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【切り拓け‼️時代を‼️】とあるアーティストを紹介させて下さい20

彼女は1844年、アメリカ州ピッツバーグで生まれました。両親が裕福だった彼女は、世界各地を巡りながら育てられます。

1861年、画家になる決心をした彼女はフィラデルフィア州のペンシルバニア美術アカデミーに入学しました。
しかし、教育の在り方(女生徒はヌードデッサンを禁じられていた)や、環境(男子生徒は女子生徒を見下していた)に我慢できず、父親の反対を押し切りフランスのパリに渡ります。

しかし更に保守的なパリでは、女性はエコール・デ・ボザール(国立美術学校)への入学すら許されませんでした。

彼女は、画家の指導を受けたりルーブル美術館で模写をするなどして、勉強しました。
応募した絵がサロン(フランスの官設展覧会)に、アメリカ人女性初の入選を果たしたりしましたが1870年、普仏戦争の為、仕方なく帰国しました。

程なく、教会の偉い人から絵画制作の依頼があり再びヨーロッパへ旅立ちました。

1872年、彼女はパリで生活を始め、絵の腕を磨いていきましたが批評家やパリサロンの自分への扱いにうんざりしていました。
ある時、通りを歩いていると美術商の店のウインドウに飾られた一枚の絵に衝撃を受けました。踊り子の絵で有名な画家ドガのパステル画でした。

1874年ドガと初めて会った彼女は、以降精力的に創作に励み、ドガから教えを受けたパステル画の技法他、様々な手法をその手にしました。

ドガとの仕事も精力的にこなす彼女でしたが、ある仕事を気まぐれに反故にされた為、以降ドガとは二度と仕事をする事はありませんでした。

1880年代以降、ドガから影響を受けた印象派の作風に留まらず、独自のスタイルやテーマで次々と作品を生み出していきました。

1890年代も、創作に身を費やし、アドバイスを求め集まる若い画家のロールモデルとなりました。

1910年、彼女は糖尿病、リウマチ、神経痛、白内障を発症します。
1914年以降はほとんど目が見えなくなり筆を折りますが、女性参政権の為の運動を支援します。

1926年、彼女は永眠しました。

彼女の後半生は好んで「母と子供」をテーマに作品を作り続けましたが、生涯独身でした。

ドガとは距離を取っていましたが、生涯に渡って手紙で連絡をとり続けていました。自らの死期が近づくと、彼女はドガの手紙を全て焼却しています。

彼女の名は、メアリー・カサット。時代を切り拓いた女性アーティストです。

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