一期一会のストーリー

瑤子母のストーリー。西川、友達の東海さん(小津さん)。
みのるお父さん。
長年、優しい言葉をかけていたら生活の中で少しずつ過去の記憶を話してくれるようになった。

おじじ、母を可愛がってくれて、健康を祈ってくれていた。
奈良の方角に毎朝、祈ってくれていた。
学校の先生に可愛がられていた。
同級生にも可愛がられていた。
いい人とばかり出会っていた。
男性教師からいつも可愛がられた。
男子同級生からも憧れられていた。
母はツーンとしていた。同級生は子供っぽいと思っていた。
南條さん、湊さん、いろんな男子生徒、憧れられていた。
湊さんは私に、君、知らないだろうけどお母さん、どれだけモテていたんだよって!全男子生徒の憧れの的だったよ。
内容の深い考えの人が好きだった。
優秀な尊敬できる先生たちが好きだった。
実みのるお父さんの面影を求めていた。
実お父さん、慎重が6尺5寸、190cm近く?
かもいを口で咥えられるくらいの身長だったと氷見の姉が話していた。

実お父さん、日本で銀行員の後、大連、満州のデパート(親戚の開いていた大きな会社、坂本という人)の店長をしていた。周りから尊敬されていた。
あらゆる年代性別の人たちから尊敬の的だった。
氷見に帰った後、農林組合長をしていて周り部下の人たちから慕われて、尊敬されていた。病気になった時、関係者主に部下の人たちが親身に世話をしていた。結核。

病床のみのるに、大人たちは近寄ったらいけないよって言われていたけど、抱っこしもらって、可愛い可愛いと言ってもらっていた。記憶があり。

葬式の後、火葬場に行けなくて、泣きながら歩いてその場に行こうとしていた。誰か一緒にいたかも…。氷見高校のあたりに火葬場があったけど、一緒についていけなかったことが心残り。待っとられ。って大人たちに言われた記憶。残念な気持ち。歩いて行こうと思って努力していたけど。辿り着けなくて悔しかった。

母は周りの人たちに父親像を求めていたけど、母が2歳の時になくなった父親への理想が膨らみに膨らんで、とても並の人では答えられない状態だ。
それは健お父さんでも、私健太郎でも同じである。
母の人生の中でたくさんの良き男性たちに少しずつ出会い、みのるお父さんへのコンプレックスも少しは緩和されていると思う。


奈良の国立の文化財研究所、森田先生。たちとの出会い。奈良女。
奈良の美術館に勤めたかった。
澄子お母さんは、卒業後、戻ってきて学校の先生になってくれと懇願される。
母に自立してもらいたい。女性でも精神的に自分の足で立って生活して欲しいと願っていた。

中学の進路指導で高岡高校でも1番になれるよって言われたけど澄子に説得されて氷見高校へ。
澄子さん女でひとつでとてつもない努力をして瑛子おばさんと母瑤子を大学まで行かせる。

学校の先生は自分の小さな知識を偉そうに喋ってひけらかしているのが嫌だった。先生のこと馬鹿にしていた部分もあった…。

大原美術館に尋ねた話。
大学卒業の3月、就職はまだ決まっていなかったけど、当時は奈良女だからどこでも合格できるだろうと安心していた。
写真や当時旅先で出会った人への手紙を見ました。とてものんびりした可愛らしい文面と写真。


戦争の時代だったから、父親のいない同級生や子供たちがたくさんいた。
そのように母は感じていた。
ご飯が食べれるだけでありがたい時代だった。
お米が足りないからご飯にいろんな野菜、大根とかさつまいもの茎などをご飯に混ぜて食べていた。
食べれなくて亡くなる子供たちもいた。
家もなくて。
母の家は広かったから、都会や東京や富山市から2家族、母の家を入れて3家族一緒に住んでいた。
疎開してきていた、親戚。しばらく一緒に住んでいた。

