなく一軒一軒が独立したデザインの洋風建築だから、道々愉(たの)しさは尽きない。途中、漢服に身を包んだ三人の美女(メイニュー)が、きっとレストランの宣材用だろう、瀟洒(しょうしゃ)な構えの店先でポーズをとり、写真を撮っていたりもする。ちびっ子たちを載せた電動カーが走る光景も見られた。だんだんバラエティーに富んだショッピングエリアになってきた。ミント色した三角屋根のかわいい館はマカロン専門店。LEGOショップも貫禄たっぷり、巨大・黄鶴楼など気合いの入ったディスプレイを展開し、親子連れに人気である。とりわけ目立ったのは、東京・お台場にもある杜莎夫人(マダムタッソー)の蝋(ろう)人形館である。奥黛麗・赫本(オードリー・ヘップバーン)、賈斯汀・比伯(ジャンスティン・ビーバー)、利昴内爾・梅西(リオネル・メッシ)など海外明星(スター)のほか、姚明(ヤオミン)・周傑倫(ジェイチョウ)・范冰冰(ファンビンビン)・劉詩詩(リウシーシー)と中国的有名人の人形が展示されているという。ただし料金が一〇〇元(当時約一六〇〇円)もするので入館は遠慮する。

(左上)屈原像、(右上)和食店、(左下)マカロン店、(右下)漢服女子。
下2枚はLEGOショップ。ご当地の名楼はディスプレイにもってこい。

(51)ここに文華書城(ウェンホワシューチョン)という書店があって、どれどれと入店してみると、これがなかなか本の見せ方が凝(こ)っている。売場面積に比してタイトル数は少ないのだが、目を引く装丁の本たちがアイランド形式の売場に高く平積みされて、最上段の一冊だけが木製のスタンドでその美顔を正面に向けている。おしゃれな本ばかり選んで、お茶を濁しているわけではない。実用書や専門書もセンスの良いデザインが多く、これがなかなか見映えがするのである。まず歴史書コーナーをご紹介しよう。日本人にも身近なタイトルだと、(ものすごく意外だけれど)たとえば宮崎市定『中国史』がおしゃれな装丁の新刊で平積みされていたりする。元々は一九七〇年代に岩波書店から刊行された、当分野のロングセラーである(現在は岩波文庫に収録)。帯には「史学泰斗、核心著作」「傍観者的視角、世界史的立場」などと書かれ、裏表紙には北京大学や上海・復旦大学の歴史家の推薦文とならび、岩波書店による宣伝文までご丁寧に翻訳されている。本の内容が時代を超えて尊ばれているのはもちろんだが、こういう装丁から読みとれるのは、外国人という第三者的視点が特に強調されているということだ。興味深いことに、哈佛(ハーバード)や剣橋(ケンブリッジ)や大英博物館の名を冠した中国通史の翻訳ものも、同じ島式売り場で盛大にお薦めされていた。歴史本のトレンドがなんとなく読めてくるではないか。児童書も見てみよう。『哈利・波特与魔法石(ハリー・ポッターと賢者の石)』『窓辺的小豆豆(窓際のトットちゃん)』『一年級大个子二年級小个子(大きい一年生と小さな二年生)』『我的野生動物朋友』『給孩子的唐詩課』『紅楼夢』『水滸全傳』『三国演義』『西遊記』『昆虫記』『秦文君』『新筆馬良』『魯西西傳』。陳列台の本を、取捨選択せずに列挙した。こちらは定番すぎるラインナップだ。中国四大奇書はさておいて、日本の児童書が二タイトル含まれているのが興味深い。とくに中国国内におけるトットちゃん人気は、すでに世代を超越しているようだ(二〇〇三年に正式に翻訳・出版され、二〇一七年には中国での発行部数が一千万部を超えたと報じられている)。最後の三作品は、中国児童文学の有名作とのこと。野生動物の本は、ティッピ・ドゥグレというフランス人女性の著作で、アフリカの野生動物と暮らした経験が紹介されている。中国の大型書店に行くと、教育熱の表れだろう、自然科学系の子供向け図鑑・教材類が大量にディスプレイされているのが目立つ。だから、自然科学への関心を引き出そうとする、こういった児童書のさりげないレコメンドもまた興味深いものである。他に目についたタイトルといえば、日本でも人気のSF話題作『三体』、テレビドラマにもなった歴史小説『長安十二時辰(長安二十四時)』、ミシェル・オバマ元大統領夫人の『成為(邦題=マイ・ストーリー)』、あと日本作品では意外なところで、『断捨離』、都築響一『東京風格(TOKYO STYLE)』、それに『横尾忠則対談録』なんかもある。あっ、そうそう。村上春樹と東野圭吾は、当然のように特別コーナーが設けられ、多数タイトルが陳列されていた。

文華書城店内。(左下)猫関連の本コーナー。(右下)宮崎市定『中国史』。

(52)引きつづき楚河漢街をゆく。途中で陸橋の下をくぐるのだが、そんな暗がりにも車両販売のアイスクリーム屋やドリンクスタンドが並んでおり、商売の途切れる間がない。すると、おととい西瓜汁(スイカジュース)を求めた辛迪果飲(シンディーグオイン)のスタンドを発見。いいね、予想外の再会だ。もちろん嬉々として突撃する。今日は鮮やかなポップに惹かれて、桃や芒果(マンゴー)など水果(フルーツ)入りの花茶(ホワチャー=ジャスティンティー)と迷ったあげく、石榴汁(ザクロジュース)三〇元に決定。加冰(ジアビン)、つまりシャーベット状にしてもらう。出来上がりを待っていると、なんとレジ横に、微信(ウィーチャット)の顔認証支払い機を発見した(荊州の店には無かったはずだ)。およそ一〇英寸(インチ)の平板電脳(タブレットパソコン)状で、上部に三つのカメラがついている。「刷瞼支付(シュアリエンジーフ)」と表示されているが、この支付(ジーフ)とは支払う、瞼(リエン)は顔のこと。そして刷(シュア)はもともと擦(こす)るとか磨くという意味で、信用卡(クレカ)を機械に通す、つまり信用卡で支払うことを刷卡(シュアカー)という。だから、なにも顔を擦(こす)ったり磨(みが)くわけじゃないが、スキャンして支払う意味で刷瞼(シュアリエン)という言葉が出現したとみえる(今後定着するのかどうかは分からないが、こういった社会変化に即応する中国の新語と出会うのも面白い)。さて、石榴汁(ザクロジュース)のほうだが、先の妃子笑芝芝(フェイズシアオジージー)並みに甘味がめっぽう強いが、歩き疲れた身にはそれがありがたい。そして加冰(ジアビン)にして正解、またまた一杯のフレッシュジュースで生き返った。

二日ぶりの辛迪果飲。ウィーチャット支払い機に「刷瞼支付」の文字。

小川料理とは何ぞや!?

