13年目の『虐殺器官』を空前絶後のホラ吹きいいわけ小説として読む


小説を読解する(させる)責任

先日、元プロ野球選手であるイチロー氏の言っていたことが、ずっと頭の中でこだましている。若者を実力以上の状態に引っ張り上げる、頑張らせる機会をあげなきゃ、という趣旨(かなりざっくりまとめてます)の提言で、まさにそれだよな、と。聞こえのいい「個人の自由」とか、その実態が嫌われないための方便であるなら、それが若者のためになどなるわけがない。読書の世界でも同じようなことが起きてないかな、これ。

というのも、「虐殺器官」「虐殺器官 小説」で検索をかけると、(映画の感想も含め)さすがにちょっとなあと思うような感想ばかりが、上位に来るからだ。
小説を読者それぞれの自由に読むことがどこまでも許されてしまうとき、明らかにミスリードされた文脈の感想も正当な読解として許されることになるのだが、これは作品にとってずいぶん危うい環境なんじゃないか。最高クラスの思弁的小説が、単なるエンタメ軍事小説として売られるようになる事態も、なんだかありえそうに思えてくる。

読者は作者の苦労に見合うよう、死力を尽くすべきだと個人的には考える。独力では無理そうなら、せめて誰かの力を借りる努力をしたらいい。せっかくインターネットが充実した世の中なんだから、積極的に検索しようぜっていうこれは勧めなんだけど、しかし情報が埋もれやすい時代にあって、何の手がかりもなしでやれというのも、ずいぶん酷なことかもしれない。というわけで、以下は手引きみたいなものとして記しておく。作家の構想を少しでも理解するための一助となれば幸い。

これは「嘘」です

『虐殺器官』は「嘘」で出来ている。「虐殺器官 嘘」で検索をかけると上位に出てくるmixiユーザの日記に、この作品を読み解くために必要な要点(作者である伊藤計劃や、名うての作家による応答)がまとめてあって、もういいからこんなnote記事閉じて、それをとにかく読めって感じなんだけど、ここで伊藤計劃はこの作品には大嘘がある、と裏読みの存在を示唆(ていうかほぼ明言)している。

この小説を「主人公がアメリカへ犠牲を強いて世界を救う復讐劇」と読むのはさすがにアウトで、やはりそこには作者が用意周到に隠した、裏読み用レイヤーがあるものとして読むのがいい。
mixi日記にまとめられている稲葉振一郎氏の発言「自己欺瞞と韜晦」はまさにキーワードと呼ぶにふさわしく、芯を食った表現だと思う。この観点を持つだけで、クラヴィスというキャラクタのヤバさがよく見えるようになってくる。

読解する作家らの見解に応答する伊藤計劃も、かなりネタバレっぽいレベルで語っているが、ようするに伊藤計劃が言う「クラヴィスによる発言上の嘘」のみならず、地の文にいたるまでの独白ぜんぶに(断片的か、世界認識そのものの仕方に)嘘が紛れている、あるいは誰かのマネや何かのフリ(映画や小説やゴシップ紙などからサンプリングした細切れ情報の繋ぎ合わせで構成された、似非知識人のロール)をしているだけという、この方面の読解を推し進めていくと、この小説はどんどんヤバさを増す。

これ、じつはウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』にこそ似てないか。というのが現状におけるぼくの結論。現代的な似非教養人的振る舞い(今なら解説系YouTuberのような)に調整されたハンバート・ハンバート=クラヴィス・シェパード説。

視線は何だったのか

クラヴィスが母親のもの、として感じていた「視線」。母親の死後、届けられた母親のライフログには、「子供の頃の実感を裏切るかのように」(p.393)クラヴィスの姿などなかった。ここでクラヴィスを見つめていた視線は、母親のものではなかったと明言される。

ではその視線は誰のものか。この疑問は、そもそもこの物語が、どこでどの時点で誰に向けて語られているのか、という疑問点とリンクするかもしれない。語る者と語られる者がどこかの時空に仮置きされる、物語が語られうるというそのことの自己欺瞞性、韜晦性。

いまここで経験されるこの世界は、ぼくが生きていくのに必要な「嘘」や「いいわけ」で満たされている、とこれは少し強引にではあるけれど、そのように言及してみる。

なぜそう言えるのかといえば、ぼくがこうだからだ。常にいいわけをしているし、それに自ら進んで騙されようとしているし、実際に騙されてもいる。自意識というものは、往々にしてこのようなものなのではないか。まあこれも究極的には検証不可能な仮説に過ぎないが。

物語の隅々に至るまで薄っぺらく貼り付いた嘘は、おそらく誰の脳にも張り付いているものであり、その意味で読者自身の物語でもありうる。この小説は極めて特異な状況を書いているものでありながら、同時に人類である限り避けられない普遍性を有す。めったにない傑作である所以。

視線は何だったのか2(3月5日追記)

言おうとしていることが少し洗練できたので、以下に追記する。

幼少期、母の視線を感じていたクラヴィスだが、母のライフグラフには自分の記述がほぼなかった。「無関心の事物は記述されない」という図式、これを中枢神経、秘密の点とするナボコフ『ロリータ』と同様の図式と仮定。この告白小説も、記述者クラヴィスの都合に合わせて書かれた(書かれざるを得なかった)カバーストーリーであることが導かれる。

記述者の視線には、究極的には人間を人間とみないことさえできる残酷さがあり、それが他者にみられる被視者としての私を戦慄させる。これを物語のレベルで言えば、クラヴィスが他者へ向ける視線の残酷さが母親の視線となって反転する、互いを狙い合い、目が合う狙撃手のイメージとなる。

幼少期のあるとき、母親と視線が合った瞬間に感じたとされるこの同質性は、クラヴィスを怖れさせたことの根幹なのかもしれない。自分の非人間性に直面させられることへの拒絶、あるいは自分にはまったく御しがたく思われた、最初の圧倒的他者である母親へ向けた失望を忌避する感情。


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