見出し画像

アカバン・ショック

アパマンショップと韻を踏んでいるのでタイトルにしましたが、これといって明確な方針があるわけではありません。方針、というよりも、書きたいこと、ですかね。ただ、漠然と頭に浮かぶことをそのまま書くのも、ときにはいいでしょう。本来、随筆とはそういうものですね (2023.09.09.現在)。

BGMの添付動画にもポリシーがあるわけではありません。書きながら、今まさに聴いている音源、ってことで。

最近つらいのが、フォローする noter が一人また一人と更新頻度を落とされていくことです。特に日次更新を続けていた先輩に対しては、喪失感もひとしおです。日次更新が滞るにはそれなりの理由があり、例えば、お一人は生活習慣病の改善のため、別のお一人は400日連続投稿を果たしたうえでの休筆、とそれぞれ「立派な」事情があるだけに、読者としては、新しい記事を読みたいなあ、とただ祈るしかありません。前者の方は、更新頻度こそ落ちたものの、投稿は続けていらっしゃいます。その noter 独特の文学的な味わいはまだ楽しめます。ところが、後者の方は8月12日のつぶやきを最後にストップしたまま。次のアップはいつなのか、先の見えないトンネルに入ったみたいで心寂しいかぎりです。

失ってはじめてその大切さに気付くことは、ままあります。こちら/読者の手前勝手な理屈ですが、日次更新の記事が欠けることによってぼくの日々ルーティーンも大きく狂っています。毎朝、通勤前に note を開いて記事にスキ💓を押す対象、昼休みにはこの人とあの人、退勤時の車内では手練れの書き手、就寝前には必ず笑わせてくれる御仁、というふうに各々の noter 記事の愛読時間は日常にしっかり組み込まれていたのです。その型が少しでも崩れると、記事ロスのダメージもさることながら、若い頃とは違って対応不全がボディーブローのようにじわじわ効いてきます。

そして、ふと考えこみます。たかが SNSでここまで落ち込むなんて、もともとぼくは向いていないのではないか、と。

実はもうひとつ、そのきっかけとなった出来事/事件があります。それは、ある noter がアカバンされたこと。note を始めた初期からぼくはずっとその方のフォロワーで、向こうもたぶんぼくの記事を楽しみにしてくれていたと思います。しかし、晩春のある日、突然その方のアカウントが消え、すべての記事が、コメントが、失われたのです。アカバンと先述しましたが、内容的に見て note 運営サイドによる強制執行ではありません。およそのプライバシーを把握できるほど熱心な読者だったので、それは断言できます。バカだなあ、SNS上のキャラなんて全部ウソっぱちじゃないか。そんなことは百も承知です……。いや、むしろそうであって欲しい、と思いたいくらい心配な消えかた……。

その方の事情もあるでしょうから、これ以上は詳しく書きません。ただ、最後の投稿が「生まれ変わり」を示唆するパワースポットに関するもの。その前には「note の更新がこれからは滞る、家族のために株や相場の勉強を真剣にする」といった宣言をされています。他にも、娘さんの宿題を見る優しい父親像、ぼくのコメントへ返信をくださる律義な性格、等々それらの点がぼくには一本の線に繋がり、言いようのない不安を掻き立てられます。

なにもかも、ぼくの思い過ごしであることを祈るばかり……。SNS耐性のないぼくが愚かで、どうか勘違いをしていますように……。

note が他のSNSと違うのは、長めのテキストによる交わりが可能な点でしょう。それだけ「文は人なり」が強く刻まれるのは仕方ありません。要はその先をどこまで信じられるか、リアリティーの距離感。そういったものが世代間によって大きく隔たる、すなわち、ぼくのようなド昭和世代にはやはり直接的/一次的なリアルしか信じられない、という限界みたいなものが、なんというか、どんよりとしんどいのです。

会社の20代の若手に相談すると、「気にしすぎっすよ、一期一会って言うじゃないっすか」。なるほど noter の活動を注視すると、三ヶ月ほどで出たり入ったりの波があるのは分かります。ただ、彼にはぼくの言わんとすることの、半分も伝わっていないと思います。ぼくが落ちこむのは、その「去る人追わず、来る人拒まず」のドライな流儀に徹しきれない柔軟性の欠如 (新時代への適応障害) であって、別離に対する感傷ではありません。

そういえば、アカバン・ショックとは真逆の面白い経験もしました。リアルの世界での知己が、ぼくとは知らずに note でフォローしてくれました。向こうのアカウントは本名なので、37年前にぼくを担当してくれた (お世話になった) 編集者であることは 300%間違いありません。ところが、ぼくのほうは本名を明かしておらず、記事の内容も文学や現代小説に触れたことはなく、早い話、向こうはぼくに気付きようがありません。この非対称な関係性が面白い。ID認証の、SNS上での再会は非対称ですが、とはいえ note では別の認識方法だってあり得ます。なぜなら、彼はぼくの編集者だったので、文体とか語彙とか、書き手には分からない独特の癖を職業病的な目で見抜いているかもしれないからです。そのうえで知らんぷりを通す。

それが、彼の優しさである可能性は大いにあります。かつて筆を折った物書きが note で続ける創作の真似事を、そっと見守る。そうだとすれば、ツールこそ違え、やはりぼくにはこういったド昭和の交流のほうが性に合っています。結局、ぼくが言いたいのはそこに尽きます。写真・学歴などの基本データによる ID認証が悪いとは思いません。ただ、繰り返しますが、note が一般的な SNSと異なるのは、テキスト/長文による読み書きがベースにある点。「文は人なり」で紡がれた人間関係は、フィクションにもフィクションなりの真実があり、そうそう簡単に縁は切れません。

この考えそのものが、あるいは前提から間違っているのでしょうか。ぼくの旧さは、やはりSNSには不向きなのでしょうか。

アカバン・ショックで消えた noter を、ぼくは忘れられません。そのうちなんとも思わなくなるなら、人として早く辞めたほうがいいのでは、とさえ思います。その方がぼくの記事で褒めてくれたのが、「I'm Not In Love」。この曲を聴くたびに、この先もずっと思いだすのでしょう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?