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残暑見舞

~別アカ作りました~

まだまだ暑い日が続きますが、皆様、お変わりないですか。すっかりご無沙汰しております。はい、5月末でいったんお休みを頂いてから、ぼちぼち 3ヶ月になろうか、って暦ですものね。大型の台風10号が目前まで迫っている週末の、なんてことはないご報告でして (2024.08.25.現在)。

この 3ヶ月、note のことは忘れて南国のリゾート・アイランドで思いっきり羽を伸ばしておりました。と書きたいところですが、さにあらず、実は別アカを作って、せっせと投稿に励んでおりました。自分でもおかしな成り行きですが、一般論として、文章を読んだり書いたりしていると、一種の自家中毒というか、自己嫌悪というか、もうこれ以上はなにも読みたくない/書きたくない、ってことがありますよね。たぶん、ぼくの場合は人一倍それが激しいようで(昔からそうなのです)、いったんそういう心持ちになると、それまで積み上げてきた成果を全否定したくなっちゃいます。幼児とまったく同じで、少しでも気に入らないと積木をすべて崩してしまう、みたいな。多かれ少なかれ、皆様にも覚えはあるでしょう。

それに加えて、note はぼくにとって実質的にはじめてのSNSなので、いわゆるSNS疲れみたいなものに罹患した自覚もあったのです (ビョーキかよ)。これはちょっと休憩をとったほうがいいな、と。ところがですね、根っこにある書くことの謎の義務感が、どうにも疼くわけです。読み専で最小限の関わり方に絞ってはいても、やはり読むこと/書くことは表裏一体、フォローする先輩たちが活動縮小していったように、ぼくもまた同じ道を辿ると今度はフォロワーさまの投稿記事も減っていく、なかには完全に卒業された noter もいらっしゃる。いやいや、これはマズイぞ

それで、モノは試しに別アカでも作ってみようか、と。すると、これが予想以上に楽しくて楽しくて、ええ。

もちろん、別アカ (=あっち) は maybejunwill (=こっち) とはできるだけ対極的なものにしたのです。こっちで学習した失敗を活かして、さらには先述したような自家中毒に陥らないように配慮して。具体的には、以下のような感じでしょうか。目ぼしい違いだけですが。

項目    こっち      あっち

文字   約4000文字    約700文字
対象   音楽・おもいで  フィクション 
種類   エッセイ・雑記  小説・散文詩
応援   無制限      上限設定
更新   週に1本       週に約2本
設定   常識人(のつもり)   チョー自己中

アカウント比較

表中の「応援」は、フォロー数やスキ数のあり方です。ご存じのように、こっちでは基本的にフォロバ・スキ返し100%で運用しています。しかし、実際に経験して分かったのは、精読とまでは言わなくても、きちんと読める範囲には/物理的に対処できる範囲には、限界がある、ってことですね。やっつけ仕事の「スキ」は、かえって書き手に失礼ですから。これは「設定」にも直接的に関わり、あっちのアカ主設定を「チョー自己中」としたのは、過剰には読者/フォロワーのフィードバックを気にしない。なんなら自分自身に我儘でありたい、ということです

まあ、しかし、なんといっても根本的な違いは「文字数」でしょう。こっちでは平均4000文字で書いてきたものが、あっちは約700文字。1分で読めますからね。そのぶん負担もずいぶん楽になった、と言いたいのですが、そう単純な話でもありません。文体と深く繋がる部分で、こっちはエッセイや雑記が基本ですから、読むときの敷居が低いのです。すんなり、軽く読める、というか。しかしフィクションは、たとえショーショートであっても、入り込むまでに相応の集中力を要します (小説の読み始め、登場人物と状況設定を把握するまでが大変です)。あれ、書き手にとっても同じでして。

また、こっちのフォロワーの多くは、ジャンル的にぼくの音楽紹介なり過去のおもいで話なりに興味をお持ちいただいているでしょうから、あっちの記事には関心がないかもしれません。そんなこんなで、誰にも気兼ねせずに書きたいように書く、その原点を大事にするための別アカ始動、って感じなのです。たぶん、両方のアカウント・フォロワーのほとんどは、あっちとこっちのアカウントが同一人物によって運営されている、とはゆめゆめ気づいていないでしょう。それは、もとよりぼくにとって理想的な形であり、note を長く続けるための「なかなかイイ」方法だと考えています。

こっちに飽きればあっちへ行けばいい、のですから。逆もまた然り、精神衛生的にもバランスよく安定しています。

ただ、古い記事で恐縮ですが、「アカバン・ショック」を覚えていらっしゃるでしょうか。note がフツーのSNSと違うのは、相互の長文テキストを介した交わりが可能であること、それだけ「文は人なり」の関係を良くも悪くも築き易い、そういった内容です。

その記事で書いたことを、いま現在、別アカを作ったことによって追体験している喜びがあります。いま、喜び、と書きましたが、ジャンルも、叙述対象も、扱う話題も、完全に異なるのに、ぼくが書いたものには我知らず (熱心な読者にしか分からない) 独特の癖なり文体なりの特徴があり、それを感じ取っていただける読者が存在するのは、身バレのマイナス点を補っても余りある、それこそ天にも昇りそうな喜びにはちがいないのです。

例えば、思考回路、例えば、動画を選ぶときの趣味嗜好。自分でも分からないうちに、ぼくという人となりが出てしまっている。ド昭和の人間 (=ぼく) には、そこを共有してもらえるのは、深く繋がっている、と単純に同義なのですね。それは、やはり、最良の人間関係のひとつではないか、と。

手前勝手な例でいうと、まるで砂漠のなかで見つけてもらえたガラス玉のように。あるいは、鳥目の人に見つけてもらえた闇夜のカラスのように。

たまたまですが、こっちのフォロワーさまの何十人かはあっちのフォロワーでもあります。きっと、ご自身ではまったく認識されていないでしょう。例外的に、ごくごく数名の方のみ、両方のアカウント主がぼくであることをうすうす感づいていらっゃいます。ところが、この数名の方は決してそのことを公言されない、他言されない。おそらくはぼくへの配慮であり、「文は人なり」を踏まえたうえでの思いやりがそうしてくださるのでしょう、そう思うと、この暖かい距離感がまた堪らなく嬉しいのです。note を続ける意義が、新たに更新されたような気がします。

根が飽き性なもので、おまけに中途半端な人間なので、何をしても最後までやり遂げたことがありません。それでも童謡・蝶々のように、「菜の花に飽いたら、桜に止まれ」でこっちとあっちを使い分けながら下手の横好きを楽しんで行ければ、こんなに幸せなことはありません

追記——。この記事を読まれて「やっぱそうだったのか!」と思われたとしても、よもや、こっちのコメント欄にあっちの別アカを晒すような (逆もまた同じ) 暴挙をなさる方は、一人もいらっしゃらないと信じております。ただし、目茶苦茶スマート&シャレオツな形で、例えばあっちの添付動画をこっちのコメント欄でさりげなく言及する (逆もまたあり) ような美技をされた日には、もう惚れちゃいますよ。スキを100倍返しで送ります。誕生日に100本のバラを贈ります。実際そうされた方がいたので、だから note は止められないのでしょうね。


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