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1981年のレコード店  

R40+  4400文字  1980年代風物
身内ネタ (邦楽)  聖子ちゃんブーム
※興味のないかたはスルーしてください※

イントロ・タグ

1980年 3月に高校を卒業したぼくは、一応、予備校には通ったものの、ゴールデンウィーク時分にはもう退学していました。だからといって就職するわけでもなく、相変わらずブラブラ、キャサベルの仲間では S木くんとぼくだけが「無所属」でした。他のメンバーは、同じようにモラトリアム生活を続けていたとはいえ、高校から大学へとステータスの階段を上っています。その差は大きかったのです、卑下する側から見ると。

その年の秋から半年間、ぼくは N川くんと一緒に鳥取県大山のスキー場で住み込みのアルバイトに励みます。一方、S木くんは S木くんでレコード店の長期バイトを見つけ、腰を据えて働き始めます。おたがい、身を持ち崩しそうな雲行きになんとなく焦りがあったのでしょうね。表面的にはいくら意気がっていても。で、翌1981年 3月末、大山での山籠りから帰阪したぼくは、 S木くんを介して彼の職場で働くことにします。大型スーパー・ダイエーの一角にある (=ダイエーの子会社 DLL が経営する) レコード店、いわゆる街のレコード屋さんです


松田聖子 

店で働くのは、正社員のマネージャー (30代後半) に、バイトの S木くんとぼくを含めた 3人でした。そこへ、ちょうどぼくが働きだして一月ほど経った 4月、研修を終えた高卒新人の W林くんが正社員で入ってきました。正社員といっても、年齢のうえではぼくらの 2歳後輩。当時は雇用形態 (正規/非正規) など誰も気にせず、それよりは実年齢のほうが圧倒的にモノを言ったのです。曲がりなりにも「仕事」なのに、ぼくらはほとんど遊びの延長で好き放題しました。「おいっ W林、ちょっとレジ頼むわ」と言っては、片っ端から店の商品を録音しまくりました。

1981年、この年の歌謡界の話題は、なんといっても松田聖子です。前年にデビューした彼女は、「ポスト百恵」の筆頭として次々とヒット曲を飛ばします。トップアイドルの道を昇っていく、その最盛期が 1981年でした。そういえば、ぼくの初仕事は店頭ディスプレイを松田聖子の「夏の扉」で飾ることでした。「白いパラソル」「風立ちぬ」「赤いスイートピー」。数ヶ月おきに同様のディスプレイ変更に追われましたね。

聖子の全ディスコグラフィーを振り返っても、この年に発表されたシングルは珠玉の名作揃いです。ソングライティングが「白いパラソル」作曲・財津和夫、「風立ちぬ」作曲・大滝詠一、「赤いスイートピー」作曲・ユーミン、作詞は 3曲とも松本隆。いま考えても鳥肌が立つようなラインアップです。さらに輪をかけて、聖子の歌がうまいのなんのって。世はまさに聖子ちゃんブームで、その象徴が「聖子ちゃんカット」でした。↑ の「夏の扉」のヘアースタイルを真似た女子が、街中に溢れ返りました。美人はもちろん、そうでない方もそれなりに聖子ちゃんっぽく見えるのが、ブームというものの底力です。ダイエーのなかでも、本屋の聖子ちゃん、時計屋の聖子ちゃん、等々ぼくらは勝手に美人を選抜しては渾名をつけたものです。

そして、ぼくは着物屋の聖子ちゃんを見つけます。W林くんが勢い込んで「てぇへんだ、てぇへんだ、新しい聖子ちゃん発見!」。「着物屋の?」とぼく。「あっ、もう知ってたんすか?」「オレが先やからな」。聖子自身の表現でいえば、まさにビビビッときたのでしょう。

田原俊彦

松田聖子のライバルといえば、同い年のトシちゃん (田原俊彦) でした。夏の終わりには「悲しみTOOヤング」が店頭を賑わしました。前年の新人賞レースから、聖子 vs トシちゃんの構図はなんとなく出来ていて、日本歌謡大賞・新人賞を獲った聖子の「ウソ泣き」は、ぶりっ子という流行語の起源になったような記憶もあります。トシちゃんのシングルも予想どおりのチャート・アクションを見せましたが、ぼくが驚いたのは、間を空けずにマッチこと近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」がリリースされたことです。そして、この曲がトシちゃん以上に大ヒット。ジャニーズ事務所の営業戦略だったのかどうかは知りませんが、印象としては、マッチが完全にトシちゃんを食ってしまった、という感じでしたね。

別にトシちゃんに肩入れしたわけではありません。ただ、着物屋の聖子ちゃんが「マッチ大好き!」だったのです。あの手この手を使って着物屋の聖子ちゃんと知り合いになったぼくは、店の社員割引を使って「欲しいレコードがあれば安く手に入ります」みたいな誘いをかけました。聖子ちゃんはなにも考えずに、一人のお客様として、マッチのカセットテープを買いに来てくれました。会計の際、ぼくは S木くんや W林くんを押しのけてレジに入り、50 %オフで販売。もちろん不足分はあとでぼくが補填しましたよ、本当の社員割引は 35 %オフだったので。

「他にどんな曲が好きですか?」「はあ?」「マッチ以外に」「長渕剛の……、巡恋歌……」「いいっすね、長渕」「あまり詳しくなくて」「お昼はいつもどこで食べます?」「えっ?」。なに言ってんのオレ。長渕がいい、なんて口にしたのは後にも先にもこのときだけです (他意はありません)。