給食でじゃがいもの芯を食べて亡くなった同級生がいて、今でもじゃがいもの芯を取ることに神経質になっていた。

そんな事を他人に話せない時代だった。

実おじいちゃん
曹洞宗
京都のお寺に行ったいとこもいる。

澄子おばあちゃん
農家

氷見のこうちゃんが小さい時に公園の残雪を見て、ここだけに冬が残ってる。と詩的なことを言っていたのを覚えている。

こうちゃん、健に憧れて、工学部の博士号をとったけど、今、製鋼会社で、文系脳を発揮して、皆から信頼されているようだ。

こうちゃんと英之ちゃんが高岡高校に行き、瑛子や瑤子のリベンジしてくれた。

こうちゃんと英之ちゃんとても優秀で社会に役立つ仕事を一生懸命していて、体調をいつも心配している。

氷見市中央小学校、昔は氷見南部中学


西川澄子、旧姓

坂本実ミノル稔どっちか?

実お父さんを守ってあげたかったという言葉、一度だけ聞いた。


華道や茶道をすれば教える立場になってくれとお願いされたり、お寺の方から尼寺に入ってくれないかとスカウトされたり、モテモテ伝説多数あり。

マザーテレサに憧れたのか、母親が炊いていたさつまいもを鍋ごと朝日山公園に持って行って、子供達に配って、大喜びされていた。
畑仕事をしていた、澄子や瑛子おばさんに、見つかって、澄子に、髪の毛を掴んで引き摺り回されるぐらい怒られたことがトラウマに…。

私も緑の荘で母と同じようなことをしてこっ酷く怒られた。母に似た性格。クーピーの色鉛筆、当時は貴重、買ってもらったその日に、色とりどりの削りかすを子供たちに配って、大喜びされていた。気前がいいところが似ている。
姉が髪の毛を掴まれて怒られていたのを見たことがある。

相撲観戦が大好き。
常勝している力士には目もくれず、
必ず体格の小さくて、怪我をしていて、負け越していたり、気の優しい方を、一生懸命、大きな声で頑張れ頑張れと応援していた。
心のバランスを取っていたんだろうな…。
負けた時は悔しがっていた、憔悴しきった顔が可哀想で、あらゆる方法で慰めてあげることにした。


瑛子さんと弘おじさんの同級生で勉強が1番できた子が東大に受かり、勉強しすぎて、体調崩してしまった話を弘おじさんから聞いて、気にしていた。
私が勉強しようとすると必ず妨害していた。

最近、瑛子さんの写真アルバムの中から実さんの写真だけ抜き取って母瑤子の自分のアルバムに移してあったと氷見の実家の母のものを整理した、瑛子おばさんが打ち明けてくれた。

いつも優しい言葉をかけていたらやっと心を開いて本心を語ってくれた。失語症になって気持ちが弱っている時の母の、言葉、抱っこしてほしい。抱っこしてほしいっていつも私に言った。
私自身、母へ対しての気持ちがとても複雑なので強く抱きしめてあげることもできず…。
お父さんとお母さんを求めているのは確かで確実だと思う。

今までどれだけ頑張って、我慢して、強がって生きてきたか、想像に絶しています。

若くして両親を失い、全国転々として家族の気持ちもバラバラになって、母はなんとかそれを繋ぎ止めようとしていたようだが叶わず…。

いいお母さんでありたい。理想のお母さんでありたいって気持ちが強かったと思う。



砺波総合病院に入院中のはずの母の声が聞こえた。
2023年十一月18日。夜中1時43分。
母の声が聞こえて飛び起きる。
私のヘンテコな脳の影響?