*本章は「note創作大賞2023」エッセイ部門への投稿内容と一部重複しているため、選考期間終了までのあいだ当該箇所の掲載を見合わせていただきます。

(一部省略)

異様な高評価が気になり来てみたが、あえなく退散。

(54)辺りは夕暮れ。楚河漢街へ戻り、名残惜しさに手頃な椅子でしばし休憩する。と、何やら歌声が聞こえてくる。近づいてみれば、ギターを抱えた少年がスタンドマイクの前で生歌を披露していた。二、三十人の若者がなんとなく遠巻きに見ている。遠巻きだが、ぴたりと直立している女の子が多く、逆にそれが単なる野次馬というより素直に聴き入っている印象を受けた。中には電話で友達に知らせる子もいれば、スマホで撮影している子もいる。その場所は、全体として細長い楚河漢街のほぼ中央である。大型店の入居する倉庫風建物がそこだけぷつりと途切れ、広場風スペースになっている。彼は運河を背にして唄っている格好だ。向かって右には、伝統的戯台(シータイ)を模した大型ステージもある。すでに日が暮れて、照明もほの暗い。それがまた、しんみりとさせる舞台空間を生んでいた。彼はかたわらにQRコードをデカデカと掲示して(およそ五〇厘米(センチ)四方もある)、観客にアクセスを呼びかけていた。説明書きに記して曰く「掃碼点歌(コードをスキャンして歌をリクエストしてね)」と。なるほど、粋(いき)な方法である。さらに、その印刷されたQRコードの下に、手のひらサイズの小さな二次元コードが二つ、控えめに貼られているのも気になった。各コードを取り囲む、黄緑と水色のアウトライン。そう、商店のレジ周りでよく見かける色の取り合わせである。そして、横には「感謝打賞」の文字。そう、これらは中国の二大支払いアプリ、微信支付(ウィーチャットペイ)と支付宝(アリペイ)によるネット投げ銭のためのコードなのだ。曲をリクエストして、唄ってもらい、おひねりを投じる。一連の歌手活動やファン行動が、簡易なアプリ操作で相互に完結する。それが珍しいことでなくなったからこそ、かえって繁華街における流しライブが一種の外したアクションとして、リアルな関心を誘うのかもしれない。

洋館と戯台と路上ライブと工事風景が重なる…シュールな空間。

(55)ぼくは、宿のある江漢路へタクシーで戻った。漢口への移動では、トンネルを走行して長江をくぐった。子供のようにノリノリで記しておくと、大長江の下にもぐり込んだのはこれが初めてである(上海の地下鉄では、複数路線で支流の黄浦江をくぐったが)。この武漢長江隧道(トンネル)は、二〇〇八年開通と比較的新しい。長江をまたぐ地下鉄もすでに3路線が開通、さらに3路線が工事中である。名勝旧跡を残しつつ、武漢版シムシティも着々と完成度を上げている。余談だが、ぼくは旅行前、戦前・戦後の古い写真や過去の旅行案内書などによって、かつての武漢の風景をイメージしてきた。たとえば一九八一年刊行の『長江・夢紀行』は、さだまさしが長江流域の都市や大自然を周遊したときの写真集で、当時の中国のありふれた風景を伝える貴重な写真のオンパレードだ。ちょうど人民服を脱ぎ始めた大陸のみなさんが、自由市場に集まったり祝日を祝ったり、美容室でパーマをかけていたりと自然体で写っている。ほかにも、帆船が数珠繋(つな)ぎになって長江を行き交うようすや、市民が東湖で泳ぐようす、そして今日よりもやや煤(すす)けて見える西洋建築群などがページを埋める。変わる風景、変わらぬ風景、様々に収められている。

(56)また、本稿でもご案内のイザベラ・バードの筆致はこうだ(以下、金坂清則訳)。「大きな商業都市の通りではたいていそうなのだが、漢口の通りでも、さまざまなドラマがやむことなく展開している。何百人もの人々が食事をしたり、眠ったり、売買の駆け引きやギャンブルをしたり、料理を作ったり、糸を紡いだり、喧嘩をしたりしている。かと思えば、少なからぬ住民が、通りを流し場や下水だめ、下水道がわりにしている。通りはまた子供の遊び場でもある」とか、あるいは「あわただしさや、人込み、商売、女性の不在、そして騒音は、中国の都市のすべてに共通している。太鼓や銅鑼が打ち鳴らされ、シンバルがジャンジャン鳴り、鉦が鳴り響いている。またマスケット銃を打つ音が響き、爆竹が至る所で炸裂し、乞食が泣き叫んでいる。その上呼び売りの声が通りにあふれ、商売の話し声がかまびすしい。群衆の調子外れの叫び声もあふれている」などと。彼女は巷(ちまた)のディテール描写によって、二十一世紀の読者さえ、当時のリアルな武漢へと簡単に引き込んでしまう。こんなふうに、図書館で古い本を引っ張り出しさえすれば、案外愉快な「時間旅行」に浸れるものである。もし中国にお出かけの際は、最新消息はもちろんのこと、あべこべに少し古い情報にもアクセスしてみると、中国社会のとんでもない変動ぶりが疑似体験できて面白いのではないかと思う(改革開放以前の本はおしなべて政治色が強い傾向にあるけれど、今となってはそれもまた一興である)。ぼくは中学生時分に、井上靖や司馬遼太郎、陳舜臣らの紀行・随筆を貪(むさぼ)るようにして読んだ。さらにそれと並行して、「変わりゆく現代」と「見逃しがちなディテール」への視点を補うために、自費出版物を含むあらゆる中国体験記を読ませてもらった。いま思えば、巨視的な歴史観をもつ大御所たちと、街ナカのミクロ視点の観察者たち(たとえば日本語教師・医師・商社マン・駐在員家族からバックパッカーまで)、すべての本の書き手が、ぼくの知中の先生である。個人的好みでいうと、内藤利信『住んでみた成都 蜀の国に見る中国の日常生活』(サイマル出版会、一九九一年)、90's中華生活ウォッチャーズ『踊る中国人』(メディアファクトリー、一九九七年)、あとビジュアルでは島尾伸三の著作群がおすすめです。読者の皆さまも、「旅行なんてしたくないけど中国社会の変化をバーチャルに知りたいもんだな」とお思いになれば、図書館や古書店でそういった観察記録を掘り出してみてはいかがでしょうか。

保成路夜市のヒトとモノ

(57)最後の夕食は、必勝客(ピザハット)でサラダと炒飯(チャーハン)となった。あまりにも有名なので詳述しないが、中国における同店の主要業態はファミレスである(一九七〇年代に日本進出した当初もレストランだったそうだが、その後宅配ピザ一本に変更)。かくいうぼくも、かつて物珍しさでピザやパスタを食べたことがあったが、二〇〇〇年前後の記憶では、かなり高価格帯の洋食店という印象だった。北京の長安街に面した店舗でも、現地のお金持ち人種に挟まれて、まるで高級ホテルで食事しているような緊張感があったのだ(決して大げさでなく)。それが今では、すっかり庶民に馴染んだファミレスである。経済格差が大きいので何をもって庶民と呼ぶかは難しいが、もはや聞いたこともないような県級都市にまで店舗網を広げているところから、中国必勝客(ピザハット)の飽くなき拡大姿勢と全国的な浸透ぶりがうかがえる。今夜はなんだか店を探すのも億劫(おっくう)になり、そんな安パイの一択となった次第である。さて、雑居ビル二階というロケーションだが、こちらは若者中心の雑踏とは打って変わって、落ち着いた大人客ばかりの空間だ。ぼくはちょっと拍子抜けした。だが、小ぎれいな店内に静かな客、そして礼儀正しいスタッフ。つかの間の「避難先」としては最高だ。新美式凱撒沙拉(アメリカンシーザーサラダ)三〇元、照焼鶏肉炒飯(てりやきとりにくチャーハン)三〇元、しめて約九〇〇円の夕食。サラダに関しては、サラダソースのおかわりまで聞いてくるご丁寧ぶりである。午後八時五分、腹ごしらえを終えて必勝客(ピザハット)を後にした。

