【雑感】人の手が人を支えると信じたいMIU404とか事件とかの話
ふと元気がなかったので、ツイッター(現Xだが私はまだ慣れるまでツイッターと呼び続けている)で以下の感じで募集した。
それに対して10人ぐらいから返事が来た。
私の好きなイラストレーター紹介します
好きなスカーフブランドの欲しい商品送りますね
バターを塗られるパンの絵(顔がある)
ニ頭身でてちてち歩くいきもの(結構強い)
ネコ型ポーチ
推しが推しの誕生日にこれをプレゼントする幻覚あげます
前に友達に描いてもらったゆるキャラ集です
うさぎ型おかし
ピーカンナッツチョコ
思いつかないので私が可愛くなっておきます ←New!
フォロワー愛しい。
漠然としんどいとき、心がマイナスに振り切れきる前に、頼れる場所があるのが本当に有難いことだなと思う。
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ところで私は「MIU404」(TBSドラマ、脚本:野木亜紀子)のことが好きである。
MIU404は、機動捜査隊の新設部隊(四機捜)を中心に、人と人のつながりを描き、それが如何に犯罪というものごとと繋がっているかを様々な角度から描き出そうと試みるエンターテインメントドラマである。
この「MIU404」の中に、以下のようなシーンが出てくる。
既視聴者なら印象深いだろう。ピタゴラ装置の話だ。
主人公の志摩は、四機捜の仲間に説明しながらピタゴラ装置にビー玉を転がす。
後輩・九重は、23歳の青い正義感で「犯罪者は自己責任論」を唱える。これももちろん間違いではない。
志摩はそれに対して、自身の経験を踏まえて「人の出会い」が人の歩みをいかに左右するかを語る。
そうして転がされたピタゴラ装置のビー玉は、紙コップに入ってぐるぐる回り──
当直で睡眠中の同僚・伊吹藍の上に落ちる。
伊吹はビー玉を受け止めて投げ返す。
それを見た志摩は笑う。
志摩は、伊吹が犯罪の道に落ちそうな人を、駆けつけて止められる刑事だと信じているのだ。
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私には直近、このエピソードを思い出す出来事があった。
京アニ放火事件・青葉被告の被告人質問の報道である。
「人とのつながりが完全になくなったときに犯罪に走る」
法廷での判断に、精神鑑定有無も含め、私が口を挟めることはない。
しかし、私にはこの一文が非常に印象深かった。
青葉被告は、2008年の秋葉原無差別殺人事件と同じ心境を述べるが、私は以下の記事も思い出した。
2019年川崎市の殺傷事件のものである。
ここでも犯人は、生い立ちからの「孤独」を指摘された。
それが(人によって情状が入るとしても)罪自体を消すことはない。
しかし、私は思うのだ。
私と彼ら犯罪者の間に、それほど大きな差はない。
ピタゴラスイッチを想定ルートの上に導く仕組みがあったかどうか。
想定ルートから弾き飛ばされるような、取り返しの付かない道の歪みが無かったかどうか。
私が今平和な道の上にいられるのは、それだけのことだと思ってしまう。
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裁きはもちろん法の下にくだされるべきだ。
そのうえで、私は自分の小さな力でも、一人でも多くの人に、伊吹刑事のように届けば良いのにと考えている。
永田カビさんという漫画家がいる。
代表作『寂しすぎてレズ風俗に行きましたレポ』(2016年、イースト・プレス)で、冷静でやわらかい自己分析能力に惚れ込んだ。
彼女の著作の中に、「依存を辞めるとは、たくさんの手に頼ることである」というものが出てくる。
根本的に人が人に寄りかからずに生きていくのは難しい。
そのため、一人に負担が過集中して相手を壊してしまうくらいなら、「依存先を増やす」という気づきを著者が得るものである。
これは比較的あちこちで説かれている処世術だと思う。
会社でも「仕事以外に人と関わる趣味を持て」というのは定番になりつつある。
以前の記事で紹介した「アスペル・カノジョ」や、他の様々なフィクションでも一般的な考え方だ。
一つも頼れる状態がないのは危険だ。
そして、一つしか頼れるものがない状態もまた、それが壊れれば世界が終わるようなスレスレの線にすぎない。
たくさんの層があることが、どれか一つを駄目にしても支えてくれる人間の心の綱なのだと思っている。
私は冒頭の通り、趣味で繋がっているTwitterのフォロワーたちにかなりこの点で救われている。
数年前は仕事がつらくかなり重度の鬱と診断されたこともあるが、今も元気に生きていられるのは、家族や同級生・フォロワーなど、様々な位相の仲間がいたからである。
私はその経験から、自分自身も誰かにとってそういう、頼れる手であれば良いといつも思っている。
私がこの頼る先のことを「手」と呼ぶのは、元アイドルの大木亜希子さんが出したエッセイ(正確には、その東畑開人さんが書いた解説)に影響されている。
大木さんのように、恥も投げ捨てて頼れる仲間を作って、どんな底からも這い上がりたい。
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とはいえ、人の手は邪魔になることもある。
まず、誰でも彼でも手を差し伸べれば解決、というわけではない。
その難しさを、私は噛み締めながら生きている。
望まない他人に「手伝うよ」と押しかけることは、ほとんど暴力に近い。
前述の「アスペル・カノジョ」にも出てくるが、助けてもらうために辛い体験を語ることは、それ自体が負担になることがあるからだ。
また、多すぎる手はノイズになることがある。
私は予定詰め込み癖があり、たくさんの仲間の誰も切り捨てたくないことでキャパシティーオーバーを何度も繰り返している。
「アスペル・カノジョ」の主人公・横井が学生時代、誰からも見捨てられないように足掻いていた姿を、自分に重ねることもある。
また、「アスペル・カノジョ」の斎藤さんは、たくさんの「手」をあちこちに差し伸べられる登場人物(主人公の先輩)を「嫌い」と言う。彼女にとって、一つ一つの救いを軽々しく行う人間は、自分を置いていくけたたましい騒音なのだ。
さらに考えることがある。
私がいつでもどうぞと人に出す手が、その人自身を実は、弱くしていたらどうしよう。
私が選択肢を示さないほうが、その人一人で解決できて自信になったり、ものごとを拗らせずに済んだりするんじゃないか。
ここまで行くと「それは本人の問題だから」と、冷静な私は言う。
私は自分がどうしてもやりたいときに、やりたいことをやればいいのだ。
自戒はできる。頼まれたときにだけ動けばいい。必ずしも良い結果を生まない様々な例を心に抱く。
それでも、と自分が思うとき、それは自分の、今のところ譲れない価値観でやり方なのだろうと思う。
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MIU404の名前を入れて書き始めた記事だが、系列ドラマの「アンナチュラル」も紹介しておこう。
不審死の解剖医として勤務する主人公・三澄ミコトは、時に職務に求められた範囲を超えて己の正義のために動く。
そんな彼女だから周りにもたらせるものもある。もちろん、だからこその失敗もある。
彼女自身も自分がやることの意味に葛藤し、人の手を借りて、己のできることに邁進する道に戻っていく。
三澄ミコトは33歳だ。私の5歳上。
私はときどき、このドラマを思い出しては、あと5年くらいの間には三澄ミコトのようにカッコよくなりたいなと思う。
挫折も葛藤も、人の数だけある。
それを掬いだせる出会いもそうでない道も、偶発的に決まる。
そんな世界でも諦めずに、私たちは生きている。
アンナチュラル-MIU404を勧めてくれたみんな、ありがとう。
また「罪の声」(2020,脚本:野木亜紀子,配給:東宝)を観たら報告します。
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