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座禅に感じたギャップ

華美でない物事。それが世間からかけ離れている程良く、そこに思想や技なんかを極める余地でも残されているならば、間違いなく虜になり二度と生活に戻って来ることは出来ないだろうと恐れる反面、そういうものを探し続けている。怪しい商売に引っかかりたいのではない。人生の喜びがそこにあると本当に信じている。

近所で開催していた座禅会に参加した。座禅は無心を目指すというので、無心の先に何らかの世界が広がっているのだろうと想像し、期待を僅かに向かった。
会場に到着するや否や、期待とは異なると悟った。参加していたのは身だしなみを過剰に整えた中年男性、痩せ細り厳しそうな風貌の中年女性。住職も心の迷いとは何たるかといった内容の説教を始め、座禅は極めて社会的な技であると理解した。心という複雑なものを持って生まれた己とうまく生きていくことに目的があり、その手段である無心の先に広がるものは無いような印象を受けた。すなわち現代において座禅とは社会生活を前提とした技と言っても過言ではないと感じ、幻滅したのだ。
座禅を否定したいわけではない。あくまで僕と目的が異なっていただけだ。実際暗い照明の中で線香の香りを嗅ぎながら、住職がならす鈴がリーンと鳴っているのを聞いているのは心地良いものだった。
もっと生の喜びを噛み締められる世界に向かいたいものだ。


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