(58)昨晩、江漢路(ジアンハンルー)の歩行者天国を歩いたとき、まだこの先に若者で賑わうエリアが残っていると紹介したが、その中山大道(ジョンシャンダーダオ)以北の裏道を覗く。はたして、そこは「魔界」であった。なぜそんなことが許可されているのかよく分からないが、ファッション関係の出店が路上に迷路を作り、若者たちで雑踏をきわめている。歩行できる空間は幅二、三米(メートル)ほどで、対向者とすれ違うのがやっとである。たくさんの笑顔と明朗かつ音楽的な話し声に包まれて、よそ者のぼくにとってもこの多幸感はハンパない。それと、たいへんな混みようなのに、都市住民が生まれつき持つ衝突回避技術のためだろう、無神経にぶつかってくるような人がいない。二人乗りバイクやベビーカーが通りかかると、自然と道が開く。露店のディテールを申さば、Tシャツにジュエリー、それに定番の獣耳カチューシャが売られていたり、あるいはネイルサロンや付けまつげ屋も出ている。ベストセラー本の廉価販売なんかもあって、一軒に百タイトルほど平積みされているが、そのうち東野圭吾の本が一〇冊ほど。堂々の看板商品である。その他には、酸梅湯(スアンメイタン)、茹(ゆ)でた玉米(ユーミー=トウモロコシ)、ミネラルウォーターの農夫山泉(ノンフーシャンチュエン)を売る店など。アイフォン・ケースをならべた店は、全品一〇元で安売りしている。他にも、お好み画像のスマホケースをお作りします、というプリクラ感覚な露店もある(これは三五元)。そういう小店が、一部は占い師の店みたいに狭い間口で営業していたりするものだから、一軒一軒覗いて歩くのがたいへん楽しい。ぼくはこうして路地から路地へとめぐり歩き、武漢の九〇后(ジウリンホウ)市民の熱気に軽くめまいを感じながら、黄金色にライトアップされた洋館ならぶ、夢の中のような交差点へと出た。昨夜も散策した、あの中山大道(ジョンシャンダーダオ)である。嗚呼(ああ)、ここに戻ってくるのか。

上階が暗いため灯りが幻想的。Tシャツプリント、安売り書店、ネイル屋。

武漢の人気書店で考えたこと

*本章は「note創作大賞2023」エッセイ部門への投稿内容と一部重複しているため、選考期間終了までのあいだ当該箇所の掲載を見合わせていただきます。

(一部省略)

物外書店の外観・内観。新刊平台には中島敦と伊坂幸太郎がならぶ。
世界文学コーナーは日本文学がイチ押し。右下は『知日』『知中』両誌。

(66)街灯がまばゆい荘厳な洋館街を後にして、ぼくは本で膨(ふく)れた鞄をぶら下げながら、少し遠回りして宿までの夜道を歩いた。途中、夕方に覗いた江漢村(ジアンハンツン)みたいな趣ある路地が、うらびれた区画のなかに口を開けていた。なんでもない路地であるが、しかしその道沿いには幾つかの卓子(テーブル)が出ていて、若者がわいのわいの美味そうに夕飯をとっていた。暗がりに立って、シャシャーッと強火で何かを調理している者もいる。闇中の調理人、そして闇中の食事客。どんな都市でも、夜道で思いがけず出会う、中国らしい風景である。路地の名を洞庭村(ドンティンツン)という。ここも南北に細長い集合住宅エリアなのだが、土地柄、今後は江漢村(ジアンハンツン)のようにオシャレな店が生まれるかもしれない。

(67)ホテルに着くと、歩数計は3万4293歩を示していた。連日の強行軍で内股がヒリリと痛む。ぼくは多少重くなってきた荷物を整理・整頓し、それから各種機器の電池を小米(シャオミ)製の大容量充電器で満たしつつ、いよいよ最終日となる翌日の旅程を確認した。準備にぬかりはないが、明日も酷暑が予想される。あまり無理せず散策するとしよう。

  浮かれて 武漢の客と作(な)り
  酔うて 武漢の夜を歩く
  街衢(がいく)は上海のごとく
  風致(ふうち)は杭州に似たり
   *原詩「秋浦歌・其六」 愁作秋浦客 強看秋浦花 山川如剡縣 風日似長沙

李白の詩。ざっくりとした武漢の印象を写す。ここまで二日間の散歩で、かなりお気に入りの街になりつつある。明日も、ぼくが感じたこの街の特徴と味わいを、どうにか再現してお伝えしていきたいと思う。

朝の洋館めぐり ―おじさん風景を添えて―

(68)とうとう最終日、五日目の朝。最後の宿である錦江之星旅館(ジンジアンジーシンホテル)を退房(チェックアウト)、出発時刻は八時一二分。ロケーションが良く部屋は清潔だし、言うことはなし。これで一泊二五六五円とは嬉しい。かような旅ができるのも、商務旅館(ビジネスホテル)のおかげです。

(69)洞庭街(ドンティンジエ)を直進し、上海路(シャンハイルー)、南京路(ナンジンルー)を過ぎ、青島路(チンダオルー)との十字路に到着する(ここまでが旧英国租界のエリア)。この東角に、一九一五年完成の古典主義建築、保安洋行旧址という洋館がある。保安洋行とは、英国宝順洋行(デント商会)の傘下企業で、主に上海─漢口間の水運に関わる保険事業を展開していたという。全六層、くの字形の両翼二〇米(メートル)以上もあり、交差点の角(かど)っこは二階以上が半円形を呈していて、五階には装飾用の石柱とバルコニーが見える。いかにも文化財らしい荘厳な構え。とくに、丸みを帯びた正面の外観には武骨さの中に愛嬌も感じられ、なかなか親しみの持てる百年建築である。現在は酒店(ホテル)やシックな珈琲店(カフェ)、それに甲魚(すっぽん)料理の老舗が入居しているようだが、そんな現代的実用とのギャップもまた良い。交差点の西角には、麦加利銀行大楼が建つ。一八六五年落成の三階建てである。麦加利とは英国渣打(チャータード)銀行の中国名の一つで、初代支配人であるジョン・マッケラーの名前に由来するという。この銀行はかつて、上海・広州・香港・北平(北京)・天津・青島・漢口に支店を設置していた(なお旧上海支店の建物は現在の外灘一八号である)。先の保安洋行は堅牢な雰囲気むき出しの、ザ・石造り建築であったが、こちらは全体をアイボリーに塗られた、華やかで涼しげな三層建築である。ものの解説によれば、高温多湿な気候に合わせた、典型的な英国式植民地建築だという。屋根はチョコレート色の方塔を載せ、側面は多数の大きなアーチ窓と花瓶型の欄干が特徴的である。また一階の方柱がことごとく、グレーとアイボリー二色のストライプ柄で、そんなところは時代を越えて格別にファッショナブルである。火曜日の午前、日はまだ低く、歩道はみな日陰である。そして、プラタナスの並木がこれを覆い、路上の影の色をいっそう濃くしている。そんな暗がりで縁石や階段にぺたっと腰を下ろし、やけにリラックスしている四、五十代の男たちがいた。これといって特徴のない風体の、ゆるい私服姿の彼らである。いったい何をしているのだろう。こざっぱりした服装(なり)ではあるが、これではロマンや感傷のへったくれもない。いや、ロマン云々はこの際どうでもいいのだが、建築と街路の美観をも吹き飛ばす、彼らの存在感が気になって仕方がない。平和の象徴感、または巷(ちまた)のボスキャラ風情。そんなものに、ぼくは思いがけず打ちのめされた。おじさんは全部で七名。内スマホ使用一名、それを覗(のぞ)き込む者三名、豆乳だか珈琲(コーヒー)だかを飲む者一名、あとの者は、ただぼんやりと前方を眺めている。疑問は消えぬ。いったい何をしているのだろう。ふと、常州・天寧寺の回廊に安置されていた五百羅漢像が、ぼくの頭にオーバーラップした。阿弥陀佛(オーミートゥオフォー!)。ぼくは中国の街角で出くわす、こんな捉(とら)えどころのない、シュールであけすけな風景が大好物なのだが、ただそのような偏愛を語っていると長くなるので、そろそろ散策実況を先へ進めよう。