もうなくなってしまった…、気力?が…、

助けて…、助けて…。

母の声。

すごく小さな弱々しい声。

翌日

今夜も雨音が、健ちゃん、助けてって聞こえた。
弱りきった母の心の声。

梅子おばあちゃんの言葉、
緑の荘の私たちの生活を見てこんな生活をしていたらいかん。
はやくここから出ろ!叱咤激励、父がそれに応えメゾン豊中に引越しを決める。その時いろいろ下見した時、メゾン豊中の前で、私とカヨちゃんが、このマンションが良い!って無邪気に話したら、おお!そうしよう!と父が元気に応えてくれた。
お金を援助してもらったことで、鉄郎おじさん睦子おばさんから、長男はいいなと言われたそう。母談。

大真面目な母は、そのお金を生活を切り詰めて少しずつ全て返していた。
そのことを私以外に伝えず。
そのおかげで子供たちも苦労した。

いつも私に辛く当たっていた健二おじいちゃんが亡くなる前、梅子おばあちゃんの今後が心配で心配でならない、と訴えていたらしく、その後、両親が梅子おばあちゃんを介護するため、つくばでの生活を捨て、富山に戻る決断をしたそう。
気候の良い千葉の佐倉あたりに家を買おうか父が言っていたが、それをやめてその決断をして。
母は素直に従う、私は不安いっぱいで残念な気持ち、美術予備校に通いだしやっと地域に慣れてきた矢先で、振り回されている気分。私も今、富山で辛い思いをしています。

家族の気持ちがバラバラになっていた広島大学時代、父が筑波の三菱製紙の研究室に移った理由を私にだけ伝えました。
これから家族サービスするんだ!みんなを大切にするんだ!って決意していました。
最近、その話を母に伝えたら、聞いてなかったって言っていました。
なので私は父から聞き出していた仕事の功績、辛さなどを母に大慌てで伝えました。
先に死んでしまって…、とか大変な性格だとかかなり鬱憤を私に話していたので、その話を聞いて、びっくりして何か父に対しての気持ちの変化を感じました。父の話も結構聞き取っていたので伝えたい。ただし父は他の人にはどうやら話してなかったようです。
それは、母の2回目の脳出血の直前だったんです。

姉の辛い気持ちもすごく聞いています、文教女子大に受かったけど、つくばに引っ越したから広島に一人で取り残されて、大学時代めっちゃ辛かったそうです。
父の決断はいっさい周りの人たちへの相談がなく、かなりワンマンだったかも。

そのことを伝えたら反省していました。ただ性格なので変えるのが難しく、理解者が必要だと感じていました。
晩年の父は私の付き添いで金沢大附属病院の待合室で自分は明らかに大人のADHD だって、頭を抱えて悩んでいました。父は涙を流して反省していました。

父の亡くなる直前の言葉を聞いたのは私だけです。母さえ知らなかった。

「俺は健タケシ、これから死ぬ!お前は健太郎、これから生きる!」
脳に移転して大変な状態、前頭葉まで侵されていると医者が私に説明。
その朦朧とした状態で、必死の最後の言葉、とても大きな声で一生懸命伝えてくれた。

私は生活をこなしながら、親戚や姉弟たちの気持ち。バラバラになって少しずつ和解してきた、健と瑤子の築いた家族を、最後に取り残されてしまった母と私を皆と和解、仲直りさせることです。
父の遺言を守るために。

昨日、病院のスタッフさんが電話で母と繋いでくれた。
もう何も分からなくなった…。弱々しい声。
助けてあげられなくてごめん。
消え入りそうな声。

ずっと家で涙を流してこのメモを残しています。


電話で母に子育てのことで今まで辛く言ってごめん。純粋な気持ちで謝罪しました。母の罪悪感を少しでも和らげてあげたくて…。
お母さんが、ありがとう。ありがとうって何度も伝えてくれました。

姉にこれから連絡します。母に、自分自身を許す。ことを伝える。
母に伝えようと思っていた言葉を、大切にとっていた言葉。姉にこの言葉を譲ります。
「お母さん、大丈夫だから、自分を、お母さん自身を許して欲しい」
これをかよちゃんの言葉に変換して、純粋な気持ちで伝えてほしい。

面会の時、憔悴しきって、しんちゃんにもうきてくれないかと思った。
姉にも、きてくれていたの?ゆなちゃんやしおんくん元気?
との言葉を拾い上げています。

どれだけ罪悪感を一人で抱えていたか。と想像しています。


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