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記録としての

私はずっと思考している。考えすぎている葦だと思う。思考度をコンター図で視覚化できるとすれば、私の脳は真っ赤だと思う。他人がどのくらい思考しているかなんて知る由もないけど。

小説を読むと、読み終わった数時間、ものによっては数日はその小説の世界に居座ってしまう。私の動作に合わせて、頭の中で小説内の語り口調をまねたナレーションが流れる。映像よりも文章の方が生々しくて、引き込む力が強いと思う。

小学校で配られた1枚のプリント。野原の絵が描いてあり、「この絵を見て物語を考えましょう」といった内容の宿題だったと思う。
私は、1匹の兎が野原に穴を掘り、穴の中を進んでいく中でモグラ帝国を発見するというような冒険譚を書いた。プリントの規定の枠には収まりきらず、裏にもびっしりと書いた。翌日の帰りの会、先生はクラス全員の前で私の物語を発表し、たくさん褒めてくれた。少し恥ずかしかったけど、嬉しかった。

昔からほんのり頭の片隅にある小説を書きたいと言う気持ち、それが最大となった時のために、これまで日常生活で頭に浮かんだ言葉をメモしてきた。絶え間なく思考している中で、溶けて消えなかった砂糖の結晶のような言葉。(そんないいものでは無いが)例として次のようなものがある。

意味がわからない。
こんな短文ではこれを書いた当時の思考は思い出せないし、この時の世界へは引き込まれない。

iPhoneのメモアプリにはこのような思いつくままの言葉がぐちゃぐちゃに羅列されているが、時間が1方向であるという物理法則が崩れない限り、それらを書いた当時にはもう戻れない。
せめて、これから脳内で生成される砂糖の結晶はちゃんとその時の世界に引き込んでくれるように、noteに書くことにした。(飽きるまではね)

砂糖の結晶が頭の中にあるって思ったら頭の中がジャリジャリしてきちゃった。
というか、溶けて消えなかった砂糖の結晶が存在するって、既に脳内が砂糖で飽和状態ってことだよね。甘そう。糖脳病。
みんな大人になっていく中で私だけ厨二病。でもみんなそうだよね、
ただ文を書くのにわざわざ理由をしたためてるの、可愛いでしょ。寝言みたいなもんだよ。

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