洞庭街を進むと、右に保安洋行、左に麦加利銀行大楼が現れる。
青島路から麦加利銀行大楼を写す。自転車の奥の人影が文中のおじさん達。

(70)青島路(チンダオルー)を西北に向かう。次なるお目当ては青島路一〇号、平和打包廠(ピンホーダーバオチャン)旧址である。一九〇五年の建物で四階建て、武漢で最初の鉄筋コンクリート建築といわれる。租界時代、ここでは綿花の加工と梱包を行っていた。外観はレンガと石組みの切り返しが美しく、いうなれば我らが世界遺産、富岡製糸場をもう一歩モダンな様式に建て替えたような姿である。これは帰国後に知ったことなのだが、この建物は往事の雰囲気を残しつつもグッと近未来風にリノベーションされており、すでに高感度なショップやギャラリーが続々と入居していたのだ。それとまさにこの年、二〇一九年にはユネスコから文化遺産の保護・再利用の表彰を受けるなど、今をときめく武漢の注目スポットとなっていたのだ。なお口コミサイトでは、インスタ映えを求めてやって来た女子たちの自撮り画像と撮影指南が数多く投稿されていた。ということで、ぼくはうっかりスルーしたのだけれど、漢口の租界建築めぐりなら、こちらの内部見学を熱烈におすすめしておきます。それから鄱陽路(ポーヤンルー)を直進し、北京路(ベイジンルー)を越えると、そこは旧俄魯斯(ロシア)租界だ。屋根に玉ねぎ状の飾りを載せた小さなロシア正教会が見えてくる。現在は中俄文化交流館。まるでお菓子の家のような佇(たたず)まいだ。

青島路。平和打包廠旧址。低層・高層部分を分かつ切り返しが美しい。

(71)こんなふうにして、ぼくは一時間あまり、漢口の租界建築を見てまわった。宋慶齢旧居、八七会議旧址、巴公房子(バーゴンファンズ)、俄国(ロシア)領事館旧址、美国(アメリカ)領事館旧址、東方匯理銀行旧址などの威厳ある建物があった。八七会議とは、一九二七年、第一次国共合作失敗の折に緊急開催された、中国共産党・中央委員会会議である。党設立者の一人で、初代総書記だった陳独秀が解任され、新指導部が発足した。毛沢東が「槍桿子里面出政権(鉄砲から政権が生まれる)」と発言し、武装反抗を訴えたのはこの会議である。巴公房子は赤レンガの四階建て公寓(アパート)。丸みを帯びたフォルムで鋭角の三角地帯に建つさまは、上海・淮海路(ホワイハイルー)に建つ「写真映えスポット」武康大楼(ウーカンダーロウ)を彷彿させる(あちらは八階建てなのでサイズでは比べようもないが)。ただし、現在は修繕中。武康大楼のほうは、たしか一階に洒落たパン屋が入居していて、じつに良い雰囲気だったが、ここはどのように改装されるのだろう。

(左上)宋慶齢旧居記念館、(右上)巴公房子、(左下)八七会議旧址。

下町の中古物件! パティオ長江局

(72)さて、洋館めぐりで最も印象深かったのは、珞珈山路(ルオジアシャンルー)の長江局(一九二七年)とその敷地環境である。ぼくは旅行前、地図アプリでこの建物の画像を見つけ、租界建築めぐりのコースに組み込んだ。数ある魅力的な旧跡のなかで、なぜかこの三階建ての古ぼけたレンガ建築が気になったのだ。蘭陵路(ランリンルー)と黎黄陂路(リーホワンピールー)に挟まれた珞珈山路(ルオジアシャンルー)は、約一五〇米(メートル)のごく短い通りである。大型建築が稀(まれ)で、雰囲気の良い街路が続いている。平板電脳(タブレットパソコン)で地図を確認しながら、心躍らせて足を踏み入れた。道路幅はおよそ十米(メートル)。三階建てに統一されたレンガの建物がならび、空調の室外機や洗濯物、折り畳まれたパラソルが目につく。いや、広げたパラソルの下で食事しているおっさんもいる。これは開業前に腹ごしらえしている創作中華店の主のようだ。さて、中程まで歩いていくと、全体像がつかめてきた。そこはパティオ風の広場を持った、レンガ建築の集合地だったのだ。二十世紀初頭の中庭付き長屋といったところか。中でもとりわけ古ぼけた建物が、中共中央長江局旧址である(何やらおっそろしい名前がついているが、壁にそんな掲示が嵌(は)め込まれてあるだけで、とくに目立った解説や展示はない)。ひとことで説明すると、ここはかつて中国南部の党指導と工作を統括した機関であった。一九三七年設立。いまは広場の一隅に洞庭社区党員群集服務中心という、つまり当該社区(コミュニティ)における共産党の出先窓口があるだけだ。ともかく、古びたレンガの洋館に四方を囲まれたその中庭は、一般歩行者にも開放されており、ただし車両は通行できず、地元民の息づかいが立ちこめる「ほのぼの空間」となっている。頭上では、住宅の高さをゆうに超える樹木が、鬱蒼とした森を形成し、もはや緑豊かな都市公園の様相である。涼しそうな木陰では、住人とおぼしきご老女たちが運動系遊具でエクササイズに打ち込んでいたり、マルコメ風の赤ん坊をあやしていたり、あるいはベンチで談笑していたりする。考えてみると、不思議な広場である。静けさと賑わい、光と陰、老いと若さ、政治性と商業性、そして西洋と中華。とかく対比されがち(対立しがち)な競合モードが、ここでは何のわだかまりもなく、また遠慮もなく共存している。

渋い洋館に挟まれながら、珞珈山路から開放的な中庭エリアへと進む。

(73)ぼくは、この美しい中庭をゆっくりと一周して、最高の森林浴をさせてもらった。中央の広い植え込みには、敬老にちなんだ標語を示す看板がいくつか立っている。たとえば、「老少同楽」「莫道桑楡晩、人間重晩晴(日没と言うなかれ、人生には夕方の輝きがある)」「尊老」「父母老了、常回家看看(父母が老いたら頻繁に会いに帰ろう)」と。あとで調べると、莫道云々とは中唐の劉禹錫の詩「酬楽天咏老見示」からの引用のようだ。なかなか典故が利いてるなと感心していたら、この一節は近年、習近平の講話でも取り上げられたらしい。なるほど古典の出汁(だし)を使っているようで、どっこい共産党の味わいがちゃんと染みているのだ(講話と看板がどちらが先か、あるいは頻繁に引用される詩句なのかは知らぬが、場所柄そんな忖度(そんたく)もあろうかと推量したのである)。さてさて。中庭をひと回り観察して思うのは、ここでは人と樹々(きぎ)と建物とがともに寄り添って生き、現在進行形で老いているということだ。みな等しく刻まれた、年輪や皺(しわ)や傷を持って。お婆ちゃんたちは朝日を浴びて、飯を食らい、日陰に腰かけ、おしゃべりをして、お茶を飲み、昼寝をして、またお喋(しゃべ)りをする。赤ん坊をあやしたり、身体を動かしたり、新聞を読んだりして、家族のことを思い、日暮れどきに家に帰るのだろう。政治的な縛りが日常に組み込まれ、よそ者には見えにくい厄介ごとやしがらみもあるだろう。だが一方で、地域社会とかコミュニティーとかいう言葉がかしこまった造語に思えるくらい、彼女たちは日々自然とその中にいる。そのような気がした。

