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巨人の肩に立つ

 コメントで、「達観していますね」という言葉をいただいたことが、何回かある。すごくありがたいことなのだが、自分としては、「それは本来の自分とはかけ離れている」と思わざるを得ない。読者のみなさんは、普段の僕の生活の一部始終を知らない。

 文章以外の自分は、ものすごくおっちょこちょいだ。「抜けてる」だの「天然」だの「変わっている」だのと、周りから言われる。起こした行動が周りの人に理解されないことも、ままある。いわば、よくツッコまれる日常を送っている。はたしてこれは、達観していると言っていいのだろうか。天然と達観って、共存し得るものなのだろうか。達観している人に、変わった人というイメージは、僕にはない。

 そもそも、文章のどういった部分から、「達観している」と思っていただいたのだろうか。含蓄のある文章を書けていないだろうし、考えが独創性に富んでいるわけでもない。ありきたりでありふれた考えを、日記みたいに、もしくはエッセイ調で書いているだけだ。普通のことを、普通の文章で書いているだけなのだ。


 心当たりがあるとすれば、読書をよくしていたことだろうか。べつに、読書をよくするからって、偉いわけでもないし、頭がよくなるというわけでもないが。この読書習慣は、大学1年生のころからずっと続いている。高校生のころも、ぼちぼちやっていたっけ。いろんなジャンルの本を、興味のおもむくまま手当たり次第読んだ。ノンフィクションだと、歴史、心理学、哲学、経済学、生物学、大学の勉強も合わせると物理学や数学といった、様々な分野を行ったり来たりした。

 フィクションについても、初めは苦手意識があったが、今は慣れてきて、海外の小説も読んでいる。ノンフィクションとフィクションの本どちらにも言えることだが、これらの本を読んでいると、「自分はこれまで狭い世界しか見えてなかったんだな」と思わされる。自分が信じて疑わなかったことが、実はそうとは言い切れないという事実を、突きつけられる。いろんな視点を持つうちに、物事を断定することがこわくなる。小説なんかが特にそうだが、いろんな登場人物の視点に立たされ、解釈は読者に委ねられるので、何が正解で何が間違っているかなんて、簡単には判断できない。読み終わった後も、モヤモヤ感が残る。最近、カミュの『異邦人』を読んだのだが、それはまさにそんな作品だった。

 

 そんな体験を繰り返していくうちに、「この世界はものすごく複雑なんだな」と、月並みな表現だけど、そう思うようになる。新しいことを知るたびに、さらに、わからないことが出てくる。

 それは文章にもたぶん表れていて、僕はよく「〜思う」とか「〜と感じる」とか「〜かもしれない」とか「〜だろう」といったように、断定口調の表現を避けていることが多い。ある文章術の本では、書き手は自信を持っている方がいいので、迷ったら断定口調にしたほうがいいと書かれてあった。たしかに、読み手側としては、書き手にグイグイ引っ張ってほしいと感じるに違いない。書き手に迷いがあったら、「これ、信じて大丈夫かな?」と、不安に思われてしまう。だけど、僕はそのアドバイスを無視して、言葉をよく濁している。言い切るのがこわくてできない。本当に確かなことなんて、あまりないんじゃないかと思っているから。

 

 ニュートンは、「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです」という言葉を残しているが、僕はこのたとえが好きだ。論文を検索する時に使うグーグルスカラーにも、この言葉が書かれている。先人たちが人生をかけて残していったものを学び、それを土台として、より遠くの世界を見ようとする姿勢。その際、見たくなかったものも見えたり、知って逆にこわくなったりすることもある。巨人の肩に乗ったら思ったより高くて、「きゃあ、こわい」という、高所恐怖症ではもちろんない。あとそれに、文章を書いて何かを発信することが、こわくなったりもする。

 もしかしたら、それらがある読者に伝わって、「達観している」という感想を持たれたのかもしれない。最初にも言った通り、本当の僕はおっちょこちょいで、全く達観していないのだけれど。達観どころか、抜けている。知らないことも、たくさんありすぎるのだ。


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