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おんがくをかくかくをかく拾〜あるよ?〜

なぜうたうのか
は、前述したので割愛。
もちろん 他にも理由はあるが、ナルシスティックなつまり自己満足だし、いい歌の解釈など人それぞれであるが故に 私個人の入れ物を超えない。溢れたら垂れ流す、簡単に言えばそういうことだ。

では
なぜ書くのか。

それならうたと同じだ。

ただひとつ違うところがある。

納得をするため。私が私に。

過去をああだった、こうだった、と記したところで  へーそうですか、という棒読みの言葉が出るであろうことは、自分に置き換えても変わらない。私もそう考えるだろう。

他人の日常を、ましてや人生を
聞いたところで それは己に近いなにか が無ければ、ひらかない。
発するほうもそうだ。

かたく閉じたドアの前までご丁寧に招いておきながら、
でもごめんね、このドア開けたくないの なんて
おそらく現実と良く良く似ている。
私は、臆病だから。
カッコつけだから。
決めかねるから。
でも覗いてもらうくらいなら希望するし
覗くくらいならいいんじゃないかい?
で、ほら 自分には甘いのだ。
はあやれやれまったく、あたしゃ身勝手よのう。

それもだ、それも含めて納得がしたい。
私が私に。

もう縁遠くならざるを得なかった身内が
昔私に訊いたのですよ

『あんたは書いてなにかになりたいの?』
と。

それはそれは真っ直ぐには届かず、ああん、嫌味かね?
としか思わなかったけど

『いやべつに
ナニモノかになるんじゃなくて、
ワタシのナニカがダレカのナニカになったらいいじゃん、くらいよ こんなん』

と答えた。顔を向けずに。

結論、ワタシのため がメインじゃん、という事なんか私が一番知ってますがな。
構成や切り口、芸術的な行間とかさ、ないよ?
というか私は要らないよ?
私が私の書いたものに動かなかったら、テクニック云々じゃないからね。
逆を言えば
私は私にこころ動かされ続けたいんだよ。
だから私を超えた誰か の生み出したものにも
動かされたりできていくんだって。
そうしたいんだって。

私は私にまず納得したいんだ。
それがクソみたいな人間な私でも
やだステキな私でも。

自分のうたに泣いて歌えないことも、
自分の言葉に腹が立つことも、
自分の文章に しゃあない、立ち上がるか

ってことだって

あるよ?

でなきゃ書かない。うん。  

こんな文章の日はこれだな、

竹原ピストル
『ただ己が影を真似て』

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