  園庭 依然として旧時に同じ
  小径回りて 少時立つ
  緑深く 樹(き)密にして 老幼憩う処
  清陰自ずから涼有り 是(こ)れ風ならず
  *原詩「夏夜追涼」 夜熱依然午熱同 開門小立月明中 竹深樹密蟲鳴處 時有微
涼不足風

南宋の楊万里(一一二七─一二〇六)の詩。微(かす)かな涼を感じたのは、風が吹いたからではない。きっと、中庭空間がたたえる清涼感のせいだ。

(74)長江局の周囲には、他に四川料理店やイタリアン、理髪店、台湾系ティーハウス、マカロンが売りの洋菓子店、それに雰囲気の良い珈琲館(コーヒーハウス)などが発見できたが、大部分が開店前。糯米包(ヌオミーバオ=もち米のおにぎり)と油条(ヨウティアオ=揚げパン)の店だけが朝から絶賛営業中であった。

こちら武漢大学凌波門前プール

(75)沿江大道(イエンジアンダーダオ)でタクシーを停め、「武漢大学(ウーハンダーシュエ)・・・・・・凌波門付近的那个(リンポーメンフージンドナーゴ)・・・・・・遊泳池(ヨウヨンチー)」と告げた。すると運転手は、それきた任せろとばかりご機嫌なようすでクルマを発車させる。アレだろ、写真を撮るんだろ。そして回答も待たず破顔一笑、シャッターを押すジェスチャー。お見通しなのだ。じつは、昨日訪れた東湖の湖畔に武漢大学の校園(キャンパス)が広がっているのだが、その東北の門外に、凌波門遊泳池(リンポーメンヨウヨウチー)というプールがある。そこへ行こうというのである。といって、泳ぐわけではない。とびきりの絶景を撮ろうというのである。そこは湖畔から湖の中へと突堤状の散策路が伸びていて、学生や市民が自由に湖上を歩けるようになっているのだ。地図アプリにも名所マークが付き、超高評価の口コミが並ぶ。その矩形(くけい)のゾーンは「遊泳池」と称され、投稿写真によれば、たしかに夏場は人が泳いでいる。先にご案内したさだまさし氏の著書『長江・夢紀行』(一九八一年)にも、完全に同一地点かは分からぬが、鬱蒼とした緑地をバックに桟橋付近で泳ぐ人々の写真がある。今から四十年ほど前のことだ。地元民に知られた、そんな人気行楽スポットへGO!

(76)今日も快晴、絶好の撮影日和である。目的地に到着し、直ちに下車してみれば、それはもう噂にたがわぬ大パノラマだった。午前の陽光が均(ひと)しく湖面を照らし、東湖はクソ真面目に上空の世界を映していた。あたかも、光という光がこの聖地の引力に抗えずにこぞって参集し、いつまでも湖上を大循環しているような印象を受けた。そして、前方数公里(キロ)先には、対岸の園林と高層建築が杳然(ようぜん)として青い影を見せ、なにやら絵画的・幻想的である。反対にぼくの立っている湖畔付近では、間断なくさざ波が立っている。このせわしない湖面の動きが、周囲の人々やクルマや風になびく植物とともに、こちら側の「身の丈的」小景を形づくっている。しかし、これを俯瞰(ふかん)してみれば、かように一種のまとまりと連動を持った近場の小景こそが、はるか遠くの神々(こうごう)しい景観をぼくからいっそう遠ざけ、特別なものに見せているともいえる。どこか実像として受けとめるのが畏(おそ)れ多いほど、雄大で神秘的な風景である。かつて二度訪れた杭州の西湖よりも、ぼくはこの東湖が気に入った。やあ、最高の場所じゃないか。

遊泳池に到着。絶好の撮影日和、そして突端には人影が。

(77)なるほど実際に来てみると、釣り客のための桟橋のようにも見える歩行路が、岸辺から見て縦五〇米(メートル)ほど、横幅一五〇米弱と広範囲にめぐらせてある。突端の広いスペースには先客がいて、中年のサングラス男がなぜか一人で座っていた(彼もまた遥か彼方の湖面に目を当てているようだった)。それとは別に若い女性二人が、この絶景を利用して撮影に興じている。モデル役の子が一人、スタスタと湖上を歩いていったかと思うと、しだいに小さくなって、そのうち自由にポーズを取りだした。狭い歩行路に腰かけて、脚をぶらぶらさせてみたり、こちら向きで髪をかき上げたり、思わせぶりなポージングが止まらない。体育座りになって、対岸に向け一眼レフを覗(のぞ)いたりもする。ルンルン気分で絶景を撮っているアタシ、の写真を要求しているのだろう。カメラマン役の子は岸から動かず、少し右に移動してよとか、もう一枚撮るからね、などと身ぶり手ぶりで合図する。これはお互い慣れてる感じだな。ぼくは彼女たちの邪魔にならぬよう別のコースを選んで、湖の上を歩いた。さっきから桟橋・突堤と書いているが、ここは船着き場でもないし堤防の用もなさない、ただの湖上の歩行路である。湖面からの高さはおよそ一米(メートル)半。道幅は一、二米の個所もあるが、わずか五十厘米(センチ)ばかりの部分もある。重いカバンを肩に掛けたぼくは、危険を避けて安全な場所を歩いた(風にあおられてよろめき、ドボンしたらシャレにならない)。と、そのうち訪問者がわんさか増えてきて、あたりはどっと賑やかになった。家族連れもいれば、やはりおっさん一人が散歩に来ているケースもある。彼らの服装は、赤、青、オレンジ、黄色、水色、ピンクと、昔のレナウンのCMみたいに色とりどりだ。さあ、最高の日光浴ができたことだし、写真も撮れたし、そろそろ出発しよう。すっかり満足したぼくは、岸へ上がって東湖と別れ、武漢大学凌波(リンポー)門をくぐった。

  武漢東湖に何か有る 遊泳池あり 歩行路あり
  美女(メイニュー)至る 緑の黒髪柳腰
  顔は桃夭(とうよう)の如(ごと)し 装腔作勢(ポージング)やまず
  武漢東湖に何か有る 遊泳池あり 晒台(テラス)あり
  大叔(おっさん)至る 黒シャツ短パン太陽鏡(サングラス)
  雄気堂堂たり それ老板(ラオバン)の甲羅干しなるかな
   *原詩「終南」 終南何有 有条有梅 君子至止 錦衣狐裘 顔如渥丹 其君也哉
    終南何有 有紀有堂 君子至止 黻衣繍裳 佩玉将将 寿考不忘

