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4.夢追い人は詐欺師に気を付けろ!

相方の今川さんと初めて出会ったのは役者を目指していた時だった。事務所の演技レッスンが同じ曜日だったのだ。そう、僕は演劇を目指している時期があった。そのレッスンで仲が良くなった。

初めてその事務所と関わるようになったのはスカウトだった。バイトに向かうために新百合ヶ丘の駅を降りたところでスカウトをされた。

今に思えば新百合ヶ丘でスカウトの時点で怪しいが

「芸能界興味ありませんか?」

と唐突に聞かれ、芸能界に入りたくて東京へ出てきた自分にはあまりに都合のいい話だった。

即座にあります!と答える勇気は無かったので、

「いやーどうですかねー」

などと濁した。

スカウトマンの話を要約すると、役者としてデビューしてほしいので、まずは事務所のタレント名鑑に僕を載せたい。そのタレント名鑑を元に仕事の依頼がくる。だから写真を撮るために4万円を持って◯◯にきてほしいとのことだった。

高いけど払えない額ではなかった。何より芸能界への第一歩を踏むチャンスが勝手に転がってきたと思った。

後日、写真撮影の為指定された場所へ行き写真を撮ってもらった。すると、帰り際事務所の人から仕事を貰うために今度は演技のレッスンを受けないか?とのことだった。実際仕事を貰っている人は皆レッスンを受けているという。1回5千円で1ヶ月分の2万円のチケットを毎月買って欲しいという。

タレント名鑑に続き払えない額ではなかった。芸人としてデビューしたい自分にとってレッスンは無駄にはならないだろうと思いレッスンを受けることにした。

レッスンで指導してくれる先生は、自称元売れっ子の役者だ。当時スマホはなかったがどんなに調べても先生の情報は無かった。(今調べてもない!)


役者をやっていたことは事実なのだろう。繋がりで宝塚の人などが指導にきてくれていたからだ。しかし、作品に先生の名前を見つけることはできなかった。それでも、先生は大物感を常に演出していた。

レッスン場までは必ずタクシーで事務所前まで乗り付けていた。グラサン、マスクで帽子は深く被っていた。おまけに事務所の人間がタクシーが到着すると何人もお出迎えに来るパフォーマンスつきだった。

演技練習の為の台本は常に昭和初期みたいな話ばかりだった。僕と今川さんはレッスン場までの帰り道が同じ方向だったのでいつも先生のインチキ臭さを話しては爆笑していた。

そんなある日、先生の脚本で毎年舞台をやっているのだが何と僕に出演オファーがきたのだ。出番が多く台詞も多めだという。断る理由はなかった。即答で出演を決めた。

しかし、話は最後まで聞くべきである。出演者は4千円のチケットを30枚買わないといけないのである。

つまり、12万円だ。

払えない額ではなかった。

いやいやいや払えない!

うん。払えない。

でも、払えなくはないかも。何より人生の初舞台だ!それに、売れ残ったチケットはよく新幹線のチケットなどを売っているあの店に持っていき売ればいいのだ。

僕は後日全てのチケットを持って売りに行った。これで買い取って貰えば12万は戻ってくる。

しかし、売れなかった。

当然である。誰が出てるかも分からない物は買い取れないとはっきりと言われてしまった。芝居の脚本は先生には悪いが本当にひどかった。イタリアが舞台で流れてくる曲は全て演歌というチグハグ過ぎるストーリーだった。

しかも、稽古はトラウマになるほど最悪だった。僕に与えられたのは不良チームの役だった。先生はいつものレッスンの時とはまるで違う鬼の形相で怒鳴り散らしていた。

いざ僕の出番になると先生は持っていた台本を投げ飛ばして僕にぶちギレた。怒りは収まらず、僕は初日に役を外され漁師の役にかわった。

ゲネプロの日ではテンションを頑張って上げようと、舞台終了後のカーテンコールで周りにならって挨拶をすると、横にいた先輩が「おめー、俺にかぶってんだよ!邪魔だよ!」と怒鳴り付けてきた。

散々だった。

漁師の役は、先生いわく爆笑が起きるところだと言うのだが台本をどんなに読んでも何が面白いのか理解できなかった。

舞台が終わって先生への不信感がピークになり、レッスンも辞めようかなと思っていた。

そんな時、先生の紹介で事務所の移籍を勧められた。調べると先生の言う事務所は確かにあった。まともな事務所だった。言われるがままその事務所のオーディションに行き、所属が決まった。

でも全然嬉しくなかった。むしろ悲しかった。芸人を目指しているのに役者の事務所に所属が決まってしまった。トボトボと帰りながら、僕は今川さんに電話をした。

とにかく、愚痴った。すると今川さんは一緒に先生との縁を切ろうと言った。これから一緒に劇団をやろうと。めちゃくちゃ嬉しかった。

先生には新しく決まった事務所を断りたいと言わなければいけなかった。事務所から先生の連絡先を聞き電話をした。

電話に出たのは奥さんのようだった。気の強そうな感じが電話口から感じられた。襖をバーンと開ける音が聞こえ、

「あんたー!電話!」

「あ、はーいー」

というやり取りが聞こえた。滑稽だった。家では尻に敷かれてるのかいと。僕は用件をなかなか伝えられなかった。先生が怖かったからだ。すると先生は優しい声で

「怒らないから話してごらん」

と言ってくれた。だから、僕は本当はお笑いがやりたいこと、せっかく決まった事務所を断りたいことを丁寧に話した。

しかし、先生は怒らないと言ったのに電話が壊れるかと思うほどぶちギレた。途中電話口で、奥さんらしき人に

「あんたうるさいよ!」

と叱られていた。

先生とはこれっきりになった。

今川さんとの劇団の話はすぐに動いた。劇団の名前は『駅カラ5分』になった。特に由来はないがとても気に入った。

メンバーは僕と今川さんと、僕の地元の同級生の赤木の三人だった。赤木とはいつか一緒にお笑いをやろうと誘っていたが、僕だけ役者のレッスンなどを一人で受けていたので赤木にも経験させようと思い誘ったのだ。

脚本は今川さんが書いていた。内容はとても面白かった。出演者はネットで募集してオーディションをした。

しかし、無名劇団の立ち上げに乗ろうという人はいなかった。オーディションにきても、台詞が棒読みな人だったり、嘘臭いほどオーバーな人だったり、全くだった。

稽古も出来ないので僕が赤木とやろうとしていたネタの台本を今川さんは見たいと言った。今川さんは台本を読みながらくだらないっすねと言いながらケラケラ笑ってくれた。

めちゃくちゃ嬉しかった。

何ヵ月かたった頃、進展がないので今集まっている三人で舞台をやらないか?と今川さんが言った。

三人で出来ることって演劇っていうよりコントだよねとなった。出来ることなら今川さんを入れてトリオにしたいと思っていたが元々モデルだった今川さんがお笑いをやると思えなくて誘わなかったが、まさか今川さんからこの提案があるのは意外だった。

「大貫君がツッコミなら僕お笑いをやってみたい」

と今川さんが言ってくれた。この台詞が嬉しくて僕は帰りの電車でポケットサイズのウィスキーを瓶のまま飲んで(洋画でよくあるようなのに憧れ)潰れた。

三人での舞台を僕らは三回開催した。言ってみれば単独ライヴだが、死ぬほど滑った。でも、舞台前に合宿を組むなどとても楽しい時間だった。

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