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今日のアウトプット

今、いちばんほしいものは、お膝の軟骨です。

こたつで正座してパソコンをしていると、温かさにお膝をいたわるのを後回しにしてしまいます。

走るの好きなのですが、軟骨足りなくてできなくなってしまいました。

それでも、新聞配達をはじめると決めたとき、それができる分にはお膝の調子が持つようになったので、ありがたいことです。

とんだりはねたり思いっきり体を動かせるのは、好きだったなっとしんみりします。

ひとまず、今はストレッチ。

いつかは、ストレッチできたのも好きだったなとしんみりする日が来るのでしょうね。

そんなことなく、唐突に終わる人生ってパターンもありますね。

どっちがいいのかな。


今日のアウトプット。

あ、・・・

『人に決められたことをするのが嫌』
な感覚と似たもの、
『昨日の自分が決めたことをするのが嫌』
という感覚を今感じました。

そうか・・・

昨日と今日は別の私という捉え方をすればいいのかな。


宣言したことにかぎってその逆を行くのは、この感覚によるのですね。

宣言をあてに取り付く他者や、都合よく変えて宣言したことににする他社からは、責任がどうこう言われますが、それはあてにとりついた人の問題であって、境界をはみ出あうとともに足を引っ張り合うということですね。

自我が希薄で、その責任追及に支配され、もともと希薄な自我も見失ってゆき、そこから出て生きようとあれこれするも、はずれで今にいたる。という、人生の時点ですね。


いちばんしたいこと。

それが、考えても考えても、回り続けるルーレット。

もしかしたら、考えている中にないのかな?という考えも。

でも、ヒントは、否定する人が提案誘導するものの中にはないものなのだろうな。

というのも、引掛けで、そこを選ぶように誘導されているのかなと、もう、わけわかめですね。

最後のが遠からずって感じかな。

クイズをやっているのでしょうか???

😄

神妙に追い詰められたり、何なのでしょうね。

そう考えても、私が好きなことやりたいことに確信を持つという感覚はなく。

その感覚を持っている人はどんな感覚なのでしょうね。


昨日、一昨日は、定まらずどれもしない日となり、
昨年、一昨年も、定まらずどれもしないの年になり。

80年のうちの2年をそう使ったのですね。


どの否定も受け入れ、すべてに禁止と罪悪感と在籍感(?罪責感)がセットになった結果ですね。


自責しなくていい。
ですね。ボチボチ。


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