貴女が「ぴえん」では済まないほど傷ついたときに(3)

この記事は、前の記事(2)の続編になります。

【前回のまとめ】
恋愛を、ウィトゲンシュタインの言語ゲームという比喩を通じて、一つの劇と考えたときに、心は既知の劇から未知の劇へと変わる瞬間に顕れるもので、その未知の劇で心が傷ついてしまった貴女にはケアが必要だ、というところで終わりました。今回は、そのケアにいかにして辿り着くのか、まずは映画を例にして考えたいと思います。

5.ハリーポッターからケアを探る
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」という映画をご覧になったことはあるでしょうか。
この映画で、ハリーがディメンターという、人間の幸福を餌にする生物に「守護霊の呪文(エクスペクトパトローナム)」を使うも歯が立たず、倒れる。すると遠くから強力な「守護霊の呪文」が放たれ、ディメンターは追い払われ、ハリーは救われる。ハリーは気絶する直前にその人影を見て自分の父親だと思うが、気を失ってしまい真相に辿り着かない。ハリーが目を覚ますと、シリウスという自分の父親の親友が監禁され、死刑より酷い「ディメンターの接吻」を施される危機にあった。そこでハリーは魔法道具によってシリウスが捕まる前へタイムトラベルを行い、シリウスの救出に向かう。その過程でハリーは、シリウスたちに襲いかかったディメンターを「守護霊の呪文」で追い払った際に、意図せず遠くにいる過去のハリーも救う。そうして初めて、ハリーが見た「父親のような人影」とは未来のハリー自身だったことを知る。ハリーは、自分を父親だと思っている過去の自分にそのことを気づかれないよう、過去から現在へ戻る。
自分を救ったのは父親と信じている過去のハリー、そしてタイムトラベルで意図せず過去のハリーを救った未来のハリー。ここで、過去のハリーに自分が父親ではなくハリー自身だと気づかれないよう、未来のハリーがケアしている。ケア?ただの誤魔化し、嘘にしか見えない、このハリーの行為がケア?そう、ここに、ケアとは何か、重要な要素がある。
このハリーポッターの物語において、一つの重要な嘘、未来のハリーが過去のハリーに「未来のハリー自身を、父親と勘違いさせたままにする」という嘘。この嘘があるおかげで、ハリーは一度シリウスの救出に失敗し、その後タイムトラベルして父親だと勘違いしている自分自身に会いに行き、「守護霊の呪文」でシリウスの救出に成功し、遡って「あの父親と思っていた人影は実は自分自身(未来のハリー)だった」と知る。未来のハリーの嘘がなければ、この円環が成り立たなくなってしまう。嘘とは、言い換えれば、虚構でつくった真実、物語なのだ。貴女の傷は、物語によって慰められる。
過去のハリーが信じている、「救ってくれた人物は父親である」という劇から、「実は救ってくれた人物は自分自身だった」という劇だったことになる。ケアがなされるとき、その劇は間違いだったはずが、語り直しによって、跳躍した誰かのセリフによって、間違いでなくなる。過去は改変される。僕らはその跳躍をケアと呼ぶことにする。

6.「だったことになる」とは
前章の結末で、「だったことになる」という語り直しを、跳躍を、ケアと呼ぶことにした。この「だったことになる」ことを哲学者のジジェクは「遡及的」という表現で次のように表現している。

「もちろん過去の事物、現実を変えることはできない。変えることができるのは過去のヴァーチャルな次元である。まったくもって〈新しいもの〉が出現するとき、この〈新しいもの〉はそれ自身の可能性、それ自身の原因/諸条件を遡及的に創造する。」

スラヴォイ・ジジェク『事件!』

ここでジジェクは、過去自体は改変できないが、新たな出来事によって過去の捉え方を遡及的に変えることができると言っている。過去のハリーは未来の自分を父親と間違っていたが、そのおかげでシリウスを救うことができた。その間違いを、未来のハリーは正しさに至る必要な間違いと遡及的に捉え直した。
かつての貴女は間違いであったがゆえに、やがて正しかったことになる。
そう、貴女が待っているケアは、この地点で、他者から与えられるというケアの固着したイメージから、他者を救おうとして意図せず自分を自分で救うという、利他の先にあるセルフケアへ辿り着く。
貴女が劇からこぼれ落ちそうになったとき、過去を肯定できないとき、貴女の傷に導かれてケアが起こる。「貴女は何も間違っていない」と、真っ直ぐに貴女に寄り添ってくれる人がいる。
そう、セルフケアとは、自分だけでは完結しない。
他者に導かれて、その出会いをきっかけに起こる貴女自身の過去の改変、物語の語り直しを、僕らはセルフケアと呼ぶ。

7.「叱る」とは何か
ここまで、ウィトゲンシュタインからハリーポッター、ジジェクへと論理だけ駆け抜けて、セルフケアに辿り着いたと言われたって、結局、どうしたらいいんだろうと途方に暮れるかもしれない。
そこで、この最終章では、「友情は続くのに恋愛は続かない」「友情では生じない衝突が、恋愛では生じてしまう」という悩みに戻すが、その前に、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの復習、そして「叱る」という行為の分析で、これまでの彼との関係を僕なりの推測を踏まえて整理したい。それから、友情と恋愛の問題に戻っていく。

