なんかのハザード つぶやきとともに
フランス料理のメニュー表の中に書いてありそうなタイトルですね。
昨日、4か月近く前の私の記事に♡してくださった方がいました。
地図のお仕事をしている方でした。
こちらの記事↓
ひらがなに文字の意味の漢字を当てはめる言葉遊びをしていた記事。
地図やマップにも漢字を当てはめていたからかな。
私も久しぶりに読み、次に動画にするのはこれにしようと作りました。
その他のつぶやきも織り交ぜて。
混ぜたつぶやきは、noteの投稿をfacebookで紹介がてらつぶやいている心の声です。
私のサイクル。つぶやきサイクル。
私、ひらがなの意味をあらわす漢字で言葉遊びをしていたのですよね。
すっかり、最近、つぶやきのほうが楽でその要素忘れていました。
楽でいいです。できる形で。何もできないより。
何か形に残せている最近。
うれしいな。
そっか。
否定やマウントや支配のために、いろいろ言う人達の言葉は、際限がないのですね。
アドバイスや提案ととらえて、取り入れていると、次から次へと際限がなく燃え尽きたのですね。
そして、逆に「振り回された」と言われてしまったり、つじつまが合わなくなってしまうのですね。
これは、自分が作ったものに対してや自分が作ろうとするものに対して、自分が発する頭の声でもそうですね。
改善・工夫や思い付きも、次から次へと際限がなく、燃え尽きたのですね。
頭の声のハードルが下がったから、郵便ポストのダイヤルが合って開いたような感覚です。
提案やアドバイスとの付き合い方の境界線の引き方も、知りたいな。
聞いたら最後、「なぜそうしないのか」と詰め寄られることになるのが怖くて、聞けないのですよね。
詰め寄られ続け折れた次の瞬間、次の要求への誘導が始まることに、さらに恐怖を覚えたのですよね。
特に、住居という生活と心の平安の根幹へのそれは、感じるものが爆弾でしたね。💣️
餌(恋心)や脅し(のぞき・ストーキング・ほのめかし・ガスライティング)でコントロールしながら詰め寄って時間をかけた強要をしていても、またはそうなる状態を回避するための(本来何も起きていなかったらしていなかったであろう)選択をしても、折れた瞬間・選択した瞬間に「選んだのはお前だ。自己責任だ」となる論理のなかで。
これは、脅し・のぞき・ストーキング・心理的圧力に屈したことが自己責任という暴論だと思うのですよね・・・
「証拠を上手に残さないこと」や「行為者を特定できない状態を作ること」や「大切な人に及ぶよくない影響を連想させること」で、脅し・のぞき・ストーキング・心理的圧力の部分を「なかったこと」や「救済を求めにくくする」さらには『救済を求めたら「妄想」と処理する』テクニックを使われてしまうと、重要なその部分の主張が難しくなり、困ってしまうのですね。
完全に、そういう心の支配にはまって、戦っていたな。
そうならない、境界線の保ち方、知りたいな。
毒親育ちが話を聞くのを拒むのは、「聞いたら最後」と感じているからだと思います。
そして、聞いてしまったら接触をなくすのは、「会えばまたその話。」の繰り返しに、拒絶反応領域に入ってしまうからと思います。
そうすることで、自分を守っているのですよね。
「聞いたら最後」ではない、会話のやりとりの中に、ROMっていられることができるといいですね。
いくら認知行動療法という感覚で、考えさせる状況においても、知らない感覚は再現されないですよね。
知らない感覚と分からない感覚へのフラストレーションが強化されますね。
出来ない状態への批評や空気感を見聞きする感覚も繰り返されますね。
認知行動療法「もどき」で、いじめや心理的虐待を楽しんでいる感覚が混ざっていたら、なお、欠けた情報と断たれた正常な人間関係の前提の中にいるフラストレーションも加わりますね。
ふう。体験からのつぶやき。
大変でした。
「聞いたら最後」でない会話の中にROMって、罪を負わずに境界を保つこと、できるようになりたいな。
それが叶う関係の中に、
もういると思っておこう。
ふわり。
私も、私の子供も。
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