貴女が「ぴえん」では済まないほど傷ついたとき

1.善意の空回りはなぜ起こるのか?
今夜は、彼氏のことで悩んでいる、とある女性の友人に向かってこの文章を書いている。書いているが、とても今日だけでは書き終わりそうにないことは、先に言い訳させてもらう。何本かの記事になる。

僕はその友人の彼氏のことを、直接は知らない。その友人から聞く、彼氏に関する悩みだけを聞いている。とてもセンシティブなことなので、僕も深く聞いたり、助言みたいなことをしたことはないが、僕なりに気にかけている。だからこうして僕が彼女のために文章を書いても、それは善意の空回りかもしれない。善意の空回り?そう、あなたがせっかく与えても、なぜ大切なあの人は喜んでくれないのか。私はこんなにも嫌がることばかり、彼は言ってくるのか。矢印は逆だが、どちらにも与える側に善意があり、それが与えられる側に伝わらず、空回りしている。
アンパンマンが劇中で「僕の顔をお食べ」と差し出すと、それは必ず喜ばれる。アンパンマンの善意は現代の僕らと違って空回りしない。なぜか。アンパンマンと他のキャラクターたちと「空腹」という共通の身体的な基盤があるからだ。だが、現代において空腹ほど分かりやすい共通の基盤ばかりではない。みんな、大切にしていることが各々違う、だから傷つく(大切なものを蔑ろにされる)と感じるきっかけも様々で、僕らはそうと知らず、善意の行動で人を傷つけてしまう。多様性とは、人それぞれに「傷」を抱えていることをいう。言い換えれば、多様性とは、一人ひとりの「大切にしているもの」が異なるということ。だから自分の尺度を相手に当てはめても、自分と相手では大切にしているものが違うから、あなたの善意は空回りする。

2.ケア、利他、傷について
その友達と彼氏のケースに話を戻す。その彼氏はきっと、彼女も知らない傷を抱えている。その傷に触れると、彼はとても過敏に反応してしまう。しかし、彼もその傷には自覚的ではないか、自覚することを怖がっている。だから何度も、その傷に彼女との関係の中で触れてしまう。アンパンマンと違って、大切にしているものがそれぞれ違うときにどうすれば善意は空回りしないのか?それは、他者の大切にしているものを共に大切にしようという、「ケア」を人間関係で重視することだ。善意の空回りとは、「ケア」するつもりが相手を傷つけてしまう、つまり相手の大切にしているものを見誤ったときに起こる。

次に、利他とは何か?利他とは、自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること。例えば、付き合っている彼女がディズニー好きで、彼氏の方はそうでもないけど、週末にディズニーデートに付き合う、これは小さいながら利他的な行動でしょう。しかしこれが、彼女を大切にしているアピールであったり、別の女の子とデートした罪悪感からしょうがなくディズニーデートに付き合っていたら、この行為には自己欺瞞(本当は自分のためなのに、彼女には利他的なフリをしている)があり、利他的ではありません。利他とは、自分の利益から離れて、困っている他者を救う行為なのです。でも、相手の「大切にしているもの」が分からないから、困っている他者を助けるつもりが、「ありがた迷惑」になってしまう。話が最初の「善意の空回り」に戻ってきました。確かに、他者の大切にしているものは目に見えないから、それを共に大切にする行為は難しい。でも、大切にしているものが大切にされなかったことは、目に見えます。それまでは明るく話していた彼が、急に怒り出す。いわゆるその相手の地雷を踏んだ、傷に触れてしまった。ここで、傷を改めて定義する。「傷とは、大切にしているものを大切にされなかったときに起こる心の動きおよびその記憶。そして、大切にしているものを大切にできなかったときの心の動き及びその記憶。」貴女が誰かに優しくしたいと思うのは、かつて貴女が誰かの言動で傷ついた記憶があるから。こうして、貴女の傷の記憶は、その後のケアや利他に繋がっていく。そしてケアには、偽善が存在しない。なぜなら、偽善とは自分の利益を出発点として始まる行為だから。「貴女のためを思って、心を鬼にして言うけど」は全て偽善です。なぜならそれは、貴女のことを本当に大切に思っているのではなく、「僕にとって都合の良い人になってもらいたい」という本音が、その偽善に隠されています。

ここまで、大切なものが失われて人は傷つくこと、そして傷つくことで、他者が大切にしているものを共に大切にする、ケアに至るところまで辿り着きました。しかし、それでも私たちはケアに失敗する。他者の大切にしているものを誤解する。それは、他者が大切にしているものがその他者の心の中に「すでに」存在しているから、喜び、怒りの振る舞いが起こる。他者の心はその他者の中に隠されていて、私たちは知ることができない。しかし、そうではない。哲学者のウィトゲンシュタインによれば、振る舞いよりも先行して心が確固たる実態として存在しているわけではない。

明日は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念を軸に、どうすれば心を知り、相手をケアできるようになるのか、いま、戸惑い、怒り、もしくは悲哀を感じているかもしれない(案外そんなことは無く、平気なのかもしれない)その友人のために、引き続き傷を抱えているその彼氏との関係性を考えるためのきっかけになればと思い書きます。

おやすみなさい。

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