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ホームグラウンド誕生 昔話04

 モーちゃんの家から東に50メートルくらいのところに公園がある。グーグルアースで見ると長方形で大きさは東西70メートル南北に60メートル。
 公園は一面草(芝生と言うには種類が多く、丈も長い)に覆われていた。南東角に砂場があり、対角に滑り台。ブランコは西側、隣にシーソーがある。砂遊びは好きだが、砂場はやや遠くて草に埋もれていたのでほぼ遊んだ記憶がない。モーちゃんの家から一番近いブランコには友達や母さん、妹とよく乗った。当然、隣のシーソーにも手を伸ばすが、これがとっても危険。上になった時に相手がシーソーを降り、シーソー落下で尻が痛いなんてことが時々あった。だから相手の考えがわからないときは恐怖でしかない。逆に自分がコントロールできる年下相手の時なんかはとっても気楽だった。ちょっと強く着地して自分や相手の尻が上でジャンプするのを楽しんでいた。
 その公園での最古の思い出は、友達と砂場やブランコを走って渡り歩いたこと。モーちゃんは常にみんなの後を追いかける。どんくさい自分を嘆きながらも、どこかで諦めながら走っていた。ここから自分の足の速さには期待しないことにするようになってしまった。多分4歳くらい。
 そして、そこからもう少し大きくなった頃。一緒に遊んでいた中の一人が、滑り台の上で手すりをまたいで、真ん中の柱を消防士のようにするすると降りた。すると別な友達もするする降りた。どんくさいという自覚のあるモーちゃんは、他人事のように見ていたが、見ているうちにできそうな気になり、なんとなく最後自分の番という感じになったのでやってみた。すると棒に移るときに台の床の部分に顔をぶつけた。痛かったけど、するすると降りることができた。得意顔のモーちゃんを見て友達は驚いた。鼻をぶつけたようで鼻血が出ていたのだ。友達は「血だ~」とか「気持ちわり~」とか言って皆公園から逃げていった。一人残されたモーちゃんは袖で鼻血をふきながら家に帰った。冷たい友達を悲しんだ上に、己のどんくささを嘆いた。
 その直後くらいに公園の大改修が行われた。草むらはすべて火山灰で覆われた。滑り台や砂場などは移動された。砂場はやや高くなって、土管にペンキを塗った島のようなものも作られた。新しい遊具もいくつか加わった。ところどころにコンクリートのベンチも設置され、木も植えられた。周囲はUの字を逆にしたプラスチックのパイプで柵が作られた。みんなのすてきな公園が出現した。
 中でもモーちゃんにとっての最大の喜びは野球場ができたこと。南東角にバックネット、そこからレフト側50メートル、ライト側40メートルの広さで約2メートルのフェンスに囲われた長方形の球場が誕生したのだ。
 それから土日になると球場は小学生からおじさんまで、野球少年(?)であふれるようになった。そのうち中学生のお兄さんたちがどこからか土を持ってきてマウンドを作った。さらにベースには中通りの下水道工事で使われている小さめの土管の蓋がはめられた。益々球場らしくなってモーちゃんはうれしくなったが、ベースはすぐになくなって蓋をはめた穴がしばらく残っていた。大人も遊んでいたので、きっとこれは何らかの正しい力が働いて戻したものと勝手に考えている。自作のマウンドもすぐに平らになっていった。
 それでも自分たちのホームグラウンドができたことがうれしかった。
 モーちゃんも含めて球場には自然と3塁側から人が集まるようになったので、いつも3塁側のベンチがにぎわっていて、1塁側のベンチはずっときれいなままだった。
 コンクリートのベンチはいつも、火山灰の地面に転がっている軽石で点数が書かれるスコアボードになっていた。ここで小学生からおじさんまでみんなが一緒になって野球をした。
 また遊具も充実して砂場はいつもたくさん集まっていたし、妹なんかは雲梯に凝って手のマメの上にマメを重ねながら毎日毎日遊んでいた。
 モーちゃんは砂場でショベルカーのように穴を掘って基地を作り、妹と雲梯をし、鉄棒をぐるぐる回る女子を横目に自転車を乗り回したりしていた。小学2年生以降はフェンスの内側で野球ばっかりだった。
 とにかく子供が多かった。モーちゃんの家の北東側の表通りの十字路が4つの小学校の校区に分けていた。だから、公園に行くと4つの小学校の子供がまじりあって遊んでいた。友達もたくさんできたけど、トラブルも日常茶飯事だった。
 しかも年代もばらばらで、力関係も集まったメンバーによってころころ変わる。なかなかの社会勉強ができた。辛い時もあれば爽快な逆転現象が起きることもあった。この話は後程。

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