阿川泰子

レコード店の仕事は単純なものでした。店番とレジ打ちがメインで、仕事らしい仕事といえば数ヶ月に一度の棚卸ぐらいでした。DLL (ダイエーレジャーランド) の業務範囲は、ミュージック (レコード店) とアミューズメント  (小型遊園地) だったので、マネージャーは管理上ダイエー店内のプレイランドも掛け持っていました。黒縁メガネをかけた丸まるの色白で、W林くんは「キモイ眼鏡ブタ」と呼んでいました。

そのマネージャーが店にいないときは、ヘビロテ用のアルバムをぼくらが勝手に選んでターンテーブルに乗せました。突然マネージャーか戻ってきたときに備え、一応は業界紙やオリコンに載っているものを選びました。しかし、マネージャー自身が好みのアルバムをよく店内用にかけることを、ぼくらは知っていました。その一枚が阿川泰子です。81年 6月発売の「サングロウ」は、その年いっぱい、細く、長く、マネージャーに推されます

それまでぼくが接していたジャズは、プログレのカンタベリー派が主だったので、阿川泰子のような大人のアイドルが歌うジャズは、ある意味とても新鮮でした。ラウンジ・ミュージックの延長にある、別物のように聞こえました。「サングロウ」1曲目の「スキンド・レ・レ」はいまも耳に残っています。W林くんはこの曲に合わせ、即興でエアギター・プレイを見せてくれたっけ。彼はリッチー・ブラックモア信者のギター小僧で、エアギターのモノマネに関しては天下一品でした。元ネタがわからなくても観客を笑わせるコツを知っていて、たとえば「I Surrender」の Ritchie とか、UFO時代の Michael とか、微妙な違いを見事に演じ分けました。懐かしいなあ。アルバム「神」が Michael Schenker の傑作だって意気投合したことも。

1981年のレコード店で耳にした音楽、それは現場の最前線で取り扱った音楽でもあるのですが、年間を通してもっとも聴いたのは、おそらく大瀧詠一ではないでしょうか。いや、その年のみならず、その後 10年 ~ 20年のスパンで見ても、J-POP 不滅の名盤が「A LONG VACATION」です

大瀧詠一

「ロンバケ」のリリースは 81年 3月でしたが、夏頃になって一気に爆発した覚えがあります。もちろん、アルバムの内容が夏のイメージにピッタリだったからで、店頭ディスプレイも店内ヘビロテも「ロンバケ」一色に染まります。いきおい、好きも嫌いもなく、全曲・全歌詞を自然に覚えてしまいました。「君は天然色」、「カナリア諸島にて」、「恋するカレン」、曲調のバラエティーに富んだ名曲群のなか、そういえば S木くんは「雨のウェンズデイ」が隠れた名曲だ、と言っていました。このアルバムから表の一曲 (A面) と裏の一曲 (B面) でシングル盤を作るとしたらそれぞれどれを選ぶか、という架空のアンケートをすれば、その人の音楽嗜好や性格がかなり分かるでしょうね。人それぞれに好きな曲が選べるのは、やはり名盤の証しです

ちなみに、本アルバムからの初出シングル (1981年3月) は、A面「君は天然色」B面「カナリア諸島にて」。当時のぼくは「さらばシベリア鉄道」の違和感に 、逆に惹き込まれましたが (この曲だけが冬のイメージでアルバムのラストに収録)。

当時ぼくは大瀧詠一の予備知識をなにも持っていませんでした。はっぴいえんどにおける活動も、アメリカン・ポップス/ロックに影響された背景も、すべては後から付いてきました。いま思うと、この音楽体験はとても重要だったようです。というのも、若かりしぼくは洋楽かぶれ (しかもプログレ) を気取っているところがあり、大衆に受けるのはそれだけで悪だ、といった偏見を持っていたからです。だから、サウンドだけを純粋に聴き、多くの人が支持したものにはそれなりの理由がある、むしろ本物の傑作ほどその点を控えめに手当している、ということを学べたのは、まさしく「ロンバケ」のおかげでした。あるいは、こう言ってよければ、街のレコード屋さんという現場で働けたおかげでした。

そして晴天の霹靂。「てぇへんだ、てぇへんだ、聖子ちゃん辞めるって!」「着物屋の?」「歯医者さんに転職するって」「冗談なら殺す」「痛い痛い、マジですって!」「いつ?」。ぼくは目の前が真っ暗になりました。同時に、彼女を失ってはならない、という意識に目覚めました。「いいんすか? このまま放っておいても?」「いい訳ないやろ!」「先輩が告白しないなら、おれ告ってもいいっすか?」「ああ、この世の終わりや!」「ギャッー、痛っ痛いっ、ごめんなさい、ごめんなさい、冗談ですってば」「あかん、どないしょ、どないしょ」。

ぼくは意を決します。聖子ちゃんの誕生日が 9月(=19歳) だったので、プレゼントを手渡す口実で告白しよう、と。彼女が離職するのも 9月末でした。ぼくはかなり奮発して、一点もののセーターを用意しました。そして、婦人服店にいた彼女の友人に頼み込み、とにかく10分だけ二人きりになる時間を作ってくれ、と段取を整えます……。ああ、忘れもしない、JR 駅に架かる跨線橋の上……。

はいっ? 結果ですか? 最後に ↓ の動画を貼り付けることでどうかお察しください。現実は無慈悲です

それでは、また。
See you soon on note (on Spotify). 





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