【憂いを帯びた子どもたち】とあるアーティストを紹介させて下さい15

彼女は1919年、建築技師の父と教師の母の間に生まれました。
小さな頃から絵を描くのが得意でした。

1931年、東京都の女学校に入学。14歳の時に岡田三郎助に師事。絵の勉強を始めます。

女学校卒業後、1939年、彼女が20歳の時、親の勧めで婿養子を迎え結婚。夫の勤務地である満州(今の中国)に渡りますが、彼女が22歳の時、夫の自死により帰国します。

1945年太平洋戦争末期、彼女が26歳の時、空襲で東京の家を焼かれ、長野県松本市に疎開、そこで終戦を迎えます。
翌日から書き始めた戦争への苦悩が綴られた日記、「草穂」が残っており、冒頭には「国破れて山河あり」の題で描かれたスケッチが描かれています。
そこには作家、詩人の宮沢賢治への共感も書き綴られていました。

1946年、27歳の時、日本共産党に入党し上京します。

1948年、29歳、この頃の彼女は、挿絵作家として初めての単行本の出版など旺盛に仕事をします。

1950年、彼女が31歳の時、二度目の結婚をします。

1951年、長男が誕生
しますが経済的事情のため、やむなく息子を長野県松川村の両親に預けます。
息子に会うため片道何時間もかけて、頻繁に松川村に通います。またそこで多くのスケッチを残します。

1962年、自らの作風に悩んでいた彼女は決意し、作品「子ども」を最後に油彩画をやめ、以降は水彩画に専念することとなります。

当時の日本では、絵本といえど、文字が主体であり絵は添え物としての扱いでした。
彼女は、「絵」そのものでストーリーが進んでいく絵本を積極的に制作しました。また、当時ないがしろに扱われていた挿絵としての絵の権利や保護を積極的に訴え続けました。

1973年、54歳、静養のためハワイ旅行。
帰国後「ぽちのきたうみ」そして、最後の作品となった「戦火の中の子どもたち」を描きます。

1974年、闘病生活の末8月8日、肝臓がんの為亡くなりました。55歳でした。

亡くなる2ヶ月前、彼女が最後に描いたのは赤ちゃんの絵でした。

彼女の名前はいわさきちひろ。
色鮮やかな水彩画で、どこか憂いを帯びた子どもたちの絵をたくさん描いたアーティストです。

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