『詩経』秦風より。老板はわりと知られた中国語単語だが、店主・社長・ボスの意。

先客のおじさんは姿勢を変えず、ずっと湖を眺めていた。
ぼくとほぼ同時にやってきた二人組は、さっそく撮影に集中。

秋の武漢大学散策記

(78)校園(キャンパス)は山あり谷ありの大公園だった。

(79)沿道の樹々(きぎ)は、高さ十米(メートル)から二十米とみごとな茂りっぷりで、南国風のワイルドな密林を構成している。制限速度三〇公里(キロ)の二車線道路には、マイクロバスやタクシー、バイク、それに各種運搬車両が走り回っている。そんな中を、やけに賢そうな男の子、女の子たちが主にリュック姿で闊歩(かっぽ)している。気のせいか、上海の名門大学とくらべて物静かで落ち着きはらった子が多い印象。女子の日傘使用率は七、八割ほどと高く、中には相合い傘も見受けられる。ぼくはこれから、北東の凌波門(リンポーメン)から南西の正門まで、大学をつらぬく約二公里(キロ)の道のりを歩く。

(80)そもそも武漢大学は、中国における国家重点大学の一つ。早い話が超名門である。略称は武大(ウーダー)という。春は桜の名所として名高く、構内の珞珈山(ルオジアシャン)には、今回はパスするが周恩来・郁達夫(いくたっぷ)・郭沫若・蒋介石らの旧宅が残されている。そんなところから、中国の旅行サイトでも軒並み、人気上位の散策スポットに挙げられている。広大な敷地には、教職員と学生の居住区域も含まれる。ぼくは、セキュリティーゲートのある住居棟とか、売店や食堂とか、あと用途の分からぬ、様々な建造物を通り過ぎていった。視線を上げると、建物の入口、林道の途中、いたるところに監視カメラが設置されている。すれ違うのは学生だけではない。そこかしこに高齢者集団や、赤ん坊を抱いた母親が歩いており、そうしてアップダウンのある森林の中を歩いていると、ここが大学構内だという意識が薄れていく。これまでにも、上海交通大学、復旦大学、南開大学など中国の大学校園(キャンパス)を幾つか散策したことがあるが、いずれも平面的なロケーションだった。今日はまるでハイキング気分だ。さて、途中でうっかり道を間違えたりもして、およそ二十分かけて、中間地点の運動場に到着。なんと当校園内には、足球(サッカー)場兼陸上競技場が五カ所もあるのだが、その中の一つである。トラック外では籃球(バスケ)の授業が行われていた。ぼくが立っているのは、競技場の北端である。対面(といめん)の南端には、行政楼の名を持つ、武大(ウーダー)のシンボルともいえる建物が鎮座している(一九三六年落成、美国(アメリカ)人設計)。坐南朝北の五階建てで、上部は青緑の瑠璃瓦(るりがわら)を特徴とする方形屋根を戴(いただ)く。屋根は二重でひさしが長く、すぐ下にはバルコニーがついている(余談だが、ひょっとして来賓の指導者がここから訓辞を垂れたりするのだろうかと考えていたら、実際一九五八年九月一二日に毛沢東が当地を訪問したことを記念して「九一二操場(グラウンド)」と呼ばれていると帰国後に知った)。

「九一二運動場」越しに望む行政楼。かなり見映えが意識されている!?

(81)ところで、この競技場に接する櫻花大道(インホワダーダオ)こそ、千本の桜並木で知られる武大(ウーダー)の名所である。もとは一九三〇年代に日本軍が慰安目的で持ち込んだのが始まりで、のちに七二年の国交正常化を記念して日本側が贈ったという。いまの季節は葉が生い茂るだけであるが、構内中央に位置し、しかも平坦なためか、関係者の散策路として賑わっている。聞くところによると、開花シーズンは混雑をきわめ、最近では専用ゲートを設けるほか、ネット予約や顔認証システムまで導入して花見客の数を抑制しているという。いやはや、なんという情報化ぶりだ。あまりにも日差しが強いので、ぼくは道を外れ、運動場の周りの木陰を歩いた。小径(こみち)を進んでゆくと、前方に一人の女子学生が本を広げ、しきりに何か喋(しゃべ)りながら同じ場所を行ったり来たりしていた。熱心に英会話の練習をしていたのだ。邪魔にならぬよう、離れた所をそっと通過する。

(82)一〇時三五分、ようやく行政楼前を通過。校園(キャンパス)内の道には名前がついている。入構してから、ぼくは凌波路(リンポールー)・湖濱路(フービンルー)を歩き、櫻花大道(インホワダーダオ)をちょっと覗いて、それから人文路(レンウェンルー)を南下してきた。ここからは緩やかな勾配の自強大道(ズーチアンダーダオ)を一公里(キロ)ほど歩いて正門に到る。途中、難破船が地面が突き刺さったような形の芸術博物館の横を通り過ぎ、あるいは池の噴水をぼんやり眺めたりして歩いた。ここでも、籃球(バスケ)の授業風景に出会った。運動系のファッションに身を包んだ籃球(バスケ)好きと、ジーンズを穿(は)いた普段着の子が混在している。中央コートでは、女子が縦一列になってフリースローの練習をしているが、湖北の秀才たち、これがまったく入らない。むやみに身体が突っ込むなど、まずフォームがなってない。武漢大学なんて名前は強そうだが、少林サッカーのようにはいかないものかなあ。じれったくなった頃、九人目でやっと決まった。跳(は)ねて喜んでいる。その後も、平凡なシュートがとんでもない放物線を描きつづける。やれやれ。木陰で小休憩していたぼくは、フリースロー成功一本を見届けて、また歩き始めた。ただそれにしても、運動施設の充実ぶりは羨ましいかぎりである(高徳(ガオドー)地図では、校園内に籃球場(バスケコート)がなんと四〇面ほど確認できた)。

男子学生のバスケ風景。後ろのコートが件のフリースロー大会。

(83)午前一一時、正門到着。花壇の花々と、来賓歓迎的なカラフルな旗が出迎えてくれた。ここには表玄関らしく、「國立武漢大学」と書かれた牌坊(はいぼう)が建っている。石造りだが、比較的新しいものである。裏側には「文法理工農醫」と六学門を表す文字が篆書(てんしょ)体で彫り込まれている。書体が旧(ふる)すぎて、まるで紀元前の戦国時代の趣(おもむき)だ。名門大の正門らしく、団体観光客がしきりに写真を撮っている。ちなみに、正門を出て一公里(キロ)先の地点にはもうひとつ、武大(ウーダー)の牌坊が建っている。じつはそちらのほうが旧式で、古めかしい石門が商店街のアーチゲートのごとく、場違いに現れる図も見たかったのだが、やはり時間都合でパスする。東京でいうならば、あたかも本郷三丁目駅前に、東大赤門のコピーが突如出現するようなものである。ちょっと面白いでしょ?

