人間の条件 7公的領域〜共通なるもの〜

この章では公的(public)は大きく分けて二つの意味があると提示された。

1つ目は、親密なものが現れたpublicである。この意味ではpublicは、主観的なものが公に現れて、それが多角的な視点を持った複数人から見られることによって生じる。しかし、世の中には、publicにあるべきものと主観的領域にあるべきものが存在する。見られ聞かれることに価値があるものだけがpublicの範囲に残り、それ以外は親密なものに押し込められる。いくら、公に現れて多角的な視点を持った複数人から見られたとしても必ずpublicになるわけではない。publicにとって適切でないものは公的領域にとどまることができず、親密な領域に引き戻されることになる。例を挙げるならば、愛である。愛は公に見られ聞かれようとした段階で、真の愛ではあり得ないからである。

しかし、世の中には見られ聞かれることに価値がないが伝染力を持つもの、すなわち「魅力的」なものが存在する。魅力的なものは、当然主観的領域の特徴を持つが、広がりを持つ。これをハンナは「私的な広がり」と表現している。私的な広がりの例として、フランス人の持つ「小さきものへの愛」の価値観が挙げられている。このような私的な広がりが支配する世界では、世界は「魅力」の魔法にかけられ、公的領域に存在する「偉業」に対して関心を示さなくなる。この場合、公的領域は消滅する。

2つ目は、世界としてのpublicである。世界というのは自然や地球などではなく、人工物による活動の場、そして活動自体を含めた世界のことである。世界には「人々を結集させ、同時に分離させる力」があり、この力が「肉体をぶつけ合う闘争を回避している」としている。おそらく、世界が活動の場を生み出し(=集結)他者との活動によって、自己と他者の違いを理解することができる。(=分離)この理解は、言論によって行われる。そのため、肉体をぶつけ合わずに議論となるということだろう。近年、この結集と分離の能力は失われたため、結集も分離もしないただ存在する個々人という社会が生まれた。当然、共通世界に対する意識が薄れた。ハンナは、このような状況は歴史上キリスト教の同胞愛の概念によって回復されたと主張している。同胞愛は愛のように親密領域に属しながらどこか友情のように人と人の間にある属性を持っていた。「盗賊でさ彼らの間に彼らが同胞愛と名付けるものを有する」のであり、これは親密領域に属する愛ではあるが、確実に全人類の間に存在する絆なのである。当然キリスト教は非政治的で家族関係をモデルに作られた共同体であったため公的領域にはなり得ない、しかし、大きな私的な広がりが、公的領域にとって変わり大きな役割を果たした点は注目の余地がある。

キリスト教はものを避ける傾向にある。なぜなら、「死すべき人間が生み出した工作物は、製作者と同様に死すべき工作物である」からである。しかしこの考えからは、帰って「世界のものを享受し、消費(殺そう)しよう」という傾向が強まる。この考えには、公的領域には永続性が不可欠であるという前提が欠けていた。そもそも現世という存在が不死であるという前提に立たず、世界の滅亡からの個人の救済を掲げるキリスト教には、永続性に目を向けるなんてのは困難な話であった。実際に最も公的であったポリスについて考えてみてば、自分が持つあるもの(節の名声となる考え)や他者と共有しているあるもの(共同体)を、地上における自分の生命の存続よりも永続させようと望んでいた。不死への追及が消えるということは、「観照」「仕事」「活動」の消失を示す。


アリストテレスはこの危険性を既に指摘していた。「人間事象を考える時・・・人間をあるがままについて考えてはならず、死すべきもののうちで特に試すべきものと考えてはならない。それが不死化する可能性を持つ限りにおいてのみそれについて考えよ」一方、アダムスミスは、ポリスの不死への活動を、公的名声のための活動と置き換えた。公的賞賛も金銭報酬も消費されるものであり、食欲同様、空虚さが生み出す欲に駆り立てられた活動だとした。世界共通のリアリティを保証するのは、「共通の本性・欲」による共感ではなく、多様な人の多様な視点による関わりである。この意味では、生命過程縛られている「食欲」は共通であるが、リアリティではない。最も豊かで満足すべき家庭を大きくすることは同じ視点の人々を増やすこと、同じ立場の拡大に過ぎない。これは本来公的領域に大きな影響を与える行動ではあり得ないのである。(が、現代は経団連などが自民党に票を集めるなどをしているわけで、これは政治から政治的領域が消え社会的領域に飲み込まれたことを意味する)さて、このように家族の拡大した、国民国家社会では、多様な立場に見られる機会を失う。これは、根本的には「孤立」出会って、私的(プライベート)である。他人に見聞きされ、他人を見聞きする機会を奪われる。自分の主観的なただ一つの経験に閉じ込められる。活動する他者がいないため、自己を見失う

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?