あがあぜる

かりそめのなまえです。

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最近の記事

空木春宵『感応グラン=ギニョル』感想

何らかの欠損や資格を指摘するとき言外に想定される、「満足な身体」を標準とする規範性の浮き上がらせ方が多彩だ。疎外される者もまた、疎外する者に変身してしまうし、非難するその者の視界には、必ずや欠けが生じている。以下、各短篇についての、脱線しがちで未整理な感想。 感応グラン=ギニョル 奇形あるいは欠損した身体を持つ少女による劇が衆目を集める、浅草グラン=ギニョル。鼻のない娘、体じゅうに瑕が刻まれた娘などなど、世間的には怪奇と判じられる見た目の者らが集うなか、その新入りの娘は、

    • アダニーヤ・シブリー/山本薫訳『とるに足りない細部』沈黙の身体へ憑依する情緒、だが遠さはかえって遠く

      当記事は個人ブログへ投稿した記事(10月2日)の転載です。 読了直後の感想(Xへのポスト再掲) 将校の視認する光景描写の事細かであるが為、被害少女を捉える視線の貧弱さが無視できなくなる。偏りのある詳細、停止状態などではない思惟は、不都合な細部を抹消する、しかし「その存在をひそかに示す小さなディテール」は、逆転した彩度で事物を表す。 現在のイスラエルとパレスチナを覆う緊張は、第二部の語り手の肉体を通じ克明に描かれる。作家の筆致は静謐に、かの地でただ生きることの困難と悲劇を

      • 岡本健・山野弘樹・吉川慧編著『VTuber学』感想、思索まとめ

        以下、岡本健・山野弘樹・吉川慧編著『VTuber学』を読み、それぞれの章について得た感想や思索内容をXにてポストしたものへ、若干の加筆修正(というかほんとに微調整)を加えたもののまとめ記事です。ただし第13章だけは論理的にあまりな出来だったため、かなり加筆修正しました。本当に理論化が苦手。 感想パートは気になる要素を抜き書きにしており、基本的に読了者が読むものとの想定。各コラムについての言及は今のところほぼないけれど、思うところはあるので、後日追記するかもしれません。 本

        • 間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』感想(ネタバレ感想、考察等が追記されてます)

          生きづらいのになぜこれほどつらいのかが分からない、そんなどこかの「わたし」に、生きていくための呼吸の仕方を「思い出させて」くれる小説、そういうものであるかもしれない。これは。 ざっくりとあらすじ的な 裕福ではあるものの特異な家庭環境にあって生きづらさを抱え、20代前半にしていったんは安楽死を望みながらも受け入れられず、その代わり受けた「ゆう合手じゅつ」により永遠に老いない身体を手に入れた「わたし」が、あらゆるしがらみから遠く離れた101年後に視座を得て、父の勧めであった不

        空木春宵『感応グラン=ギニョル』感想

        • アダニーヤ・シブリー/山本薫訳『とるに足りない細部』沈黙の身体へ憑依する情緒、だが遠さはかえって遠く

        • 岡本健・山野弘樹・吉川慧編著『VTuber学』感想、思索まとめ

        • 間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』感想(ネタバレ感想、考察等が追記されてます)

          廣田龍平『〈怪奇的で不思議なもの〉の人類学』読了メモ

          Xに投稿したポストのまとめおよび加筆修正版、自分用読書メモです。他愛ない感想と思い付きの痕跡。 12/30 『〈怪奇的で不思議なもの〉の人類学』読み始め。以後の大前提となる(だろう)定義分類のところでかなり手間取ったし、なんなら理解半分(それ以下?)のまま通り抜けたけど、それでもわりと読めそうな感触。妖怪が都会へ移籍し空き地となった田舎へ異界概念がオーバーラップしてきた、など思索。 商業の力が異界を飛び地化させる。たとえば最近のホラーハウス等イベントは、都会に怪異妖怪を居

          廣田龍平『〈怪奇的で不思議なもの〉の人類学』読了メモ

          朱喜哲『〈公正〉を乗りこなす』読了メモ

          Xにポストした記事のまとめ、自分用メモです。そのうち加筆修正もあるかも、ないかも。 朱喜哲『〈公正〉を乗りこなす』読了、とてもよかった。最後の議論、構造悪玉論的言及や、「ミクロよりマクロを分析しコントロールしなければならない」かのように価値を階層化することは、全ての存在の背後にあり支配的価値を自己主張する「真理の追求」っぽくなりそうな。 「個人ではなく構造」と明確に他責化させず、ここはカチッとした二分法を捨て、準主体・準客体のようなふんわり概念でゆるっと和らげたい感じ。ま

          朱喜哲『〈公正〉を乗りこなす』読了メモ

          感想文を書く、書くことをいかに増やすか

          これはあくまで独学を基礎とした自己流のことで、汎用性がどれほどあるかはわからないけれど、それでも誰かの参考になることが少しでもあればと、ぼくがいかにして書く文章の量を増やしたか、どのような手順を経て「書く」ことを実行し成立させているかを、以下にまとめてみました。 テクニックは手の中にあれば使うも使わないも自由、しかしそれがあることを知らなければ使えないのだから、それが極めて個人的な感性や能力に依存した技術論や方法論であったとしても、見知らぬ誰かに向けて発信する意義はありそう

          感想文を書く、書くことをいかに増やすか

          13年目の『虐殺器官』を空前絶後のホラ吹きいいわけ小説として読む

          小説を読解する(させる)責任 先日、元プロ野球選手であるイチロー氏の言っていたことが、ずっと頭の中でこだましている。若者を実力以上の状態に引っ張り上げる、頑張らせる機会をあげなきゃ、という趣旨(かなりざっくりまとめてます)の提言で、まさにそれだよな、と。聞こえのいい「個人の自由」とか、その実態が嫌われないための方便であるなら、それが若者のためになどなるわけがない。読書の世界でも同じようなことが起きてないかな、これ。 というのも、「虐殺器官」「虐殺器官 小説」で検索をかけ

          13年目の『虐殺器官』を空前絶後のホラ吹きいいわけ小説として読む

          川内有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』感想

          全盲者である白鳥さんの鑑賞態度は、当然だが晴眼者とは異なる。白鳥さんは同行者から絵の要素や印象を聴くことで芸術を味わうのだが、理路整然とした「オフィシャルな解説」はつまならいのだという。 それは、自らが「わからないこと」から何かを発見する猶予を、あるいは明示的な答えではなく問いを誘発するやりとりをこそ欲する態度とみえ、これはアート鑑賞の現場で、そのとき他者間で何が議論されているのかを探索する別種のゲームをするようでもある。そして白鳥さんは、このゲームがめっぽう上手なようだ。

          川内有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』感想