(84)武漢大学の見学を済ませたぼくは、次なる目的地、校園(キャンパス)からほど近い一軒の古本屋に入った。集成古旧書社(ジーチョングージウシューショー)は大通りの一本裏に位置する雑居ビルの一階である。店先には、岩と苔(こけ)と草木の詰まったプランターがドサッと置かれていた。店名はなぜか簡体字・繁体字併記で印刷され、やけに存在を主張してくる。そんな良い意味で周囲から浮いた、独特の雰囲気を平然と纏(まと)っているところは、日本の昔ながらの古本屋とどこか通じるものがある。丁度ご主人が、モップで玄関を掃除しているところだった。軽く挨拶して入店、真っ赤な提灯(ちょうちん)をくぐる。内部は奥行きがあり、おしゃれとは無縁な書棚が真っすぐ並んでいる(一部は手作りのようだ)。品揃えは古典や学習参考書、とくに国家ないし各省の公務員試験対策本が多く、ぼくの目当ての写真誌や観光ガイドは発見できず。じつは前年は上海の古書店を訪れていて、そこは大変古びてはいたが、映画ロケ地になりそうな奇跡のアンティーク物件であった。そのうえ、分類がゆるいためか興味ぶかい雑本にあふれ、つい長居をしてしまったのだけれど、ここは実用書とお堅い文学の両極に振れて、遊び感覚のひやかし客ではどうにも太刀打ちできない。明代の文人・唐伯虎の作品集には一瞬惹かれたが、どうせ読めやしないので棚にもどす。滞在時間は十分弱、通路を一巡したところで店を出た。ぼくが店内でどの本よりも気になったのは、伝統的な文様がこれでもかと彫刻された、店主用の木製椅子だった。よく江南の富豪の屋敷に置いてあるような、重厚なやつである。あれはいったい幾らするんだろうか。ご主人に訊(き)いておけばよかった。

なかなか渋い構えの古書店、外観と店内。他に来客はなかった…

楚姫に交じりて和食を摂りつつ

*本章は「note創作大賞2023」エッセイ部門への投稿内容と一部重複しているため、選考期間終了までのあいだ当該箇所の掲載を見合わせていただきます。

お一人様女子に人気の和食店。鉄板一口牛肉(38元)と豚骨拉麺(28元)。

山の上のコンテナハウス

(92)さあ、最後の目的地だ。大通りでタクシーを拾い、長春観をめざす。そこは元代創建の道観で、道教界では湖北における聖地の一つとされる。長春とは、当地にゆかりある人物の号である。明の様式を模して、清代に再建された。一二時三二分到着。

(93)かなり古めかしい紅壁(あかかべ)が敷地を取り巻いていて、現代的な周辺環境のなか異様な光景である。これだと「城内」はよほどワイルドな史跡迷宮となっているだろうと期待するが、一〇元を払って中にはいると、意外とキレイめの伽藍(がらん)がどれも美術品のごとく澄まして建っていた。参観者はまばら。太清殿、財神殿、蔵経閣、王母殿、七真殿、元辰殿をめぐる。いやはや、個々の殿宇は伝統的かつ個性的な建築様式で、たいへん立派である。惜しむらくは、境内の足元が今日完成したばかりのように舗装・整備されていて、しかも多くの乗用車が厚かましく停車しているので、いまいち歴史散策のノリに入り込めないのだ。ぼくは一つ一つ廟を訪ねながら道教の神さまや聖者に挨拶をし、ひととおりの参観を終えた。ただ少し物足りないので、昨日訪れた蛇山、とくに黄鶴楼(こうかくろう)の遠景が望めれば最高だなと欲をかき、とても参観路には見えぬ裏山の階段を上がっていった。だんだん工事現場のような様相になってきた。そうして上った先には、瓦礫(がれき)と建材の散乱する平坦な土地が広がり、どういうわけだかニワトリが数羽、よちよち歩いていた。反射的に「なんだこいつら」と思ったが、それはまあ向こうの言い分だろう。つまらないので戻ろうとすると、どこかからラジオだかテレビの音声が聞こえてくる。恐る恐る前進してみた。と、高台の一角にコンテナ風の小屋が二つあり、中に寝床が見えた。人がいるような、いないような。よもや長春観の関係者ではあるまい。地方から来た労働者の宿所だろうか。

(右上)先述のコンテナ。(右下)山の裏側は在来線の線路、そして高層住宅。

(94)確認しておくが、ここは湖北省を代表する道観の裏山である。しかし、ぼくの迷い込んだ場所は、まるで天上界からも下界からも隔絶され、行き場のない空気がただよう、現代の虚無的な空き地だった。テニスコートくらいの面積はあろうか。武漢を離れる前にもう一度黄鶴楼を眺めたいなどと高望みしたあまり、街の雑踏とも厳粛な聖域とも結びつかぬ、妙に殺風景な空間へと足を踏み入れてしまったのだった。とはいえ、五日間めまぐるしく新旧名所を周遊してきたぼくにとって、この同時代の隙間風景にはいささか新鮮味が感じられた。音もなく、美しくもない、時間を無為に過ごすだけの、ただ暑苦しい場所である。しかもあらかた壁に囲まれ、向こうは崖下(がけした)というロケーションである。下を覗き込むと、崖(がけ)の際(きわ)にそって鉄道の線路が伸び(長江大橋へとつづく線路だ)、周囲は高層住宅が幾重にも屹立していた。武漢市民の生活圏、彼らの住み処(か)、そのありふれた「背面」であった。ついでに反対側もと、つまり見学したばかりの長春観を見下ろす。境内にこんもりと森を形成し、先端部に鮮やかな黄色い花をつけているのは欒木(モクゲンジ)だろうか。上界とも下界とも切り離された場所、忘れられた時間、そして目的を見失った旅行者。ただ、きちんと入場料を払った身分であるし、問題ないさという傲慢さも手伝い、ぼくはこの時空の狭間みたいな「展望台」を借りて、武漢最後の時間を過ごすことにした。慣れてしまえば、なんだかんだ言って悪くない、珍風景の穴場である。ぼくは山上で深呼吸を繰りかえした。周囲には何も起こらない。尾崎放哉の詩じゃないが、咳(せき)をしても一人、みたいな心境だ。のんきな見学客も、こうなると内省的になる。この数日間、ずっと進行を気にして旅を急いできたことが、妙におかしく感じられた。思えば、常州でも荊州でもノンストップで、なんだか必死だったなあ。今だって、結局は一公里(キロ)先の黄鶴楼はおろか、広大な敷地をもつはずの蛇山さえ見えなかった。せっかく登ったのに、残念だったなあ。心中で嘆息するたびに独りごとを言いそうになるが、静寂に遠慮して言葉を呑み込む。そう、このまま静かに武漢を去ろう。そう思った。もうじゅうぶん歩いたよ。時刻は一三時八分。上海虹橋(ホンチアオ)ゆき高速鉄道の発車時刻が、一五時〇〇分。そろそろ潮時だ。いつかまたこの町で下車して、なんでもない通りをゆっくり歩こうじゃないか。カタコトの中国語で地元の人達をひやかしながら。そして、いまどき珍しい日本の旅行者だなとイジられながら。そんなことを考えて、ぼくは長春観を出た。

(95)四日間過ごした湖北省を離れ、これからいよいよ上海へと戻る。ぼくは地下鉄を乗り継いで武漢駅に到り、それから定刻出発の高速鉄道で八百公里(キロ)を走った。武漢駅はまるで未来の空港みたいな巨大駅舎(高速鉄道用の站台(ホーム)が二〇番線まである)で、おおいに圧倒された。そこで欧米旅行客の団体と遭遇したが、とうとう日本人とは上海浦東(プードン)空港まで出会わなかった。上海虹橋(ホンチアオ)駅へ到るまで、車内では気ままに日本語の動画チャンネルを視聴した。お笑い、野球、ニュース、柴犬と赤ちゃん、昆虫マニア、そしてまたお笑いというように。名残惜しい湖北の大地を、車窓から途中途中で見やりはしたが、心のなかではもう帰り支度をはじめていた。

同じく武漢駅の巨大駅舎。高速鉄道が居並ぶさまは圧巻!