まずは、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの復習から。恋愛を言語ゲームと捉えると、それはチェスのようなルールが決まったゲームと異なり、付き合ったり別れたりして、恋愛のルールが遡及的に作られていく。そして恋愛には全員に共通したルールブックが無いため、貴女と彼の恋愛のルールが異なり、その言語ゲーム(劇)が上手くいかなくなることを示した。例えば、貴女が夜遅くまで異性と遊んでいることを貴女のルールでは「単に友達と遊んでいる」のだが、彼のルールでは「浮気」である、云々。
彼が考えている恋愛の劇(言語ゲーム)では、恋人役の貴女は異性の友人と夜遅くまで遊ぶなどという間違った演技はしてはならない。だから彼は叱る、貴女は間違っていると。
ここで、「叱る」という行為について重要な指摘を引用したい。

「叱る」という行為は、叱る側が求める「あるべき姿」や「してほしいこと」を実現するための手段です。

村中直人『〈叱る〉依存がとまらない』

叱るという行為は、相手に寄り添う「ケア」とは反対に、相手を「叱る」私の欲望が潜んでいる、という指摘だ。更に、村中は同著で「叱る」をこのように定義している。

言葉を用いてネガティブな感情体験を与えることで、相手の行動や認知に変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為。

村中直人 同著

ここで、「ケア」と「叱る」は全く逆方向の、他者への関わり方であると分かる。ケアとは、「貴女は何も間違っていない」と示す行為、叱るとは、「貴女は間違っている(だから今、私はしょうがなく貴女を正すため叱っている)」と示す行為だ。
ケアは、相手に寄り添う利他から出発するが、叱るという行為は、相手を管理、コントロールしたいという自分の欲求から出発する。
更に、叱るという行為の病理は、叱ることで貴女を導く、という貴女と彼の間に権力の非対称性を作り出せる点にある。再び、村中の同著を引用する。

権力とは何か、を一言で言うならば「状況を定義する権利」であるとする考え方が、私には最もしっくりきます。具体的に言うと、その状況において何が良い/悪いとされるのか、どんな行為が求められ/禁止されるのかを決める権限を持っている、決めることが許される立場にいるということです。

村中直人 同著

おそらくその彼は、「叱る」という行為で、恋愛という劇を設定する側、権力の側に立ち、貴女のセリフを、服装を、役割を規定しようとしてきた。しかし、それは僕らが目指すケアからは遠い。ハリーポッターとジジェクを通して、僕らはすでに間違っていたということに自分で気づき、その間違いゆえに他者と関わる中で正しさを知り、過去の間違いを改変する、遡及的なセルフケアへの道を知っている。だから、叱る彼の何が間違っているか、正確に分かる。彼は、貴女との関わりで「貴女を傷つけている僕が間違っているかもしれない」という気づきから、貴女をケアするという利他に開かれていない。「叱る」せいで貴女との劇がうまく続かないことに気づいていない。

では、もし彼との恋愛という劇が終わってしまったとき、傷ついたまま、訳も分からず終わったときに、どのような一歩目を踏み出すのか。

8.新しい劇はきっと始まる
ここまでは、僕なりに整然と(貴女からは錯綜しているのかもしれない)ロジックを並べてきた。しかし、貴女がどのようにその傷を癒し、癒され、回復していくのかは、僕にも分からない。もしここで僕が「貴女はこうすれば回復する」と回復への劇の筋書きを設定できたら、それは貴女を叱った、貴女を自分の劇にはめ込んで叱った彼と何も変わらない。それでも、何かきっかけになりそうな言葉はある。

「回復する」とは、前の状態とは違う形の生き方を手に入れられるようになることです。病気を通り抜けることによって、自分のライフスタイルが変化し、さらには自分が変化するということです。

松本卓也『心の病気ってなんだろう?』

誰かの傷を見て、貴女は自分の傷を思い出す。その相手をケアしようとする中で、思いがけないセルフケアが起きて、貴女は自己変容する。だからセルフケアは、回復は計画できない。そもそも、計画できないということがセルフケアの意味に含まれている。そう、ハリーがシリウスを救出しようとして「思いがけず」守護霊の呪文を使えたように。
僕は恋愛や友情という劇でも同じことではないかと思う。それは計画していたから実現するものではない。いても立ってもいられず相手をケアしていたら、それが恋愛や友情だったと遡及的に気づく。恋愛しようとしてマッチングアプリに登録することの歪さはここにある。恋愛や友情とは、恋愛する相手や友達に必要な条件がもともと貴女の心にプログラムされていて、そのプログラム通りに条件を絞れば、理想の相手が抽出される、というものではない。見つけたときに初めて、それが恋愛や友情だったと振り返って気づく。だから繰り返しになるが、僕は貴女のセルフケアへの筋書きは計画できない。貴女が回復して、変化したときに初めて、それが恋や友情だったと、周りにいる人たちを見て気づく(それは人でさえなく、イグアナかもしれない)。そこでは、それが恋なのか友情なのかという差異は問題にならない。そもそも、何が恋愛で何が友情なのか、決まった劇やルールがあるわけではない。貴女がこれから始める新しい劇を、遡及的に恋と呼んだり友情と呼んだり、若しくは題名を決めない自由さえ、貴女にはある。外野は外野で劇をやっているのであって、それは貴女の劇とは関係がない。恋愛や友情のこうあるべきという規範、ルールの書き換え。規範を超えた貴女なりの「倫理」で、劇を書き換える自由が、既に貴女にはある。そして、その新しい劇を夢中になって踊り続けられる人がきっといるはずです。その劇の題名さえ気にならないくらい、夢中になる人が。次が最後の言葉です。長い文章になりましたが、読んでくれた方々、ありがとうございました。貴女たちの新しい劇が上手く続くことを願って。

「でも踊るしかないんだよ」と羊男は続けた。「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(上)』

参考文献 近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学』

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