(96)余談だが、帰国後に検索してみると、ぼくが長春観の山上の小屋と書いたのは、得労斯(ドーラオスー)という会社のレンタルコンテナハウスであった。確認したのは二〇一一年の広東省の記事だが、それによると約三米(メートル)×六米×三米のスペースに最大一〇名が居住可能で、主に工事期間中の臨時宿泊施設として利用されるようだ(敷金別で当時一日六元)。これが回りまわって、はるばる湖北の武漢の小山まで持ってこられたというわけ。知らないビジネスがあるもんだ。ところで、高徳(ガオドー)地図の情報によると、長春観では二〇二〇年一月から工事が始まり、暫(しばら)ク営業ヲ停(や)ム、と一時記されていた(現在は開放されている)。となると、裏山のコンテナハウスの主もやはりその仕事に参加していたのだろうか。そして、あの異様な空き地は、もう消えてしまったのだろうか。鉄道の線路、高層アパートメント、そして黄色い花々。あそこで撮った平凡な写真数枚を見るたび、ぼくは武漢を恋しく思う。

上海・薄荷(ミント)篇

フィナーレ 上海虹橋の夜

*本章は「note創作大賞2023」エッセイ部門への投稿内容と一部重複しているため、選考期間終了までのあいだ当該箇所の掲載を見合わせていただきます。

(01)最終日のその後は、おまけとしてサラッと書くことにしよう。

(02)上海に到着すると、まずは駅ナカで腹ごしらえ。食其家(すき家)、康師傳私房牛肉面、永和大王、台湾小吃好縁と迷ったあげく、老娘舅(ラオニアンジウ)という連鎖(チェーン)店で魚香肉絲套餐(ユーシアンロウスーセット)をいただいた。甘酸っぱくてピリと辛い豚肉の細切り。言わずと知れた定番家庭料理である。決して食べ慣れた味ではないのに、そして他にも好物はいくらもあるのに、現地で発見すると不思議と身体が欲してしまう、そんな一品である。米飯、銀魚水蒸蛋(白魚入り茶碗蒸し)と西蘭花(ブロッコリー)炒め、楊梅汁(ヤンメイジー=ヤマモモのジュース)付きで四一元。豚肉のほか、人参、タケノコ、木耳(きくらげ)、長ネギといった具材が、極細でほどよく汁をまとい、ご飯がどんどん進む。うん、美味いぞ。白飯を食すのが常州以来四日ぶりなことも、むろん箸の運びを愉快にさせた。店内は明るいファストフード店仕様。食に関して何の心配もいらぬ、超便利な上海の地位が、ぼくの中でまた少し上がった。滞在二五分、ぼくは最後の一人晩餐会を終えて、次なる目的地へと動き出した。虹橋(ホンチアオ)駅と直結した商業施設、その名も虹橋天地である。お目当ては二つ。人気書店の言几又(イエンジーヨウ)と、日本でもおなじみのサーティワンアイスこと巴斯羅繽(バスキンロビンス)だ。優衣庫(ユニクロ)、無印良品、GAP、H&Mも入居する虹橋天地は、移動中の空き時間にちょうどいい、絶好のくつろぎ場所だった(地階のフードコートも庶民的で充実していた)。

「老娘舅」の魚香肉絲セット(41元=当時約650円)。

(一部省略)

虹橋天地の「言几又」書店。カフェやミッフィーグッズコーナーも。

(06)ようやくである。五日間の旅行の最終目的地。閉店近くで客もまばらな虹橋(ホンチアオ)天地をスタコラ探検し、ぼくは芭斯羅繽(バスキンロビンス)にたどり着いた。開いてて良かった。そこには美味しそうな一六種類のアイスクリームと、ものすごく暇そうなスタッフのお姉さんが待っていた。客席にはもう誰もいない。ぼくはお気に入りの薄荷巧克力(ミントチョコ)を指差し、標準単球(レギュラーシングル。三二元)で注文した。何もかも日本と同じだ。端っこの席に陣取って、いただきます。まあるいアイスに取りかかる。本で重くなった荷物を下ろし、静かな店内で食べる中国サーティワンの味は、たぶん今までで一番美味しく感じられた(こんな贅沢な気持ちになったっけ?)。脳が食べ慣れたデザートを欲していたのか。それとも、安全に旅を進められたことへの安堵感からか。思わず一口ごとに笑みがこぼれるが、誰もいないので気にしない。ぼくは調子にノッて、日本店舗のウェブサイトで期間限定商品をチェックしてみた。九月のイチオシは、抹茶ティラミスだった。よし、帰国したらそれも食べてみよう、などと構想する。そうして満ち足りた気持ちになったぼくは、静寂な店内を独り占めして、空港へと発つその予定時刻を黙して待った。カップの中では、溶けかかったアイスが優雅に寝そべっていた。ふりかえると、サーティワンのお姉さんも後片づけに取りかかっている。お疲れさま、もうすぐ帰るからね。

閉店間際のサーティワンアイス。帰国前に幸せな時間を過ごしました。
虹橋天地の各フロア。火曜の夜だけに客数はどこも少なめ。
帰り際の一枚。それからTAXIで浦東までぶっ飛ばしましたとさ(おしまい)。

参考資料一覧

中国国家文物事業管理局編『中国名勝旧跡事典 第2巻』(ぺりかん社、一九八七年)
中国国家文物事業管理局編『中国名勝旧跡事典 第3巻』(ぺりかん社、一九八八年)
原口純子、90’s中華生活ウォッチャーズ『踊る中国人』(講談社文庫、二〇〇二年)=初版はメディアファクトリー、一九九七年
さだまさし『長江・夢紀行 上/下』(集英社文庫、一九八三年)
イザベラ・バード『中国奥地紀行1』(平凡社ライブラリー、二〇一三年)
辻康吾『中華曼荼羅―「10憶人の近代化」特急』(学陽書房、一九八五年)
後藤朝太郎『支那の体臭』(バジリコ、二〇一三年)
畠山秀樹『三菱合資会社の東アジア海外支店―漢口・上海・香港』(追手門学院大学出版会、二〇一四年)
目加田誠『新釈漢文大系 第一九巻 唐詩選』(明治書院、一九六四年)
石川忠久『漢詩への誘い 清明の巻―季節を詠う』(NHK出版、二〇〇五年)
石川忠久『漢詩鑑賞事典』(講談社学術文庫、二〇一六年)
宇野直人『漢詩名作集成 中華編』(明徳出版社、二〇一六年)
松浦友久『李白詩選』(岩波文庫、一九九七年)
川合康三『中国名詩選 中』(岩波文庫、年)
武部利男『中国詩人選集 李白上/下』(岩波書店、一九五七―一九五八年)
青木正児他編『漢詩大系 第六/第七 唐詩選』(集英社、一九六四―一九六五年)
青木正児他編『漢詩大系 第一六 宋詩選』(集英社、一九六六年
東方新報「漢民族の伝統衣装『漢服』 中国の若者の間でブームに」、二〇一九年九月二八日
星野渉「日本の絵本が中国の書店で桁外れに売れる背景 一〇〇〇万部迫るシリーズも、巨大な潜在市場に」、『東洋経済オンライン』二〇一九年三月四日
馬場公彦「過熱する中国の出版界、冷淡な日本の出版界 中国出版界が日本文学に注ぐ熱い視線」、『HON・jpブログ』二〇二〇年一二月七―八日
伊藤忠総研「異業種との融合が進み競争が過熱する書店業界」、『中国経済情報』二〇一九年九月号

旅行中および執筆中に使用した主な中国のアプリ(サイト)
 ・高徳地図 https://gaode.com/
 ・大衆点評 https://www.dianping.com/
 ・携程旅行 https://www.ctrip.com/
 ・百度百科 https://baike.baidu.com/

この他、本稿執筆に際しては、作者が現地で撮影した三千枚超の写真、および動画などを参照した。

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